光太郎智恵子

20世紀の日本を代表する芸術家・詩人高村光太郎とその妻智恵子の物語は、高村光太郎の不朽の名作詩集『智恵子抄』によってよく知られているとおりです。
 しかし、智恵子もまた画家を目指した苦闘の芸術家であったことは、意外に知られていません。実際にそれらの作品は非公開のためもあってなかなかふれる機会がありません。
『智恵子抄』によって唱われた智恵子は智恵子の半分の像です。本展に出品される『知恵子紙絵』が語る世界は智恵子の実像を知る最良のてがかりとなります。 智恵子は芸術にかけた半生の最晩年に、それもわずか2年足らずの間に、病室で人知れず1000点を超える美しい紙絵(光太郎の命名)を残し、1938年の秋にひっそりとこの世を去っています。 
 これらの紙絵は、生前、光太郎にしか見せなかったといわれていたとおり、智恵子から光太郎への言葉によらない愛の詩集にほかなりません。病室に届けられた花や食べ物、身の回りの生活の道具といった何気ない題材によりながら、大胆で個性的な色彩の構成と繊細を極めた技法、簡潔な造形の妙であらためて現代の私たちを魅了します。
〈…彼女の作った切紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録でありたのしい造形であり、色階和音であり、ユウモアであり、…芸術である…〉(高村光太郎)と手放しで評しているとおり、私たちにもこれらの紙絵が一人の女性画家として修練を積んだ、智恵子の最後の成就と微笑のように見えます。
 折しも光太郎没後50年の節目を迎えようとしています。20世紀の草創期の日本に美術と文学に巨大な気圏を有した光太郎、女流画家として身を立てようとした、高村智恵子の生涯と芸術の世界がたどれるように、光太郎のブロンズ彫刻と『智恵子抄』原稿もあわせて展示いたします。
 本展によって、智恵子と光太郎という二人の先達が通過した芸術と生活、理想と現実のはざまの普遍的な人間ドラマが21世紀の日本へ伝えられるよすがとなることを念願いたします。 


 長沼智恵子嬢

 日本の洋画界は日に日に新しい方へ新しい方へと進んで行く。印象派、後期印象派、未来派はまだ現はれないが、ホイッスラアはもうズット古くなって、ゴオホやゴオガンが、そこらこゝらの、大胆な色彩と運筆とをきそってゐる。併し、それは男だけだ、女には吉田ふじを、吉田ゆき子などと油を溶くものゝあるはあるが、皆忠実な『寫す人』に過ぎないが、かう思ふものもあらうが、イヤ待ちたまへ、我が長沼智恵子嬢を紹介する。嬢は男をも凌ぐ新しさを持つて、花のやうな未来を楽しんでいる。
(大正二年聚精堂刊『新しき女』より)


 緑色の太陽    光太郎

…僕は芸術界の絶対の自 由を求めてゐる。従つて芸術家の PERSOENLICHKEIT に無限の権威を認めようとするのである。
 あらゆる意味に於いて、芸術家をただ一個の人間として考へたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点として其作品を SCHAETZEN したいのである。   
 PERSOENLICHKEIT そのものは其のままに研究もし鑑賞もして、あまり多くの疑議を入れたくないのである。僕が青いと思つてるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思ふことを基本として、その人が其を赤として如何に取扱つてゐるかを SCHAETZEN したいのである。
…むしろ、自分と異なつた自然の観かたのあるのをANGENEHME UEBERFALL として、如何程までに其の人が自然の核心を覗ひ得たか、如何程までに其の人のGEFUEL が充実してゐるか、の方を考へて見たいのである。其の上でその人の GEMUETSSTIMMUNG を味ひたいのである。…人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。…絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。…
明治四十三(一九一〇)年四月『スバル』発表


 智恵子さんの印象

 とにかくこのひとの打ち込む球は、まったく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれにとんでくるので悩まされました。あんな内気なひと、まるで骨なし人形のようなおとなしい、しずかなひとの、どこからあれほどの力がでるものか…それがわたくしには不思議なのでした。
(平塚らいてうの智恵子評)

