突然の別離


 久々の実家は妙に薄暗く感じられた。
 まぁ実際に明るさがどうとか、そういう事ではないのはわかるが……それこそが今置かれている状況を象徴しているのかと思うと何とも胸が詰まる。
 いつもはどこから手に入れたネタなのか、隊長や副長のアレコレをさも自分の事のように自慢げに語る幼馴染みも、今回ばかりはおとなしい。
 その幼馴染みの淹れてくれた懐かしい香りのするお茶を啜りながら、俺は母の眠っている隣室の方に視線を流した。

「今は寝ているわ」

 起こさないように低くそう言ったオクサナは随分と疲れた顔をしている。
 どうやらこのところずっと母の看病をしてくれていたらしい。
 テーブルの向かい側に座り、俺と同じように隣室の方を見るともなしに眺めている。

「ありがとな、オクサナ。今日からは俺もいるから。お前は家に戻ってゆっくりと休んでくれ」
「……仕事は? 大丈夫なの?」

 ここでこう切り返してくるあたりは、さすが弱ってはいてもオクサナだ。
 俺は小さく笑って答えた。

「母さんの熱が下がるまで帰ってくるなって、上官の命令だよ。だから大丈夫。しばらくはここにいる」
「命令じゃ仕方ないわね」

 そう言って、彼女も小さく笑った。
 お茶から上がる白い湯気がやんわりと揺れて空気にとけて消えていく。
 こんな穏やかな時間はいつぶりだろうか、と部屋の中をぐるりと見回す。
 兵舎住まいでは自室にいてもやはりどこか緊張しているのだなと、こんなところまで来て改めて気付かされる。
 そして気にしているつもりでも、普段の生活の中に母を想う時間などほとんどなかった事にも気付く。
 そう。きっとオクサナからの連絡が来なければ、そんな気持ちも心の奥のどこかに追いやってしまって、まるで何事もないかのように日常を過ごしていくんだろう。
 けっこう冷たいな、俺。ちょっと申し訳ない気分になって、それを悟られないようにお茶をゆっくりと喉の奥に流し込んだ。

「最近はちょっと食も細くてね。でもこんなに長引くなんて思っていなくて……もっと何かしてあげられたんじゃないかなぁって、ちょっとね。思ったりして」
「気にすんなよ。お前はよくやってくれてると思うよ。今回はさ、ゆっくりできるから。俺も……いろいろやるから」
「うん、そうね。ジェルファの顔見たら、おばさんもきっと安心してすぐ元気になるよね」

 自分自身を元気付けようとしているようなオクサナの言葉に、俺はさらに申し訳ない気分になった。
 でもまぁ、俺がいる時はずっと看ていられるし、母もきっとすぐ良くなってくれるだろう。
 俺はカップを手にしたまま立ち上がり、母の寝ている部屋の入り口まで歩いて行った。
 母は静かに眠っていた。
 俺は起こさないように気遣いながら、開けっ放しになっていたドアをゆっくりと閉めた。

 ◆◇◆     ◆◇◆     ◆◇◆

 まぁそのうち熱も下がってすぐに元気になるだろう。
 そんな予想に反して、母の熱はなかなか下がらなかった。
 だが、このところ食が細いと聞いてはいたのに、早く元気になって俺を城に帰さなくてはと思う気持ちからか、毎食ごと、母の食欲は戻っていった。

「ずっと寝てるのに、こんなに食べたら太っちゃうかしら」
「いいよ。母さんは細すぎるくらいなんだから。少しくらい太っても」
「女性にその言い方はないわ、ジェルファ」
「ほんとそうね、オクサナ。全くこの子は気の利いた言葉の一言くらい、ねぇ?」
「母さんにそんな一言、言ってどうするの!?」
「あら。まるでそんな一言を言ってあげたい誰かでもいるみたいな口ぶりね」
「やだ! ホントに、ジェルファ!?」

 少し元気になってきたら、俺は女2人のおしゃべりのネタとして弄られまくるようになった。
 誰かって……お前だろ、オクサナ! っと言ってやりたい気もするが、ここで言えるくらいなら苦労はしない。
 気を惹きたくて近衛隊に入ったはいいが、我ながらあまりパッとしない働きぶり。
 俺的にも、今オクサナに何か言ったところでうまくいく気が微塵もしない。
 ふと気が付くと俺の休暇も既に10日目となっていた。
 その日、ひとしきり俺をネタに母と盛り上がった後、夕食の材料を買うからとオクサナはいそいそと出かけて行った。
 最初のうちは近況などいろいろと話す事もあったのだが、さすがに10日もいるとそろそろネタも底をついてくる。
 変な沈黙に耐え切れなくなり、俺はお茶でも淹れようかと母に声をかけてみた。

