縁起思想偏重が縁起を知らないこと

 三枝充悳氏が「縁起説を初期仏教思想の中心に据えることが、とくに最近数十年来のわが国の学界に始まり、どうしてこのように広く一般に急激に、しかも良心的な学問研究者が当惑するほどにまで、流行するようになったのか、その理由・原因は或る程度推察がゆく。しかしながら、それには多くの独断や偏見などが溢れていて」と学問の独断、偏見を指摘される。
 「縁起を思惟することのみが仏教である」と主張する学者まで現れた。

 実は、このような一つのみの思想、見解を強く主張する行為こそが、十二支縁起説のうちの、取、渇愛、受などによって、誠実な(苦を除こうとする「善」という)実践者を差別、排斥する行為となっているということに自覚がない。そういう自覚がないことも「無明」のせいであると思われる。
 三枝充悳氏の主張されるように、厳密に学問的な根拠による結論によらずに、自分の好き嫌い、独断で選択した条件によって、「十二支縁起説以外は仏教ではない」と強く主張する心理過程には、十二支縁起説でいう取、渇愛、受などが起きている(*注)。  十二支縁起説を十分に理解し、実践することは相当に難しい。初期仏教では、八正道が必要であるとされた。自己自身の勝手な基準で選択した見解に執着して、それを強く主張し、他者を差別し、排斥すると、他者を苦しめ、さらに多くの他者が苦しみを解決することを妨害することになるのである。
 三枝氏が「良心的な学問研究者が当惑するほどにまで、流行する」縁起思想絶対主義の偏重の学問が流行していると指摘されているのであるから、まだ、仏教は学問的に解明されているのではない。だからこそ、学問もジャーナリズムも仏教や仏教と称する多くの宗教の現状を、的確に批判していないのであろう。仏教は、種々の社会問題に、仏教独自の精神からは、ほとんど何も貢献していないのかもしれない。 伊吹敦氏の批判 がある。