「石川啄木ごのみ」(東京 銀座の源吉兆庵のお菓子)が、大阪空港にあった!
昨日、元の職場の友人から「大阪空港のロビーで売ってたから」と言って、【石川啄木ごのみ】という菓子折りが送られてきた。私が根っからの啄木ファンであることを知っている、元の職場の友人であるが、退職して4年、今もこうして思い出してくれる友人に感謝しながら、「啄木ごのみ」の包を解いた。
以前に買い求めた時とはちょっとデザインのちがった付録の冊子も嬉しい。菓子は幼い頃の啄木が、好んで食べた、と啄木の妹光子の図書にも記してある「ゆべし」、それに煎餅風のビスケットの詰め合わせ。それと啄木の肖像をデザインした箱も啄木ファンには嬉しいかな。
この文人シリーズ菓子は、七、八年前から和菓子の老舗である「源吉兆庵」(本店は岡山市)が、一ヶ月限定で文学者の名前を冠したお菓子を発売しているもの。私も何度か銀座店に足を運んで入手したこともあったが、退職後は出かけるのが億劫になってしまっていた。それだけにこの度の友の厚意は嬉しかった。
源吉兆庵の東京銀座店では毎年この時期に店が所有する啄木資料数点を、店の階上にある特設会場で「石川啄木展」として展示している。ほとんどは複製の書簡や写真だが、それをわざわざ遠方から見に来る人も多い。私もこの機会にまた、出かけてみようと思っている。(2006年2月3日)
通巻499号の地域誌「月刊おたる」新年号
このたび小樽在住の啄木研究家から、啄木文献として「月刊おたる」(2006年 新年号)という雑誌を頂きました。
この雑誌が通巻499号で、現在日本で一番長く発行されている地域誌、(「月刊おたる」の社長さん曰く、「文藝春秋」に次ぐもの?)と知って驚きました。
しかし、皆さんも、啄木が小樽で3カ月あまりを過ごしたのが、今から99年前である、と知れば少しは納得出来るのではないでしょうか。
啄木は小樽の町の第一印象を次のような歌に残しました。
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
啄木が暮らした99年前の小樽は、活気溢れる一大商業都市だったから、軟弱に歌など詠む暮らしをしてる人など一人も見当たらない、というのが啄木の第一印象だったのでしょう。
私は今、「月刊おたる」について詳しいことは知りませんが、通巻500号にならんとする、この地方誌の発行を今日まで続けてこられたスタッフは勿論ですが、それを支えてこられた小樽という地域の人々に、心からの敬意と拍手を送りたい気持ちになりました。
そして通巻500号となる次号を読んで見たいと思っております。(06・1・29 佐藤 勝)
最近の啄木文献のおすすめ!
「新しい啄木」三枝昂之氏の連載を読む!
三枝昂之氏が「歌壇」1月号から連載をはじめた「新しい啄木」を読んだら、嬉しくなって、その気持ちを年末年始に、さらには昨日今日も啄木友人に話つづけている私ですが、今日は下記のようなハガキを「歌壇」の編集部宛に書いてしまいました。
今、もっとも誠実な歌人の一人であると私が信じる、三枝昂之氏によって、啄木の評価がまったく新しくなされようとしております。
啄木ファンのみならず、短歌や文学に興味ある多くの方々に、一読をおすすめしたいと思います。(2006年1月28日 佐藤 勝)
短歌雑誌「歌壇」編集部御中
拝啓 昨年の12月末に黒田英雄という、ちょっと変わってますが、実直な感じのする(実際の人は知りません)歌人のホームページをみておりましたら、「歌壇」1月号から三枝昂之氏が、「新しい啄木」という連載をはじめた、とありましたので、早速、購入して読みました。
第一回目の文章を読んで、啄木大好き人間の私には、近年になかった啄木の捉え方に感動致しまして、ほうぼうの知友に知らせて、一読をすすめております。(遅れて2月号からの人もおりますが)
歌は人なり、という事ですが、人間啄木とその周辺の人々の捉え方にも、三枝昂之氏の温かな人間性が感じられまして嬉しい連載です。
私の住んでいる秦野の書店には「歌壇」が1冊しか店頭になかったので、増やしてくれるように頼みましたら、2月号は3部置いてありました。
雑誌の発行もご苦労の多い事と思いますが、編集者と書き手の内容によっては、それなりの良いこともあると思いますので、どうぞ頑張って下さい。
「新しい啄木」については私の個人的ホームページでも紹介させて頂きますが、嬉しい連載をはじめて頂きました、編集者と書き手の三枝昂之氏に、先ずは一言お礼を申し上げたく思った次第であります。 拝具
2006年1月28日 佐藤 勝
主宰の「啄木評論2005年」が、 しんぶん赤旗に掲載されました。未読の方のために転載致します。
*この文の一部分は、渓水社のHPにもUPされております。
医師の目で語る啄木ー今年刊行された評論からー 佐藤 勝
今年の啄木に関する評論、論評の刊行は、私が掌握した限りでは三点だった。四十年以上も啄木文献を収集してきた筆者にとっては少しさびしい年であったが、少数の中にも「啄木」への熱い思いの伝わる書もあった。
井上信興著『薄命の歌人・石川啄木小論集』(渓水社・二月)は、勤務医の著者が長年続けてきた啄木研究の五冊目の論集である。本書は前著の補論的な側面もあるが、一冊の啄木論集として充分に堪能できた。本書によって気になっていた小さな疑問の解消できたこともうれしい。
啄木短歌論の中でも「東海の小島の・・・」の歌に関する論は多い。それはこの歌の魅力が如何に大きいかということでもあるが、著者はこの歌の詠まれた場所にこだわって幾度も論じてきた。ほかに、妻節子の不貞問題を論じた「不愉快な事件」や北海道の「釧路から脱出」する主因となった事件など十六篇の小論が収められている。