「そうね……ジェルファ、ちょっと手を貸してちょうだい。私が淹れてあげる」
「い、いいよ母さん! 無理すんなって……あぁもう、起き上がることないって」
「いいの、私にやらせて。今日は何だか本当に気分がいいのよ」
「だからって、ちょっと!」

 大丈夫だと言うのだから大丈夫なんだろうが……渋々だが手を貸してやると、母は嬉しそうに微笑んだ。
 キッチンに立つと主婦の魂がそうさせるのか、母はゆっくりではあったが見違えるように手際よく動いた。
 部屋の中をある程度の湿度に保つため、掛けっぱなしになっていた鍋からお湯を器用にポットに移す。
 茶葉がひろがり、お茶の香りが部屋の中に漂ってくると、キッチンに立つ母の姿も相まって懐かしさがこみ上げてくる。
 俺がテーブルにティーカップを2セット並べると、母は嬉しそうにポットを持って俺の向かい側に腰を下ろした。

「オクサナには本当に良くしてもらっているのよ」
「そうみたいだね」
「えぇ。ホント……あなた見る目あるわよ、ジェルファ」
「……はい?」
「お城に行って、あっちで誰かいい人見つけちゃうかと思ったけど……けっこう一途なのね、うちの息子は」

 いきなりキタ! なんだこれ、何の拷問だ!?
 否定することも、ごまかすこともできずにただ赤くなって目を逸らす。
 母は小さく笑って、話題を変えてまた口を開いた。

「近衛隊はどう? うまくやってる?」

 話が逸れたのはありがたい。
 だがやたら突っ走っている鼓動はなかなか治まりそうにない。

「まぁそこそこ。どうにかやってるよ」

 そう言うと、母はそれ以上何も言わずに、黙ってお茶をカップに注いだ。
 その時、大きな音をたてていきなりドアが開き、買い物に行ったはずのオクサナが家の中に飛び込んできた。
 忘れ物だろうか、買い物を済ませてくるには時間がほとんど経っていない。
 なにより、こんなタイミングで帰ってくることないだろう!?
 いったいどんな顔してこいつの事を見ればいいのかと視線をやると、オクサナは肩を上下にして息を切らし、やっとのことで上げた顔はひどく蒼褪めていた。
 こいつのこんな顔は初めて見る。いったい何があったのか、視線も俺を捉えたままで泣きそうにすら見える。
 思わず駆け寄って手を貸すと、その腕をしがみつかんばかりに掴んだオクサナが、まだ整わない息のままで途切れ途切れに口を開いた。
 
「今……聞いて、きたの……お城で、お城で何か」
「いいからまず落ち着いて。ほら、こっち……」

 無理にでも椅子に座らせて落ち着けようとしたが、オクサナはそんな俺の手をパッと振りほどいて絞り出すように言った。

「何かお城で……そっ、それで……」
「うん。それで?」
「……近衛隊の、近衛隊の人が、何人か亡くなったって」
「なんだって!?」
「まぁ……オクサナ。どこでそんな……」

 そこまで言うとオクサナはその場にぺたりと座りこんでしまった。

「そんな噂……嘘だろ。そう簡単に城内の情報が流出するとも思えない。そんな深刻な事態ならなおさらだ」

 俺は苦笑しながら思った事を口にしたが、オクサナは顔を両手で覆ってブンブンと頭を振った。

「たぶん嘘じゃないわ、嘘じゃない。町の空気がおかしいもの、絶対に何かがあったんだわ」
「何かあったって、でも殺傷事なんてそうは……きっと何かの話が大げさに伝わっているんじゃないか? 良くも悪くも、近衛隊の話はみんな何かしら脚色つけて話したがるし。お前だっていつもそうだろ」
「違う! 違うのよ、ジェルファ!!」

