水燿通信とは |
目次 |
203号『入庵雑記』の顛末 |
|
平成6年に鎌倉の荻原海一氏(荻原井泉水長男)宅で発見された放哉資料には、小浜・小豆島時代の句稿と『入庵雑記』の原稿があるが、後者によって、自由律俳誌『層雲』に発表され、以後尾崎放哉の『入庵雑記』として伝えられてきたこの作品には、荻原井泉水の編集の手が大幅に入っていたことが判明した。 |
|
本稿では、井泉水による『入庵雑記』の編集の概要を示し(詳細は筑摩書房刊『放哉全集』第3巻を参照されたい)、南郷庵時代の放哉書簡、『入庵雑記』を掲載した『層雲』大正15年1月号から5月号などを参考にして、雑記が出来た事情や、当時の放哉の様子を探ってみたいと思う。 |
|
井泉水の編集の概要 |
|
編集の中身は削除が大半で、あとは改行がある程度である。削除は「島に来るまで」に圧倒的に多いので、まずこの編に焦点を絞ってみていきたい。どのような部分がその対象になったかというと、大きく分けて三つある。 |
|
@ 書き手である放哉が読者に向けて直接話しかけているといった形のところ。これから書く予定のことや書いた内容に関する言い訳めいたことなどで、たとえば次のようなものがある。 |
|
・ | 庵の周囲はざつとこれ位にして置きまして、庵の風物其他につき後段に委しく書かせてもらいたいと思つて居ります。 |
・ | これから書いて居りまするうちに、話しが妙な処にとんでしまつて、庵は何処に行つたかわからぬやうな脱線も後々あることと存じます、どうか大目に見ていたゞきたい。どうせ道草喰い喰いいそがぬ旅なのですから予め御許しを願つて置きます。 |
・ | 師の尊敬をすべき種々の事柄については後段に又述べさせてもらう積りであります。 |
|
A 荻原井泉水に対する讃辞の部分。これは量的にもたいへん多く、編集の手を加える主な理由がここにあったことが窺える。つぎのような例がある。 |
|
・ | 思ふに之等のもの皆、井師の慈悲の考から自然と生じて来たものに相違無いとは思つて居りますが、全く感心させられてしまひました。慈悲を口にせずしてその慈悲が一挙手一投足の上に於て至れり尽せりなのでありますから。 |
・ | この大慈悲心あればこそ井師が大正の唯一俳星として群衆の渇仰を恣にし得て居る所以であります。(1枚欠落)射でありますからして、苟も人の師表となるべきものは崇高なる人格者でなくてはなりますまい、ホンの遊び半分や、道楽半分の俳句ならば、それは誰かゝら聞いたように、選は「推薦」であっても差支えないでせう、しかし、井師は正に師表とし、選者としての天下の井師であるのであります。 |
|
B あまり重要と思われないもの。庵や西光寺の御本尊の説明など。削除の例は省略。 |
|
|
なお、ここで見過ごすことの出来ない事実がある。東大俳句会に関する記述の途中から、井泉水に関する記述の前半と思われる部分、原稿用紙三枚分が欠けていることである。井泉水が編集の段階で処分してしまったのか、発見当初から既に欠けていた。俳句会の描写が冗長だったり、井泉水に対する讃辞が過剰だったりして削除にふさわしいと判断された可能性が考えられるが、実際に何が書かれてあったのかは永久に知ることが出来なくなってしまった。かえすがえすも残念である。 |
|
次に「海」以下の編に目を向けてみよう。「海」では改行が何ヶ所かあるが、それ以外では@に該当する短い削除が1ヶ所あるのみである。「念仏」では、御詠歌の説明が13行ほど削除されている。また、文末の6行(@に該当する内容。放哉自身は次の「鉦たたき」の前文のつもりで書いている)が削られている。 |
|
「鉦たたき」「石」では改行の指示のみ、次の「風」では編集の跡が見られず殆ど原稿通りの形になっている(註1)。 |
