2002-09-01

hako-uchu


3.


 カナンはセレストの手を引いて歩く。
 何所へ行くのにも連れて歩く。城の中、城の外を問わず。
 始めは自分の事を思い出す切っ掛けを探していたものか自発的に喋っていたセレストが、時間と共にどんどん無口になり、代わりにカナンが色々と話すようになっていた。そうして暫くの間は話が続いていたのだが、ふと、その内、セレストは何となくカナンとの距離を掴み倦ねているのではないかと思いはじめた。
 カナンは『いつもの通り』に振舞うのだが、セレストは少年化してしまった事でカナンとの関係は白紙に近い状態に戻ってしまっている。おそらく、それでも何所かで『主人としてのカナン』を覚えているのかも知れ無い。始めのうちこそ対等に近い言葉で喋っていた筈なのに、何時の間にやら一歩引いた喋り方になって来ているのだ。
 カナンにはそれがつまらない。
 セレストが普段、自分の居ない所では自分の事を「俺」と呼び、友人に向かって「お前」だの、「おい」だのと言っているのを知っている。だが、カナンに向かって使う事など無いし、目の前でだって使おうとしない。
 あの憧れのルーシャス様だって、剣士ロイにはそう呼ばれていたらしいのに、自分の事をパートナーだと言ってくれた癖に、だのにカナンを呼ぶ時は何時だって「様付き」なのだ。
「セレスト、どうした。疲れたのか?
 それとも……つまらないか?」
 終いには聞き役に徹しはじめたセレストに、カナンは業を煮やして聞いてみた。
「僕の相手は、嫌か?」
 出来るだけ平素と変わらないように口にした筈の台詞が、何所か震えて聞こえる。少なくとも今の従者と言う事を忘れているセレストなら、嫌な事は嫌と、正直にカナンに言うのでは無いだろうかと、ほんの少しの期待と心の殆どを占めている不安とがその台詞を口に出させた。
「嫌なら嫌だと言っていいんだぞ」
 もしかしたら、セレストの事を思いっきり睨んでいたかも知れない。
 カナンの台詞を聞いたセレストは、驚いたようにじっと、こちらを見返してきたから。
 このままでは流石に不味かろうと、何とかその後も言葉を続けようとしたのだけれど、巧い言葉が見つからなくてカナンは結局黙ったまま俯いてしまう。
 きっと、セレストを困らせてしまっただろうと分かっていても、止められなかった言葉。続けられなかった言葉。どうして言葉とはこうも不便なのだろうと思う。いや、きっと世の中にはもっと気の利いた言葉が溢れているのだろうけど、それを自分が知らないだけなのだろうなと、カナンは頭を振った。
 どんなに色んな本を読んでみても、どんなに色んな話を聞いてみても、カナンの知らないことは世に溢れている。知らないことが多すぎる。
 そんな風に頭の中がぐるぐると回りはじめると、不覚にも涙が滲んできて、それをセレストに悟られたくなくてきつく瞼を閉じれば、カナンの髪を優しく梳いてくる手があった。
「声を……聞いていたかったから」
 え?と、カナンは弾かれるように面をあげていた。
「とても綺麗な声だから……その、俺の声で邪魔しちゃうのが勿体無かったから、だから嫌だとかそんなんじゃ無くて……」
「声? 僕の??」
 見ればセレストは顔を微かに赤く染めながら、困ったようにしている。
「本当に、声を聞いていたかったから、その、それに俺何話していいかわかんなかったし」
「僕の声なんかより、セレストの声の方が良い声だと思うぞ、僕は」
 その言葉は、普段から思っていたことなので、すんなりとカナンの口から出た。
 カナンのさもすると女性と間違われそうなキーの高い声では無く、低く落ち着いた、耳に優しい声は、感情を抑えた話し方と相まって、どこか安心感を覚えさせる。
 そこまで考えて、だから余計に不安を感じたのかとカナンは思い至った。
 いつもなら使い過ぎる程に気を使うセレストの事、カナンが退屈しないように、またはカナンが無茶をしないようにと何時も何か云っている。カナンは普段からずっとセレストの声を聞いて生活しているようなものなのだ。それが急に変わったものだから……
