フィクションはタイトルで泣け 第5回
大家の方程式その2 「手塚=シェイクスピア定跡」
溜池通信編集長 かんべえ
http://tameike.net/
2000.4.23
手塚治虫の作品の大部分は、『鉄腕アトム』から『ブラックジャック』までこの方式を貫いています。ひとつには手塚作品は長編大河ものが多いので、主人公の名を冠することがいちばん無難な方法になるのです。『火の鳥』『ブッダ』『アドルフに告ぐ』などいくらでも挙げられます。例外は、『ジャングル大帝』『陽だまりの樹』などですが、これらもそれなりのうまい題名になっているのはさすがです。どうも巨匠は題名を付けるのに苦労をした気配が感じられません。
手塚定跡は藤子不二雄(『オバケのQ太郎』、『ドラえもん』)石森章太郎(『サイボーグ009』『仮面ライダー』)などに引き継がれ、日本のマンガシーン全体に影響を与えました。劇画というジャンルで手塚作品に逆襲したさいとう・たかをでさえ、代表作は『ゴルゴ13』。実際、わが国のマンガで古典と呼ばれるもの題名は、多くはこの定跡に連なるものです。なかでも『あしたのジョー』などは、作品の内容を端的に表した上に記憶に残りやすい見事なタイトルです。
演劇界の巨匠、シェイクスピアもこの定跡の使い手でした。『ハムレット』『リア王』『オセロ』『マクベス』の4大悲劇は全部そうですし、ほかにも『ロミオとジュリエット』『リチャード3世』など枚挙に暇がありません。喜劇を書くときのみ、『ベニスの商人』『真夏の夜の夢』『じゃじゃ馬ならし』などと変化球を投げていますが、内容に自信がある悲劇や史劇の場合はストレートに主人公名で決めています。
なかんずく筆者は『ジュリアス・シーザー』が好きなのですが、これはプルタークの対比列伝の記述をそのまま引用しているとはいえ、「俺が書く以上のジュリアス・シーザーは金輪際出てこない」という自信があったのでしょうか。この度胸、ちょっとしたものではないかと思うのです。
実際、長編大河はこの手塚=シェイクスピア定跡に限ります。『デビッド・カッパーフィールド』『アンナ・カレーニナ』『ボヴァリー夫人』『モンテ=クリスト伯』『ジャン・クリストフ』、ほらほら、いくらでも挙げることができるでしょ。
この手の大河ドラマにしかるべき題名をつけようとすると、どうしても月並みなものになってしまう。モーパッサンの『女の一生』は名高い作品ですが、はたして題名としてはどうか疑問に感じます。なんだか演歌みたいにも思えますし、オリジナリティに問題がありそうです。
「 では主人公の名前はどうやって決めるのか」ですって? いい質問です。たとえば『チャタレー夫人の恋人』という傑作があります。この主人公の名前を他に置き換えてみるとどうでしょう。たとえば「ローランサン夫人」であったら、若草物語のような明るい青春ドラマになりそうですし、「ゴールドバーグ夫人」であったらホテルの経営から裁判までからんだ愛欲の一大絵巻となりそうです。また「エマニュエル夫人」であれば、いうまでもなく別の意味になります。
固有名詞から受ける印象というのは、要はわれわれの先入観に過ぎません。歌舞伎で「XX弾正」という人物が出てきたら悪者ですし、「上総介」は若くてハンサムなさむらいです。水戸黄門では「近江屋」や「備前屋」は悪徳商人で、「越後屋」と「三河屋」は気の毒な被害者です。劇中の名前には、なにかしら作者のメッセージが込められています。読者のステロタイプな印象を読みとって命名するわけですから、作家は大変です。