隊長ダナンの受難


 翌日が非番ということで、その日やるべき事を一通り終えたダナンは、後を副長のウォラスに任せて城下へとおりていた。
 既に通い慣れつつある道をのんびりと歩く。
 近衛隊長ともなれば顔も広く、その気取らない性分のせいか、賑わう町のあちこちでダナンは声を掛けられた。
 ダナンもその声一つ一つに、手をあげ、応えながら歩いていく。
 そして辿り着いたのは近衛隊の面々の行きつけの店……ではなく、数ヶ月前に見つけてふと立ち寄った小さな店。
 酒場というよりは大衆向けの食堂といった風情で、その店の敷居は低い。
 何よりも出迎えてくれる母娘がこの店一番の『売り』で、町での評判も上々のようだった。

「あら、いらっしゃい!」
 この日ダナンを迎え入れたのは母の方、名をアラベラといった。
 恰幅のいい、いかにも下町の女性といった態のアラベラは、白髪の混じり始めた黒髪を品良く一つにまとめている。
「珍しいわね、こんな時間に……今日は? 一人?」
「あぁ、一人だ……」
 まだ何か言いたげに店内をきょろきょろと見渡しているダナンを、慣れた様子で『いつもの席』へと案内する。
 少し奥まったその場所は、店内の他の席からは視界に入りにくい。
 この店を切り盛りするアラベラの、近衛隊長に対するさりげない心遣いである。
「そんな残念そうな顔をするもんじゃないよ。今ちょっと遣いに出してるだけだから、じきに顔を出すわ」
 昔はさぞ美人だったろうと思わせる茶目っ気たっぷりの笑顔でそう言うと、アラベラはダナンを小さく小突いた。
 全てはお見通しというわけか、と、ダナンは気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「時間はあるんでしょう? ゆっくりしていきなさいな。この時間じゃまだ客もたいして来ないだろうから……あ、帰ってきた」
 調理場の方に戻りながら話すアラベラの言葉に、ダナンは思わずハッとして顔を上げる。
「おかえり、ティナ。遅かったわね」
「ごめん、母さん。ちょっと顔見知りに会っちゃって……すぐに手伝うわ」
 羽織っていたショールを傍らの椅子に掛け、母とお揃いの前掛けを身に着けながら、ティナと呼ばれた娘は調理場の方へと歩いて行った。
「ねぇ、さっき誰かと喋ってなかった?」
 ゆるいウェーブのかかった長い黒髪を後ろで一つに束ねながら言う娘に、アラベラは意味ありげな微笑みを浮べて店の奥の方を指差した。
「こっちはいいから。ほら、さっきからお待ちかねだよ、ティナ」
「え?」
 何事かと訝しげに店の奥に目をやると、ひょこっと視界の中に手が現れ、その手の主の声が聞こえてきた。
「元気そうだな、ヴァルティナ」
「ダナン!?」
 ティナは愛称、本当の名はヴァルティナという。
 そう、彼女こそダナンがこの店に通うその『理由』なのである。
「あんたどうしたのよ、こんな時間に」
「飯を食いに来たに決まってるだろう? 他に何があるんだよ」
 憎たらしい物言いにティナは呆れたように溜息混じりでダナンを見る。
 そしてそのままダナンの向かい側に座ると、そのタイミングでアラベラがビールと水を持ってきてテーブルの上に置いた。
「ありがと、母さん」
「店が混んできたら頼むよ」
「もちろん」
 にっこりとティナが微笑むと、アラベラは何か言いたげに視線をダナンに送ってその肩をバシッと一発、また調理場へと戻って行った。
 アラベラが調理場に入るのを見届けると、ヴァルティナはダナンの方に身を少し乗り出して小声で言った。

「大変だったみたいね……」
 どうやら城での出来事は、既に広く城下の町にも知れ渡っているらしい。
 もちろん、真実を知る者は城の中でもほんの一握りの人間だけで、心配そうに言いよどんだヴァルティナも、実際に何があったかなど知っていようはずがない。
 だからと言ってあれこれ詮索するでもなく、ただ純粋にダナンの心中を気遣うようにヴァルティナはさりげなく言った。
「大丈夫なの?」
「まぁ……な。だいぶ落ち着いてはきてるんじゃないか?」
 詳しくは語らず、どうとでも取れる適当な返事をしてダナンはビールを口に運んだ。
 ヴァルティナは苦笑して、それでも安堵の表情で座りなおして頬杖をついた。
「珍しいじゃない、こんな時間に一人で。何かあった?」
 まるでその心中を探ろうとでもするように、ヴァルティナの真っ黒な瞳がダナンを捉える。
 ダナンは喉を鳴らしてビールを流し込むと、手の甲で無造作に口の周りを拭ってヴァルティナに言った。
「別に? 何もねぇよ」
「どうだか!」
「本当だって。何だよ母娘して『こんな時間』って、俺がいつここに来ようが勝手だろーが。せっかくまとまった時間ができたっつーのに何なんだよ」
 驚いたように自分を見つめるヴァルティナをよそに、ダナンは残りのビールを一気に飲み干した。
「明日は非番なんだ、今日はゆっくりできる……」
 小さく笑って、暗に帰るつもりのない事をほのめかす。
 ダナンはそのつもりで仕事も終わらせてきたし、隊長不在の留守を頼む副長のウォラスへの引継ぎも万全にしてきたのだ。
 腕を伸ばし、テーブルの向かい側から頬杖をつくヴァルティナの右手にダナンの左手が重なる。
「ティナ……」
 おそらく近衛隊の誰一人として聞いた事のないような声で、ダナンがヴァルティナを呼んだ、その時だった。
 ヴァルティナの眉がぴくりと上がり、ダナンを見つめる瞳の熱が急速に冷めていく。
 もちろんその変化にダナンが気付かぬはずもなく、テーブルの向こうで戸惑いながらも食い下がるようにヴァルティナを見つめている。
 だが次の瞬間、頬杖をついていたヴァルティナは、その右手で最早引っ込みの付かなくなっていたダナンの左手をパンッと勢いよく払った。
 さすがにこれにはダナンも驚いた。
「え……ティナ?」
 ヴァルティナはにっこりと微笑むと、さっき払ったダナンの左手をぎゅっと握って立ち上がった。
「ダナン……来て。こっち……」
 今まで見たどの微笑よりも妖艶な笑みをその顔に浮かべて、ヴァルティナがダナンの手をひいた。
 ダナンが釣られて立ち上がると、ヴァルティナは自分が持つからとダナンの荷物を受け取り、荷物を持ったままでダナンの左腕に自分の腕を絡めた。
 そのまま二人して店の奥へ、さらに裏の方へと歩き出す。
「おぉ、おい。どうしたんだよ、ヴァルティナ」
 戸惑うダナンをぐいぐいとヴァルティナは引っ張っていく。
 その後ろ姿をビールのお替りと肴を持ってきたアラベラが何事かと驚いたように見送った。
「おやおや……」
 アラベラはそう言って笑うと、手にしたものはそのままに、また調理場へと戻っていった。
 てっきりそのまま夜の町へ姿を消すのだろう、そう思っていたアラベラの耳に入ってきたのは……。

