仏教・禅の学問批判・教団批判

   評論家と実践者と実践指導者は、行為の内容が大きく違う。
 今、日本では、自殺をする人が多い。この多くがうつ病などの心の病気からである。心の病気ならば、心の問題を探求する仏教や禅が救えるのではないか。臨床心理学が救えるのではないか。
 心を病んで、自殺する病気、うつ病があります。そのうつ病を治すことは容易ではありません。「自殺してはいけない。自殺しないで下さい。」という説得をする人や臨床心理学の理論を教える人(これらは「評論家」になります)が多くても、実際、自殺念慮を修正できるように、長く地道なカウンセリングができて成功するカウンセラー(「実践指導者」)がいないとしたら、どうなるでしょうか。短時間の説得、短時間の相談で、自殺を思いとどまるような軽い自殺念慮の方しか、救われません。うつ病は、そう簡単には、治りません。
 また、つらい試練にあっても、自殺をしない人も多い。それは、自殺しないような心のくふうを実践している(「実践者」)のでしょう。自分では、実践していても、苦しむ他の人をカウンセリングできるわけではありません。すぐれた宗教者が、言葉で説かずとも自分のいきざまを見せる(「実践者」である)ことで、周囲に影響・感化をおよぼしているというようなたぐいの「評論」をする学者、宗教評論家もいるが、それでは「大乗仏教」の「慈悲」ではないはず。大乗仏教の慈悲を忘れて仏教を解説する学者、宗教者、評論家が多い。人の苦悩はその程度では救われない深いものが多い。他者が救われるように、苦悩する心理を深く分析して、解決できるように、臨床的に、個別的に(大勢の前で講話するのではなく)、指導できる人(「実践的・臨床的指導者」)でないと、深い苦悩を解決できるように導くことはできない。
 仏教や禅の学問、宗教の現状も、似ている現象のようです。仏教は、苦悩の解決であったはずです。「実践者」「評論家」のみが多くて、現実に苦悩する人を長くカウンセリングする仏教者(「実践指導者」)が非常に少ない(苦悩しない人に高度の仏教実践や思想を指導するのは、ここでいう<苦の解決>段階の仏教ではない)。だから、仏教が現代社会に貢献できなくなっている。
 一部の誠実な学者が仏教の学問と宗門の主張を次のように、批判しています。
・仏教(禅やその他の仏教宗派の説も)の学問は、仏教の最も肝心なことを解明していない。学者も僧侶も、仏教の肝心なとことがわかっていない。
・学者や僧侶による独断、偏見の学説の発表、不毛の議論が続いており、種々の精神的問題を抱えた現代社会に、仏教の学問も教団(伝統、新興)の教えも、ほとんど貢献していない。
・自分たちだけの利益・喜びになる文献解釈と教団活動に終始して、一般社会の人々の苦悩の解決に何も貢献しない。
・日本の仏教の学問は浅薄である。学者が自己自身に甘い。

 このように日本の仏教の学問、教団への批判をする学者の意見を掲載します。 評論家と実践者ばかりで、自殺するほどに苦悩する人を救済できる実践指導者がいない日本の仏教の現状だろうと思えます。