連載小説 カンパニー・1985 第7回
徹 夜
1週間後、僕は御巣鷹山に登った。JAL123便に乗っていたのは、日下英一郎だけではなく、坂本九や阪神球団の社長も乗っていたという。日下さんの遺体はとうとう見つからなかった。ジャンボジェット機の残骸が目立つ山肌を見ながら、僕はまだそのへんにいそうな日下さんに向かってこんなことをつぶやいていた。
日下さん、阪神は首位に5ゲーム差ですよ。相手は巨人と広島ですけどね、まあ見ててください。福間の調子もいいし、バースはよく打ちますからね。今年はやっぱり優勝するかもしれませんよ。
藤原部長をはじめ、会社の人が多く現場を訪れている中で、見覚えのない30歳前後の長身の男性が、真っ赤な目をして立っていた。誰だろう、と見ていると、その男はすっと僕の方に近づいてきた静かにこう言った。
「石神です。昨日、シカゴから帰ってきました。日下さんには、以前、たいへんお世話になりました」
ああこの人が、と思っただけで、それ以上の会話はできなかった。余裕はなかった。
その日、夕刻に会社に戻った僕を、待っていたのは四谷重工の秋元さんだった。
「日下さんは気の毒だったね。こんなところを悪いんだけど、時間がないんだ。プルードー湾の入札書類、今日中に仕上げるからね」
そういうと、秋元さんは自分で持ってきた地図やら英語の辞書やら電卓やらをあたりかまわず並べ始めた。
「秋元さん、そんなものならうちにもありますよ」
「お宅みたいな貧乏商社が使ってる道具なんか、信用できるか」
「あ、そんなこと言うんですか。だったらついでに、灰皿も持ってきてくださいよ。秋元さん、ヘビースモーカーなんだから」
「固いこと言うなよ。ちゃんとお宅の取扱商品吸って、売上げに貢献してるじゃないか」
秋元さんは分厚いバインダーと、提出すべき書類の一覧表を取り出した。ほとんどは丸印がついているが、足りない部分は赤線が引いてある。
「明日の朝には、このバインダーに全部の書類を揃えてセットする。明日の昼までに東京郵便局に持ち込めば、ギリギリで締め切りには間に合う。いいね。コピーも取らなければならないよ。うちと御社の分、2セット」
たいへんな力仕事であることは一目瞭然だった。しかし僕らは不思議なくらい早く、仕事に熱中できた。気の遠くなるような分量に思えたが、意外なほどすいすいと進んだ。ときどき、日下さんが一緒に手伝ってくれているような錯覚を覚えた。
「おいおい、貧乏商社は夜になるとエアコン止めるのか。暑くて気が狂うぞ」
もう、秋元さんの憎まれ口は、ちっとも腹が立たなかった。
「きびしいお客さんが多いから、こうやって我慢してるんじゃないですか。夜中もエアコンつけるためには、もうちょっと口銭増やしてもらわないと」
いつも通りのやり取りを繰り返すうちに、僕はつらい思いを忘れ始めた。仕事人間だった日下さんにとって、こういうのが最高のお通夜かもしれない、とも思った。
缶コーヒーの空缶や灰皿の吸い殻がどんどん増えた。一覧表の全部の項目に丸がつき、バインダーが完全に埋まったのは、完全に明け方になってからだった。僕は酸素が欠乏したようになって、頭の中はもう真空状態だった。
「楽しい夜だったな」
もう50歳に近いはずの秋元さんは、余裕の笑顔を浮かべていた。
「10月には勝利の美酒を飲もうぜ」
カッコよく決めて、書類のコピー一式を持って帰って行った。僕は出社してきたデコさんに書類一式を梱包し、昼までに東京郵便局に届けることを頼むと、そのまま客用ソファーに倒れるようにして寝込んでしまった。