2週間後……


 椎名の実家の店の入り口には『本日貸切』の文字。
 そして店内には、いつもとはあまりにも違う『店員』達の姿が……の、ハズだったが……。

「ちょっと! 本当にこれを着るの!?」
 メイド服を手に蒼褪めた顔をしているのはもちろん茅野である。
 それを受けて立つのは軍司ではなく、店のマスターである椎名の祖父と話をつけたりと、いつの間にかこの日の一切を取り仕切っている塔子だ。
「えぇそうよ、それを着るの。あなた、賭けに負けたんでしょう? ほら、諦めてあっちの部屋で着替えてきなさい」
「だって……」
「あら、スカートの丈なら問題ないハズよ。あの後スカート丈は長めにって軍司に言われて、その通りに私が選んだんだから」
「だからって……これ、本当にメイドじゃないですか!」
「だって、あなた今日はメイドじゃない。罰ゲームなんでしょ? とっとと開き直りなさい」
 そう言ってメイド服を押し付けて茅野の背中を塔子がどんと押す。
 それを見たモカが心配そうにあとを追ってきた。
「カヤ、大丈夫? 私も何か手伝おうか?」
「モカちゃん……いや、いいわ。もうこうなったらやってやろうじゃないの! 見てらっしゃい軍司!! 嫌っていうほどもてなしてやるわよっ!!」
「カ、カヤ?」
 いきなり豹変した茅野の態度にモカがたじろぐ。
 茅野は満面の笑みでモカに言った。
「恥ずかしそうにしてたらその方があいつの思う壺って今気が付いたわ。ありがとう、モカちゃん。でも私なら大丈夫だからあっちで座ってて。今日は椎名くんの手伝いもないんだし、ゆっくりお茶しなよ」
「そう? 本当に大丈夫!?」
 心配そうに茅野の顔を覗き込んだモカが、思わず顔を引き攣らせて固まった。
 茅野が今まで見た事のないような黒い笑みを浮べていたのだ。
「ひぃっ! わ、私戻るね、カヤ。あの、頑張ってね」
「えぇ、もちろんよ」
 茅野の放つ黒いオーラから逃げるように、モカはそそくさとその部屋をあとにした。
 残された茅野は着替えながら、一人密かにぐるぐると作戦を練っていた。
 モカが戻ると、すでに店内にはコーヒーの香りが漂い始め、もう準備の終わっていた椎名がカウンター席の近くに立っていた。
 塔子の指名は椎名だけだったが、思っていた以上に『執事』がいるようだ。
 なにごとかと立ち尽くしているモカは、背後から声をかけられた。
	    

「市原さんはその……着替えないんだ。今日は客の方なんだね」  その声にモカが勢いよく振り返ると、そこには同じクラスの尾崎が立っていた。 「尾崎くんっ! お、尾崎くんも執事なの!?」 「ん? あぁ、まぁね……変かな。何だか話の成り行きで」  着慣れない服で恥ずかしそうに照れ笑いして話す尾崎の背後から、もう一人『執事』が姿を表した。  その人物を見てモカは思わず緊張する。 「なんだ? そのこわいものでも見るようなその顔は」  現れたのは時任だった。  彼は喫茶部の部員というわけでもないのに、なぜかこの場にいて、そしてなぜか執事の服を着ていた。 「こんな馬鹿げた企画に生徒会が関わるのもどうかと思ったが、僕も来年には3年生、卒業だからね。恩を売っておいても損はなさそうだから。ついでにノリの悪いそこの男とは違うところをきちんと見せておこうと思ってね」  明らかに尾崎に向けられた言葉である。  それを聞いた途端、尾崎の纏っている空気が変わった。  ――あれ? 尾崎くん? 「それは俺のことか、時任」 「あぁそうだよ。わかっているじゃないか」 「ノリが悪くて悪かったな。しかしお前もいつまでそれで引っ張るつもりだ? 小さな事をしつこくいつまでも……まったく、器のほどが知れるってもんだな」 「自分でもノリが悪いと認めておいて、それなのに僕にそういう事をいうのか。器の小さいのはどっちだ」  そう言ってカウンターの方へ歩き出した尾崎と時任は、2人して身なりを整えながら、小さな声でずっと小競り合いを続けている。  そんな後姿を見送りながらモカは溜息を吐いた。 「尾崎くん、会長……」 「大人気ないよね、二人とも」  いきなり楽しげな声が後ろから聞こえて振り返る。 「辻くん!」 「あの2人、案外似たところがあるのかな。一人でいるとそうでもないのに、2人揃っちゃうと何かと張り合ってあんな風になっちゃうみたいだね」 「そうなのかな。何だかちょっとびっくりしたけど、少し親しみが持てるっていうか、安心したというか」 「そう?」  ――そうだよ。何でも一人で完璧にこなしちゃう人かと思ったら、あんな面もあるんだね。  少し嬉しそうに尾崎の後姿を見つめるモカに、辻は少し複雑な思いを抱いて顔を歪めた。  そんな辻の視線を感じて、モカは慌てて辻に話を振った。 「あ、あの、辻くん」 「んー何? どうかした?」 「えっと、辻くんも……執事?」 「あぁ、これ?」  モカに言われて、照れくさそうに自分の恰好を指し示す。 「俺、今日は1年生担当」 「1年生?」  辻の言葉にモカの脳裏には1年の真野沙由美の顔が思い浮かんだ。  ふと目をやると、店内には1年生だけのテーブルが一つあり、そこに恥ずかしそうにこっちを見ている真野の姿があった。 「みんな来てたんだ」 「うん。俺が誘ったからね」 「辻くんが?」 「そう。巻き込まれたとはいえ、こんな楽しそうな事やってるのに1年生だけいないなんて、仲間はずれみたいで可愛そうだろ?」  辻はそう言ってニコッと笑うと、そのまま手を振って1年生のテーブルの方に行ってしまった。  さらに恥ずかしそうに小さくなっている真野に、辻が話しかけているのが見える。  モカは嬉しそうに小さく微笑んで、自分のテーブルに戻った。  その時だった。