西脇巽著『啄木と郁雨 友情は不滅』(青森文学会・三月)。著者は、近年つづけて啄木研究書を刊行しており五冊目の書。昨年ある雑誌の座談会で作家・井上ひさし氏や国際啄木学会会長の近藤典彦氏などが語った「啄木の妻節子の不貞」を示唆する内容に対して、意義を唱えたのが本書である。
啄木と宮崎郁雨は無二の親友であったが、晩年の啄木は一方的にその関係を絶った。その理由は妻と郁雨の間に不貞があったから、と伝えられてきた。しかし著者は啄木の真情は違っていた、と一首の啄木短歌の解釈をもって真相に迫り、温厚の人と言われた宮崎郁雨の名誉快復を念じている。現役の精神科医でもある著者の眼を通して語られる独自の啄木論には、深くうなずかされるものがあった。
永田龍太郎著『われ泣きぬれて−石川啄木の生涯』(永田書房・十一月)は、参考文献の掲示はないが、心理学的云々の箇所以外はかなり以前の資料を参考にした論考ではないか、と思いながら読んだ。啄木の名声が今日に残ったのは「貧乏と肺病」のせいだという乱暴な見方をする人は著者以前にもあった。が、詩集『呼び子と口笛』などを評価できない、とする著者の考えについて行ける読者はいるであろうか。伝記の記述も含めて誤りは気になったが、著者の啄木短歌の解釈は親切で丁寧である。
ほかに冊子であるが倉田稔著『石川啄木と小樽』(成文社・三月)は、小樽と啄木などの関係を紹介した案内書だが、貴重な一書である。 (湘南啄木文庫主宰)
*(上記の文章は2005年12月28日の「しんぶん赤旗」文化面に「医師の目で語る啄木ー今年刊行された啄木評論ー」と題して掲載されました。 2005年12月31日・佐藤勝)
湘南啄木文庫HPの訪問者が2000人を突破しました。
下記のように、2000人目の訪問者には「湘南啄木文庫収集目録」第18号を進呈させて頂きます。(2005年12月25日)
湘南啄木文庫のホームページの訪問者記録カウントを始めてから、半年近いのですが、本日2000人を突破しました。
2000人目の訪問者となったO.Sさんからメールを頂いて気がつきました。有り難うございました。
O.Sさんには只今、作成中の「湘南啄木文庫収集目録」第18号が刷り上がりましたなら、その1冊目を進呈させて頂きます。なお、発行日は2006年1月15日です。18号目録には437項目,616点の文献を紹介してあります。(2005年12月25日・佐藤勝)
*(以下は「湘南啄木文庫収集目録」第18号(2006年の1月発行)のあとがきです。)
<訂正>
下記の「編集者のつぶやき」の中で、後半部分に記した「岩手日報社が毎年一回発行している」は、「岩手芸術祭実行委員会」が毎年公募しているもので、熊谷印刷出版部から発行されたものです。 小生の誤記を、ホームページを訪ねて下さった盛岡の森さんからメールで教えて頂きまして、下記のように訂正致しました。森さん有り難うございました。(2005年12月27日・佐藤)
「湘南啄木文庫収集目録」第18号(2006年の1月発行)
編集者のつぶやき・・・・・あとがきにかえて
本号での「啄木図書」紹介は5冊であるが、この数が多いか少ないかは個々によって分かれるところと思う。が、私には少し淋しい数である。
読まれないから刊行されない、ということか。何故読まれないのか。このような中にあって、西脇氏のような話題提供者の居たことは、啄木ファンにとっては嬉しいことだった。
が、井上ひさし氏や近藤典彦氏は西脇氏の、たびたびの誌上(「青森文学」71、72号2004年)での質問に対して、何も応えておられない。無視も応えのうち、というならさびしい限りである。
小説家も研究者も、そしてファンにも、それぞれの啄木への思い入れがあってこそ、面白いのではないだろうか。自分の好きな啄木を、好きな立場で語ることが、一番良いことなのでは、と思うのだが・・・・・。
編集の途中で岩手芸術祭実行委員会が毎年一回発行している公募作品集「県民文芸作品集 No.36」(熊谷印刷出版部)の情報が、盛岡の森義真氏の好意で届いた。この誌にはこれまでにも何度か優れた啄木研究論が掲載されたが、今回は2篇の啄木研究論が載っていた。詳しくは次号の紹介になるが、芸術祭賞の赤崎学「石川啄木・ローマ字日記考」と奨励賞の宮まゆみ「啄木日記〜への遙かなる探求の旅〜」である。
特に「奨励賞」の宮氏は二十歳の若人である。岩手大学の「地域の文学誌」の講義で学んだのが啄木との出会いだったというところに、素晴らしい教育機関と感性の豊かな若人の結びつきを知って感動した。宮氏は研究対象の啄木を知るために、啄木の書いた手紙を模写したというが、その真摯な姿にも敬服する。
2005年の最後にこのような良いものを読ませて頂いて嬉しい限りである。
(後略)
2005年12月16日 佐藤 勝
<新刊歌集>
三枝昂之歌集『天目』を読む(05・11 青磁社 3000円)
例のごとく歌集を手にした時の癖で、好きな歌に○印を付けながら読んでいて、中程まできた時に、ふと○印を数えてみたら66個になっていた。全編ではその倍数を遙かに超えてしまった。
著者は昭和19年の生まれ。私は17年であるから、時代への思いは重なることが多い。先の著書『昭和短歌の精神史』から受けた感銘が、本集の歌によって再び蘇ってきた。特に「まれびと」の章に収められた歌々には、胸に込み上げるものを禁じ得なかった。
又、ひとり、ふたりと減ってゆく身辺の友への「いかんともしがたき」哀悼の詞が、静かで胸に沁みいるのも、切ないけれど癒されるような思いにもなった。