|
最後の「灯」になると改行の指示もなく殆どそのままになっているが、文末に至って西光寺住職に関する記述が八行削除されている。次のようなものである。 |
|
あく迄親切に、又どこ迄も慈悲深く、処が、私は、其の間一道の閃きのある事を見逃すことが出来ないのであります、此の閃きは一種犯すべからざる峻厳なものでありまして、かの、親しみ得るが、狎れることを許さぬ底のもので、誠に立派な人格の持ち主で御出でになります、可なる哉、聞く処によりますと、只今、此の島に存在する各寺院の首席として統率されて居るのだそうです、それでお年は私よりも一つ二つ位は下だらうと思つて居りますけれども、誠に敬服に堪えない次第であります。 |
|
|
こうやって削除された部分を見てみると、冗長と思われるもの、仲間内の馴れ合い的なもの、いささか空疎な言葉が並ぶ井泉水や西光寺住職に対する讃辞などが削られ、文全体が引き締まった感じになってきているのがわかる。 |
|
書簡を通してみた『入庵雑記』に関する放哉の動向 |
|
《『入庵雑記』を書いた目的》 放哉は、南郷庵に住み始めて間もない9月のはじめには、文をまとめることを思いついたようである。 |
|
「入庵雑記」といふ様なものハ、実ハ、アナタに対する感謝を入庵雑記の形式で書いて見たいな。と思つたのが唯一の動機まあ書けたら送りますから、ナホして見て下さい、文学なんて書いた事忘れた位なんですから(9月6日付 井泉水宛) |
|
層雲に大に、アナタを礼讃して一文を送る考で、井師ニ申してやつたら是非とも送つてくれとの事、大ニ名文をかきます(9月8日付 玄々子宛) |
|
|
このような書簡からもわかるように、師荻原井泉水、西光寺住職杉本玄々子に対する感謝の気持を表わすことが大きな目的だったことがわかる。井上一二に対しても、〈『入庵雑記』のなかで感謝の気持ちを示している〉と放哉自身は書簡で書いているが、実際は「島に来るまで」で少し触れているだけで、あとは雑記の最後に〈同人井上一二氏に対する御礼の言葉は余りに親しき友人の間として此際、遠慮して置きます〉と書いて、態よく逃げている。 |
|
《『層雲』掲載の様子》 9月20日に第一回目として「島に来るまで」の分、10月10日に2回目、「海」「念仏」の分を送る。そして程なく井泉水からの「あれでいい」といった報に接したようで、10月15日、井泉水に宛てて〈(入庵ザツ記)及第しましたか、結構結構〉と書いている。全体を書き上げたのは、『雑記』の末尾によると11月5日である。 |
|
しかし11月号にも載るかと期待されたこの文は、なかなか掲載されず(註2)、結局その第1回目が『層雲』に載ったのは、大正15年1月号であった。「島に来るまで」一編で、見開き2ページ、6号活字である。なお2月号以降は次のような形で掲載された。 |
|
2月号 | 入庵雑記 | (2)海 念仏 | 3ページ余 | 6号活字 |
3月号 | 同 | (3)鉢(ママ)たたき | 2ページ | 同 |
4月号 | 同 | (4)石 | 2ページ | 同 |
5月号 | 同 | (5)風、灯 | 6ページ | 同 |
|
|
このように大体が1編ずつの掲載で、見開きで2ページのみというのも初回を含めると全体で3回ある。 |
|
《当時の『層雲』の体裁》 ここで、当時の『層雲』がどのような体裁になっていたかを、『入庵雑記』第1回が載った大正15年1月号で見てみよう。目次順に内容を掲げてみる。 |
|
・ | 井泉水の文(「或夜の事」「消息」「げてものの味」) |
・ | 『層雲』の主な作家の作品(秋山秋紅蓼を筆頭に尾崎放哉が続き、その他芹田鳳車、大橋裸木、内藤寸栗子など12人の作品が載っている) |
