大正の詩人画家・富永太郎
油絵「自画像」は、*大岡氏が右目の異常拡大を指摘されるふしぎな存在感を持った絵だ。富永の自画像は何点かあるが、この絵が文句なく代表作といっていいだろう。その頃馬糞紙とよばれたうす茶色のボール紙に、骨太なタッチ、確信ある筆はこびで富永は「自己」を描いている。拡大は右眼だけでなく、見ようによっては鼻、唇、額も、遠近を強調した感じで手前が大きくなっている。それはたぶん意識的なデフォルメで、己を弾圧しようとするものに対しての強靱な主張、何ものかへの抵抗をあらわしているのである。「自画像」というより、「自我像」「自己像」とよんだほうが似合う作品かもしれない……富永の心底にひそむえたいのしれないもの、不安、焦燥、孤独、渇望のいりまじった暗黒世界……富永はつねに「自己」を形象化することに一生懸命の詩人画家である。「自分を絵にすること、詩にすること」に一生を費やした。そこには余人の闖入を許さない断固たる(画家としての)姿勢があった。驚くべき自己凝視への偏執があった。その真摯な偏執の姿勢があの富永の絵にあるふしぎな深みと緊張を生んだともいえるのである……(窪島誠一郎「富永太郎」)
大正一四年十一月、数は多くないが珠玉の詩と画を残し、大喀血後危篤になった富永太郎は自らの手で酸素吸入器のゴム管を「きたない」と言って取り去って亡くなった。二十四才。
無題
ありがたい静かなこの夕べ、
何とて我が心は波うつ。
いざ今宵一夜は
われととり出でたこの心の臓を
窓ぎはの白き皿に載せ、
心静かに眺めあかさう。
月も間もなく出るだらう
ランボオへ
?
キオスクにランボオ
手にはマニラ
空は美しい
えゝ 血はみなパンだ
?
詩人が御不在になると
千家族が一家で軋めく
またおいでになると
掟に適つたことしかしない
?
神様があいつを光らして、横にして下さるやうに!
それからあれが青や薔薇色の
パラソルを見ないやうに!
波の中は殉教者でうようよですよ
絵描きになろうとした シュールレアリスト詩人・西脇順三郎
西脇順三郎は詩集『あむばりわるわ』所収の「天気」一作で詩壇に衝撃的デビューを果たした日本のシュールレアリスト詩人である。その波及力は遥かに現代の詩人たちまで届いている。
「……子供の頃は……字を見ることが嫌だった読んでも分からなかった。要するに国語力が足りなかったのであろう。……僕はすべて絵画的にものを見るくせが子供の時からあったらしい。……英語と絵だけに興味があった。子供ながら何でも英語で書いたものを集めようとした……」
「……私は中学一年に入ってから水彩で絵を描くことを好んだ……先生は私の父に私を将来画家にするようにすすめたが、父は反対した。……フランスに行かしてくれと頼んだ。……」
「……中学を卒業してから藤島武二先生の「うち弟子」というものにしてもらったり、白馬会に入れてもらったりした……絵の具箱をさげて駒場のあたりを秋など歩き回った。絵の稽古と一緒に英語の勉強を盛んにやった。ところが職業意識が嫌になった。上野の美術学校へ入ることを強制された。油絵で「ハギ」や「芸者」や「サクラ」などがかけるかと思った。その一年間で職業画家になることを断念した」
「……昭和に入って日本画や中国画に興味をもちはじめ、水墨画で……描くことが好きになった。戦後は油絵を描くようになってやがて現在では鉛筆と淡泊なウス色の水彩で絵を描くことを好むようになった。……私が絵を長年描き続けたということは……絵を描くことによって私の中にある絶望的な魂を慰めてくれたからであろう……」
(西脇順三郎「メモリー&ビジョン?」 「脳髄の日記」「私の画歴」より)
天 気
(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
太 陽
カルモジインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあった
ヒバリもいないし蛇も出ない
ただ青いスモモの藪から太陽が出て
またスモモの藪へ沈む
少年は小川でドルフィンを捉えて笑った
五月のそよ風・四行詩ソネットの名手 立原道造
「五月の風をゼリーにしてください……」と二四歳で夭折した昭和初期の詩人、立原道造は一四行詩ソネットの詩形の名作を多く残している。また道造は「青春の詩人」の代名詞でもある。
暮春嘆息
三好達治
― 立原道造君を憶ふて ―
人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に 清純に
純潔に 生きなければならなかった
さうして君のやうに また
早く死ななければ!
