フィクションはタイトルで泣け 第2回
良い題名とはなにか
溜池通信編集長 かんべえ
http://tameike.net/
2000.4.9
題名だけで楽しむ、というのは、映画やテレビドラマでも使える手法です。これを覚えてしまえば、相当な時間をセーブすることができます。時間もお金も、余るよりは足りないことの方が多い昨今です。題名が気に入ったからといって、中身まで楽しんでいたらたいへんじゃありませんか。それでは題名を楽しむとはどういうことか。そのためにはまず、良い題名、悪い題名を認識する必要があります。
まず、世の中には、誰が見ても名作といわれる題名があります。『二都物語』(チャールズ・ディケンズ)とか『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル)は、訳した人の努力もあいまって、今でも広告のコピーなどで愛用される名タイトルです。パロディにされる題名、というのはそれだけで文句なしの名作といえましょう。
題名が非常に成功すると、言葉がそのまま社会現象になってしまう例もあります。『悪い奴ほどよく眠る』という見出しを、新聞の社会面でこれまで何度見たことでしょう。『私は貝になりたい』『わが青春に悔いなし』なども同じ。これらは題名自体が一種の作品のような見事さをかもしだしています。上記は題名も中身も優れたフィクションですが、もちろん題名だけ良くて中身はさっぱりという本もめずらしくはありません。高杉良の企業小説は、中身よりは話題性で勝負するものが多いと思いますが、『広報室沈黙す』『重役室午後三時』のような題名のヒットを生み出しています。
簡単に言ってしまえば、内容を一発で言い表しており、オリジナリティがあって、読者が一度聞いたら忘れないようなインパクトのある題名がいい題名です。ここで判断が難しいのは、題名が内容と一致しているかどうかという点です。
たとえばある作家が、『哀愁のニューオーリンズ・ブルースに終止符を打って』という題名を思いついたとして、この話が歌舞伎の家元争いの物語で、ニューオーリンズもブルースも終止符も出てこなかったら、読者からは詐欺だといわれるでしょう。
かといって、内容にこだわり過ぎるのも考えものです。なぜならフィクションの世界では、ある程度の飛躍は許されることになっています。実際、中身をかならずしも言い当てていないけど、記憶に残る印象深いタイトルは枚挙にいとまがありません。たとえ、話のなかで1回しか登場しない言葉であっても、それが読者の心に残るキーワードであれば、題名にしても構わないのです。
『第三の男』という名作があります。小説も映画も題名も掛け値なしの名作です。この話の序盤で、主人公の友人が自殺をします。ところが、「あの日の現場には、目撃者のほかにもう一人の男がいた」という証言が出てきます。主人公は、現場を見ていたという3人目の男が、自殺したハリー・ライムその人ではないか、と疑います。そこで主人公は第三の男を求めてウィーンの街をさまようのですが、この題名、さほどのキーワードではありません。ただし、"The
third man"という言葉のインパクトが、筆者グレアム・グリーンと読者のハートをいたく刺激したのでしょう。
ちなみに、この題名の数字を入れ替えてみると楽しめます。『第一の男』や『第二の男』では詩情に欠けてタイトルにはなりません。『第四の男』ならばかろうじて成立するでしょうが、『第五の男』以上になると、これはまた筋書きが面倒くさくなる。やはり一番しっくりくるのは『第三の男』でしょう。
話の筋書きになんの関係もないタイトルの名作としては、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』があります。この物語には、郵便配達もベルも登場しません。これはこれで中身を知らなくとも覚えてしまうほど印象的なフレーズですから、やはり良い題名なのでしょう。ちなみにこの映画は何度もリメイクされており、ヴィスコンティが作ったバージョンでは映画の冒頭に「運命という名の手紙を届けるとき、郵便配達は二度ベルを鳴らす」というクレジットが入ります。やや強引ではありますが、こういう形で題名への理由づけが行われたのであります。