「おかえりなさいませ、ご主人様」  聞き慣れた声が聞いたこともないような声色で聞こえてきた。 「お、おぅ……」  たじろいだ声を上げたのは、少し遅れてやっと店に着いた軍司だった。 「お席にご案内します。どうぞこちらへ、ご主人様」  これでもかという程の満面の笑みを湛えた茅野が、軍司を席へと案内している。 「開き直ったっていうか、あれはもうヤケクソね」  苦笑してそう言ったのは塔子だ。  その横に立っているのは、やはり執事の恰好をしている椎名だった。  少し離れたテーブルに軍司を案内した後は、荷物を預かり傍らの椅子に置き、また笑顔を浮べて一礼し、マスターのところに歩いて行く。  怒っている様子もなくそつなくこなしているはずなのに、なぜか茅野の毛羽立った心が見えるようで椎名は思わず笑った。 「軍司先輩も、何を考えているんだか……」 「さぁね。あの男の考える事なんてわからないわよ。で、逸茶。あなたは私専属のはずだけど、さっきから随分と落ち着かないわね」 「当たり前だろ? こんな恰好させられて、落ち着くわけないよ」 「あら、それだけかしらね……」  そう言って塔子の視線があるテーブルで止まる。  モカが一人で座っているテーブルだ。  2人の秀才が大人気なく言い争いながらモカ一人の相手をしている。  どうやら執事の真似事の一つもできないのかという話になり、二人してお嬢様だの何だのとモカ一人に至れり尽くせりといったところのようだ。  すぐ横の1年生のテーブルからは、喫茶部ではないが兄にくっついてやってきた時任の妹、麻衣がモカのいるテーブルのやり取りを怒ったような顔で睨みつけている。 「あの2人、意外というか何というか……張り合わせておけば何だってやりそうね」  三人を見ながら、塔子が呆れたようにこぼした。  そしてその様子から目が離せないでいる椎名に向かって一言。 「随分人気があるみたいじゃない、あの子。ねぇ?」 「そういうのじゃ……って、何が言いたいんだよ、塔子。俺にどうしろって?」 「別に……っていうか、あっちの2人と1年のところにいる彼とは違って、このテーブルの執事は随分態度が悪いわね」 「そういうの、俺に期待したって無駄だよ」  少し怒ったようにそう言った椎名の横顔はなんとも言えず沈んでいる。  塔子は小さく溜息を吐いて言った。 「うちの執事はそれどころじゃないみたいね。いいわ、あなたにもコーヒーをもらってきてあげる。おいしいの、マスターに淹れてもらいましょ。逸茶、何がいい?」 「……モカ。モカマタリ、ストレートで」 「……了解よ」  視線を動かしもせずに答えた逸茶をテーブルに残して、塔子はマスターのいるカウンターの方に歩いて行った。

 塔子と入れ違いに、トレイに水の入ったグラスを載せた茅野がカウンターから離れた。  もちろん笑みを浮かべ、そのまま軍司のいるテーブルの方へと近付いていく。 「お待たせしました、ご主人様」  そう言ってコースターを置き、その上にグラスを置く。  茅野は軍司を相手にメイドの真似事をしながら、妙な感覚に襲われていた。  ――そういえば私、いつも軍司と言い争ってばっかりで、労いだとか、そういう優しい言葉なんてかけたことないかもしれない。  不本意ながらも軍司のメイドをやりながら、ふとそんな事を思い始めたのだ。  そんな戸惑いが顔に出ていたのか、不意に軍司が話しかけてきた。 「おい、どうした? 具合でも悪いのか?」  ハッとしたように茅野が顔を上げて笑みを浮かべる。 「何でもございません、ご主人様。お気にかけて下さりありがとうございます」 「……あぁ」  そう言った後、軍司は小さく舌打ちして顔を歪めた。  不機嫌そうに自分を見て溜息を吐く軍司に、茅野もさすがに苛々を感じずにはいられない。  ――何なのよ! メイドやれって言ったのは軍司じゃない! あんたがそんなだから、私だっていっつも喧嘩腰になっちゃうんじゃないの!!  茅野の顔から笑顔が消えて、いつものように軍司を睨むように見つめる。  その視線に気付いた途端、軍司が呆けたように茅野の表情に釘付けになった。 「……何よ?」  思わず茅野がそう言うと、軍司はたまらず小さくふき出した。 「はっ!」  愉快そうに笑いを堪えている軍司を、茅野が怪訝そうに見つめる。 「だから何なのよ」 「いや、別に。何でもねーよ」  店に来て以来ずっと不機嫌そうにしていた軍司の表情がやっと柔らかくなっている。 「何なの?」  茅野がもう一度問い質したが、軍司は首を横に振った。 「何でもねぇよ」  そう言った軍司は笑っていた。  その後、何も頼まれない茅野は軍司のテーブルを離れモカのテーブルに合流し、椎名は塔子の向かい側でコーヒーを楽しんだ。  思いのほか盛り上がっていたのは1年生のテーブルで、気遣い上手の辻が1年生をうまくまとめていた。  そして何が何だかわからないうちに始まった「罰ゲーム喫茶」も終わり、片付けを手伝う塔子と逸茶を残して喫茶部の面々は解散した。  やっと解放された茅野が大きく伸びをして歩き出すと、早々に帰ったはずの軍司がひょっこり顔を出した。