学問の批判
 
縁起説偏重の学者には独断と偏見が

三枝充悳氏

 三枝充悳氏は次のように、縁起説や十二縁起説が釈尊の悟りの内容とする研究者が多く、それは独断・偏見だと強く警告されている。研究者が、「私は仏教は縁起説だと思う。仏教が縁起説であるとすれば」(仏教の条件とか、縁起説の概念の定義は、種々に定義されていて、定説がないのに)という仮説、仮定に絶対的価値を置き(*3)、独断的に、「xxは、仏教ではない」という断定になっている研究をみかける。仏教研究に、偏見、独断がある。
(注)
 縁起説が釈尊の悟りだと主張する学者が確かに多いが、三枝氏によれば、これは偏見である。この独断・偏見が多くの学者によって信じられ、社会に教育されているわけである。このように独断と偏見にゆがめられた説をなす学者によって、学生や社会人に教育されれば、独断と偏見を持った仏教観がさらにひろまる。種々の分野で、独断、偏見が学者によって主張される時、社会に重大な差別、闘争、苦しみ、被害をもたらしたことは、過去の歴史がいくつも教えてきたし、現代でも、それが進行していることを知っている。学者が「学問」という美名の口実のもとに、自分の原理主義的宗教観を絶対視する講義を行い、書物を出版する結果、それが偏見であることを批判できない学生、ジャーナリストや社会人が、それを信じ奉じて、良心的な学者や仏教者を差別し排斥する(独断と偏見を強く主張すると、行動にも現実にあらわれる)危険がある。
 学問という名前でおこなわれる独断と偏見によって、伝統の誠実な実践仏教の部分までが軽侮、否定されている現状がある。確かに、仏教者の現状には批判されるべきところがある。現状を批判するのが、学問やジャーナリズムであるはずなのに、学者が独断偏見のある説を主張することが広く行われている学会であるならば、社会人も、ジャーナリズムも、学者の主張を信じて、偏見を拡大していく。社会の現状の批判されるべきものが批判されず、賞賛されるべき部分が排斥されるという悲劇、矛盾が続く。

偏見があると争いが

 偏見があって、それを強く守護したいという欲求が働くと、争いになると、初期仏教経典にみられる。  研究においても、偏見が強いと、それを主張したいという欲(「貪り」)が強くなるので、反対説を怒り、嫉み、自己の偏見を強く守護するために、自己の説を特に強く主張する。結局、それが誠実な動機によるものならば、争いを生まないのだが、好き嫌いの偏見による場合には、歪んだ結論であるから、自然に反対する者があらわれて、争いになる。この経典の趣旨は、欲、利、嫉、守護を避けるべきだという初期仏教の精神であろう。独断、偏見を批判しているのが仏教なのである。その仏教の学問において偏見がある(三枝氏などが断言している)とは、何と人間の心の闇は深いのであろうか。苦をもたらす思考、行為を批判する精神を教える「仏教」を解明する学問において、偏見、独断があれば、社会の他の領域において、独断・偏見、差別、闘争がなくなるはずがないのではないか。他の領域は、偏見、独断そのものの害悪を研究するところではなく、仏教こそが、それを課題にしている(2)からである。
 独断・偏見により自分の感情を抑制しないで他者の攻撃に走る現代人、自己の利益のみを貪る自己中心的な思考、行為が、社会の人々を苦しめ、心の病気、自殺に追い込み、種々の社会問題を起こしている。その解決指針を持つ仏教を、今、まさに、社会に啓蒙すべき時であろう。

(注)
学問の批判