一昨年に故人となった春日井建氏を追悼する10首の挽歌「すずかけ」は、今あらためて読んでみても、管見だが、ほかの誰が詠んだ挽歌よりも佳くて、故人との間に多少の縁をもっていた私には殊に嬉しかった。ほかにも幾つかの挽歌が収めてあるが、いづれの歌にも涙が込み上げてきたのは、あながち年齢のせいばかりではない。歌に作者の持つ天性の優しさが滲み出ているせいなのであると思う。(2005年12月18日)
IBCニュースエコー
啄木賢治にみる酒展[12:50] 2005年12月14日
石川啄木と宮沢賢治がどんな人たちとどんな酒を飲んだのかをテーマにした企画展がきょうから盛岡で始まりました。
企画展では、日記や作品に記された酒に関する出来事などをパネルで紹介すると共に、酒に関する品々を展示して当時の雰囲気を再現しています。石川啄木は未成年の禁酒が法律で規制されていない旧制中学の時代にはじめてビールを飲み、その後、金田一京助などとよく酒を飲んでいます。会場にはカレーライスを食べながらビールを飲むなどハイカラな流行を楽しんだ東京のレストランの様子も再現されています。また、宮沢賢治は、酒は弱い方ではなかったようですが、羅須地人協会での活動が始まった頃から、密造酒問題や禁酒運動に関心を深め、作品に影響が現れる様子も紹介されています。この企画展は来年2月26日までもりおか啄木・賢治青春館で開かれています。(以上は、IBCテレビのニュースエコーからの情報です。
啄木ゆかりの釧路と函館、互いに訪問 来月、JTBなど企画
以下は「北海道新聞」(05・12・9)の記事です。
【釧路、函館】歌人石川啄木生誕百二十年の来年、啄木が青春を過ごした釧路と函館のゆかりの地を互いの市民が訪ねる旅を、釧路と函館の北海道新聞支社とJTB支店が企画している。数多くの歌や新聞記事を残した啄木の足跡を探るユニークな旅となりそうだ。
函館発着の釧路行きツアーは、啄木が一九○八年(明治四十一年)に来釧した一月二十一日をはさむ二十−二十二日の二泊三日。記者として働いた旧釧路新聞社(北海道新聞の前身)の復元社屋や下宿先跡に立つ歌碑など釧路市南大通周辺を、北畠立朴・国際啄木学会評議員の案内で散策。北畠氏の講演「啄木が心引かれた女性たち」を聞く。
釧路発着の函館ツアーは同月二十七−二十九日。函館市内で啄木一族の墓や青柳町の下宿跡、代用教員を務めた旧弥生尋常小(現弥生小)、函館市文学館を歩くほか、日本近代文学会会員で啄木研究家の桜井健治さんによる講演「啄木の墓」を受講する。
費用は一人五万千−六万五百円。問い合わせはJTB釧路支店(電)0154・22・9181か同函館支店(電)0138・56・1711へ。
啄木特集号雑誌「青森文学」73号(600円+送料)入荷しました。
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啄木が贈った洋書
啄木が友人の金矢朱弦(七郎)に贈った洋書『SARF AND WAVE』が、盛岡市 先人記念館に収蔵されていることを 先日、友人のM氏から送って頂いた「先人記念館だより No.35」に、館長の吉丸氏が書いておられる文を読んで知った。
私はこの本が後の啄木が「東海」という言葉にこだわって行く発端になった、と思うが、この書には「波じめ、節子」という署名と献辞もあるという。
この本は最初、後に啄木の妻となる堀合節子が啄木に贈った本である。
啄木の名を不朽のものにしたのは、妻の節子が啄木の遺言を守らずに「啄木日記」を焼却しなかったことに拠るところも大きいが、二人がまだ、少年少女期であった頃に、節子が恋人である石川一(啄木)に贈った一冊の洋書詩集から、すでに節子の啄木への献身ははじまっていたのでしょう。
胸のうちの痛むような思いのする話です。(05・11・7)
黒田英雄さんの「安輝素日記」ホームページhttp://hideo.269g.net/
今、一番楽しくなれるホームページは「黒田英雄の安輝素日記」である。もちろん他にも、楽しくさせてくれるHPは沢山ある。が、現代歌人の旗手?が、ここまで啄木讃歌を宣言してくれると、まことに「無条件幸福?」である。
黒田英雄さんの歌は以前から好きであったが、名前の字面が何となくオジサンくさい感じで、年齢不詳の歌人って印象だったが、このたび迷い込んだ「黒田英雄の安輝素日記」なるページで、黒田さんの啄木讃、讃の日記を読んで一目惚れしてしまった、という事です。
啄木ファンにはもちろん、研究者の方々にもおすすめです。また、教職の方々(特に国文系の)にはぜひ、黒田さんの日記を参考にして、啄木とは何かも知らないような今日の学生さんたちを、啄木のみならず、短歌の、否、和歌の道へと誘って頂きたいと思います。
なお、ホームページに入ったら右の検索コーナーで、「啄木」を打ち込むと啄木に関するページがズラリと表示されるのも、たまらなく嬉しいです。さあ!みんなで押しかけて見ましょう。啄木と短歌の勉強?のために!(05・10・18)
石川啄木『一握の砂』(和綴本)A5判 154頁 4800円 文章工房すばる(奈良県上牧町)04・11
上記の本は、先日ネットで見つけて購入した和綴本で、清楚な装丁も良く、また、二段組の割り付けながら、初版本にしたがった歌の配置も良い。
しかし、残念なのは藪野椋十の序文を割愛してしまったことである。序文付きであったなら、おすすめできる一冊であったのに。まことに残念。制作者は序文の持つ意味の重要さを、理解しておられなかったようである。(05・10・15)
啄木の歌(8首)に、素敵な曲が付きました! 試聴できます!
