水燿通信とは
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174号

淵上毛錢 紹介

 淵上毛錢(ふちがみもうせん)という詩人がいた。大正4(1915)年熊本県葦北郡水俣町(現水俣市)生れ。小さい頃から悪童(悪ゴロ)振りを発揮、東京の青山学院中等部に入った後もそれは続き、学業を怠りチェロに熱中、無頼の生活を繰り返し、自然退学となった。こういった生活の中で山之口貘(住所不定で様々な職業を転々としながら独自の境地を開いた詩人)と出会う。昭和7年、上野の音楽学校の夜間部補修科に入学、チェロを専攻。
 昭和10年、結核性股関節炎(カリエス)になり、以後、郷里で病臥の生活を余儀なくされる。昭和13年頃からはほとんどベッドに横になったままの生活になるが、そのような状態の中で、俳句を作り詩を書き、結婚して3人の子供をもうけ、水俣文化会議を興し、詩誌を創刊し、また音楽会、演劇、後援会などの催しの相談に乗るなど、精力的に生きた。
 昭和25年、死去。享年35歳。
 この淵上毛錢が亡くなってから今年でちょうど50年ということで、地元では彼の再評価の動きがあり、本年5月には『淵上毛錢詩集』(石風社刊)も刊行された。
 私はあるきっかけからこの詩集を手にいれることができ、また地元の様子なども知ることができたのだが、この詩人のように特異な境涯を生きた人間に対する一般の対応としてよくあるように、彼の場合も作品よりはその境涯に目を向けられることが多いようである。これはいかにも勿体ない。というのも、私には毛錢の詩や俳句などの作品のほうが、その境涯よりも興味深いと思うからである。
 淵上喬(喬は毛錢の本名。毛錢のペンネームは昭和21年頃から)は親友の働きかけで詩を作るようになったが、本格的に詩作するようになったのは昭和14年、同人誌『九州文学』の原田種夫との文通が始まってからという。病気になるまでの喬の生活振りや山之口貘との出会いなどから察せられるように、喬は放浪者的な傾向を強く持つが、しかし山之口のようなハイマートロス(故郷喪失者)ではなかった。彼は土地に根付いた人々や習俗に対する理解が深く、そういったものもたびたび作品にしている。そんな中から、私の好きな作品を一編紹介しよう。
   「縁談」
蛙がわづかに
六月の小径に
足あとを残し