・ | 井泉水の文(「月山に登る(上)」「日々好日」) |
・ | 習作(先の12人の作家に続くと思われる俳人の作品。井泉水選。井上一二の他、内島北朗、山口旅人、和田秋兎死など26人の作品) |
・ | 井泉水の文(「大原の秋」) |
・ | 詩(『層雲』同人の作品) |
・ | 雑吟(『層雲』に拠る俳人の作品。井泉水や有力同人の選。) |
・ | 層雲社俳談(井泉水作品の合評) |
・ | 井泉水の消息(「麻布より」のタイトルで毎号掲載) |
・ | 『入庵雑記』 |
・ | 通信、支部雑報、動静 |
以上90ページ余 |
|
|
このうち、前半は同人の詩作品を除けば概ね5号活字で組まれており、「麻布より」以下の井泉水や会員相互の消息に関わる記事が6号活字となっている。『入庵雑記』は「麻布より」の後、通信欄の前に載っている。つまり、放哉のこの文はいわば小豆島からの便りないしは放哉の消息といった扱いで、読むための文としては扱われていなかったと考えるのが妥当なようである。 |
|
《掲載に対する放哉の不満(1)活字の大きさ》 さて『入庵雑記』が掲載されると、早速その反応が飯尾星城子からあったらしく、1月5日、彼宛てに次のように書いている。 |
|
(入庵雑記)ヨンデくれましたか……引きつゞきよんで、批評して下さい……矢つ張り私ノ。放哉のもつて居る気持通りの、文章になつて来るでせう、コワイもんですネ……「秋になつたネエ」……で、おしまひ呵々 |
|
|
いささか得意の様子が見えなくもない。しかし実際は、どうだったのだろうか。1月17日、『層雲』の編集者小沢武二に宛てて書いた書簡を見てみよう。 |
|
……以下イヤ味ではありません、御願ひやら御伺やらです、小生の「入庵雑記」……新年号全部六号で片スミの方に押し込まれてしまつて、……放哉はドウセ「紙クズ籠」に近い六号連中かな、とあきらめたが、二月号位はセメテ五号にでも組んでもらへないだらうか、ミスボラシイ事夥しく、淋しくてなりません、どうですか、ダメですかな……ダメならだめと一寸御知らせ下さいな、小供らしいお願いですけれ共、……一寸頭に浮んだ儘を、匆々 ナニ役ニモ立タヌ漫筆ヲ五号ニクメナド生意気ナト云ハレゝバ、ソレ迄ノ事デスヨ 呵々 |
|
|
編集者小沢に対して放哉は、購読料を払っていないこともあって、随分遠慮していたようだ(3月14日付 星城子宛書簡)。だがこの書簡はお願いの体裁を取ってはいるものの、実際は抗議であり、放哉にしてはかなり不満だったことが窺える。 |
|
《立石信一の文の場合》 当時の『層雲』は、先に見たように5号活字で組まれているのは井泉水の文と会員の俳句作品が主である。つまり井泉水以外の個人の文章は、実際のところとても少ないのだ。 |
|
ところで立石信一といえば小豆島出身の『層雲』の作家で、大正15年2月13日(旧の元旦)、帰郷の折り南郷庵の放哉を訪ねたことはよく知られている。彼は、当時『層雲』にしばしば小説やエッセイなどの文を寄せていた。大正13、4年だけを見てもそれぞれ6回、4回(欠本で確認できない号があるため、数字は必ずしも正確ではない)と、かなりの頻度で掲載されている。それらの文はすべて「麻布より」より前のページにあり、5号活字で組まれている。ページ数は少ないものでも3ページ、作品によっては12ページにも及んでおり、放哉の『入庵雑記』とは扱いが大きく違う。この差は、文章の評価の差、つまり読むための文と消息文の差ということになるのではないかと思う。 |
|