(発行所 スタジオ・ビエイ)
村中良治 作曲 「歌曲集「一握の砂」より&カラオケ」 (楽譜A2判 31頁 CD12曲入り) ネット販売・連絡先→http://ramueermusic.sakura.ne.jp/ 送料共 1080円 発行所 スタジオ・ビエイ 05・10・5(湘南啄木文庫の受け入れ日)
小樽に163番目の啄木碑、「歌碑」が建立されます!。
啄木に関係するホームページでも情報の幅と質の高さで群を抜いているのが、yuさんのHP「啄木の息」である、と思うのですが、その頁に、このたび建立される「小樽の啄木歌碑」の案内が載っております。
今月20日までに協賛金を送られた方は、その氏名が碑陰に刻まれます、とありますが、「小樽啄木会」の代表者である水口忠氏は今、その対応に追われて嬉しい悲鳴をあげているようです。 「啄木の息」を見た人も何人かが送金された、と聞きました。
先日、水口氏から「現在、啄木碑は全国で何基くらいあるのですか」と、メールで問い合わせを頂きまして、すぐに「湘南啄木文庫で把握しているのが160基」と返信したのですが、正確な事を知るには、2冊の「啄木碑」についての著書を出されている、岩手県滝沢村在住の浅沼秀政氏が一番、と思って浅沼氏を紹介しました。
その結果について本日(9月11日)、水口氏からメールで「岩手、滝沢の浅沼さんから詳細な資料とともにお手紙をいただきました。163番目になるだろうとの事です。」との、これもまた、大変丁寧な返信を頂きました。
全国にある「啄木碑」は今、浅沼氏(啄木碑の研究における第一人者)が把握しているもので、162基あるという事に、私は何故か嬉しくて幸福な気分になりました。
浅沼氏の2冊目の著書『啄木 文学碑紀行』は1996年2月の刊行で、124基が紹介されています。しかし、この中には我が町である、神奈川県秦野市の歌碑(建立1964年)は漏れておりました。
浅沼氏は今、碑の情報遺漏にも最大の気配りをされています。この方には「啄木碑」に対する一途なものがあって、頭が下がります。私も協力したいと思っております。そして私は、浅沼氏の3冊目の「啄木 文学碑」の出るのを楽しみとしている昨今です。
(2005年9月11日)
お知らせ・主宰が「啄木学級東京講座」で講演します!
*(下の告示は主催の盛岡観光コンベンション協会、玉山村観光協会発行のチラシ内容です)
平成17年度 啄木学級東京講座
と き
平成17年10月10日(月曜 祭日)
午後1時から(受付:12時15分から)
ところ
有楽町朝日スクエア
東京都千代田区有楽町2−5−1
有楽町マリオン 11F
講座内容
1.入学式
2.授業
1時間目
講演「啄木愛好者の道」 講師 佐藤 勝氏
2時間目
対談「啄木直筆資料の魅力」 佐藤 勝氏と山本玲子氏
3.卒業式
卒業生代表に卒業証書を授与
4.アトラクション
抽選で参加者40名の方に記念品プレゼント
*.課外授業
啄木や盛岡市、玉山村のパネル展示
啄木関連の書籍やグッズ及び盛岡市、玉山村の物産紹介
*注・この講座は申し込み制です。(授業料 1000円)受講希望者は下記の方法で、玉山村観光協会へお申し込み下さい。
募集人員200名
授業料 1000円
入学方法
往復ハガキに郵便番号、住所、氏名、電話番号をご記入のうえ、玉山村観光協会へお申し込みください。受け付け後、返信用ハガキにて入学許可証を送付いたします。
*定員になり次第締め切りとさせて頂きます。
締切日 / 9月26日(月)
申込先
玉山村観光協会
〒028-4195
岩手県岩手郡玉山村渋民字泉田77−1
電話 019−683−2111
FAX 019−683−1130
*第20回 岩手日報文学賞「啄木賞」は、木股知史氏に決まりました!
<和歌文学大系>『一握の砂ほか』(共著)(明治書院・04・4)
詳しい事は上、又は右の「啄木賞」をクリックしてください。
なお、第15回「啄木賞」の受賞は拙著『石川啄木文献書誌集大成』(武蔵野書房 99・11)で、岩手日報文学賞第15回「啄木賞」のHPで、私(佐藤 勝)のコメントもご覧になれます。
(その7)
三枝昂之著『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店)を読んで!