と三好達治はその早すぎる死に言葉を寄せている。
立原道造の四聯一四行(四・四・三・三)の詩はなにより音楽的効果と構成が持たされている。青春の危うい感情と感覚が延びていく触手のように慎重に言葉を選び、紡ぐように構成されている。五・七調や七・五調の音数律とは全く違った土台の上に言葉の音楽を構築しようとした試みであった。
また建築家としての道造にはココア色の図書館や白い美術館、赤煉瓦の音楽堂を中心に芸術家のためのコテージ・「ヒヤシンスハウス」を配した『浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群』という一大芸術家村構想もあった。立原道造の資質を現した夢幻的な構想である。
のちのおもひに
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……
夢は そのさきにはもうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
ゆふすげびと
かなしみではなかつた日の流れる雲の下に
僕はあなたの口にする言葉をおぼえた、
それはひとつの花の名であった
それは黄いろの淡いあはい花だつた、
僕はなんにも知つてはゐなかつた
なにかを知りたく うつとりしてゐた、
そしてときどき思ふのだが 一体なにを
だれを待つてゐるのだらうかと。
昨日の風は鳴つてゐた、林を透いた青空に
かうばしい さびしい光のまんなかに
あの叢に咲いてゐた、そうしてけふもその花は
思ひなしだか 悔ゐのやうに。
しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔ゐなく去らせたほどに!
最後の昭和の大詩人・草野心平
宮沢賢治の最初の発見者は草野心平である。そのとき中国の大学に拠点を置いていた草野心平は一時帰国した際に宮沢賢治が自費出版した『春と修羅』を見つけ一読驚嘆。すぐに手紙を出し、自ら発行主体となった同人誌『銅鑼』に勧誘し、承諾を得て七才先輩の賢治は同人となった。四才年下の中原中也も『銅鑼』同人になっている。心平は、後の日本の大詩人となった二人とともに活動している。宮沢賢治の存在を高村光太郎に知らせたのも心平であるし、心平は賢治と一度も会うことなく死別し、賢治没年の翌年、最初の賢治全集を編纂した。
戦後も『歴程』を長く発行し続け、戦後詩の一大潮流を創り出し戦後詩人の大概の才能を育てている名ディレクターである。
一方で蛙に仮託した斬新な詩を発表しながら、昭和詩の歴史の推進者であり、門番であり、生みの親といっていい才能を発揮したことから昭和の最後の大詩人と呼ばれている。
絵については本格的には戦後から打ち込んでいる。「竹林会」を結成し、詩壇に限らない多士済々の人物で構成されたその会からも人脈のひろさが伺える。グループ展出品はもちろんのこと積極的に個展も開催している。
秋の夜の会話
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土の中だね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずいぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだろうね。
腹だらうかね。
腹とったら死ぬだろうね。
死にたかあないね。
さむいね。
ああ虫がないてるね。
空 間
中原よ。
地球は冬で寒くて暗い。
ぢや。
さやうなら。
小熊秀夫と池袋モンパルナス
今は東京の副都心だが、昭和十年代の池袋界隈にはアトリエ村と呼ばれる賃貸の一軒屋が建てられ、そこに若い芸術家たちが集っていた。昭和の美術と文学の特徴を一言でいえば、世界の戦争とファシズムにいやおうなく巻き込まれていく社会的風潮の中で、芸術家はいかに運命を切り開いて行くかというテーマであった。
