私の大好きな「カラマーゾフの兄弟」の中に「大審問官」という一章があります。
キリストが、最後の審判の日以前に一度、再臨を渇望する人々の前に姿を現そうという気まぐれを起こし、地上に降り立って幾つか奇跡を起こします。時あたかも中世暗黒時代。異端審問官が変な奴をつかまえて火あぶりにしています。その大親分の大審問官が、奇跡を起こして人々に感謝されているキリストをひっとらえて牢屋にぶち込みます。
牢屋の中で、大審問官はキリストに言います。
「いったい今更なんのためにのこのこ出てきたのだ。地上のことはわれわれ教会が悪魔と手を組んできちんとやっている。
そもそも人間は自由など求める高尚な動物ではないのだ。だから教会が彼らを支配してやっているのだ。それが証拠に、もし明日の朝私が"キリストを火あぶりにせよ"と命ずれば、今日お前が起こした奇跡を喜んでいた彼らが、嬉々として薪に火をつけるだろう。人間とはそういうものであり、常に支配者を求めているのだ。
教会は神の代理人を演じて彼らを支配しているが、われわれは"本当は神などいない"、あるいは"人間には神など要らない"ことを知っているのだ。その真実を知りつつ、神を演じる苦痛を教会は負っているのだ。教会はまったくたいへんな苦痛に耐えているのだ。そこにお前が今更やってきて人間に愛や自由を教えるとは、まったくけしからんことだ。そんなことをしてお前は正しいことをしていると言い切ることができるのか? 黙ってここを立ち去れい」
ま、梗概こういう話です。実に良くできた話です。信仰の本質についての考察からでてきた話なのでしょうが、人間の社会の根幹に触れています。「教会」のような次元の違う世界を繋ぐ媒介的な存在のもつ機能を見事に説明しています。おのおのの次元は「隠されて」おり、それを仲介するのが媒介者なのですが、媒介的存在は多かれ少なかれ両方の次元を騙すことで、価値を生み出すという機能を持っているものです。
しかし現代では、神を演じることは不可能でしょう。「絶対的な媒介」は存在を許されなくなります(たとえば、「金融秩序維持のために公的資金を投入する」など、「神の怒りを恐れよ」と言っているのとほとんど同じ主張に聞こえます)。ましてや、大審問官とか、部長とかとかいった「地位」が媒介的存在である彼らの発言の正統性を担保しているなど、まったくのナンセンスでしかありません。
しかし、そのナンセンスに人間は縛られたがるものなのです。また媒介的存在自身も「地位」の持つ理不尽な力を信じたがるものです。
私は、支配の形態は必然的に変わると思いますし、変わらなければ日本は未開社会のままだと思います。