縁起思想偏重が縁起を知らないこと
三枝充悳氏が「縁起説を初期仏教思想の中心に据えることが、とくに最近数十年来のわが国の学界に始まり、どうしてこのように広く一般に急激に、しかも良心的な学問研究者が当惑するほどにまで、流行するようになったのか、その理由・原因は或る程度推察がゆく。しかしながら、それには多くの独断や偏見などが溢れていて」と学問の独断、偏見を指摘される。
「縁起を思惟することのみが仏教である」と主張する学者まで現れた。
実は、このような一つのみの思想、見解を強く主張する行為こそが、十二支縁起説のうちの、取、渇愛、受などによって、誠実な(苦を除こうとする「善」という)実践者を差別、排斥する行為となっているということに自覚がない。そういう自覚がないことも「無明」のせいであると思われる。
三枝充悳氏の主張されるように、厳密に学問的な根拠による結論によらずに、自分の好き嫌い、独断で選択した条件によって、「十二支縁起説以外は仏教ではない」と強く主張する心理過程には、十二支縁起説でいう取、渇愛、受などが起きている(*注)。
(*注)
独断的に選択した条件を強く主張するということは、「選択した条件(縁起が選択されることが多い)が仏教の唯一の条件である」という「見取見」を起こしているのであり、これは、十二支縁起説の「取」である。そして、その見解に強く固執するのは、「渇愛」である。つまり、煩悩論からは、貪・瞋・癡のうちの「貪」である。渇愛の対象には、財、名誉などもあるが、見解、思想への渇愛もある。見解、思想への渇愛も非常に大きな苦しみをもたらすことは、心の病気の人、犯罪を犯す人が苦しむことで明白である。宗教間による対立、争いが多い。
なぜ、「縁起のみが仏教である」というような見解に強く執着するのか、その心理には「受」があるであろう。他の見解(坐禅のみが宗祖のご精神とか、悟りこそが重要とか)を主張する人をみて、「怒り」(これは、貪・瞋・癡のうちの「瞋」である)を覚えるであろう。怒りを感受するのは苦しい。これは「受」である。怒りによる、心の病気、身体の病気が多い。怒りから、犯罪を犯し、苦しみを深める人が多い。
このように、ある見解に強く執着する人には、それに対立する見解を見たり、聞いたりすると「怒り」を覚えて、苦痛になる。これは、十二支縁起説の「受」(苦受)である。精神医学や臨床心理学によれば、苦を感受する人は、その苦をまぎらすために、種々の行為(病的行為や非行)を起こし、他者の苦を転嫁する。建設的な行為による止揚でなければ、自分と他者の怒り、苦悩は解決しない。
十二支縁起説を十分に理解し、実践することは相当に難しい。初期仏教では、八正道が必要であるとされた。自己自身の勝手な基準で選択した見解に執着して、それを強く主張し、他者を差別し、排斥すると、他者を苦しめ、さらに多くの他者が苦しみを解決することを妨害することになるのである。
三枝氏が「良心的な学問研究者が当惑するほどにまで、流行する」縁起思想絶対主義の偏重の学問が流行していると指摘されているのであるから、まだ、仏教は学問的に解明されているのではない。だからこそ、学問もジャーナリズムも仏教や仏教と称する多くの宗教の現状を、的確に批判していないのであろう。仏教は、種々の社会問題に、仏教独自の精神からは、ほとんど何も貢献していないのかもしれない。
伊吹敦氏の批判
がある。