フィクションはタイトルで泣け 第10回
理想のタイトルを求めてその2 「普通の言葉を組み合わせて」
溜池通信編集長 かんべえ
http://tameike.net/
2000.5.13
とくに『坂の上の雲』は、物理的にはひとつの情景を描写しているに過ぎませんが、これに明治という時代を重ねあわせると一気に奥行きが深まります。もっといえば、時代の雰囲気を端的にひとことで言い表して余すところがありません。「あの頃のわが社は、坂の上の雲を仰ぎ見ていたねえ」などといった表現を、これまでに何度聞いたことでしょう。単に作品名が歴史に残るだけでなく、幅広い意味で使われる新しい言葉を生み出すというのは、作家冥利に尽きることでありましょう。
あるいはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』には、車輪というモノは一度も出てきません。しかし、「抑圧された青春」というテーマに思いを馳せれば、「大人たちの期待」という車輪の正体が見えてくる。そう思うと次からこの言葉を聞くたびに、無残な青春のイメージが浮かんでくるようになります。
このように、一見単純な言葉に深い暗喩(メタファー)が込められていると、単なる文学作品の範疇を越えて、普遍的な用語として使われるようになります。こうなればしめたもので、作品の名前は永久に残ります。なるべくありふれた言葉を使うことが鍵となります。以下は題名転じてほとんど普通名詞になった名作の数々です。
『点と線』(松本清張)――時刻表を使ったアリバイ崩しの古典。これ以上ないほど簡潔な美しさ。
『罪と罰』(ドストエフスキー)――これは日本語の字面の妙も手伝い、目にするだけで重圧感を感じさせる題名。英語だと"Crime and Punishment"で、「何、それ?」になりますけど。
『戦争と平和』(トルストイ)――大作家、大長編、名タイトルの三拍子。ゆえに中身は読むまでもありません。
これらの題名はすべて「AとA'」の形を取っています。当然のことですが、このジャンルで残された可能性はそう多くはありません。『東へ西へ』は井上揚水が使ってしまったし、『天国と地獄』は音楽でも映画でも使用済みです。
そうなると考えるのは、今度は違うタイプの2つの言葉をうまく組み合わせて名タイトルを作ることです。これこそ題名作りの王道というべき手法で、以下は筆者の好みで選んでみました。
『老人と海』(ヘミングウェイ)――アドベンチャーの主人公が老人であるという意外性。さらにヘミングウェイ老のイメージが重なるともうテッパン。
『砂の女』(安部公房)――「XXの女」という題名は多いが、これを超える作品は思いつかない。「砂」も「女」も描写が絶妙。
『太陽の季節』(石原慎太郎)――「XXの季節」という題名もありがちだが、これがいちばんよくできている。
『羊をめぐる冒険』(村上春樹)――「羊」と「冒険」の組み合わせに意外性がある。「羊」以外、どの十二支を入れてもしっくりこない。
『未知との遭遇』(スピルバーグ監督)――原題名"Close Encounter of the third kind"(第三種接近遭遇)を見事に意訳している。
『家族の肖像』(ヴィスコンティ監督)――ぼんやりしているようで、使いまわしが効く表現。原題名は"Conversation Piece"なので、これも意訳の妙あり。