 どうにもこうにも取り付くシマがなく、困り果てて母を見る。
 母はゆっくりと立ち上がってオクサナに歩み寄り、その傍らに腰を下ろしてその背を静かに抱いて言った。

「ジェルファ。私はもう大丈夫だから、あなたはお城に戻りなさい」
「いや、でも……」
「あなたの仕事は何? どこまで本当の話かわからないけれど、今お城で何かが起きている事はきっと本当だと私も思うわ。だったら、迷っている場合じゃないでしょう?」
「……わかった。行ってくる」

 確かに母の言う通りだ。
 本当のところはわからないが、とりあえず城に戻った方が良さそうだ。
 それで何もなければないで、また実家に戻ってくればいい、それだけのことだ。
 俺は自分の部屋に戻ると、ほとんどの荷物はそのままにクローゼットから上着を取り出した。
 オクサナの家から馬を借りて急いで城に戻ろう。その後のことは、その時考えればいい。
 簡単な身支度を終え、俺は母とオクサナの前に屈んで2人の肩に手を置いた。

「じゃ、ちょっと行ってくる。またすぐ戻るから」
「気を付けてね、ジェルファ」

 母のハグに応えて立ち上がろうとすると、俺の上着の裾をオクサナが掴んで引っ張った。

「オ、オクサナ?」

 何を考えているのか、オクサナは俯いたままでこちらを見ようとしない。

「離して、オクサナ。大丈夫だって。俺みたいなヘタレたビビリの隊員なんて、誰も相手にしやしないんだから。お前だっていつもそう言ってるじゃないか」

 俺が言った言葉が的を得ていたのかはずしていたのか、オクサナがビクリと身体を強張らせた。
 どうしていいのか困り果てていると、上着を持つオクサナの手に母が手を添えた。

「オクサナ。手を離してあげて。この子は行かなくちゃ」
「……オクサナ?」

 やっとオクサナの手から解放された上着の裾は、そこだけ不自然に皺が寄っていた。

「じゃ、行ってくるよ。母さん」
「えぇ。行ってらっしゃい」
「……オクサナを頼んだよ」

 俺が頼むことか? と一瞬疑問を覚えつつも、言わずにはいられなかった言葉を残して俺は家を飛び出した。

 ◆◇◆     ◆◇◆     ◆◇◆

 家を出てすぐに感じた違和感は、城に近付くに連れてどんどん確信へと変わっていった。
 城下に入ってからはもうそれは疑う余地もなく、オクサナの様子も大げさではなかったのだと思い知る。
 俺がよく知っているあの活気に満ち溢れた町が重く沈み、日常ではない何か、それも良くない何かが起こった事はもう明らかだった。
 バランドル城に着くとさらにその変わり様に驚かされる。
 たった10日間のうちにいったい何があったというのか、城壁もところどころ崩れ、穴が開いてしまっているところさえある。
 急ピッチで修復が進められてはいるが、その何かの傷痕はそう簡単に消えるものではないことを予感させた。
 城門で警護にあたっていた同僚の一人が、俺の帰城を知らせに詰所の方へと走り去る。
 城内に漂う違和感は、城下のそれとは比べものにならなかった。
 重い空気と、俯き加減に歩く人々……何より目にうつる光景全てが、苦しいような胸騒ぎを感じさせる。
 若干の息苦しさを感じつつ、俺は焦燥に駆られて馬を繋ぐのもそこそこに近衛隊の詰所へと駆け出した。

 詰所の中はさらに重たい空気に包まれていた。
 いつもは外にまで漏れ聞こえてくる談笑の声が、詰所の中にいる今になっても鼓膜を震わすことがない。
 そして俺はある事に気付いてしまった。
 俺が帰城すると真っ先に出迎えてくれるあの声が聞こえない。
 ぞくりと背中を冷たいものが走った。

「おぉ……戻ったのか、ジェルファ。思ったよか早かったな」

 背後から聞こえてきた声に、俺は反射的に振り返って姿勢を正す。

「ただいま戻りました」
「おぅ。おふくろさん、もういいのか?」
「えぇまぁ……それより、これはいったい?」
「あ? あぁ、そうだな。そうか、それで戻ったのか……そうか」
「……隊長?」

 いつもは飄々としている隊長の顔が苦しげに歪む。
 ゆっくりと歩いて俺の横を通り過ぎると、溜息と共に椅子にどっさりと腰を下ろした。
 少し遅れて詰所に入ってきた副長が俺の傍らに立つ。