夜が来て
芋の根つこに
蛙が枕したとき

村の
義理と人情が
提灯をとぼして

それもさうだが万事おれにまかせて
嫁に貰ふことにして
そんな話が歩いてゐた

湿つた夜に
ふんわりと縁談はまとまり
漬物を噛み煙管は鳴つた

蛙は
その頃 もめん糸の
雨にうたれてゐた
 この詩を味わった文があるので紹介したい。(…は中ほど「しかし」の前のみ本文にあり、他は引用の際省略した部分である)
……一つの縁談が成立するには、間に立ってうまく話をまとめる役回りも必要とされる。世話焼きをしてくれる人たちのことが「義理と人情」と表現されている。風土の中に染みついた習俗に対して一定の距離を置いた上で理解を示し、生み出した暗喩が「義理と人情」であったことになる。
 「ふんわりと」というからには、縁談のまとまり具合は上々の出来栄えだったのである。「漬物を噛み煙管は鳴つた」、義理さんも人情殿も満足し、寛いでいるところなのだ。おっと、酒や焼酎の匂いが漂わないけれど、寂しくないかい。…しかし、細かなところまで話が煮詰まったわけでないのだったら、杯交わすにはまだ早い。……
 義理さんや人情殿と、……蛙との間には、何か関係があるだろうか。あるはずがない。では、なぜ、蛙はそこに書き込んであるのか。そこがこの詩の勘どころと言えるわけで、……互いの関係はないものの、逆に言うなら、だからこそ邪魔しあうこともなく、平穏無事に村の中にそれぞれの時間が流れてゆく。平凡な田舎の風景が実は得難い小宇宙であることを、詩人はサラリと物語って見せたのだ。
……世の中完全に戦時下にあった……そのような時、水俣の一隅で、「縁談」のような土着的でしかもハイカラな作品が静かにのどかに書かれたのかと思うと、また違った感慨を抱いて読み直したくなる。(前山光則「毛錢の詩ごころ」 熊本日々新聞掲載)
 長々と引用したのは、この文が作品の特徴、良さを余すところなく示しており、私自身これを読んで「縁談」がいっぺんに好きになってしまったからである。
 詩作品としては他に、知的な感性のきらめいているもの、わかりやすい言葉を用いながら様々な解釈の可能性を有する意味深長な作品(なまめかしいものが多い)、水俣の土地の言葉で書かれたもの、またほとんどベッドに横になったままの生活だったにも拘らず、大自然を歌った作品も少なからず存在する。
 以下に紹介するのは、あまり注目されることはないが私の好きな作品だ。
   「椿」
奥深い山道に
赤い椿がぽてぽて
落ちつくしても
また 咲く
まこと この人間の
循環の理を信じる
術なさ
 椿とは生と死の間(あわい)に置く花としていかにも相応しい感じがする。この作品は、身の回りの世話をしてくれていた看護婦との間にできた胎児を結局消さざるを得なかった、その体験の後に作られたといわれている。このような「事実」にとらわれる鑑賞の仕方は好きではないが、あるいはこのことが作品に何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。
 ところで彼の作品には、意外なことに療養生活をにおわせるようなものは殆どない。深く深くよみこめば病者であるが故の述懐、嘆きととれるようなものがないわけではないが、毛錢は、読者に簡単に病者としての生の声を聞かせたり自らの心中を覗かせたりはしない。そんな中で次の作品は例外的なものである。
   「或ル国」
悲シイコト辛イコトヲ
堆ミ積ネテ
山ヨリモ高ク
心ヲナセバ
風ノ音モ
鳥ノ鳴ク声モ
マアナントヨクワカルコトヨ
 自らの死が近いことを悟った病者の見え過ぎ、聞こえ過ぎる感覚を表現した注目すべき作品である。また晩年の作品には、毛錢の心奥がはしなくも現出したようなちょっと怖いすごい感覚の詩がある。
   「死算」
じつは
大きな声では云へないが
過去の長さと
未来の長さとは
同じなんだ
死んでごらん
よくわかる。
*
 私が淵上毛錢に関心を持った理由には、こういった詩作品だけでなく、彼の俳句、より正確にいえば俳句的なもの、の存在がある。毛錢は主治医の徳永正に勧められて俳句作りを始めた。俳句形式は彼の好みに合ったらしく、楽しみながら結構熱心に作ったようで、それは亡くなるまで続いた。いくつか挙げてみよう。
炎天に千万の蟻彷徨す
葱白く盛り上りたる夕餉かな
秋冷の空深々とバツハかな
桃に戯れ歩きてみたし生仏
ふるさとの春はめぐりて一人の子 (「妻の初産 祈弩子と命名す」の前書きあり)
梅干すや情欲的なにほひする
逝く秋や濁酒下げし寺男
さからはず谷のふかみへ落葉かな
泣きやまぬ子と黄昏の枯野かな
木枯の行方をさぐる夜半かな
ひとすぢを地球に残す田螺かな
うらみちの小まがり多き邪宗の町
ふるさとの雪を語りし娼婦かな
群像のいのちしたたる春惜しむ
しぐるるや子に割る卵ひとつづつ
我執しかとマントにくるみ風の中
貸し借りの片道さへも十万億土