(以下は「りとむ」短歌会の掲示板に投稿した主宰の文章です。2005年8月21日)
私はこのたび三枝昂之著『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店)を読み終えました。そして、これは歴史的な大著というべき書だと思いました。
このような事をこの掲示板に書き込むのは、何方から見ても目的外になってしまいそうですが、やはり一言、書かせて下さい。すでに寺尾登志子氏(7月29日)の投稿や藤原龍一郎氏の日記には、紹介されておりますが、お二人にはご寛恕頂きまして、これでは今の私の読後感は満足しないのです。
「りとむ」7月号の誌上「百舌と文鎮」で三枝先生は自著『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店)について、この書を「<昭和短歌史>としないで<昭和短歌の精神史>としたのは、それが短歌史的なできごとの網羅的な作業を意図していないからである」と書いておられましたが、私はこれまでの短歌史には、ある一面のみが意図的に強調され過ぎたきらいがある、と思っておりましたが、本書については、とにかく、ここまで親切で公平に「戦中戦後」を記された短歌史(敢えて短歌史)を、私は知りません。このような読者の私を浅学ゆえ、と言われる方には、その例をあげて欲しい、と反論したくなるほど、三枝氏の言葉は冷静であるが熱く、しかも公平に、当時を生きて詠み続けた、あるいは、詠む事も出来なかった人たちの無念も含めて語られています。未読の方は是非ご覧になって見て下さい。そして、あなたの読後感をご披露下さい。
「りとむ」の会員でも無く、短歌の一読者にすぎない私なので、ちょっと場違いと思いましたが、大著を読み終えて昂ぶっている思いを、先ずは日頃から三枝先生の歌や文章などに接する機会の多い、掲示板読者の皆さんと一緒に、語り合ってみたかったのです。そして、この感動を一人でも多くの短歌愛読者とともに分かち合いたいと思うのです。2005年8月21日
(その6)
春日井建の手紙ーひとり言のようにー
昨年の6月、このページ(随想・その2)に、故人となった歌人の春日井建氏から、筆者が頂いた40年前の書簡について少し記したが、その後、数人の方から「書簡を見せてほしい」あるいは「ネットで公開して」と言ったメールをを頂いた。
先ず、公開について、私にはその気は一切無く、コピーも差し上げられない、と返信した。
私は自分が書いた書簡でも、相手に迷惑になるかも知れない、と思った時には公開しないように注意して来た。が、このページには私の書いた何通かの手紙も公開されている。しかしそれらのほとんどは、公刊の雑誌や新聞などに私が書いた文章と同じ内容のものだからである。
ネットも公刊誌(紙)と同じだから、この気持ちはこれからも変わらないものである。
ましてや故人となった人の書簡を公開しては、手紙を頂いた時の信頼関係を、自らの行為で一方的に崩すことになる。そんな行為は、私には出来ない。
なら、何故、このネットで書簡のことなど書いたのだ、と言う人もあるかも知れないが、私の文章は今も削除してないから読み返して頂きたい。私は春日井建という歌人の生き方に感動して、あの文章を書いたのであって、私の頭には書簡の公開などはじめから無い。
私はひたすら、最後までガンと闘って生き抜いた歌人の姿に感動し、激励されたことを記したのであって、本意は、一人でも多くの人が、春日井建という人の歌を読む機会となり、その生き方、あるいは歌の魅力に触れて欲しい、と思ったのだが・・・・・・・・。(2005年6月10日 記)
(昨年は春日井建追悼の雑誌数冊が発行された)
(その5)
岩手日報のコラム「学芸余聞」を読んで
先日、岩手日報のコラム・学芸余聞を読む機会があった。啄木に関する記事なので知人が送ってくれたのもだが、嬉しいことが書いてある。
話題の内容はこの4月に国際啄木学会の副会長に就任した、明治大学教授の池田功氏が語った今後の抱負についてである。
「学会は創立16年目で、外国大会4回を含み、20回の大会とセミナーを行ってきた。その歴史を踏まえ、今後も国内、国外へと研究の輪を広げていきたい」と語る。
2年間の任期で、今回は事務局長も兼務する。「他の研究会との交流を図り、マンネリ化を打破したい」と目標を掲げる。(略)「強力なホームページの立ち上げとともに、若手研究者、愛好家を増やしていきたい」と意欲を見せている。」と紹介されている。
池田氏自身が若き研究者であるから、大いに期待できることと、何よりも嬉しいのは「若手研究者、愛好家を増やしていきたい」というくだんである。世の中には愛好者の少ない文学者を研究する学者も多い。それはそれなりに意義もあると思うけど、私の好きな啄木は多くの人に愛される啄木であり、多くの人を励ます啄木なのだから、研究者だけの啄木というのでは無い。
今回(平成17年5月23日夕刊)の岩手日報コラム・学芸余聞の執筆者も、このような私の気持ちと近いところに居る人のように感じられて嬉しかった。(05・6・4)
(その4)
湘南啄木文庫への寄贈図書に書いた主宰の礼状から
「国際啄木学会新潟支部報」 第8号
この度は「国際啄木学会新潟支部報」第8号をお送り頂きまして有難うございました。昨年は新潟の皆様にとって本当に大変な年であったにも拘らず、充実した支部報の内容には敬服するばかりです。
塩浦先生の「啄木の継承について」は、相沢源七氏の遺著『啄木以後の悲歌の系譜』のような貴重な先行論を、引き継ぐ分野の研究として、さらに発展されることが嘱望される貴重な論と思いました。
また、清田先生や金子先生の論稿が、この支部報に掲載されたことは、論稿の先の掲載誌が入手困難であったり、講演が聴講できなかった私たちにとっては、とても有り難く有意義なものであります。(中略)
最後に若林先生の「春のセミナー」のまとめの見事さには、若林先生の能力から言えば当然なのに、しかし、やはり驚いております。山下さんの発表についての報告も、このようにまとめて頂ければ、セミナーに参加出来なかった人も、国際啄木学会会報20号に掲載のレジメと併読することで、主意が良く伝わる事と思うと嬉しくなります。 これは田口さんの発表につても同じなのですが、特に最後の「少し裏話を」は良いです。この文章は報告文であって論文ではない、と言う意味かと思いますが、若林先生の人柄が読み取れる文章で感激しております。(後略)2005年5月2日.佐藤 勝
