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飛鳥サイクリング巡り

飛鳥へはこれまでに三度ほど行った事があるが、今回新しく発見され整備された酒船石遺跡を見る事を主な目的に、近鉄飛鳥駅から自転車を借り、あちこちの遺跡などを訪ね明日香村を半周し、橿原神宮駅まで半日かけて廻った記録である。

なぜ飛鳥?

飛鳥の地は、平城京(710ー794)、藤原京(694ー710)に先立つ100年間以上にわたって、それほど大規模な宮殿があったわけではないが、大和政権の中心地として栄えた、いわば我が国最初の都といってよい。ではなぜ、飛鳥の地が選ばれたのか? この謎を解く鍵は、歴史散歩(3)で紹介した今城塚の被葬者継体天皇の後継天皇選びと関係している。つまり、そこに書いたあるように、継体天皇には尾張の豪族の娘を母とする二人の皇子(後の安閑・宣化天皇 ただし、実際に即位したかどうか疑問視する向きもある)と第24代仁賢天皇の皇女である手白香皇女を母とする皇子(後の欽明天皇 在位 531-571)がいたが、そのころまだ大和の一豪族であり飛鳥の地に領地を持つ蘇我稲目が欽明天皇を推し、二人の娘(堅塩媛、子姉姫)を妃に入れ、用明、推古(在位 593-628)天皇など有力天皇の外戚となり、政治の実権を握った事による。飛鳥の地は稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我氏本宗家の本拠であり、また、飛鳥観光の目玉の一つである石舞台は蘇我馬子の墓と言われている。

サイクリングルート 

スタート地点は近鉄飛鳥駅。駅前には何軒かのレンタサイクルショップがある。私が利用したのは明日香レンタサイクルというところで、¥900/日であるが乗り捨て地を別の所にすると+¥200となる。(1)

午前11:00出発

始めに、最近彩色壁画が発見されたキトラ古墳を目指すが結局所在が分からず空しく引き返す(2)(メイン道路から支道へ入る標識は立っているのだが、支道には入ってから分かれ道の表示がなくきわめて不親切)

以後、(3)高松塚古墳→同壁画館→(4)文武天皇陵→飛鳥歴史公園→(5)鬼の雪隠・鬼の俎(6)天武・持統合葬陵→昼食→(7)岡寺(8)伝板蓋宮跡(9)酒船石遺跡(10)甘樫の丘→橿原神宮駅(3:00pm頃着)

アップ・ダウンがありかなり疲れる。


高松塚古墳

高松塚古墳は1972年、未盗掘の石室内部から極彩色の壁画が発見され、一躍有名になった終末期の円墳である。最近壁画の損傷が激しく、いかに保存してゆくかについて議論が戦わされいることはご承知の通り。現在浸水を防ぐための工事が行われているようで、墳墓全体がテントで覆われている。もちろん内部は見られないが、すぐそばの壁画館に精巧な複製が展示されている。墳墓の被葬者は明らかになっていないが天武天皇の皇子、とりわけ壬申の乱で大功のあった高市皇子(654-696)が有力な候補とされている。

高松塚正面                           工事中の墳丘


高松塚より西方明日香村を望む。後方少し霞んだ山は、左手が金剛山、右手が葛城山である。


文武天皇陵、天武・持統合葬陵

高松塚古墳のすぐ裏手(南方)に天武(在位 672-686)・持統(在位 686-697)天皇の孫、文武天皇(在位 697-707)の陵がある。その約800m北方に天武・持統合葬陵がある。いずれも小型の円墳である。


文武天皇陵                            天武・持統合葬陵


鬼の雪隠(せっちん)・鬼の俎(まないた)

飛鳥時代以前の天皇陵はほとんどが巨大な前方後円墳であったが、すでに紹介した継体天皇の今城塚古墳(高槻市)、飛鳥の見瀬丸山古墳(これが真の欽明天皇の墳墓と考えられている)を最後に、蘇我馬子らが中心になって招来した仏教の影響を受け、巨大古墳は作られなくなった。しかし、石舞台古墳で見られるようにその石室は巨大で精巧なものであった。鬼の雪隠・鬼の俎として知られる石造物はこのような古墳の石室の一部と考えられている。



鬼の雪隠                             鬼の俎


岡寺(東光山 龍蓋寺)

飛鳥の南東山裾にある古刹。西国七番札所で厄よけ霊場として参詣者が多い。飛鳥時代の高僧義淵が草壁皇子(662-689)の宮をもらい受け建立したという。本堂には日本最大・最古の塑像観音像がある。