社会と国家の理不尽に対する芸術的抵抗としてダダイズム、シュールレアリスム、社会主義リアリズム等が芸術家の間で唱えられた。無論、個人の内面深く沈潜して抵抗の拠点とするものも居た。しかし、誰もがこうした社会状況から自由ではなかった。そんな芸術家たちが池袋界隈にたむろして〈池袋モンパルナス〉と呼ばれた。日本のフジタやイタリアのモジリアーニが第一次世界大戦のころパリに住み、セーヌ左岸のモンパルナスに集まってエコールド・パリの画家と呼ばれたように。
そこには寺田政明、松本竣介、野田英夫、鶴岡政男、長谷川利行、麻生三郎、靉光、熊谷守一、林武等が住んでいた。その中に詩人の小熊秀雄が居た。
「……鳥が餌を啄むように、……対象をかたまりでつかむんだな、……率直で、ユーモアがあって小熊さんの詩と同じですよ」
(寺田政明)
といわれたデッサンを速射砲のようにくり出だした。池袋モンパルナスの面々は夜になると盛り場に繰り出し、飲酒と議論、酩酊と喧嘩の中で各人は深く目覚めていたというべきだろう。
戦争の影は芸術家たちを覆い、日本は焼け野原の破滅に突き進んでいた。小熊秀雄が池袋モンパルナスの歌詞をつくり、誰かが曲をつける。夜は更け、やりとりは白熱化する。
誰ともなしに「池袋モンパルナスの歌」が歌われる。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街にでて来る
彼女のために
神経をつかえ
あまり太くもなく
細くもない
在り合はせの神経を――
愛の出稼人
われら愛の出稼人、
草鞋を履いて
田圃に行かうか、
靴を履いて
会社に行かうか、
教科書抱へて学校に行かうか、
あるひは飛行機にのつて
敵を攻めに行かうか、
人類の愛よ、
キリギリスよ、
お前は細々と石と石との間に鳴いてゐる、
呼吸絶えんとして
絶えず、
あゝあ、情けない話だ、
いさましく我等、
愛の出稼人として出発し
大きな鎌を手にして
不正義を刈つて
正義の束をつくらうとしたが、
種の播き手は少なく
稲の刈り手は多かつたから
仕事はすぐおしまひになつた、
出発のいさましさに引き較べ、
しょんぼりとした
引き揚げよ、
そして愛はキリギリスのやうに
石と石との間に鳴いてゐる、
呼吸絶えんとして、
絶えず、
あゝあ、情けない話だ。
九十年の絵画空間を生きた詩人・ 難波田龍起
難波田龍起もまた池袋モンパルナスの若き画家の一員だった。一九九四年八九歳で初の詩集を刊行した。九二歳で没しているので死の三年前のことである。一九二五年、二十歳の作から一九九〇年、八五歳までの作が収録されている。膨大な数の中から百余点が選定されている。実に息の長いスタンスだ。詩業も七十年、画業も七十年の驚異の粘り腰の作家である。特に絵画では晩年にますます清澄な抽象絵画の独自の地平を切り開き、余人の追随を許さないオリジナルな世界を打ち立てた。自然や生命の謎と未知に対して若々しい関心を失わないであり続けることは長生の画人・詩人の必須の条件である。私たちはそこに未知に対して関心を持ち続けることのできる能力を見る。そして偉大な画業を成し遂げるための能力も。
一九二五年といえば難波田龍起が高村光太郎に出会って自作の詩を持参した翌年のことである。一九九〇年は光太郎が没して三十八年目である。この二人の関係は目に見えない関係でつながってきた。
そのことはこの詩集のあとがきで難波田龍起が「私にとって芸術の父であった高村光太郎」に捧げるということばにもあらわれている。
難波田龍起は九十年の戦中戦後の変転する美術思潮の荒波と社会と自らの生活の激動を潜り抜け、ある生の開放感を得たはずである。
蒼
?
遠い地平線に
人のむれが
影絵のように
ゆらぐ
?
境界線を
踏みこえて
漸く線がはしり
稲妻となる
?
少年が手招きしている
少年のつくる輪は
空間に
無限にひろがる
?
線は生きかえり
命あるもののごとく
見えざる
形象をつくる
?
この世にはない
けがれなき
別の世界へ飛翔する
清浄無垢の裸身
?
稲妻は消え
少年は
海の彼方へ
去ってゆく
?
忘れていたわけではない
天然の摂理が
別離の悲しみを
忘れさせようとするのだ
?
少年の海は平静にもどり
何事もなかったように
太陽はかがやいている
おお 太陽の讃歌
?
夕ぐれ時になっても
私の旅路は
終らない
まだ終らない
?