さて『層雲』に『入庵雑記』が掲載されてみると、井泉水以外の個人の文章がとても少ないだけに、放哉の文と立石のそれとの扱いの差は案外目立つ。放哉は多くの郵便物の中でも『層雲』を特に心待ちにしていたから、これを熟読していたことは間違いなく、強く両者の扱いの差を感じたのではないだろうか(彼が立石の文も読んでいただろうことは、これより後の日付になるが、2月13日付の小沢宛書簡を見ても容易に推測される)、そしてそのことが不満を増幅させたのではないか。放哉に特に肩入れしていなくても、そのようなことを読者が想像してしまうような誌面構成である。 |
|
『層雲』の編集者小沢武二はあまり筆まめではなかったようで、放哉の手紙に対して普段ははかばかしく反応していなかったようだ。だがこの時のお願いの手紙に対してはすぐに返事を書いたようで、1月22日に放哉は、再び小沢に宛てて書いている。 |
|
啓、おはがき御礼、イヤ小供見たいな事申して相済みませんです、四号は驚く、東京震災ぢやあるまいし呵々。扨、突然放哉がもたれて居るうしろの壁から小さい声を出して曰く「六号で組むのは、楽屋のエライ人か、通人ダケの特権なんだよ……」と、放哉曰く「ウン、そうか 呵々。 |
|
|
先の書簡に比べて、打って変わって上機嫌の放哉が浮かぶ。小沢の葉書(次号からは4号活字にしようかといった内容か)を見ておそらく放哉は、4号はともかく次の号から活字が大きくなることは間違いないと信じたのだろう。だが、結局それは最後まで変わらなかった。4号にしようかといったのは、小沢の冗談(悪意ある?)だったと思われる。 |
|
《掲載に対する放哉の不満(2)1回分の量》 1編ずつの掲載の量も放哉には大いに不満だったようで、2月8日付けの井上一二宛て書簡で次のように述べている。 |
|
○私の入庵雑記……アンナに短く切つて出されると、事に依ると、四月、五月号位迄つゞくかも知れませんと思います、アンタニ対し、又玄々子サンに対し、放哉の感謝、礼讃が中々出て来ませんよ、呵々、……夜長の御序ニ、放哉坊主のホントの心持をよんで下さいませ』 |
|
|
90ページ程度の雑誌の中では、ひとまとまりの文を1編ずつ掲載するのは必ずしも不当な扱いとはいえないかもしれない。だが『入庵雑記』はせいぜい3ページで(6ページにわたる最終回を放哉は見ていない)、立石の文の最低でも3ページ、長いものでは12ページというのとは比較にならないわずかの量なのだ。掲載量に対する不満の中にも、立石の文との比較が頭にあったのではないだろうか。 |
|
最終回の5月号には「風」「灯」の2編が、はじめて6ページものスペースを割いて掲載されている。おそらく放哉の死の報を受けてなされた措置であろう。しかし末尾の10行ほどは行間が極端に詰めてあり、無理に6ページ内に収めようとした形跡が窺えて、体裁上見苦しいものとなっている。 |
|
《掲載後の放哉の対応》 『入庵雑記』の第1回目が掲載された直後、放哉が小沢に宛ててもう少し大きい活字にしてもらいたいといったお願いの手紙を書いたことは先に述べた。だが事態が何も変わらないことを知った後は、もはや彼に対しては何も言わなくなっている。3回目の「鉦たたき」がすべて「鉢たたき」になっていたときは、さすがに強く抗議している(3月8日付)。しかしこの誤植の背景には、放哉自身も原稿で2ヵ所ほど書き間違えているといったこともあったので、一方的に小沢の責任にすることは出来ないだろう。 |
|
だが『入庵雑記』のこのような形での掲載に直面して、放哉は購読料すら払えない自分が、心底惨めだったのではないだろうか。それさえきちんと払っていたら、自分の文が消息文のように扱われている不当性について意見を述べるくらいのことは出来たのに、それさえ言えず呑み込んでしまわなければならない……、その惨めさ、悔しさは、食べるものがないひもじさや体調の悪さなどに比しても、決して耐えるのに易しいものだったとは思えない。 |
|
