そもそも客観的事実とは? オーディオの科学へ

オーディオ機器についての議論がよく紛糾するのは本来主観的感想にすぎない「音質の違い」があたかも客観的事実とみなされ議論されるからではないだろうか? いうまでもなく、主観的感想と客観的事実とは一致するとは限らないことは誰しも認めるであろう。しかし、人は自分の見聞きしたことをその対象の固有の性質を見ている、つまり客観的事実と認識しがちである。ここでは、そもそも「客観的事実」とは何かということを基本に立ち返って考えてみる。

<「客観的事実」についての私の見解>

 いうまでもないことだが「主観」「客観」ではない。しかし、日常生活を営む上では、「=」としてもまず問題は生じない。自分が「赤」とイメージしている色は他人も同じようにイメージしているとみなしている。つまり、信号の赤い色は赤ランプ自身の固有の性質(客観的事実)「見なして」いる。しかし、実は他人の意識の中に入り込むjことは「絶対に不可能」なことなので、実はこれは「見なしている」にすぎない。いいかえれば主観を客観的事実とみなしがちなのは「そう仮定して行動しても実際上何の矛盾も生じない」ことを基礎にしているわけである。いちいちこれを疑っていたら頻繁に交通事故を起こすことになってしまう。人間の本性として多分遺伝子に埋め込まれていると云うことのようである。

 実は物理学を典型とする科学も同じことである。物理法則は最初は仮定から始まり、多くの実験・観測を繰り返した結果がその仮定に矛盾しないことが確かめられはじめて「客観的な事実(法則)として認められるわけである。しかし、実験の精度が上がったり、対象とする現象が拡大すると(超高エネルギーの世界、原子の世界など)矛盾がみつかり新しい理論が求められるようになる。これが科学の進歩である。

視覚による認識の場合はどうだろうか? 視覚はかなり信用出来る感覚であり、「主観」「客観」とみなしてもほとんど矛盾は生じない。しかし、よく知られているように錯視現象というのがあり、同じものが実際と異なって見えたり、人により異なって認識されることが有るということが知られている。しかしこの場合はそれが錯覚であるとは容易に確かめられる。この辺りのことは、<天動説から地動説へ>に書いた通りである。

ここで注意してほしいのは「客観的事実であるかどうかは決して多数決では決まらない」ということである。錯視の場合ほとんどの人が事実誤認をしてしまう。客観的事実かどうかを調べるためには、適当な手段を用いる必要があり、例えば上のサイトの棒が斜めに見える例では定規で調べれば簡単にわかることである。

で問題は聴覚である。当然「錯聴」もあるわけである。 しかしこれを確かめるのは難しく研究もあまり進んでいないようである。上のサイトで取り上げた空耳現象についての研究はめずらしい一例だが、この場合もずいぶん大がかりな設備が必要で素人の手に負えるようなものではない。私の見るところ、聴覚は視覚より曖昧なところがあり「主観」「客観」と乖離する確率はかなり高いんではないでだろうか? 残念ながら数値で示すことは難しいが。

<オーディオ製品の音質>

もう少し具体的にオーディオ製品の「音質」について考えてみよう。その前に、<地動説>のページでも触れているように、オーディオシステムのパーツやアクセサリーを変えたとき、音が変化すると感じた場合、その原因として考えられる要素を整理しておく、

(1)実際にその対象の物理特性が人間の聴覚の検知限を上回る変化をもたらす。

(2)変えたことに伴うそれ以外の条件が変わってしまうことによる変化。例えば、聴く位置の変化、温度や湿度の変化、第三者が部屋へ入ってくるなど部屋の音響特性の変化、ケーブルなどではつなぎ変えたことによる接触抵抗の変化。等々

(3)聴き手の意識の変化。先入観もここに入り込んでくる

この場合「主観」「客観」と見なしていいかどうか、どうして確かめられるだろうか? オーディオ製品の場合、上の分類(1)、(2)、(3)に従うと、「主観」「客観」と見なしていいのは(1)の場合である。日常的な経験ではやはりこの場合が圧倒的に多いだろう。99%くらいはそれでOKかもしれない。しかし最近のオーディオ製品を見ると必ずしもそうは言えないように思うわけである。とりあえず90%くらいは(1)で残り10%がそれ以外の原因としておこう。これを区別する方法は一般論としてはブラインドテスト以外には無いというのが私の主張である。スピーカーの評価や、真空管アンプなどはその周波数特性や発生する歪み率から考え(1)と見なしていいだろう。しかし、その物理的特性から考えるとケーブルなんかは残り10%の範疇に入る恐れが十分にある。また、これについては激しい論争があり結論が出ない以上、そう簡単に「主観」=「客観的事実」とは見なせない。

オーディオファンが議論をするとき普通は、みずからの主観的体験をもとにその原因を全て(1)に帰しているんではなかろうか? そして、その主観的体験を単純に客観的事実と思いこんでしまう。これでは本当のことはわからない。ただ、(2)の原因は実際に結構大きい可能性はあるが、パラメターが多すぎて特定するのが難しい。(3)についてはブラインドテストをすれば少なくとも先入観は排除出来るわけであるが、厳密なテストを実行するのは大変で素人の手に負えない。といったことで議論はいっこう収斂しないというのが実情ではなかろうか?