「セレストの声は、聞いていると凄く、落ち着く」
 だから何か話せと、袖を引いた。
 するとセレストは酷く困った様子で考え込む。
「セレスト?」
 沈黙が重過ぎて、それに耐えきれずにカナンが声をかけると、セレストは申し訳無さそうにカナンの方を見た。
「あ……と……その、ごめん。俺、自分の声なんて誉められたこと無いからよくわかんなくて、やっぱり、いきなり何か話せって云われても、何話したらいいかわかんないし、えと……どうしよう?」
 その顔はカナンの良く知るセレストの困った顔。
 小さい頃から知っているセレストの顔。
 カナンがセレストの目を盗んで、出かけた時、思いつきを実行して見つかった時など、セレストが一度は見せる表情。その前後に怒った顔でお小言のオプションが付き物だけど、最後には「しょうがありませんね」と笑って見せるセレストの顔。
 いつもと変わらないセレストをそこに見つけて、無性に嬉しくなったカナンはくすくすと笑い出した。おかしいのに、嬉しいと思うのに、何故だか涙まで出てくる。セレストに泣き顔を見られるのはしゃくなので、俯いて涙が止まるのを待とうとしたが、涙も笑いも止まらなくて、セレストの胸にしがみつくように顔を埋めた。これならセレストからは泣いている顔は見えないだろうと……
 いきなりしがみつかれて、セレストが狼狽える気配が伝わってくる。だけどすぐ、震えるカナンの肩を包込むように優しく腕をまわしてきて、ほんの少しだけ、引き寄せられた。
 くすぐったさに身を捩って、ちらりとセレストの顔を盗み見ると、和んだ碧色の瞳とぶつかった。セレストは口元に笑みを浮かべると左の腕一本でカナンの肩を軽く支え、空いている方の手でカナンの前髪をすくいあげる。丁寧に乱れた所をすくいあげて、耳の後ろに持っていく。
 その手が、カナンの頬に添わされる。
 ゆっくりセレストの顔が降りてきて、生暖かいものがカナンの涙をすくった。
 はじめ、何があったか分らなかった。
 セレストの顔が降りてきた時、つい、目を閉じてしまったから。
  頬から目尻にかけて何かが涙をすくうようにして優しく触れてきたのを確かめようと、そっと目を開けば、間近にセレストの顔が見える。
 カナンの涙をその唇と舌でゆっくりとすくいあげていくセレストの顔。
 そのセレストの行動に驚いたカナンは目を見開き、反射的に顔を起していた。急に腕の中の人物が逃げるようにした行動に、セレストの方も驚いて身を引くが、次の瞬間、カッと顔を赤らめた。
「あっ、あのっ、ごめ……今、俺っ……!!」
 おそらく、涙を拭っていたのはカナンの事を『恋人』として覚えている無意識の部分の行動だったのだろう。己の行動に驚きと動揺を隠せずに、セレストはカナンの身体を引き剥がし、一歩、よろりと後ろに下がる。
 急に引き剥がされたカナンの方は、殆ど反射的にセレストの腕を掴みなおしていた。
「謝るな! ちょっと、驚いただけだ。僕は別に……嫌じゃ……無い」
 何となくではあったが、ここでセレストをつかまえておかなければいけないような気がして、だから、カナンはセレストが逃げられないように、袖を掴む指に力を込めた。だが、セレストにかける言葉を口にするのはとても恥ずかしくて、顔どころか耳まで真っ赤に染まっている。本当は羞恥で俯きたい所だったが、カナンは自分の言葉が真実である事をきちんと伝えたくて、セレストの目を真正面から捕らえた。
 お互い、顔を真っ赤にしながら見つめ合う。
 戸惑いとためらいの所為で、金縛りのような状態が続いていたのを破ったのは、再び溢れてきたカナンの涙だった。勝ち気なカナンの事、セレストを睨み付けるようにしている瞳は涙にも曇る事は無いけれど、こぼれ落ちそうになる涙を堪えているのは一目瞭然で……
 セレストは、今度は覚悟を決めてカナンの頬に両の手を添え、その顔を自分の方へ引き寄せ、その弾みでこぼれ落ちた涙の雫に自ら唇を這わせた。次いで反対側の瞳から零れたものへも同じように唇を這わせる。
