エコーとナルシス | |
◇ その1 ◇ |
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これははるか昔のお話、まだ神々や妖精たちが人間とともに暮らしていた頃のギリシアのお話です。 エコーというニンフがいました。彼女は美しく愛らしいニンフで、自然が好きで、森や野原で仲間たちと楽しく遊び暮らしていました。エコーは、私たちが抱いているニンフ----妖精----のイメージにふさわしく、愛らしさや無邪気さ、といったものを溢れんばかりに持ってしました。 しかし、彼女には、ひとつ欠点があったのです。しかも困ったことに、それは欠点なのかどうか判断に迷ってしまうものなのです。ですから、彼女自身はもちろん、仲間のニンフたちの誰も、それがエコーの欠点であるとは気づいていませんでした。 そんなエコーの欠点とは、彼女が非常に話し好きなことです。話の内容がどんなものであれ、それがたわいのないうわさ話でも、議論めいた話でも、愚痴っぽい話でも、彼女は最後まで話の相手をしてしまうのです。 ただ、彼女が話し好きと言っても、よく知的と呼ばれることに満足を見出している女性のように、やたらと批評めいた言葉を口にして相手を苛立たせたり、子供じみた好奇心に取り憑かれた女性のように、何もかもを知りたがって相手をうんざりさせたりするようなことはありませんでした。そんなことをして、会話の持っているあの和やかな雰囲気を壊してしまうことは、話し好きのエコーにとって耐えられないことでしたし、それに彼女の話し好きさは、そうしたことを避けるだけの力を併せ持っていたのです。 エコーは、相手の感情を逆撫でしたり、話の腰を折ったりするようなことなく、会話の雰囲気を自然と和やかなものに、やわらかで暖かなものに変えてゆくのでした。もちろん、そこには、彼女の持っている美しさや愛らしさも、大きな役割を果たしています。 話の内容やその雰囲気ととけあったエコーの瞳の色合いや表情、そのちょっとした仕種などを見ていると、相手はそこに引き込まれてしまい、ついつい話が長くなってしまうのです。たとえ相手が鬱屈した思いを抱えて話を始めたとしても、長話の末、気づけばその心は朗らかなものとなっているのです。もし人間の若い男性が彼女と話を始めたら、それこそ彼は時を忘れて、死ぬまで話し続けてしまうかもしれません。 そのようなエコーの話し好きでしたから、仲間のニンフたちは、誰もそれが彼女の欠点だとは思わなかったのです。しかし、さすがに月の女神であるアルテミスだけは、エコーの欠点に気づいていました。 女神が狩りに出かけるときには、エコーは必ずそのお供をしていたのですが、その際アルテミスは、エコーと話をしていると、確かに和やかな気持ちにはなるのですが、妙な違和感を感じてしまうのでした。それは本当に些細な感じなのですが、会話を続けてゆく内に、自分がエコーとではなく、ひとりで話をしているような気がしてくるのです。相手に何かを伝えるためにではなく、その会話の雰囲気を満たすために自分は話をしている、そんな風に感じられるのでした。 ですが、アルテミスはそのことを口にしたことはありません。いえ、告げることができなかったのです。女神アルテミスでさえ、容易にはエコーの持っている力に打ち勝てず、違和感を感じながらも、気づけばその会話を通り抜けてしまっているのでした。また、女神自身、エコーの持つ力を打ち破ってまでして、あえてその違和感を告げるだけの意欲も、理由も持ちえなかったのです。 そのことを彼女に伝えるのはいいとしても、ではそこから先、エコーはどうすればいいのか、アルテミスには伝えることの壁の向こう側が予測できませんでした。そんなことで、エコーの持つ愛らしさや純真さに翳りを持たせてしまうのは、惜しくもあり、かわいそうにも感じられ、女神は自身の違和感を告げずにいたのでした。 しかしあるとき、アルテミスは決心しました。 それはいつものように狩りに出かけたときのことです。エコーは、やはり仲間のニンフと楽しそうに話をしていました。その笑い声にふと女神がエコーを見ると、彼女の姿がボヤけているのです。 ----いけない! アルテミスは、このままでは彼女の身に良くないことが起こると強く感じました。そこで女神は、後でエコーを呼び寄せ、これまで感じていたことを、そうして先ほど感じたことを彼女に伝えました。 「エコー、お前は本当に話し好きですね」 いつもとは違う女神の厳かな様子を認め、エコーは無言のまま小さくうなずきました。 「私はお前の話し好きを悪いことだとは思いません。お前と話をしていると、女神であるこの私でさえも、和やかな気持ちになります。会話の中で相手を穏やかな気持ちにさせられるのは、お前の持っている類まれな力です。