<もう一度整理すると>

上の議論は人間の認識についての基本的な問題を含んでいるので理屈としては分かったつもりでも、実際に「あなたが見ている信号の赤い色は、そのランプの固有の性質を見ているわけではない」などといわれてもすんなり納得する人は少ないかもしれない。そこで、もう一度問題を整理しておく。

赤信号の場合赤色発光ダイオードに電流を流すことにより波長約600nmの電磁波を発生する。この電磁波があなたの目に入ると視覚細胞を刺激して脳内に赤信号のイメージ(クオリア)を作り出す。ここまでは科学によって裏付けられた客観的事実である。そして、こうして作られたイメージがあなたにとっての主観であり、このイメージを元にあなたは信号が赤だと判断し停止する。そして、Bさんも同じように停止する。しかし、Bさんが脳内であなたと同じイメージを描いているかどうかは全く分からない。極端な話し、Bさんは赤信号を見たとき、あなたが「青」と感じるイメージを抱いているかもしれない。そして、あなたにとっての「青色のイメージ」はB さんにとっては「赤色のイメージ」かもしれない。しかし、そんなことと関係なくBさんは赤信号で停止する。つまり、Bさんもあなたと同じ「赤色のイメージ」を抱いていると仮定しても何の不都合も生じない。となると、自然な結論としてあなたが抱く「赤色のイメージ」「赤信号固有の性質(客観的性質)だとみなして差し支えないことになる。そして実際にそう見なして行動する。実は、これは脳の基本的性質である、「節約的安定化原理」のなせる業といっていいだろう。いちいちこんな事を考えて行動していては頭が変になり、交通事故を起こしてしまう。手っ取り早く自分のイメージしている「赤のイメージ」を赤信号の固有の色とみなしてしまうわけである。しかし、これが視覚についてすら、全ての場合にあてはまるわけでないことは錯視の存在で明らかであろう。

さて、これを聴覚について、さらに具体的に「ケーブルの音質」に当てはめたらどうなるだろうか? これについてはすでに語り尽くしているので多くは語らないが、高々数メートルのケーブルを可聴域の信号電流が流れても、その波形に聴覚で検知出来るような変化は生じないし、ましてや導線の純度が1桁、2桁上がっても何の効果もない。しかし、多くのオーディオファイルがケーブルで音が変わるという経験をするのは、(2)+(3)の効果、つまり、何らかのきっかけで音が変わったというイメージを抱き、それが自分の脳内のイメージであるにすぎないのにケーブル固有の性質に起因するものと思いこみ、他の人も同じイメージを抱くはずだと錯覚することが原因といっていいだろう。また、「何度も繰り返して聴くとはっきり分かり、客観的な事実に近づいていくはずだ」と主張する人もいるようだが、これは思いこみが定着するプロセスに他ならず、むしろますます客観的事実から遠ざかって行くとすらいえそうである。また、ケーブルもエージングをしないとその真価を発揮出来ないなどと宣わく人(メーカーも含めて)いるようだが金属物性の知識があればこんなことは期待出来るはずはなく、知ってか知らずしてか、思いこみのプロセスを強化する格好の道具となり、メーカーにとってはなかなか都合のいい隠れ蓑になっている。

追記 <マガーク効果>

同じ音を聴いても異なったイメージを抱く例としてマガーク効果という現象が知られている。視覚によって聴覚が影響を受けるという現象である。「錯聴」の1種といってもいいだろう。具体的には

「イギリスの心理学者、ハリー・マガークとマクドナルドは、つぎのような実験を行った。まず、スクリーン上の人に「が、が・・・」と発音させる。そのフィルムを上映するときに画像の音声を消し、陰の声で「ば、ば・・・」という音声をスピーカから流す。この実験で被検者は「だ、だ・・・」と聞こえたと報告する。被検者に目を閉じるように指示すると、こんどは「ば、ば・・・」と聞こえたと報告する。この実験結果は、くちびるの動きという目で見た映像にだまされて、耳から入った音声が実際とは違った音声に聞こえたことを示した。」

(詳しくはhttp://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/20-3/index-20-3.html 参照)

全く異なった外観のケーブルを聴き比べた時、自分自身の中でも、他人との間でも異なって聴こえることが不思議でないことがわかる。