歴 史 散 歩 (6)  目次へ戻る

小 谷 城 址 2006.5.24

信長、秀吉、家康が活躍する戦国時代末期は時代小説やテレビ、映画の定番である。そして、信長が天下を目指しているころ脇役として必ずと言っていいほど登場するのが信長の妹で絶世の美女といわれたお市の方を娶り信長と同盟を結んだ浅井長政。その長政が城主として君臨し最期を迎えたのがこの小谷城である。 浅井家は長政の祖父亮政(すけまさ)が主君である近江源氏の名門北近江の守護職にあった佐々木京極氏をのっとり戦国大名としてこの地方を治めた。元々越前の戦国大名朝倉氏と同盟関係にあったが長政の代に信長と同盟し勢力を拡大したが信長が朝倉氏を攻めるに及んで寝返り信長を窮地に落とし入れた。これが信長のすざましい怒りを買い後に姉川の戦いに敗れ、この城に立てこもったが秀吉らによる総攻撃で落城し父久政とともに最期を遂げた。信長が長政、その父久政、朝倉義景らの髑髏に金箔を貼り杯にして勝利を祝う宴で武将達を饗応した話は有名。落城後すぐ廃城になりいまは城館址の平地や一部に石垣などが残すのみである。しかし、有名なだけに訪れる人も多いらしく登山道も整備されており案内板も要所に立ててある。

以下は5月下旬にここを訪れたときの記録である。


小谷山全景 北陸線河毛駅を出てすぐ東の方角に小谷山の全景が目に入る。山頂には古い砦があるようだがここで紹介する小谷城跡は山頂へ至る右側尾根上にある。

小谷城址へのルート

JR高槻駅から長浜行き新快速に乗り1時間強で終点長浜に着く。ここで北陸線
(普通)に乗り換え2駅目が河毛である。無人駅だが前にしゃれた休憩所があり乗車券を売っている。

駅横の道路を東に行くとすぐ田園地帯となり上の写真の景色が広がる。この道を真っ直ぐ進み北陸自動車道の下をくぐると国道365線に行き当たりここを右折する。しばらく行くとガソリンスタンドに至り、この辺りから左へ小径を行くとすぐ登山口の広場に至る。駅からここまで徒歩で30分強。バスもあるようだがまれにしか来ない。車で来るなら駐車場もあるようだ。

登山口から中腹の城跡入り口付近まで車道が通じているが徒歩で行くなら尾根道に沿った昔ながらの大手道を行くのがよい。

予定では山頂を回り左側の尾根道を降りてくるはずであったが、山頂付近は最近熊が出没するとの警告があり、尾根の最高地山王丸まで行って引き返した。下に、登山口にある説明板を紹介しておく。

なお、山城は頂上を頂点とする逆V字型の尾根を持ち尾根筋に城館が立ち、中央の谷にも登城道があるといった点で、ここに紹介してある同じ時代に三好氏が築いた高槻市の芥川城と驚くほどよく似た構造をしているのは興味ある。


登山口説明板
(現物が少し風化して読みにくいので、読み取った文を掲載しておく。)

国指定史跡 小谷城址
小谷城は戦国乱世の大永4年(1504)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから久政を経て三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573)までの五十年間 浅井氏が根城としたところであり六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
 また、この城は信長の妹お市の方の住した所でありその子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあってひとしお旅情をそそるものがあろう。小谷城は北国街道 中山道 北国脇往還の交通の要衝にあり湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都に至る地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。 城は典型的な山城であり下より尾根上に出丸 金吾丸 番所 御茶屋 御馬屋 馬洗池 桜馬場 黒金御門 大広間 本丸 中ノ丸 刀洗池 京極丸 小丸 と続き海抜395メートルの山王丸を頂とする。 山腹には赤尾屋敷 御局屋敷 大野木屋敷を始め削平地 竪掘等遺構は全山に埋めている。 さらに主峰大嶽 六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって武将達の屋敷跡が歴然としており<これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。 落城後 木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籟のみが昔の悲劇を物語っている。
昭和五一年十月 湖北町教育委員会

