水燿通信とは
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180号

俳人 富田木歩

向島便り(1)

向島という呼び名は江戸時代からで、牛島、寺島、柳島などを総称して、浅草側から望んで「むこうのしま」と呼んだものが一般に使われるようになったものである。(隅田川文庫『隅田川七福神めぐり』から)
 墨田区の向島2丁目、隅田川に沿う墨堤通りと見番通りとの間に位置する三囲(みめぐり)神社は、古い起源を持つ由緒のある神社で、下町の新春行事である隅田川七福神めぐりの寺社の一つ(大国神と恵比寿神)としても親しまれている。この境内には宝井其角の雨乞いの句碑など数多くの石碑があるが、その中に俳人富田木歩(とみたもっぽ)の句碑がある。
夢に見れば死もなつかしや冬木風木歩
 臼田亞浪筆で、裏面には「大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同」とある。
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 富田木歩は、明治30(1897)年、東京本所区(現墨田区)向島小梅町に生まれた。本名は一。2歳のとき、病いにより歩行不能の体となった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはがるた」「軍人めんこ」などで覚えた。少年雑誌などを夢中で読む本好きの子供だったらしい。彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟は結核で亡くなっている。木歩自身も、大正7年(21歳)ころから喀血するようになり、病臥の身となった。
 彼の最期も無惨なものだった。関東大震災の猛火の中で死んだのである。享年わずか27歳だった。
 俳句との出逢いは大正2年頃、少年雑誌の中にあった巌谷小波の俳句のページに惹かれ俳句を作るようになったという。大正3年「ホトトギス」入門欄に投句し原石鼎の指導を受けたが、次いで臼田亞浪に師事、「石楠」に拠った。大正7年頃から、貧困や病気と戦いながらすぐれた作品を生み出している作家として大正俳壇の特異な存在となった。この頃から文章も書くようになった。11年には渡辺水巴の「曲水」に加わった。なお木歩の俳号は、彼が歩きたさの一念で自分で作った木の足に依る。
 富田木歩を語る時、見過ごすことのできないのが新井声風の存在である。木歩と同い年の慶応の学生で浅草に住んでいた新井は、木歩の俳句を高く評価し木歩と親交を結んだ。大震災のときは木歩の元に駆けつけ、混乱の中で土手の上に妹たちと居る木歩を見つけた。浅草方面に逃げようと彼を背負って枕橋近くまで走ったが(言問橋、桜橋はこの当時なかった)、橋は燃え落ちまわりには火の手が迫りどうにもならなかったという。木歩と無言の握手の後、津波で普段の2倍にも水嵩を増し激流と化した隅田川に飛び込んだ声風は奇跡的に助かり、その後の人生を木歩の句集・文集の編纂をしたり、木歩に関する本や文をまとめるなど、木歩の業績を世に知らしめる為に尽力している。
 今日、我々が目にすることのできる木歩の写真は、大正9年、玉の井(現東向島)の木歩宅で声風が撮ってくれたという丸刈り頭で上目遣いのものがほとんど唯一のものである(註1)。木歩自身、これを見て〈面影の囚はれ人に似て寒し〉と詠んだといわれているが、彼の悲惨、悲運としかいいようのない境涯を知った上で見ると、その不幸に押し潰された表情のように見えなくもない。
 だが、声風の語るところによれば、木歩は謙譲でありながら毅然とした側面も持ち、また独学で文字を覚え、すぐれた俳句や文章を成すまでに至った強い意思の人であったという。
 木歩はその特異な境遇のゆえに境涯の俳人などと呼ばれている。しかし、彼の句風は身辺の事柄を淡々と詠むもので、悲惨さをことさらに強調したりするあざとさは感じられない。三囲神社の句碑に刻まれた〈夢に見れば死もなつかしや冬木風〉は「亡き人々を夢に見て」の前書きのある句だが、これにしても、早くに父を亡くし、妹、弟を結核で死なせ、親友の溺死などにも遭遇し、さらに自らも胸を患い命の長くないことを予感していた木歩にしてみれば、真実の声だったのではないか。上五七は、長い人生を生きてきて身近な人間の死に何度も遭遇したりした人ならば、少なからざる共感を持ち得る感慨であろう。ただ木歩の悲しさは、20代にしてこのような想いに至った点である。不遇な境涯をさして愚痴りもせず、俳句を唯一のいきがいとして精進した木歩がなんとも哀れだ。
 しかし率直にいえば、悲憤慷慨もせず静かに淡々と詠んでいるだけに、木歩の俳句は読者に強烈に働きかけてくるところが少なく、小さな世界に閉じ籠っているという印象を与える。この点に関して、山本健吉は『現代俳句』の中で、次のように述べている。
(〈秋風の背戸からからと昼餉かな〉の句の項で)率直な句ぶりで、一茶のようなひがみは出ていないが、全体としてみるとやはりある殻に閉じこもったかたくなさがあるようだ。これは俳人社会の閉鎖された中でのみ生活した結果かも知れぬ。「まこと」とか「造化に還る」とか言いながら、その閉鎖性が一種のファナチシズムを育て上げてしまうのだ。彼の性格・境涯・教養からして、彼はそのようなものに陥りやすかった。それに二十七の短命が、そこから広い視野へ脱出する余裕を彼に与えなかった。だが彼が死んだ大正十二年には、彼より五歳年長の秋桜子も、十二歳年長の風生も、まだ一家をなすに至っていなかったことを注目しよう。二十歳代にしてこのような特異な完成した境地を打ちたてた作家は、後に芝不器男が現れるまでは誰もいないのだ。だが青春俳句というには、あまりに悲しくすんでいる。
 後半の文における、山本の木歩に向けるまなざしの何というあたたかさであろう。それにしても最後の一行がなんともせつない。
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 三囲神社の句碑は、震災から一周年経ったのを機に、全国の俳人有志60人が出資して、木歩の慰霊の為に建てたものである(声風の話によれば、実際の建立の日は9月14日の由)。当日は木歩の兄金太郎、姉富子、妹静子も列席したという。碑は最初正門の側の椎の木の下に建てられたが、戦争のごたごたなどでいくどか場所を変え、現在は社の裏手、銀杏の大木の前にある。台を含めて高さ1メートル程度の平べったい石(粘板岩)で、向かって左側、ぴったりくっついて生えているアトランカス(?)の枝が上から守っているような感じに覆いかぶさっている。派手さはないが適度に古びた感じもあり、なかなか風情のあるいい碑である。
木歩句抄(文中の句は除く)
背負はれて名月拝す垣の外
荒壁に虻狂いをる西日かな
昼顔や砂吹きつける駄菓子店
我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮
己が影を踏みもどる児よ夕蜻蛉
かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花(註2)
埋火や客去ぬるほどに風の音
喀血にみじろぎもせず夜蝉鳴く
子雀のよにまろび来る枯葉かな
時雨るゝや堤ゆきかふ荷馬車の灯
簀の外の路照り白らむ心太
暮そめて冬木影ある障子かな
(註1)花田春兆著『鬼氣の人』では、大正8年7月頃、北海道から上京して淀橋柏木に仮寓していた姉久子を訪れた折りの写真としているが、ここでは他の多くの資料に依った。
(註2)枕橋近くにある木歩終焉の地の碑(平成元年3月墨田区建立)にはこの句が刻まれているが、ここでは「咽喉」はうどと読ませている。
(2000年9月1日発行)

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発行人 根本啓子