連載小説 カンパニー・1985 第8回
プロジェクト・ファイナンス
9月に入ると、阪神タイガースは破竹の勢いで勝ち進んだ。かっぱ亭に行って騒ぎたいところだが、あいにく日下さんはもういない。そんなことよりも、日下さんがいなくなって問題になったのは、課長を失ったうちの課の構成である。当面は藤原部長が課長を兼務。それに石神さんが新戦力となった。
藤原部長が課員に指示したのは、プロジェクト・ファイナンス案件の検討だった。米国企業がチリに作る予定のメタノールプラントへ、当社が10%分の出資を実行するかどうか。あらゆるリスクを分析して、答えを出せという指令だった。
「石神さん、僕は何にも分からないんですけど、プロジェクト・ファイナンスってどういうことなんですか」
僕は恐るおそる聞いてみた。
「んー、まあたとえばここに、竹下君という出来のいい学生がいるとするよね。こいつは見所があるから奨学金を出そう、金は将来、出世払いでいいだろう、と周囲の金持ちが考えるとする。うまくいけば竹下君は大いに稼いで、奨学金に利子をつけて返してくれるだろうからね。でもみんな、全部のリスクを負うのは嫌だ。だって竹下君は、明日交通事故で死んでしまうかもしれないから。そこで自分が負える範囲で、金持ちが少しずつ奨学金を出し合うことになる。この場合、竹下君はプロジェクトで、奨学金が投資、大金持は企業だ。そういう話かな」
たとえ話で説明されたのが意外な感じだった。MBAというと、もっと分かりにくい説明を想定していたのだ。
「すると今度の場合は、チリのメタノールプラントが学生ですよね。学生が将来、ちゃんと金を返してくれるかどうかを見極めなければならない。ということは、どんなところに目をつけたらいいんでしょう」
「まずは事業を行う米国企業の能力だね。ちゃんと事業を実現できるのかどうか。次にチリのカントリーリスク。現政権の安定性と政策を分析する必要がある。事業を国有化されたりしたらえらいことだからね。それからプラント操業のリスク。経営がうまく行くかどうか、ここで生産するメタノールの売り先はどこか、それから安定的に高い値段で売れるかどうか、などだ。ほかにもいろいろあると思うが、最後に投資する側のわが社に関するリスクもあるね」
「というと?」
「わが社が投資するときはドル建てになる。すると為替リスクがあるよね。極端な円高になったら、いくら事業が儲かっても損が出る恐れがある」
僕はこの仕事の面白さにほとんど興奮しそうになっていた。あらゆるリスクを想定して、出資の是非を問う。もしもゴーサインが出れば、当社が負担する金額は優に百億円を超える。経営会議で決裁を申請することになる。エスクロー・アカウントでこのプロジェクトから発生する利益は、うまくいけば向こう20年間にわたってこの課を支えることになるだろう。
「石神さんて、すごい人だね」
僕の興奮をデコさんは受け止めてくれなかった。
「昔はもっといい人だったんだけど。なんだか変わっちゃった」
「そうなの?」
「うん、アメリカに行ってから、少し変わっちゃった」
僕はまったく鈍い。ここまで言われても、僕はまだ気がつかなかったのだ。石神さんが出国前に、彼女と将来を誓い合っていたということを。彼女はずっと、石神さんの帰国を待ち続けていたのだということを。