祭りで担ぐ神輿、これを日本企業だと考えてみると、大変に面白いと思います。
まず御輿というものは、方向をきちんと指示する指揮者がいないので、どちらの方向に向かうのかさっぱりわかりません。一応、棒の端を持つ役割の人がいるのですが、彼も統一された意思に基づいて方向を指示しているわけではないのです。あくまでも担ぎ手たちおのおのが、周囲の「空気」をつかむ中から、神輿の進む方向が何となく決められていくという特徴があります。したがって、自分たちが担いでいる神輿がどこに向かっているのかは、誰も知らないのです。
2番目に、神輿が沿道の家の軒先を壊したり、塀を壊したり、植木鉢を蹴散らしても、責任は一切問われません。なぜならば、それは神さまがしたことだからです。決して神輿の担ぎ手たちが故意にやったことではありません。担ぎ手の総意は、すなわち神さまの意思になるのです。神さまがした悪さであれば、誰に向かっても文句を言うことはできないのです。当然ですね。そしてやった本人たちもまったく責任を感じないのです。神さまがやったんですから。当然ですね。
3番目に、神輿というのは大勢で担いでいますが、担ぎ手の中には担いでいなくてぶら下がっているだけの人もいます。いったいだれが本当に担いでいて、だれがぶら下がっているだけなのかは、だれにもはっきりとはわかりません。また、だれが一番神輿の運行に貢献している、だれが全く役に立っていないという業績評価を明らかにしなければならないなどとは、誰も考えていません。目的も効率性も問題ではありませんから、個人の貢献度を問うことは全く意味がないことなのです。
4番目に、とにかく神輿は重いことに意味があるんです。重さがありがたいんです。誰も御神体を見たことはないのですが、いかにも非力そうな年寄りの神官が扱っていることからみても、100人で担ぎ上げなければならないほど重いものであるとは思えません。それをわざわざすき好んで重くしているわけです。そしてただひたすらありがたい神輿を、頑張って担ぎ上げること自体に、担ぎ手の生存の意味があるのです。神輿がどこに向かっていても、それは彼にとって大きな意味を持ちません。目的を達成することよりも、ひたすら頑張り続けること自体が重要であり、彼にとっての目的なのです。担ぎ手全員がそう思っているわけですから、それが組織目的となるわけです。
では、ここにおいて御神体とは一体何なのでしょうか。それはだれにもわかりません。担ぎ手にも、見物人にも隠されているのです。しかし隠されているということは便利なもので、それが何なのかがはっきりわからないからこそ、担ぎ手は運動体の中に自己を没入するという意識体験に陶酔できるのです。だから日本人は、神さまとの緩やかな関係が好きなんでしょうね。強力な契約関係を求めてくる神さまなど、不都合なんです。やばくなると、神さま自体を無力化してしまいます。江戸時代にあった「主君押し込め」というのがそれです。
アメリカ人の友人に聞いたのですが、アメリカにもヨーロッパにも、このような重いものを大勢で担ぎ上げる風習はないそうです。そもそもこれが宗教的行事であるということが、よく理解できないみたいですね。まあ実際、宗教性は限界的に薄いですよ。