            仁王門                                    本堂    


酒船石遺跡(亀形石造物遺跡)

酒船石として知られている謎の石造物のある丘の麓に、平成12年極めて精巧な亀形石を中心とする水利施設が発見された。これは、歴史書から斉明天皇(在位 655-661)が両槻の宮の一部として、外国の使節、賓客などをもてなすために作った庭園の一部の施設ではないかと考えられている。このことから、従来謎とされてきた酒船石もこの施設の一部として使われていた石造物である可能性が高くなったようである。

 酒船石遺跡

上方はは酒船石のある山側。水は後方から手前に流れるようになっている。石造物は上から、湧水施設、小判形石造物、亀形石造物。

酒船石遺跡点描

下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります                 


左:小判形石造物
右:亀形石造物

湧水施設

山側から見た遺跡

酒船石

伝板葺宮跡

皇極天皇
(後の斉明天皇)の宮殿跡
蘇我入鹿が誅殺された所

甘樫の丘より

明日香村の西北角にある小高い丘。蘇我の蝦夷(?-645)・入鹿(?-645)の邸宅があったという。下の写真はその頂上から西方を望む。後ろの山は畝傍山。


歴史メモ

  1. 蘇我氏とは
     孝元天皇の孫武内宿禰(たけうちのすくね)を祖先とし,武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする。というのが公式の系譜であるが、これは後世に作られたものであり事実ではない。出自がはっきりしているのは稲目からで、それ以前は、古代の大豪族葛城氏の支族ともいわれ、あるいは渡来系の氏族とも言われている。いずれにせよ、渡来系の氏族との関わりは深く、例えば東漢(やまとのあや)(平安時代初期の征夷大将軍で京都清水寺の創建者坂上田村麻呂はその子孫)など軍事・技術に堪能な渡来系氏族を配下に持っていたことは確かのようである。その領地(本貫地)は大和の飛鳥の他、葛城山を隔て、推古天皇(在位 593-628)や聖徳太子(?-622)の墓稜がある河内の近つ飛鳥(大阪府富田林市)にも有していたようである。

    すでに、述べたように、稲目の代になり、天皇家の外戚となり、名門豪族大伴氏を失脚させ、自らも大臣に任じらるなど、急速に勢力を拡張した。その子、馬子の代になっても、稲目の孫である推古天皇、外戚に当たる聖徳太子と組み、大伴氏と並ぶ名門豪族物部氏を仏教導入問題をめぐっての争いで没落させた。しかし、3代目の蝦夷の代になると、人望に乏しく、天皇家との関係維持に失敗しその勢力に影が差してきた。その子入鹿は野心家で、劣勢を取り戻すべく聖徳太子の子山背大兄皇子一族を討つなど、強引な行動がたたり、中大兄皇子、中臣鎌足により誅殺され蘇我本宗家は滅び去った(大化の改新 645)

    ただし、本宗家は滅亡したものの、大化の改新で中大兄皇子側についた蘇我倉山田石川麻呂系統の蘇我氏はその後も続き、石川年足(なぜかこの人物の墳墓が我が家の近く、高槻市真上町で墓銘誌とともに発見されている)など奈良時代に上級官人となった人物もいた。

  2. 斉明天皇
    酒船石遺跡を始め飛鳥の地に数多くの石造物や宮殿などの土木工事を進めたのは斉明天皇だと言われている。斉明(皇極)天皇は第30代敏達天皇の皇女(宝皇女)で、蘇我馬子の後ろ盾で皇位についた舒明天皇(在位 628-641)の妃となった。舒明天皇の没後いろいろないきさつの後、皇位につき、推古天皇に続く2人目の女帝、皇極天皇(在位 641-645)が誕生した。その在位中に大化の改新が起こり、皇位を弟の孝徳天皇(在位 645-654)に譲り、自ら退位した。孝徳天皇の死後、再び皇位に推され斉明天皇(在位 655-661)が誕生した。このときの政治の実権を握っていたのは長子の中大兄皇子(626-671 後の天智天皇 在位 661-671)であり、自らは、宮殿の建設や、各種の土木事業に没頭したと言われている。

  3. その後の飛鳥
    大化の改新により、蘇我氏の影響力はなくなったが、天智天皇が朝鮮半島への出兵に失敗した後、一時都を大津に移した時期を除き、天武(在位 672-686)・持統朝(在位 686-697)と引き続き飛鳥の地に政庁をおいた。しかし、持統天皇の治世の末期になって、我が国初の本格的な都城である藤原京に都が移され、飛鳥の地は急速に衰退していった。
     

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