自然と味の相性がわかるまでには、相当の年月を要するのである。
師匠にけなされ、叱りとばされ、
あるいは反対に、舌つづみをうたれ、ほめられて
その日その日の旬の料理をおぼえ、ほめられた味に
またひと工夫ほどこして、文字どおりの精進をかさねるのである。
やっぱり材料も工夫がないと死ぬ。
数すくない冬の青葉が、工夫ひとつで、かがやく味となるように。
さいきんぼくはじゃがいもをすり鉢ですりつぶして、これを鉢に入れて
冷蔵庫に入れておくのである。
客がきた場合、これに胡瓜があれば胡瓜を
にんじんがあれば、にんじんをなんでもいいから、
ゆでて短冊になり、この すりじゃがいもにまぶして、
マヨネーズをわきにたらして皿もりして出している。
客は舌つづみを打って、必ずいう。
「もうこんな手のこんだ野菜サラダはなくなりましたな。
どこへいってもコックさんは生野菜を盛りつけるばかりで・・・」
かぞえてゆけばきりがない。何の料理法かしらぬ、
西か東か、唐か、宋かもわからぬが
とにかく材料をにらみながら、その材料になりきって、
ひと工夫冒険してみる楽しみはおもしろい。
台所で理窟をこねまわすのは下の下というべきだろう。
よくそういう人を見かける。ただ黙って、無心につくれば、よろしい。
食事は喰うものであって、理窟や智識の場でない。