「ぃぃぃいいってぇっ! ちょ……何すんだっ!」

 バシッと何かを叩くような音と、心底驚いたようなダナンの声だった。
 アラベラは事の次第を理解したようで、くすくすと全てを見通したように笑った。
 仲良く寄り添って出ていく二人の姿があったはずの店の裏口には、そんな男女二人の代わりに、何かに不意を突かれて尻餅をついてしまったダナンと、裏通りに向かって仁王立ちしているヴァルティナの姿があった。
 ダナンは左の頬を痛そうに擦っている。
 そこへまるで止めを刺すかのように、ヴァルティナがダナンの荷物を放り投げた。
 それを受け止めたダナンが慌ててヴァルティナに声をかける。
「おいおいおい、まだビール一杯しか飲んでない客を、ここじゃ引っ叩いて追い出すのかよ、ヴァルティナ」
「まさか! そんなわけないわ」
「じゃあなんだよ、これは!?」
 ヴァルティナがふふんと鼻で笑う。
「この店はサービスの良さが売りよ? お客様は大切にするわ」
「おい。俺だって客だろ」
「客、ね……まぁいいけど」
 大きな溜息をヴァルティナが一つ。
「不快な客はお断りだわ。あのね、今が肝心だっていう大変な時に、城を空けるばかりか外泊までしようなんていう馬鹿な男を追い出したいのよ、わ・た・し・が!」
 手を腰に当て、上から見下ろすようにしてヴァルティナが言う。
 ダナンは何かを言い返そうと大きく息を吸い込んだが、当然の事ながら次に口を開いたのもやはりヴァルティナの方が先であった。
「ダナン! あんた馬鹿じゃないの、こんな時に……いいからもう城に戻りな!」
「明日は非番だって言ってるだろう? いいからってなんだよ! なんだってそんな……」
「あんた、近衛の隊長なんだろう!?」
 さすがにこれには返す言葉がなくなった。
 ダナンが未だに独り身でいる理由、それこそがまさにこれなのである。
「城での事なんて、アタシにはよくわからない。でもなんか大変な時なんだろ? そんな時になんであんたはこんなところにいるのさ!?」
「ティナ……」
「腑抜けた面して女口説く暇があったら、城の雑草の一本でも抜いたらどう?」
「はぁっ!?」
 ダナンは立ち上がるとヴァルティナに近付いてた。
 だがヴァルティナは止まらない。
「何にもないかもしれないけど、こんなとこにいちゃ何かあってもわかんないじゃない。そういう時に誰が皆を動かすのよ、ダナン」
 何か言ってやろうと立ち上がったものの、返す言葉を探しているうちにヴァルティナが次の言葉を継いでしまう。
「今日はいくら粘ったって、あんたに出す酒も料理もうちには置いてないわよ」
 ぴしゃりと言ってのけたヴァルティナは、目の前のダナンの胸に指を突きつけて言った。
「頭冷やしな、隊長サン?」
 魅力的な黒い瞳が、ダナンを下からのぞき込むように見つめる。
 思わずダナンは言葉を失い、その瞳に魅入ってしまった。
 ヴァルティナの表情がふっと柔らかくなり、ダナンを見つめる目に熱が帯びる。
「コレに懲りずまた逢いに来て、ダナン」
 そう言って小さく笑うと、ヴァルティナはダナンの胸をとんと押した。
 そして呆然とするダナンに迷いもせず背中を向けると、そのまま振り返りもせずに店の中へと戻って行ってしまったのだった。
「……何だよ、そりゃ。くそっ」
 人気のない裏通りにぽつんと一人残されたダナンは、頭をくしゃくしゃと両手で掻き毟ると、荷物を無造作に担ぎあげて大股でどかどかと歩き始めた。
「あーもう。イイ女だなぁ、ちくしょー」
 表通りは街灯が灯り始め、夕刻の活気に溢れていた。
 町の中心へと繰り出す人々の波に逆らって、ダナンは城へと続く道を一人寂しく引き返すのだった。