十月の章

山に果のなる季節である。軽井沢の気候が
もっとも凌ぎやすくなり、ひと夏の盛りが去って、人も馬も
山も畑も、町ぜんたいが静かな平常を取りもどす季節である。

私はべつに軽井沢びいきではない。
どこに住んでもいい行雲流水が大好きで、都合によって
いまはここにいるにすぎない。
偶然、住んでいるところがそうなので、
この近くの山野の野生物になれようと努めているだけのことである。

郷に入って郷にしたがえ。
私は京から、いろいろな野菜を送られてくることがあって
嬉しいけれど、荷をひろげてみる時、それらの他郷の野菜が、
一つ一つふるえているような気がすることがある。
つまり、ここは寒地なので、雅な京の野菜は、似つかない。
軽井沢の野趣にあふれた菜や、果物があって、
それがこの地の幸である。

世の中に普遍的な野菜はどこにもない。

ふたたびいう、
この世に山野が生むもので同一のあるいは
普遍の食べものはありはしない。
米だって、「コシヒカリ」「ワカサニシキ」ではないか。
よくみれば、その土地土地の顔と味をして、食膳に出てくる。
京にうまれて「京菜」、野沢にうまれて「野沢菜」、軽井沢では、
その野沢菜そっくりのものさえうめないではないか。

不思議なことだと思う。精進揚げが、野菜の交響曲だといったのは、
そういう個性を喰う意味をふくめていったのである。

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