しかも、その会話の中で、お前自身も和やかな気持ちになっているのですから、それは諌めるどころか、反対に褒め賛えるべきものなのかもしれません。 しかし、私は嫌なものを感じるのです。今のままでは、お前がお前自身の持つ力によって破滅を招いてしまう、その感じを打ち消せずにいます。 私たち神は、それぞれ力を持っています。そして、その力の持っている意味や恐ろしさを知っています。自身の持つ力の意味や恐ろしさを知らずに、力を使うことは危険なことなのです。知らぬ間に他人を傷つけてしまうこともあります。思いもよらぬ結果を招いてしまうこともあります。また、神と言えども、自分の力に呑み込まれてしまうことがあるのです。ましてお前はニンフです。そうなってしまったときには、取り返しのつかないことになってしまいます。しかし、だからと言って、私はお前に話をするなと命ずるわけではありません。 正直に言いましょう。私には、ここから先のことはわからないのです。私は、お前が持っている力を、そして私自身が感じたことを伝えるだけです。 だから、私の言葉をどうするかはお前の自由です。ここから先のことは、お前自身が見出してゆくことです。ただ、これだけははっきり言えます。考えるようにしなさい。自分の成すこと、成していること、成したこと、それらの自分にとっての意味を考えるようにしなさい。そうすることによって、お前はこれまでのようなお前でいることはできなくなることでしょう。持っているその力を失ってしまうかもしれません。しかし、お前が破滅を逃れる術は、そこにしかないように思えるのです。いいですか、意味を考えること、これを忘れないようにしなさい」 エコーの心に、女神の言葉が重く積み重なってゆきました。 彼女は女神の思いやりに感謝の気持ちを表わそうと思うのですが、なかなか言葉が出せません。伝えようとする言葉が心の奥底に沈んでしまって、それをつかみ取ることができないのです。 エコーはアルテミスの目をじっと見つめたまま、しばらく黙っていました。 やっとのことで固くなってしまっていた口を開くことができました。 「アルテミスさま、ありがとうございます。今日言われたことは決して忘れません....」 そうは言ったものの、彼女はどうしたら女神の忠告にそえるのか、わからずにいたのでした。 さすがのエコーも、この会話の中では和やかな気持ちにはなれませんでした。女神の言葉の重みと、どうしたらいいのかわからないという不安とから、エコーは悲しくなってしまいました。 アルテミスも、そんなエコーの悲しい表情を見せられてしまうと、やはり後悔を覚え、同じように沈んだ気持ちになってしまうのでした。 その狩りの日から幾日かが経ちました。エコーは女神からの言葉を忘れてしまったわけではないのですが、どうしたらという疑問と、あの会話の中で感じた重苦しさとから、これまで通りの話し好きのエコーのままでした。アルテミスも、もうそのことは口にしませんでした。 そんなある日のことです。エコーがいつものように仲間のニンフたちと森で遊んでいると、狩りにやってきた数人の若者がその近くを通りがかりました。いずれも揃って美丈夫でしたが、中でも際だって美しい青年がいました。 日の光を通して輝く金色の巻き毛、碧く深みをたたえた目、すっと高く通った鼻すじ、やわらかな口もと、ふっくらとしていて薄く暖かな血の色を浮かばせている頬、白く滑らかに流れる首から肩の線、しっかりとしていながらも柔らかな感じを抱かせる体格、「調和」、それが美しさの基準であるのなら、その青年は、部分だけでなく、全身をもってしても美しさを表わしていました。 「ねえ、あの人」 木の陰に隠れながら、仲間のニンフの一人が、その青年を指さしました。するともう一人が 「あっ、彼よ、ナルシスよ。ほら、最近よく噂になるじゃない。間違いないわ。あれだけの美しさを持っている人間は、そうざらにはいないわ。彼に間違いないわよ」 と、言葉を返しました。 そのニンフが言うように、彼はナルシスでした。そのことが彼らの会話の中からはっきりとわかったときのニンフたちの騒ぎといったら、危うくナルシスたちに気づかれてしまいそうになったぐらいです。 「ねえ、エコー、彼、いいと思わない?」 仲間のニンフがそう話しかけたのですが、彼女は黙っていました。 「どうしたの、エコー?」 「えっ」 「いつもなら、何か言ってくれるのに、どうして黙っているの?」 「いえ、何でもないわ。彼、本当にいい男ね」 実際、彼女はナルシスを美しいと思っていました。しかし、エコーはナルシスを見たとき、彼に恐ろしさを感じたのです。ナルシスの美しさの裏に、何か恐ろしいものが潜んでいるような気がして、エコーは彼に関して言葉を口にできなかったのです。その感じは、ナルシスの姿を見ていると、次第に膨れ上がってゆきました。 |
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