 そして次は瞼に、頬に、そしてゆっくりと涙の通った跡を追って唇に辿り着く。セレストは一度、軽く触れただけですぐに離れ、そっとカナンを見た。
 カナンは唇が触れただけで身体に力が入らなくなり、セレストにしがみつくようにしているので精一杯だった。口を開けば、自分でも信じられない程熱い溜息がもれる。その開いた唇に、再びセレストの唇が降りてきた。
 僅かに開いたそこからセレストが舌を射し込んできてカナンを誘う。セレストとこうしたキスをするのは初めてでは無かったが、まだ不馴れなカナンは辿々しいながらも、セレストの求愛に応える。
 セレストの方も本当はいっぱいいっぱいだったのだけど、カナンの呼吸が苦しくなった頃を見計らうようにして唇を離せば、そのままぐったりと金色の温もりがもたれ掛かってきた。それにクスリと一つだけ笑いをこぼして再びカナンを抱き寄せれば、自分より僅かに低いカナンの金の髪が目の前にある。その金の波に顔を埋めれば柔らかな良い香りが漂ってきた。
  おそらくは香草の香りだろう。
 香料は嗜好品の一つで、普通の家では香りを身に纏う習慣はあまり無い。身だしなみとして町娘が付けているのはもっと親しみ易い香りだ。カナンから漂うのはもっと精錬された高級品。
 こんな時だが、セレストはカナンが上流階級出身である事を初めて意識した。
 それまであんまり親し気に(多少、命令に近い言動が無かった訳ではないが)話しかけてくるので、そんな事は考えもしなかったのだ。
 記憶は無くとも、カナンと自分とは身分が違うのじゃ無いかと何所かで感じた。
 そして、セレストはカナンと会ってから初めて、恐怖を感じた。
 記憶が戻れば、こんな風に寄り添いあう事など出来なくなるのではないかと。
 たまたま記憶の無い自分を拾ってくれたからカナンが側にいてくれるだけで、記憶が戻って、自分の有るべき所へ戻らなくてはならなくなった時、もしかしたらニ度とカナンとは会えない立場かもしれないのだ。そう思ったら急に足元の地面が無くなってしまったみたいに足から力が抜けていき、確かな何かを確かめたくてカナンの身体を支えている腕に力を入れた。
 急に腕を強く掴まれて驚いたカナンはセレストの顔を見上げる。
「セレスト、少し、痛い。
 手を、弛めてくれないか 」
 瞳を潤ませたまま、まだ頬の色もさめやらぬ様子で恥ずかしそうに頼むカナンにセレストの理性がグラリと揺れる。
(可愛い)
 同性に対して抱く感情じゃ無いと思う。それ以前に先程カナンに対して取った行動も一般的では無いだろう。だが、カナンを見ていると、セレストの感情はそんな諸々の事全てを些細な事として処理させてしまう。
 セレストはカナンの言葉の通り一旦はその腕を弛めたものの、腰を引き寄せるようにして抱きすくめ直すと、そして再びカナンの唇を貪ろうとした。
 その時。


ポッポ、ポッポー!


 何所からかポッポーの呑気な鳴声が聞こえてきたのだった。

「2時だな」
「2時ですね……」
「お茶の用意をしなくてはな!」
 いっそ清々しいまでの笑顔で云われて誰が逆らえようか。
 それまでの不安定ながらも、そこにあったどこかしっとりとした「良い雰囲気」は綺麗さっぱり吹っ飛んでしまい、思わずがっくりと項垂れてしまうセレスト。もしかしたら、目尻にこっそり涙なんか浮かんでいたかも知れない。だが、そんな憮然とした様子のセレストを後目に、カナンは御機嫌宜しくセレストの手を引っ張る。
「きっと姉上がおやつを用意してくれているはずだ。もどるぞ!」
 そしてセレストは半ばカナンに引きずられるようにして、城へと向かったのだった。

まだ箱の中

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努力はしたの〜
甘々目ざしたの〜
でも難しいの〜
……この世界ではハト時計が……うふふふ(汗)

 

■モドル■