(その3)
今回は私が書いた最近の3通の手紙を公開します
<手紙の前に>
有名歌人の歌集は誰もが取り上げて紹介するが、それ程読んでも楽しく無い、というのが素人読者である私の正直な感想です。
しかし、ここに紹介する歌集は素人が読めば、楽しくなり、嬉しくなること間違い無し、の歌集ですから是非お読みになって見て下さい。貴方も感動しますよ。ただし、屁理屈を語らず、ただの読者の心を持って読まれる事をお勧めします。
(↑岡村彩子著歌集『グレゴリオ暦』)
<手紙1>
拝復
先日はご歌集『グレゴリオ暦』をご恵送頂きまして有難うございました。また、お礼状をかくも遅速したことを深くお詫び致します。
初対面からの言い訳になりますが、10月8日から12日にかけて、韓国ソウル市での国際啄木学会に参加させて頂きましたが、年甲斐も無く感激することが多くて疲れてしまったのでしょうか、帰国後は体調不良と雑用に追われる毎日でしたが、この一週間程前から、ようやく本来の自分のペースに戻ることが出来まして、ご歌集を拝読させて頂きました。
私は人さまの短歌を読むのが好きな人間です。しかし、読む歌には好みがあって、大変偏狭な読者ですが、岡村様のお手紙に今野寿美先生のおすすめで、お送りして頂いた事が記されておりましたので、心して拝読しなくては、と思いましたら、失礼な言い方になるかも知れませんが、なんと私の好みの歌風なので驚き、また今野先生に自分の心が見られているようで、嬉しいような、恥かしいような気持になりました。
「りとむ」の今野先生や三枝浩樹氏の歌集は、啄木学会で知る以前から、愛読しておりましたが、三枝ミ之氏の歌は雑誌で拝見する程度でした。ところが、啄木学会で知ったのがご縁で歌集を読むようになり、すっかりファンになってしまいました。特に歌集『農鳥』の歌を読んだ時などは、涙が出てしまいました。
さて、岡村様の例えば「掲示板」の章に掲げられたような歌は大好きです。いづれの歌からも感じられることではありますが、それぞれの一首の歌にドラマ性があって、時にはそのドラマが自分も演じた事のあるドラマであったりすると、胸の奥の方が切なくなって参ります。それと歌言葉の巧さにも、身震い致しました。その意味でも「掲示板」や「ほたる」の章の歌群は傑出してると思いました。
本当に佳い集をお送り頂きまして有難うございました。これを機会にこれからも宜しくお願い致します。「りとむ」誌上でもますますのご活躍をお祈り致しております。 拝具
2004年11月5日 佐藤 勝拝
岡村彩子様
*歌集『グレゴリオ暦』(本阿弥書店)2500円
*歌集『農鳥』三枝ミ之著(ながらみ書房)2800円
*短歌雑誌「りとむ」(短歌結社の機関誌)
私信その(2と3)
これは近年立て続けに啄木図書を刊行している。青森県在住の啄木研究者で、精神科の医師でもある、西脇 巽氏が「青森文学」71号に書かれた論文「石川啄木・宮崎郁雨 義絶の真相」の読後感を著者の西脇氏と、ドイツに滞在中の知人宛てに書いた手紙です。
(↑西脇巽氏の論考掲載誌)
<手紙2>
西脇 巽先生
拝復
この度は「青森文学」71号をご恵送頂きまして有難うございました。
先ず、先般、西脇先生より質問されました『石川啄木事典』の近藤典彦氏執筆の宮崎郁雨の項に「『一握の砂』を読む」を執筆したのは、郁雨の弟の文章で、近藤氏の誤記、と伝えましたが、この度の先生の論稿を拝読して、その箇所が引用されているので、もしや、と思いまして調べて、深く反省致しました、とともに、さすがに、と先生の徹底した調査に心服致しております。
郁雨も弟の省三と同時期に、「函館日日新聞」の方に書いていたのですね。しかも同じ「一握の砂を読む」という題名ですね。小生は自分の思い込みに今更恥入るばかりです。
また、この度の先生の論考には感服致しました。雑誌「国文学」(H16・2/至文堂)誌上の座談会発言者に対する、言葉は多少直情的ではないだろうか、と感じましたが、石井勉次郎の著書(論文も)から見ればまだ、穏かな方かと、自分に言い聞かせながら拝読した次第です。(先生ご自身も石井の調子を真似た、というようなことを記されてますが)
とにかく近年にない挑発的で興奮させるに充分な、しかも筋の通った論考を読ませて頂き、小生は興奮しております。
節子や郁雨の名誉もさることながら、啄木本人にとっても名誉回復の論考なので、啄木ファンの小生には嬉しい限りです。
このような西脇先生の、率直で貴重な啄木論争の兆発(呼びかけ)?は、特に研究集団のリーダー的存在にある国際啄木学会の先生方も、無視するような事は無いと思いますが、これを機会に、啄木論争の盛り上がりと、更なる流れの勢いを、と願っております。
今回の論考の中で先生は「友の為替の……かなし」の歌の解釈を、論考の主軸としておられますが、これは西脇先生の独自の解釈であり、読者である小生は充分に納得させられましたが、三浦光子の発言を一方的に否定するような、論の進め方には多少の危惧も感じます。金田一京助や丸谷喜市の証言(発言)を更に検討され、また、函館関係者の中にも補強するような文言がないものか、と思っております。
ますますのご活躍と、今回の論考が一本になる日の早いことを願っております。
拝具
2004年9月30日 佐藤 勝
<手紙3>
I・I先生
ご無沙汰しました。ソウル大会もあと少しですが、体調は如何ですか。前回の時には旅行の疲れなどもあったのでしょうか。ロンドンに行ってきた後だったかと思いますが。私の方からは何を何時報告したのか忘れましたが、東京支部会の事は何方かの便りもあったと思いますので省略致します。
先日、青森の西脇巽氏から「青森文学」71号が送られてきました。これには「石川啄木・宮崎郁雨 義絶の真相」という180枚の論文が載っております。今年の国文学雑誌で、井上、近藤、平岡の3氏の座談会がありましたが、この中の「郁雨、節子の不倫」に関する発言への反論なのです。