画面には決定的な
最後の線をひこう
これは生きている
私のあかしである
ヘルマン・ヘッセと水彩画
ヘルマン・ヘッセが〈突然〉絵を描き始めたのは四十歳を過ぎてからのことであった。一九一九年四月南スイスのモンタニョーラに居を構え、ルガーノ湖を見下ろす風向の中で始まった田舎暮らしが合図になっている。またその頃のヘッセは祖国ドイツの国益に反する平和主義を唱えたため、祖国の言論界から指弾され孤立の苦しみを味わっていた。
「しばしば私は一瓶のワインに慶びと夢と忘却とを求めた……役にはたったが(精神を救うには)十分ではなかった。ところがある日私はまったく新しい喜びを発見した。私はもう四十歳になっていたが突然絵を描き始めた。自分を絵描きだと考えたからでも、絵描きになりたいと思ったからでもない。だが、絵を描くことはすばらしく美しい。それは人を楽しく、辛抱強くする……」(ヘッセ)
それから十年のうちに数千点の水彩画とペン画を描いて晩年まで創作を続けた。
ヘッセの詩と文学には孤独と憂愁の翳りが濃く落とされ、内向的な思念の積み重ねから世界の普遍性に迫る方法に貫かれている。
だが水彩画は明るさや楽しさに満ちており、自然の中で生活する人間の歓びが率直に表されている。ヘッセにとって絵を描くことは一種の魂の解放となっていた。
白い雲
おお見よ、白い雲はまた
忘れられた美しい歌の
かすかなメロディーのように
青い空をかなたへ漂って行く!
長い旅路にあって
さすらいの悲しみと喜びを
味わいつくしたものでなければ、
あの雲の心はわからない。
私は、太陽や海や風のように
白いもの、定めないものが好きだ。
それは、ふるさとを離れたさすらい人の
姉妹であり、天使であるのだから。
Weisse Wolken
平和に向って
一九四五年復活祭、バーゼル
放送局の休戦祝典のために
憎しみの夢と血の乱酔から目ざめたばかりで、
まだ戦争の電光と殺人の騒音に
目は見えず、耳は聞こえず、
身の毛のよだつようなあらゆることになずんでいるが、
疲れはてた戦士は
恐ろしい日々の営みをやめて、
武器から離れる。
「平和!」とひびく、
おとぎ話の中からのように、子どもの夢の中からのように。
「平和!」だが、心は敢えて喜ぼうとしない。
心には涙のほうがずっと近いのだ。
私たち哀れな人間は
善いことも悪いこともできる。
動物であると同時に神々なのだ!
苦しみと恥とが、きょうはまだ
私たちをなんと地面におしつけることだろう!
だが、私たちは希望する。私たちの胸の中には
愛の奇跡の
燃える予感が生きている。
兄弟よ! 私たちにとっては、
精神に向って、愛に向って、帰る道が、
すべての失われた天国に向って、通じる門が、
開かれている。
欲せよ! 望めよ! 愛せよ!
世界は再び君たちのものになった。
Dem Frieden entgegen
二十の顔を持つ詩人・ジャン・コクトー
二十世紀のパリに育ちパリで学んだジャン・コクトーほど華麗な芸術的人生を歩んだひとはいない。詩人にしてバレエ演出家、画家にして映画監督、そのマルチな多面的才能は「二〇の顔を持つ詩人」の異名をとり、眩暈をおこさせるほどである。
その交友も画家のパブロ・ピカソやラウル・デュフィやアンリ・ルッソー、舞踏家のニジンスキー、小説家のジイドやプルースト、音楽家のエリック・サティなど綺羅星のごとくであり、また批評家としてプロデューサー的手腕も振るい小説家ラディゲを発掘したり、異才ジャン・ジュネ擁護の論陣を張ったり、シュールレアリストたちとの交友と絶交などスキャンダラスでデンジャラスな話題に包まれていた。
幾度か雑誌の刊行にも手を染めその装幀とデザインはゴージャスを極めた。
一九二〇年代にはデッサンに熱中し、硬質な線で引かれた強い形は簡潔でクラシックな独自の美をかたちづくりピカソから絶賛された。
「詩人は昔からデッサンをしたものです。疲れると僕はよくデッサンをします。それは機械的に出来上がってしまいます。僕は自分のデッサンを讃められるのが、何より嬉しい」、と自分が絵を描くときの解放感と慰安について語っている。
ジャン・コクトーの芸術的好奇心は晩年にも続き、陶器の制作や礼拝堂の壁画にも挑戦した。生涯十冊以上の画集を刊行している。
耳
カンヌ第五
私の耳は貝の殻
海の響きをなつかしむ
Cannes
無韻詩
カンヌ第六
帰って来たのが悪かった
私はあの頃五歳だった
それがいまでは千歳だ
小さな牝犬のザザがいた
今では無くなった橋の上で
エドワード七世によく逢った
姿やさしい鴎らが
ぶらんこに乗って遊んでる
ここも私のふる里
Cannes
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