「あの……」

 間に耐え切れずに俺が口を開くと、それを遮るかのように隊長は短く言った。

「テートが死んだ」
「……は?」

 言葉を全身が拒絶する。

「テートだけじゃない。フェレス、バーク、それにリノスもだ」
「え?」
「お前、テートと仲良かったよな。すぐ連絡できず、すまなかった」

 それ以上は何も語らず、何の説明もない。
 紛れもない現実なのだと嫌が上にも突きつけられるが、そこに気持ちが追いつけない。
 少し震えだした身体を拳を握り締めることでどうにか抑えて、それでも続ける言葉が出ない。
 その一部始終を目を逸らすことなく隊長が見つめている。
 嘘ではないのだと脳が判断して、否定したくてもどうにも逃げられそうにない。そう思ったら身体の震えが止まらなくなり、奥歯がみっともなくガチガチとなった。
 急いでぐっと歯を食いしばるが、誰の目にも震えているのはバレバレだった。

「落ち着いたら全て話してやる。お前が聞きたければの話だが……まぁ黙ってたって、遅かれ早かれ耳に入るだろうからな」
「……はい」

 隊長はどうやらそれだけを言うためにここへ来たらしく、言い終わるとすぐに立ち上がり、そのまま詰所を出て行ってしまった。
 いつもはそれに続く副長が今回はその場に残り、俺の肩に手を置くと椅子に座るよう促された。
 それからしばらく、俺は副長と向かい合ったままで何も言えずにただ座っていた。
 俺が落ち着くのを待っていてくれるのだとわかっても、その時の俺はなんというかひどく現実感がなく、ふわふわとしたような妙な感覚の中にいた。
 だがしばらく経つと全てがすとんと自分の中に落ちてきて、なによりいくら待ってもここにテートが現れない事が全てで、足に詰所の床の感触が戻ってきた途端に何かがことりと倒れるような感覚を覚え、その途端、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。
 副長は慰めの言葉も何も発しないまま、それでも俺の側にずっと座っていてくれた。
 俺はもうどうする事もできず、ただもうひたすら持て余した感情を慟哭することで吐きだし続けていた。
 そしてその間もずっと副長は何も言わず、俺の傍らに留まっていてくれた。

「……申し訳ありません……もう、大丈夫です」

 俺の言葉に、謝るような事はされてませんよと副長は静かに笑みを浮かべる。
 いったいどれくらい泣いたのか、自分でも呆れるほどに泣き続けてやっと涙が枯れてくれた。
 泣くという行為がこんなに疲れるものなのだと言うことを初めて思い知った。
 泣き止んだ途端、大の男が姿なく泣き続けた事にどうしようもない羞恥の感情がわき上がって顔に朱が入る。
 照れ隠しじゃないが、俺は副長に向かって訊ねた。

「あの、テートは?」
「ご家族の許に。葬儀は明日だそうです」
「そう、ですか……」
「言うのも野暮なんですが……、明日が本当に最後のお別れになります。行かれますか?」

 最後の別れというフレーズに思わず息が止まる。
 だが俺は静かに首を振ってこう答えた。

「家に戻ります。まだ……命令の途中なんで」
「そうでしたか。わかりました」

 そう。俺はまた家に戻らなくてはならない。
 だからこそ腹を括らなくては、そう思った。

「副長」
「……はい」
「いったい何があったんですか? 全部……全部俺にも教えて下さい」

 隊長が落ち着いたら話をしてくれると言ってはいたが、俺はそこまで待てなかった。
 城を離れる前に話を聞いておきたいと、そう思ったのだ。
 実家にいると看病や家事といったやる事はあるものの、それでも時間だけはたくさんある。
 その時間で俺はいろいろと頭の整理をつけたいとそう思ったのである。
 副長は何かを確認するかのように俺の顔をのぞき込むと、納得した様子でわかりました、と一言だけ言った。
 そしてそのまま副長は、ここバランドル城で『その日』何が起こったのかを淡々と俺に聞かせてくれた。
 想像の範疇を超えた話が終わると副長は詰所から出ていき、でも俺は一人椅子に座ったままその場から動けずにいた。

「ヴァル……キリア…………」

 俺は無意識のうちにその名をつぶやいてしまっていた。

 ◆◇◆     ◆◇◆     ◆◇◆