 こうして見てみると、詩の場合と異なり俳句では、毛錢は病む者としての本音を割合素直に表現しているように感じられる。そういった作品の中では〈泣きやまぬ子と〉や〈木枯の行方〉は、自分の無力さを感じながら途方にくれているあてどなさや、悠久の時間のなかに在る人間の小ささ、孤独などが感じられて私は好きである。〈ひとすぢを地球に〉は出来のいいものだとは思わないが気になる作品だ。毛錢には〈驚きはひとすぢ残す田螺どの〉という同じ題材の句もある。ベッドに横になったままの彼は“自分は死んで一体何を遺せるか”と考え無力感にとらわれることがよくあったのではないか。そんな彼にとって、卑小な存在である田螺ですらひとすじ地球にその跡を残しているという発見は、大きな慰めだったのではないかと思うのである。
 〈ふるさとの春は〉は、初めての子供が生まれた時の作品。周囲の猛反対を押し切っての結婚だったため、感慨もひとしおだったのだろう。ふるさと、春の語の用い方が効果的だ。また〈ふるさとの雪を〉はいかにも演歌の世界だが、しみじみとした情感がありいい句だと思う。
 三橋鷹女は私の好きな俳人だが、小動物を題材にしたものにもすぐれた作品が多く、例えば蟻を詠んだものには〈跼まりて蟻の葬列かなしめり〉〈あめつちに対き合掌の蟻一つ〉〈炎天を泣きぬれてゆく蟻のあり〉といった作品がある。そんな鷹女のファンにとっては、〈炎天に千万の〉の句も無視できない。〈葱白く盛り上りたる〉も鷹女の名作〈人の世へ覚めて朝の葱刻む〉には及ばないが、何気ない生活のひとこまを味わい深く描いている。
 〈貸し借りの〉は死の直前に作られた、文字通りの絶句。〈貸し借りの〉といいながら、その実〈借りっ放し〉のように感じられるのは私だけだろうか。毛錢の深い深い徒労感が伝わってくるようだ。
 全体として、毛錢の俳句は〈梅干すや〉〈群像の〉など俳句にするにはいささか過剰な内容を詰め込もうとして観念的になった作品もあるが、概ね豊かな情緒の感じられるそれなりの質の高さを有しているものが多いとみていいだろう。但し、詩作品と同程度に価値があるかというと、いささか疑問である。だが次のようなものはどうか。
春の汽車はおそいほうがいい。
 これは立派な自由律俳句ではないだろうか。この作品は詩として扱われている。というのも実はこれは最初はもっと長い詩だったのである。
   「春の汽車」
春の汽車は遅い方がいゝ
おーい
その汽車を止めろお
と言つて見ようか
春の汽車は遅い方がいゝ
 この詩に推敲を重ねた結果、なんとたったの一行にしてしまった。そしてそれは紛れもなく上々の自由律俳句になったのである。またこんな詩もある。
雲が
こどもを産んでゐる
 「風」というタイトルの詩だが、これだって一行にすれば立派な自由律俳句ではないか。いや、荻原井泉水は『層雲』創刊後しばらくは二行詩を試みたこともあったというから、このままで自由律俳句といってもいい筈だ。また〈一匹の思想が寝てゐた/おもふに/入院してゐたのであらう 「退院」〉〈もう屏風の/山桜の散つた武者絵にも/飽いてしまつた 「風邪」〉といった短詩にも、ちょっと長めの自由律俳句といったものを感じないでもない。さらに〈石は/風を待つてゐる〉は「不動」の第一フレーズだが、これなども自由律俳句と呼べるものだ。毛錢の作品の中には、このように自由律俳句になりそうなものがいくつも転がっている。しかもそのいずれもとてもいい。
 毛錢は好んで俳句(主に五七五の有季定型句)を作ったが、あるすぐれた俳人の影響を受けたとか師事したとか、またひとつの結社に属して投句していたといった形跡は無い。ましてや、自由律俳句に関心を示したり『層雲』に関わったといったような可能性は、まったく考えられない。
 毛錢はその作品から割合モダンな印象を与えるが、よくよく考えてみると亡くなったのが昭和25年、山頭火が松山の一草庵でコロリ往生を遂げた昭和15年からたった10年後のことで、山頭火の晩年の数年間は毛錢の創作時期と重なる。しかも毛錢が生まれ生涯の大半を過ごした水俣と、山頭火に深い縁のある熊本とは同じ県にある(現地の人たちからは「同じ熊本県といっても両市はかなり離れており、この言い方は大雑把過ぎる」といわれるだろうが)。この地方にはこの頃、自由律俳句に向ける熱いオーラが漂っていたのではないか、それが毛錢に何らかの影響を与えたのではないか……、毛錢の短詩のなかに自由律俳句的なものを感じて以来、私はそのような妄想(文字通りの)を抱いたりしている。
(註)淵上毛氈は旧仮名遣いで俳句を詠んでいたが、直筆ノートには現代仮名遣いになっているものもある。当時は旧かなと新かなの切り替え時で、混乱していたものと思われるので、ここではすべて旧仮名遣いにしてある。
(1999年11月15日発行)

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発行人 根本啓子