 山上の恋(回想の智恵子・犬吠/上高地)

…明治四十五年…丁度明治天皇様崩御の後私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会った。後彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためについて来た。心中しかねないと見たらしい。…又…入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然目にしてなんだか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれていゐた。……
…大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田のヴヰナス倶楽部で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。その頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりであった。…九月に入ってから彼女が画の道具を持って私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠越えて岩魚止まで彼女を迎えに行った。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登ってきた。山の人もその健脚に驚いてゐた。…それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはった。…その時ウェストンから彼女のことを妹さんか夫人かと問われた。友だちですと答へたら苦笑していた。当時東京の或る新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂を種にしたものであろう。
(光太郎回想)

 父との関係(回想の智恵子・結婚前後)

…丁度その少し前に長沼智恵子にあった。…いわゆる新しい女の一人であり、でたらめな悪意に満ちた世評をさんざんに浴びていた一群の一人であった。しかし私の会った本人は世評と逆に純真無垢な女性であった。幾度か会っているうちにこの女性が私に熱愛を持つやうになり、又私も、これまで会った多くの女性とまるで違う女性、永い間精神が求めていた女性がこの女性だと思ふようになり、ぱっと人生の窓がひらいた。…いままで何であんなに汚く遊んでいたのであらうと感じ出し、…この女性が私を信ずる力の強さで私ははじめて自分で自分の本性を見ることが出来た。ここまで来れば結婚の外ない。私は両親に結婚の許しを乞うた。
 私は母の失望と嘆息とを思って…すまないと思った。…どこかの良家のおとなしい娘さんを嫁に迎えてやり、長い間の自分の主婦のつとめをゆづり、末永く一緒に住んで早く孫の顔でもみたいといふようなことであったにちがいない。…そこへ新しい女、福島県の田舎出の女との結婚といふことが出て来たのである。親類ではさんざんの不評で、あの学校では堕胎の医者まで雇ってあるんだそうだよ、などとけしかけ…たが…表面はおだやかに一九一四年(大正三年)私の三二才の時、智恵子は私の妻となった。上野精養軒に於ける結婚披露式の晩は珍しいほどの恐ろしい豪雨であった それから駒込のアトリエに於ける智恵子と二人の窮乏生活がはじまり、…ただめちゃくちゃに二人で勉強した。 一九二四年頃(大正一三年)から木彫りでお金がとれるようになり、父も少し安心したようであり、又、智恵子も追々母に好かれるようになって母も満足した。
(光太郎回想)


 女流作家の美術観

 批評は要らない。是非の批評はすべての専門家にある。ただ私には、なくて叶わぬものとしてある、この芸術を考えるさえ、身にあまる幸福を感じられる。
 さまざまな時代に、まことの芸術家たちが、それぞれ自身の生命を掘り下げて行った。その作品は、いきていまも、私たちも前に息づく。それ等のものは、魂をめざめさせる。恰も自然が私たちをめぐむ恵みのように、清らかに力強く、押し迫って透徹する。私はそれらの彫刻を愛し、それらの絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、また崇拝している。
 ロダンはあらゆる時代の魂の積畳であって、又海山の自然の反映であると思われる。暁のようなその作品は、暗い魂に、鋭い光と優しい温味とを、ほのぼのと投げかける。ロダンを思うことは私の、栄光である。セザンヌもまた、親しく自分のいまの生活に、糧となって輝いている。たくさんの星の中で、この二人をかぞえて、今は、うらみとはしまい。その一つも、どれ程大きなことであろう。古くから、又それぞれの世に、光りは輝くのだ。私は愛念をもって、それ等を仰ぎみて、よろこびあふれる。
 そして近くこの日本の芸術にも、私はそれ等の美しい魂を見ることの出来る幸をものべておこう。
大正五年二月六日号の『美術週報』に掲載されたもので、この年からはじまった「色々の女の人に、その美術観を聞いたり、又は感想を寄せてもらったりして今後しばらく、掲載することにいたしました。」とするシリーズの一つ。


