水燿通信とは
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221号

枇杷男の俳句と放哉の『入庵雑記』と

虫の音に想う

或る闇は蟲の形をして哭けり
河原枇杷男(『密』昭和45年刊)
 初めてこの句を知ったとき、闇を〈蟲の形をして哭く〉と表現していることに衝撃を受けた。なんという魅力的なイメージであろう。そして〈泣く、鳴く、啼く〉のいずれでもなく〈哭く〉という文字遣いにした心映え。この文字には、大仰ではないが裡にじっと秘めている深い悲愁の感じがある。
 前掲句に最初に注目した梅原猛は、「蟲の形をして哭く闇は、どのような深い闇であろうか。どうも底知れない闇のような気がする。秋になく蟲のなかに、宇宙の深い深い闇の権化を見たのかも知れない」と述べている。確かにこの闇には、現世を超えたところにまで達しているような果てしない深さが感じられる。そしてそれに通じるような感じでの独特の暗さも。
 河原は「自作ノート」(註1)で「詩の表現行為とは、闇と沈黙の言葉を視聴せんとする内なる劇にほかならない」「生者の世界と死者の世界が二つあるのではない。死者も生者も一つの世界に棲んでいるのである。……時間と非時間の交流、全一の世界を夢みる詩にとって、言葉は、また生者と死者のひそかに通い合う魂の隠し道であろう」などと述べている。〈或る闇は〉に感じられる独特の暗さ(河原枇杷男の俳句に共通してあるもののように思われる)は、表現に対する河原のこのような認識にかかわりがあるのではないかと思う。
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 『入庵雑記』は、自由律俳人尾崎放哉が終の栖となった小豆島の南郷庵に住み始めて間もない時期(大正14年9月〜11月はじめ)に書いた随筆集であるが、そのなかのひとつに「鉦たたき」というのがある。秋の夜、眠りに落ちようとしたときに聞いた鉦叩きの鳴き声に端を発してまとめたもので、その終わり近くに次のような箇所がある。
瞑目してヂツと聞いて居りますと、この、カーン、カーン、カーン、と云ふ声は、どうしても此の地上のものとは思はれません。どう考へて見ても、この声は、地の底、四五尺の処から響いて来るやうにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしてゐるやうに思はれるのであります。これは決して虫では無い、虫の声では無い、……坊主、しかも、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まつ黒い衣をきて、たつた一人、静かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の声なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出来ないやうに運命づけられた小坊主が、たつた一人、静かに、……鉦を叩いて居る、一年のうちで只此の秋の季節だけを、仏から許された法悦として、誰に聞かせるのでもなく、自分が聞いて居るわけでも無く、只、カーン、カーン、カーン、……死んで居るのか、生きて居るのか、それすらもよく解らない………只而し、秋の空のやうに青く澄み切つた小さな眼を持つて居る小坊主………私には、どう考へなほして見てもこうとしか思はれないのであります。(文中、点線原文ママ)
 この随筆集は、3年もの間、各地の寺を転々として疲れきっていた放哉が、ようやく長年望んでいた無言独居の環境の中で俳三昧に専念できる安住の地が得られたということで、世話になった師荻原井泉水や小豆島の西光寺住職杉本玄々子、島の素封家井上一二に対する感謝の気持ちを表したいと書き始めたものである。澄んだ静謐な雰囲気の漂うエッセイ集で、私も愛読している。しかし引用した部分を読んでもわかるように暗いトーンが底流していることも事実である。この「鉦たたき」以外のものも、やはり透明感のある一種の暗さを有していることは紛れもない。そのせいか、私は長いあいだ心屈しているときは底なしの穴に陥るような気がして、読むのをためらうことが多かった(ついでに言えば、放哉の俳句もそうだった)。
 安住の地を得たとはいえ、放哉が南郷庵に住むようになったときは、仕事で大陸に居るときに罹った結核が相当に進行しており、彼の往く手にあるのは「死」だけだった。南郷庵に入庵して間もない時期、師の荻原井泉水に宛てた書簡に「只今、私ノ考ノ中に残ツテ居ルモノハ、只、「死」……コレ丈デアリマス……外ニハナンニモ無イ」と書いていることや、〈之デモウ外ニ動カナイデモ死ナレル〉などの句を作っているように、放哉自身このことはよく認識していたといえる(註2)。このことが『入庵雑記』に透明感、静謐さをもたらすと同時に、独特の暗さを感じさせる原因にもなっているのではないか。
 放哉の作品には、特に晩年のものに限らず全体に、読者を容易に近づけさせない感じの拒否的なものと暗さがある。『入庵雑記』や最晩年の俳句作品には、さらにそれに死の意識からくる透明感と暗さが加わっていったような気がするのである。
 いつごろからか、私は精神状態のいかんにかかわらず(つまり落ち込んでいる時もという意味なのだが)、放哉の作品に接することができるようになった。それは私が放哉にかかわるようになってからの年月の長さから来るものなのか、私が相応に年齢を重ねたからか、それともそれ以外の別の理由によるものなのか、自分でも未だによくわからないでいる。
(註1)『現代俳句案内』(飯田龍太、大岡信、高柳重信、吉岡実編 昭和60年 立風書房刊)所収。初出は同4人の編集による『現代俳句全集』全6巻(昭和52年9月〜53年3月 立風書房刊)で、同全集のために書き下ろされたもの。
(註2)「放哉が島を訪れた大正末期には、海浜こそが(結核の治療に)最適地であると硬く信じられていた頃だから、十に一ツ、結核が治癒するのでは、と放哉は微かな期待をかけていたのではあるまいか。九分どおりの死を覚悟し、一分の奇跡を信じ…」(細川實『「放哉」と「一二」』 「大師市瓦版」15号所収)といった見方もある。
(2004年9月15日発行)

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発行人 根本啓子