また、集団主義体制下ではマネジメントの必要性もありません。集団無責任体制をどこまでも延長するのみです。ポートフォリオを組んで「責任」をヘッジすることには、日本人は非常に長けています。組織の責任者は、自分が判断できない問題に対処できない事態に備えるために、お上などの責任転嫁手段を常に準備し、そこにかけるコストは惜しみません。たとえ自分たちが責任転嫁手段に収奪されることになったとしても、責任のある判断を迫られるよりはずいぶんましだからです。
どうして他人と大した処遇条件の差もないのに、年功で責任者という地位についただけで自分の生き方を変えて自分でものを考えるといううざったいことをしなければならないでしょうか。そんなことなら、うまい責任転嫁を考えたほうがましです。
お上はさらに「われわれは天皇の補弼の任にある」ということで、もう一段上の存在をつくってそこに責任転嫁してしまう。上下だけでなく横にも転嫁するために業界団体をつくる。
護送船団でやっていれば、能力や成果なんか気にしなくても食べていけますからね。さらに下請け孫受けと仕事の流れをつくってみんなトンネル会社に入ってぬくぬくと徒食している。建設業界はこれで700万人が食べている。また大企業の子会社群、省庁が認可する公益法人群も集団主義の中での責任転嫁システムの産物です。こんな所に能力主義が根付くはずもありません。
そもそも、日本企業のうちのどれほどが、自分たちの作り出したオリジナルの価値を堂々と売っているのか、何人がそうした仕事に従事しているのかと考えると、背筋が寒くなりますよ。
ですが、こうした集団主義の中で生きている人たちにとっては、自分たちにこそ正統性があるという確固たる確信があるのです。彼らの目的は、その日を暮らすことです。安定第一。新しい儲けの仕組みを考えたり、大きな商売をすることが、人事評価の対象になるかというと、そんなことはありえないのです。変にリスクを取って会社が傾いたら事ですからね。だから報酬は働きに関係なく平等でよいのです。
仕事なんか、できてもできなくても大して意味はない。それより、組織の中で長幼の序を乱さず、本来はばかげたことをやっている自分たちの仕事を、なんとなくそれなりに意味ありげに見せるテクニックを持っている人こそ、出世街道に乗ることができるわけです。自民党の総裁は、どんなバカでも凄いんです。みんながそう讃え合える組織、これぞ麗しき日本の美風、やまとごころというものです。
話を整理しますと、組織には目的がある。その目的がはっきりしていれば、達成するための戦略を立てて、それに沿って貢献した人間に報酬を払えばいいだけです。目標を追求するために組織が存在しているのですから、当然です。これが能力主義/成果主義。
で、目標が曖昧であり、かつ既に組織が存続する場合は、どんな組織にも組み込まれている組織保持の特性のほうが強く発揮されます。ほとんどの日本企業はこっち側です。そして、組織目標を再設定して報酬制度も変え、目的達成型組織に変身しようと努力しています。しかし、守旧派の壁はあまりに厚い。彼らの正統意識を切り崩すほどの理論武装ができている指導者は、そう多くは存在しません。
一方で、競争環境の変化により、こうした旧体質企業の競争力の低下は度を増している。時間との競争にもなっているわけです。タイムリミットが来ても、改革派が守旧派を押さえ込めなかった企業は、拓銀、山一、長銀と、次々と姿を消しているのです。