沢山の既発表の論を読み込んで、なお、自分は「不倫はプラトニック」であった、というのが主論ですが、気になるのは3人の発言者に対する批判です。
先生もご存じの石井勉次郎という関西の研究者がおりましたが、あの方に似た語調で書いたりしてるのです。(想像がつきますか?)論考の中で新しく感じたのは『悲しき玩具』の中の「買ひおきし/薬つきたる朝に来し/ 友のなさけの為替のかなしさ」という歌についての解釈で、この「かなし」は郁雨に対する、啄木からの和睦を意味するものを持っている歌である、と論じているのです。
つまりこの歌をノートに入れていた、という事は郁雨との義絶は、事の成り行きの結果だったから、啄木の本心ではなかった、後年になって騒ぎ立てた光子が悪い、それを学者ともあろう人が、わざとスキャンダラスな物言いをしている、あの座談会の内容は黙認できない。というものです。
私は西脇氏の論も筋は通ってると思いましたが、「不倫は無かった」と決める証拠に歌の解釈だけでは弱い気がしました。ただ、せっかく論争を、と書かれたものなので「田舎の素人研究者の論文」とせずに、国際啄木学会でも、きちんと反論して頂きたい、と思いました。
西脇氏は近藤先生に対して個人的に、言いたいところがあり、これが論考全体の品を落してる気もしますが、さて、近藤先生は「素人の論」として無視するのでしょうか。今日はちょっと、下らぬ事を長く書きすぎました。ゴメンナサイ。では再会の日まで。
2004/10/1 佐藤 勝
*西脇巽氏の著書や論文については、★単 行 本/★新聞・雑誌の論文/★推薦図書のページをご覧下さい。
(その2)
私の短歌講座メモ (2004年6月22日・佐藤 勝)
(↑山田吉郎氏の歌集3冊)
* 亡き人が姿を変えて帰りくる猫坂権現魂(たま)くぐりの木
(山田吉郎歌集『猫坂物語』より)
岩波書店や角川書店の「短歌辞典」に、その名前は載って無くとも、心を打つ多くの歌を残した歌人、あるいは今も、佳い歌を作りつづけている歌人はたくさんおります。
山田吉郎氏もその中の一人ではないでしょうか。氏のことは『蝶の記憶』や『実朝塚の秋』などの好歌集で知る人も多いと思いますが、上記の歌を収めた歌集は、集名が示すように、ある種の遊び心を持った歌集です。
私などは、作者と歌と読者の間に、心の交流を求める人間なので、その歌(人)に共感できなければ、それは意味のない言葉の羅列に過ぎない、と感じてしまうのです。
映画や小説でもそうですが、真面目さの中にあって、茶目っ気のところを見聞すると、何故かほっとするのです。
『猫坂物語』はそんな歌集の一冊なので、歌を読むことの好きな人には、まず一読をおすすめします。
(春日井建氏からの書簡)
(↑春日井建氏の歌集『行け帰ることなく』と氏からの筆者宛て書簡)
* 学友の語れる恋はみな淡し遠く春雷の鳴る空の下
(春日井建歌集『未成年』より)
永遠の青年歌人、というイメージを抱いていた春日井建氏が最近、闘病の甲斐もなく急逝されました。
私はこの清冽な歌人に、ついに会う機会の無かったことをさびしく思う。
そして、40年前に氏の歌に惹かれてファンレターのような手紙を書き、丁寧な返信を頂いたことなどを思いだしている。
その頃の氏は作歌から離れていた時期であったが、誠実な人柄のにじむような手紙であったから、今もその記憶は鮮やかに思い出されます。
氏の歌のどこに惹かれたかなどは、一言では語れませんが、氏の歌集には二十歳の青年だった私の心の一面を表現するような歌がたくさんありました。
当時、孤独だった私の心は、氏の歌によってどれほど多く、慰められたことか知れません。
同世代の歌人で私の好きな歌人がもう一人おります。岸上大作です。
しかし彼は理由を残さずに自殺しました。「春日井建歌集」にも、自殺を想像させる歌は何首も入っております。
私は今も、人の生死を簡単に語れるとは思いませんが、最後まで生き抜く人の強さは讃えたいのです。
だから、その生を精いっぱいに生きぬいた春日井建氏の姿に感動しているのです。
* 新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど−−
(石川啄木歌集『悲しき玩具』より)
日本近代文学館所蔵の「悲しき玩具」
冒頭歌二首の歌稿と初版本
(同館発行の絵葉書より)
啄木もまた、自分たちの明日はどのように生きられるのか、という不安を抱きながら、「新しき明日の来るを信」じて、時代の権力に対して果敢に立ち向かった青年でした。
私は今、明治というあの時代の中で、何がウソで何が真実であるかを真っ直ぐに見つめた、啄木という詩人の眼差しを感じて、身の震いる思いがします。
いつの時代の権力者も、自分に都合の悪い人間を抹殺し、正義の言葉を掲げて見せるようです。今、イラクという国で起きていることにも、ウソと真実があるかも知れません。
私たちも自衛隊の派遣を含めて、本当にあれで良いのか、ともう一度考えて見たいのです。日本という国に生きる私たちにとって、これは命にかかる問題なのですから。
私は自分で歌を作るよりも、歌を読んで楽しむことの方が、性分合っているのかも知れません。
だから、好きな歌人もたくさんいて、万葉集に登場する人から、現代のトップスター?的な歌人まで、さまざまです。 そして、好きな歌もたくさんあります。
啄木17歳の肖像と小説「雲は天才である」の直筆原稿
(日本近代文学館所蔵)同館発行の絵葉書より
* 磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへりみむ
(いわしろの はままつがえを ひきむすび まさきくあらば またかえりみん)
(万葉集・有馬皇子)
現代の若者たちの中にも、占いを信じる?人たちが多いと聞きますが、それは、明日の暮らしが見えにくい、という不安から起る現象なのでしょうか。
私なども時々、占いのようなものにすがりたくなるような時もあります。上記の歌は占いの歌ではありません。作者である有馬皇子は路傍の松の枝を結んで、時の権力者から狙われた自分の命を、どうか救ってほしいと祈った歌なのです。