 棄権

 もしあったら、リンカーンのような政治家を選びましょう。日本にだって一人ぐらい、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしっかりと誠実な根をもちまっすぐに光に向って、その力一ぱいの生活をする喬木のような政治家があってもいいだろうと思います。そういう政治家なら有頂天になって投票することでしょうとおもいます。しかしうまくその時までに、私たちがほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するほかないかとおもわれます。情実や術数の巣のような政党なんかてんでだめですね。  
(大正一三年五月号『女性』)


 アンケート
 「女なる事に感謝する点」に答える

私に恋愛生活(現在の)が始まってから、はじめてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。その他にはまだ経験がありません。「女である故に」ということは、私の魂には係わりがありません。女なることことを思うよりは、生活の原動はもっと根源にあって、女ということを私は常に忘れています。
(大正五年『婦人週報』掲載)


 金         光太郎

工場の泥を凍らせてはいけない。
智恵子よ、
夕方の台所が如何に淋しかろうとも、
石炭は焚かうね。
寝部屋の毛布が薄ければ、上に坐蒲団をのせようとも、
夜明けの寒さに
工場の泥を凍らせてはいけない。
私は冬の寝ずの番、
水銀柱の斥候を放つて、
あの北風に逆襲しよう。
少しばかり正月が淋しかろうとも、
智恵子よ、
石炭は焚かうね
         大正十五年二月



 昭和6年7月29日 智恵子/長沼せん子皆々様宛書簡

母上様
 きのふは二人とも悲くわんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません。われわれは死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。心配しないでぶっ倒れるまで働きませう。生きてゆく仕事にそれぞれとっかかりませう。私もこの夏やります。やります。そしていつでも満足して死ねる程毎日仕事をやりぬいて、それで金も取れる道をひらきます。かあさん決して決して悲しく考へてはなりません。私は勇気が百倍しましたよ。やってやって、汗みどろになって一夏仕事をまとめて世の中へ出します。(中略) 
 力を出しませう。私、不幸な母さんの為に働きますよ、死力をつくしてやります。金をとります。いま少しまってゐて下さい。決して不自由かけません。もしまとめて金がとれるやうになったら、みんなかあさんの貯金にしてあげますよ。決して悲観してはなりません。けふは百倍の力が出てきました。それではまた。

 昭和7年7月12日  智恵子/長沼せん子宛書簡

ながいあいだの病気が暑さにむかって急にいけなくなって来ましたので毎晩睡眠薬をのんでゐます。あまりこれをつゞけますからきっといけなくなるとおもひます。もしもの事がありましたら、この部屋をかたづけみなさんでよいやうにきもの其他をしまつして下さい。大そう長い間のことですからいろいろたまってしまひました。押入れや地袋、ぬりたんす、柳こり、ねだいのうへのものなどみなしまつをつけて下さい。
 皆さんおからだを丈夫にして出来るだけ働き仲よくやっていってたのしくこゝろをもってお暮らし下さい。末ながくこの世の希望をすてずに難儀ななかにも勇気をもってお暮らしなさい。
 それではこれで
   母上様 皆さん
   せきさん 修さん 皆さんへよろしく         七月十二日
七月十五日智恵子 アダリン自殺を計る。未遂に終わり九段坂病院に入院。



 昭和8年12月4日  光太郎/更科源蔵宛書簡

いつかはおてがみ、又昨日はおハガキありがとう。
いってみたいのは年来のことですが、去年の夏以来
ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事
不可能になりました。
ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です。
別封で小冊子お送りしました。


