季刊「子どもの権利条約」2002年2月掲載
世田谷区子ども条例の制定と問題点―「子ども観」の変質を見逃すな

世田谷区議会議員 無党派市民 木下泰之


子どもに負担感を強いる条例

 2001年12月6日に世田谷区議会で「世田谷区子ども条例」が可決されました。
 子どもは、未来への「希望」です。という言葉は美しいですが、この言葉ではじまる世田谷区の条例に反対をせざるを得ないのは不幸なことです。しかし、次の言葉が後に来るとあっては反対しないことには良心がとがめられます。
 「将来へ向けて社会を築いていく役割を持っています。」
 口当たりのよい言葉に惑わせられないでほしいのです。この言葉で、すでにこの条例は、制定過程途上の当初にあった「みずみずしさ」を全て失い、死にました。
 2001年9月に作成された条例案大綱では、冒頭は「子どもは、未来への「希望」であり、次代を担うべき無限の可能性を有している。」でした。この言い方はまともな言い方です。
 希望は無限の可能性であり、可塑性です。子どもそのものではないでしょうか。過去を持ち必然的に「固まってしまった」おとなは、だからこそ、子どもに希望を託すのです。そのおとなからの希望と子どもへの無限の愛情を感じるからこそ、子どもは自らの役割を模索し、新しいことに挑戦し、自らを認識し、自覚し、育っていきます。
 ところが、条例の言い方ときたらどうでしょう。
 「子どもは、未来への「希望」です。将来へ向けて社会を築いていく役割を持っています。」
 これでは、「希望」が「将来へ向けて社会を築く役割」という義務となって、子どもの前にたち現れることになります。しかもそのことを強制するのは、おとなたちなのです。このおとなたちは現状に満足しているのでしょうか。不満足なのでしょうか。いずれにせよ、この文脈で言う「希望」は下世話な希望という外ありません。
 9月の大綱と11月に作成された条例案を比べると、ここに「子ども観」さらにいえば、世界観の大転換があります。

なぜ、そうなったのか

 なぜ、このようなことになったのでしょうか。それは区当局が区民参加とりわけ中高生の参加も得て条例案づくりで積み上げてきたものを、「権利権利とばかりいっていはだめだ、義務を強調すべし」との外部の圧力を聞き入れる形で、改変することに妥協してしまったとことにあります。
 中高生の参加による「始めの一歩」から始って、青少年協議委員会が5月にまとめた、「盛り込むべき要点」、9月初旬の大綱、9月末の素案、11月に入って当局が示した条例案、そして上程された条例案、と条例制定過程は推移しました。一連の流れのなかで、大綱から素案に移る際に、「社会の一員として成長に応じた責任をはたしていかなければなりません。」や「社会における決まりごとや役割を自覚し、」なる文言が挿入され、「時代を担うべき無限の可能性」が「将来を背負って立つことができる可能性」と卑近なたえとしたことにより、条例の概念自体が大きく変わりました。
 条例作りに参画した市民委員からの抗議で、多少修正が加えられましたが、冒頭示したように、今度は「可能性」の言葉さえ消え、「将来へ向けて社会を築いていく役割」と可能性が義務に置き換えられるにまでいたりました。これで「子どもの権利条例」は「子どもの義務条例」に変質しました。
 そもそも、この条例の基本概念は、2001年5月の「まとめるべき要点」では、「国際的にも認知された概念ウェルビーイング」でした。この概念を同「まとめるべき要点」では子どもの自己実現や権利擁護が保証された状態、と説明していました。
 自己実現の権利こそウェルビーイングの本質なのに、この条例からはすっぽり抜け落ちています。代わって、健やかに育つ、という聞こえはいいが、健全育成の論理が条例文にちりばめられています。これでは大人の都合で健全に育て、と子どもに命令をしているに過ぎません。

権利から徳目へ

 ところで、今回の条例、子どもの権利擁護という観点からミニマムを満たしているでしょうか。条例はないよりは、あったほうが良いとの意見が大半でしたが、実は肝心な権利擁護に役立つ文言さえ欠落しています。
 虐待の禁止を書いた第12条「だれであっても、子どもを虐待してはなりません。」や、いじめへの対応を書いた第13条「だれであっても、いじめをしてはなりません。」にうたっていると当局は反論します。
 虐待にせよ「いじめ」にせよ、むしろ、なにが「虐待」であり「いじめ」にあたるのかこそが問題であって、いじめられた子どもが、そのことを訴えでなければ問題にすらならないことが多いのです。したがってこれを防止あるいは解決するためには、正当に抗議するなり、意見表明をする権利を子どもに保証することこそ必要なはずです。
 ところが徳目を並べ立てるだけで、子どもが虐待やいじめから逃れる手がかりとなる肝心の権利は条例のどこにも出てきません。
 虐待についていえば受ける側が拒否権を発動できるような権利規定こそ必要なはずです。いじめについても、受けた側が問題提起出来ることを権利として保証すべきですし、徳目によって外からいじめを決め付けるような形では問題の解決はできません。

未来への希望

 最後に言っておかなければならないことがあります。それは参加した中高生を裏切るな、ということです。条例は大綱から素案に移行する過程で、大変質をもたらしました。このことは感性豊かな中高生ならよくわかることです。こういったことをやってはならないのです。
「子どもは、未来への「希望」です。」とまがりなりにも語った言葉の本当の意味を、かみしめてほしいです。

Homeへ  ページのトップへ▲


Homeへ

木下泰之 TEL 5355−1283 Email kinoshita@a.email.ne.jp