皇子の生きた古代の世では、権力者に背いて生きる事など不可能に近いものであったことでしょう。
有馬皇子はその時代の権力者であった皇太子(中大兄皇子、後の天智天皇)から謀反の嫌疑をかけられ、訊問を受けるために呼び出されました。
この歌はその護送の途路で詠んだというものです。この一首の歌に込められた皇子の願いは、今なお、有馬皇子の墓と伝えられながらも路傍の草むらに埋もれたままの墓石が、哀しい結末を語りかけます。
(2004年6月22日 記)
主宰随想・・・・・・・(その1)
佐藤 勝著『啄木の肖像』から
*歌に見る子を失った親の嘆きは
* 病名を聞かされかえる道すがら見えしものみな異国の如し
* 臨終の間近き折に尋ねたる「し・ぬ・の」の言葉脳裏離れず
* 子に訣れしこの悲しみや幾星霜巡り来れば消える日の来る
(小木田久富著『流星』(私家版)平成三年刊)
上記の歌の作者小木田久富氏は、その著のはじめに「とても短歌などと呼べる代物ではありません」が、「僅か十五年ではありますが息子が生きた確かな証としてこの本を作り」ました。と記している。
私がこの歌文集を手にしたのは、今年の六月であった。それはこの三月に上梓した『資料 石川啄木〜啄木の歌と我が歌と〜』を読んで大変共感した、との便りを頂き、その便りに、一昨年十五歳になる息子さんを、白血病で亡くされた事などが記されてあったので、私の妻が小木田さん夫妻の少しでも慰めになれば、と言って押し花の栞を送ったところ、そのお礼として送られてきたのがこの美しい歌文集であった。二百余首を収めた手書きの歌集の、一首ごとに息子さんの発病から闘病、そして死別とその後について、ワープロで起こしたという短い文章が付いている。
作者はこれを「拙いもの」と記しているが、この集のどの歌からも、血肉を分けた親の嘆きと、悲しみが伝わってきて、読み継ぐのも辛いほどで、深く感動した。
健康であった我が子が、ある日突然に死に至る病である、と告げられたときの親の胸中は、察するに思い余るものがある。縋るものもなく、ただオロオロとする哀れな親の姿と、子供の死と、その前後の嘆きの歌は、技巧を超えて読む人の胸を打つもので〃鬼神をも泣かしむ〃ような歌である。
小木田氏はまた、この書の中で、抑えながらも、医療に携わる者への不信感も綴っておられる。
小木田氏の書かれた意味とは少し異なるが、私にも医者に対して大きな不信感を抱いた事が何度かあった。
一度目は妻が次男を出産するときに盲腸炎に罹ったが、それを陣痛と間違えられて、危うく命を落とすところであった。
二度目は長男が三歳のとき、三種混合ワクチンの予防接種を受けた直後に、耳の下側が腫れて、高熱が三日三晩続いたのであるが、これはたんなる〃おたふく風邪〃と診断された。が、私はその三日目の夜、長男が鬼にさらわれて天に昇って行く夢を見た、私は大声で叫びながら、鬼の手から長男を取り返したのであるが、私が夢の中で発した声はそばに寝ていた妻を驚かせるほどに大きな声であった、と妻は言った。私は翌朝、子供を他の病院に連れていったが、その時も手遅れ寸前であった、と聞かされて身体が震えた。
三度目は次男が中学三年のとき、突然下腹部の激痛を訴えて苦しみ出したので救急車を呼び、運ばれた秦野市のY病院でのことだが、この病院長が診察をしたのだが三日経っても病状が変わらず、三日目に秦野日赤病院に移したところ、全くの誤診であと一日遅れていたら命が危なかった、と言われて驚愕した。
前述の妻と長男が誤診されたのは横浜市内の開業医であったが、二つの医院ともその後廃業してしまった。が、秦野市のY病院は今も救急の指定病院として活動している事を思うと、複雑な思いになる。
〃親身になって〃という言葉があるが、親以上に子供の命を守れる医者など、居ないのかもしれない。
話は横道にそれたが、小木田氏の著『流星』は、鬼神から子供を守れなかった父親の、慟哭の書である。
野球少年であった息子、一郎君への鎮魂として綴られたものだが、私はその中に限りなく深い親の愛を見て、感動している。
昨年の秋、国立劇場で清元の「隅田川」が上演された。このとき中村歌右衛門の格調高い舞踊が評判となった。「隅田川」は能作者、観世元雅の原作で、浄瑠璃や歌舞伎の舞台でも有名で、昔から多くの人に感動を与えているのである。
この「隅田川」の人気は、その中に人間の持つ最大の愛と、悲しみが語られているからではないだろうか。
話の筋は、京の都の吉田少将の奥方である班女の前が、わが子梅若丸が人攫いに連れ去られ、その悲しみのあまりに狂女となり、子の行方をたずねて来た東の国の隅田川の渡し場で、去年この辺りで死んだ子があり、それが梅若丸であったことを船頭から聞かされ、その塚へ案内されるが、狂女となった母の嘆き悲しみの深さに、塚に眠る子がほんの一刻だが幻となって姿を現す、というものである。
この物語は子を失った母の悲しさを語りながら、人間の最大の愛は、親の無償の愛であり、その愛が〃人攫い〃という行為によって絶たれたことへの憤りを伝えるものなので、能や歌舞伎という古典芸能には縁のない私などにもそれが解り、感動が伝わってくるのは、そこに、本物の愛と悲しみがあるからなのである、と思う。
* 花に埋もるる子が死に顔の冷たさが一生たもちて生きなむ吾か
* 棺の釘打つ音いたきを人はいふ 泣きまどひゐて吾はきこえざりき
(五島美代子歌集『新輯 母の歌集』より)
上記の歌は昭和二十五年に、当時東大生であった長女を病死させた母、五島美代子の嘆きの歌である。
この大きな歌人の原点は、その娘を急逝させたところにある、と私は思う。『母の歌集』の第三章「子をうしなひて」は、読む人の心を抉るものであり、それゆえにこの歌集もまた、子を失った親の慟哭の書なのである。
* 埋めむとする子の骨もちて夫とひそかにひと巡りせし東大構内
(同上記歌集より)
五島美代子には次女が産んだ初孫と亡き娘を重ねて詠んだ歌などを収める歌集『時差』のような好歌集も多くある。
*本稿の初出は俳句誌「多羅葉」平成4年9月号/『啄木の肖像』(平成14年刊・武蔵野書房)所収
(小木田久富氏の著書)
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