ハンセン病訴訟についての熊本地裁判決と、それに対する政府の控訴断念は、2つの意味において画期的な意味を持つものであったと思います。
ひとつは、熊本地裁が、厚生省の責任は当然として、らい予防法の隔離規定を改めずに放置した国会(議員)の過失責任を認めたということです。これは、三権分立のチェック機能が発揮された「極めて異例のケース」であるということができるでしょう。
裁判所が、立法権に楯突くということはあまり聞かなかったことです。なかんずく国会に対する立法不作為の罪という概念は、国会議員に新たな責任を課すものとしてきわめて注目に値するでしょう。
本来であれば、国会議員の行動は選挙による審判を通して国民の厳しい監視下に置かれるべきものですが、国会議員は地元への利益誘導を通して本来の「全体利益の代表者」という役割を放棄し、選挙民へ利益を配分することで地位の保証を得るという利権屋になり下がっているため、選挙そのものに対する非常なバイアスがかかっていて、選挙を通して国会議員の行動を監視するのは事実上難しくなっています。また、選挙は、このような不作為という個別事例を争点化するにはそぐわない制度であるといえるでしょう。この点に関して、司法が注意を喚起するというのは、まったくもって頼もしいことであると思います。
しかし、地方裁判所での民主的な判決というのは、上級審に行くに従って必ずくつがえされ、行政府、立法府の不作為の罪は原則的にお目こぼしされる、もっと言うと、最高裁判所が国権の暴走に対してお墨付きを与えるということが続いてきたわけです。
つまり行政訴訟における下級審の存在は無に等しかったし、最高裁判所の判事は事実上法務省が選択するわけで、国民審査に付せられると言っても、落選の憂き目にあうなどということは考えられなかったというのが、「お上にたてついても全くの無駄である」という諦観が我々の思念の中に座を占めてきた主要な理由の一つであったわけです。日本は法治国家なので、裁判所が違法性を認めないならば、何を主張しても仕方ないからです。しかし本来は、裁判所は市民の味方であるべきだったのです。
このような仕組みだったからこそ、役所はどんなに勝ち目のない裁判でも、常に上級審議に控訴し、原告に要らざる負担を強いるばかりでなく、国民の税金と貴重な時間を無駄にしても全く平気だったわけです。