さていよいよ登山

ちょっとわかりにくいが登山口の広場から自動車道ではなく、昔の大手道へはいる。すぐ自動車道にぶつかるが少し舗装道路を行くと再び左側に大手道への入り口がある。

右の写真は大手道の様子。昔は防御のため騎馬武者がすれ違うことが出来る程度の道幅しか取っていない。



しばらく行くと再び車道に出会う。そこは展望台になっており、琵琶湖が望める。この日は一応晴れてはいたが湿度のせいかあまり見通しがきかなかった。

遠くに霞んで見えるのは竹生島。

再び大手道にもどり登っていくと最初の砦である金吾丸址が右手にある。しかしここは石柱が立っているだけで特に見るべきものはない。

さらに行くと、車道の終点に至る。この地点は小谷城の入り口といってよく左のような大きな案内板が立っている。

これではわかりにくいので下に城主要部の地形図を示しておく。

城跡中心部の地形図

地図の赤文字の所へポインターを近づけ手のひら印が出たところをクリックするとその場所の写真に飛べます。

このように尾根に沿って色々な施設が配置してある。

その構造は上に向けて階段状になっており、地面を削り大小の平地を作りあたかも棚田のような具合である。

左側は谷(清水谷)になっており家臣達の屋敷が並んでいたらしい。

最初に馬屋があり、御茶屋、番所など入り口に必要な施設が続く。

戦国時代らしいのは入り口近くに首据石というのがあり裏切り者などの首を晒したという。

この付近の点描は下のサムネイル画をクリックすると見えます。

入り口付近点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


馬屋

御茶屋

首据え石

首据え石
説明板

熊注意


顕彰碑

大広間、本丸はこのすぐ上にある。

その手前に大きな顕彰碑と墓所がある。ただしこれは後世(明治時代?)になって作られたもの。




大広間址

この城跡で最も大きい平地

家臣達を集めての会議などを行ったところ。

このすぐ後ろの一段高くなったところに城主がいた本丸址がある。

さらにその奥にいくつかの城館址が続く。


本丸址

この上に本丸址がある。

一部石垣が残っている。

この付近の点描は下のサムネイル画をクリックすると見えます。



本丸付近点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


大広間入り口に立つ
小谷城址石柱

本丸から見た
大広間址

本丸説明板

大広間説明板

京極丸址

本丸の背後に幾つかの城館がある。

左はその内で一番大きい京極丸址。

かっての主君京極氏を住まわせたところ。




山王丸址

一番奥にある砦址

後ろの小高いところが尾根の最高地点

この向こうは一旦下り坂になり六坊を経て小谷山頂に至る。六坊からは清水谷へ下る谷道がある。

この付近に熊が出没するという警告があったので行くのをあきらめた。

この付近の点描は下のサムネイル画をクリックすると見えます。

本丸の背後点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


京極丸
説明板

山王丸
説明板

大石垣 京極丸の右手にある

中丸址
この後ろが京極丸
小さい平地がテラス状に続く

山王丸付近から
小谷山頂を望む


長政自刃の地

入り口付近から右手に分かれる小径を行った先に赤尾屋敷址がありその中にある。

この地で、お市の方と三人の娘(後の淀君、京極高次夫人、徳川秀忠夫人 お江)を秀吉に預けた後、天正元年(1573)浅井長政は最期を遂げた。

赤尾屋敷址付近の点描は下のサムネイル画をクリックすると見えます。

赤尾屋敷址付近点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


赤尾屋敷跡
それほど大きくな

赤尾屋敷
説明板


長浜城(再建)

小谷落城後、信長は大功あった秀吉にこの地を領地として与えた。

秀吉は戦いには強いが不便な山城を捨て小谷から南西の琵琶湖岸の長浜(当時は今浜)に平城を築いた。

これも取り壊されていたが、再建され歴史資料館となっている。

折しもNHKの大河ドラマ『功名が辻』の主役山内一豊もこの城に出入りしていた。

この日は特別展として『一豊とその妻』をテーマとする展示会が催されていた。信長や秀吉の一豊への自筆の感状などが展示してあった。

歴史メモ 近江源氏佐々木(京極) 

この地の大名として浅井氏は有名だが浅井氏がこの地を治めたのは高々50年、それ以前は平安時代後期から続く宇多源氏佐々木氏の所領であった。佐々木氏が歴史に名を残すのは、頼朝が義経に命じ木曽義仲を攻めるに際し、梶原景季(かじはらかげすえ)と宇治川の先陣争いをした佐々木四郎高綱が有名である。一族は鎌倉幕府成立に功があり本領である北近江を安堵された他各地に所領を得鎌倉幕府の有力御家人となった。その後、北近江の地は嫡流である六角佐々木氏が南半分を傍流の京極氏(いずれも京屋敷のあった地名に由来する)が北半分を領し抗争が絶えなかった。

鎌倉時代末期に京極家の当主で婆娑羅大名として有名な佐々木道誉が密かに足利尊氏と通じ鎌倉幕府転覆に功を立てた。そのため室町時代は嫡流家の六角家よりも羽振りが良く室町幕府の有力御家人として近江の他各地に所領を得た(例えば出雲の尼子氏など)

戦国時代になって京極氏は人材に欠き家臣である浅井氏に本家を乗っ取られた。一方の六角氏は承禎義賢(よしかね)が安土の近くの観音寺城に拠り信長と対抗したが破れ六角氏は滅亡した。それに対し、京極氏の方は浅井氏が主家を滅ぼさなかったため戦国時代を生き残り関ヶ原の戦いでは家康側に付き功を上げたので江戸時代も有力大名として生き延びた。

なお京極家の墓所は菩提寺である米原市清滝の清滝寺徳源院にあり道誉高氏を始め歴代の当主の墓が並んでおり壮観。(左写真)

昔はこの辺り交通の要衝であったようだが、今ではかなり交通不便な田舎(JR東海道線柏原駅から徒歩約30分)になっている。たまたま親戚のお葬式に行ったときに始めて知り写真を撮っておいたものである。

優美な三重の塔があるこの地方の名刹である。