さらにもうひとつ。井泉水の編集になる自分の文章(放哉の目を通さずにそのまま活字になったようだ)を『層雲』誌上で見、感謝の言葉や讃辞が大幅に削除されていることを知った時、放哉はどう思っただろうか。自分は師井泉水や西光寺住職に対して恩返しをしたかったのに――今の自分に出来る精一杯の恩返しを――それも殆ど果たすことが出来なかった……、そういった徒労感、失望感だったのではないだろうか。この時の放哉に、削られた感謝の言葉や讃辞は、むしろない方が文章としてずっと引き締まったものになると考える心の余裕は、おそらくなかったのではないかと思う。 |
|
こうして『入庵雑記』が『層雲』に掲載された経緯を知るに及んで、放哉なりの形でではあるにしろ自足していたはずの南郷庵での生活にして、なお存在していた生き難さ、人生の不平等を私はみたように感じ、放哉の心の裡を想って胸が痛んだ。 |
|
* |
|
私は昨夏、尾崎放哉記念館所蔵の放哉書簡を見る機会を得(『入庵雑記』の原稿を見たのと同時期)、その後しばらくそれらについて考える作業をやってきた。それらの書簡の多くは南郷庵時代、井泉水に宛てて書かれたもので、本年4月、筑摩書房から『放哉全集』が刊行されるまで未発表のものであった。その中には、島の素封家井上一二に対する愚痴、悪態、悪口の書かれたものが多数混じっており、放哉のかなしさ、辛さ、やりきれなさや人恋しさなどと同時に、彼の身勝手さ、人間臭いどろどろした側面をも十二分に見せつけられた。 |
|
それでは、それらの書簡と同時期に書かれた『入庵雑記』はどうだろうか。多くの人の認めるようにこれはすぐれた随筆であり、私自身もそこに感じられる静謐な澄んだ世界を愛してよく読んでいる。これは勿論、井泉水の編集によって雑多な部分が削り取られ、全体に引き締まったものになったという事情も大きく寄与しているだろうが、やはり放哉の中に澄んだ静謐な世界が在って初めてこのような文を書くことができたというべきであろう。実はこの『入庵雑記』の大半が書かれた10月は、『入庵食記』などによれば咳、痰に悩まされ体調がことのほか悪い時期でもあったのである。 |
|
南郷庵時代の放哉は、このように相矛盾するような様々な側面を見せている。人間とは、誰でも本来的にそのような矛盾するものを持った存在であるということもできるかもしれない。だが放哉が、亡くなる前の約8ヶ月間を過ごした南郷庵での生活の中で、心の中に大きな修羅や問題を抱えつつ、その一方で、すべてのものを放下した後の何かを突き抜けたような結晶度の高い俳句作品を作り、静謐で澄んだ感じの『入庵雑記』を書いていたという事実は、やはり驚くべきことではないだろうか。 |
|
(註1) | 原稿では、「風」の文末1行半を切り取り、次の原稿の1行半を残したものに貼りつけてある。これがいつ、誰の手によってなされたかは不明だが、もともとの文の1枚程度の削除があったことを窺わせる。 |
|
(註2) | 今回私が調査を行なった『層雲』(主に大正時代のもの)は、数冊ずつの合本に製本し直してあったため、綴じ目近くに印刷されている発行日を知ることは出来なかった。ただ「印刷納本」が前月の28、9日になっているものが殆どだったところをみると、当該月の一日あたりが発行日になっていたと推測される。放哉書簡でも、月初めに新し『層雲』に関していろいろ書いているので、この推測は間違いないと思われる。 |
|
|
|
|
本稿をまとめるにあたって、小豆島尾崎放哉記念館および早稲田大学中央図書館に於て、貴重な資料や蔵書を拝見させていただきました。深く感謝いたします。 |
|
(2000年8月20日発行) |
|
|
※無断転載・複製・引用お断りします。 |
発行人 根本啓子 |