 昭和9年3月20日  光太郎/秋廣朝子宛書簡

御懇書ありがたく拝見しました。
ちゑ子儀一時は殆ど精神喪失し痴呆状態にまで陥りましたが
療養と看護をつづけ居りますうち幾分か快方に向かひ、
最近にては昔やって居りました機織りを又始めるほどになりました。
かういふ機械的の仕事はできるようになりましたが、
まだ意識と智能の全部を取り戻すところまではまゐりません。
おてがみの事を話しましたらあなたの事をよく覚えて居りました。
病院は如何かと思って自宅を病院のようにして静かに療養して居ります。
とりあえず御礼迄。


 昭和9年5月9日  光太郎/智恵子宛書簡

節子さん*1に読んでもらって下さい。

眞亀*2といふところが大変よいところなので安心しました。
なんといふ美しい松林でせう。あの松の間から来るきれい
な空気をどんな病気でもなほってしまひませう。
そしておいしい新しい食物。
よくたべてよく休んで下さい。
知恵さん、知恵さん。


 千鳥と遊ぶ智恵子    光太郎

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい
砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つてくる。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

                            昭和十二年七月



 昭和9年12月28日  光太郎/中原綾子宛書簡

拝復 おてがみ及び二幸よりの贈り物忝なくおうけとりいたしました。大変ご無沙汰申し上げ、且ついつぞやの原稿まで遅延を重ね居りまことに申しわけございません、父の死とつづいてちゑ子の病状悪化とでほとんど寧日なく今年も既になくなろうといたして居ります。ちゑ子の狂気日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引き取りて看病と療治に盡してゐますが連日連夜の凶暴状態に徹夜続き、さすがの小生もいささか困却いたして居ります。(中略)此を書いてゐるうちにもちゑ子は治療の床の中ででたらめの嚀語を絶叫してゐる始末でございます。看護婦を一切寄せ付けられぬ事とて一切小生が手当いたし居り殆ど寸暇もなき有様です。(後略)


 昭和10年3月20日  光太郎/真壁 仁宛書簡

おてがみ忝なくよみました。結城哀草果氏からは「村里生活記」を昨日いただき今日お礼のてがみを差し出したところでしたが、あなたとさういふ関係の方だとは知りませんでした。尚よくよんで所感を申送りたいと思ってゐます。チヱ子は其後病勢ますます募り、小生一切を擲って看護に勤めて居りましたが、遂に戸を釘付けにせねばならず、小生睡眠も取れぬ状態となり、萬やむを得ず先月末脳病院へ入院させました。チヱ子可哀想にて小生まで頭が狂いそうでした。さびしさ限りありません。(後略)


 昭和10年3月12日  光太郎/中原綾子宛書簡

(前略)チヱ子を両三度訪ねましたが、あまり家人に会ふのはいけないとお医者さんがいふので面会はなるたけ遠慮してゐます。チヱ子もさびしく病室に弧座してひとり自分の妄想の中に浸り込み、相変わらず独語を繰り返していることでせう。先日あったときわりに静かにしているものの、家にいるときと違っていかにも精神病者らしい風姿を備えて来たのを見て実にさびしく感じました。まわりに愛の手の無いところに斯ういふ病人を置くことを何だか間違った事のやうに感じました。仕事といふ使命さえ無ければ一生をチヱ子の病気のために捧げたい気がむらむらと起こります。チヱ子、チヱ子と家でくりかへし呼びます。(後略)


 昭和11年4月  光太郎「日記」より

今日は病院へ智恵子を見舞いに行って来て、心が重く、くづおれてゐる。智恵子を思ふと限りなく悲しい。智恵子の狂気は一朝一夕に起こったものでない事を痛感する。むしろその幼年時代からあった異常の種子が、年と共に発達してきて、たうとう平常意識を壓倒してしまったもののようだ。その異常な頭の良さも、その勝気も、その自力以上への渇望も、その洪水のような愛情も、皆それがさせた業のやうだ。智恵子は私との不如意な生活の中で愛と芸術との板ばさみに苦しみ、その自己の異常性に犯されて、刀折れ矢盡きた感じである。精一ぱいに巻き切ったゼムマイがぷすんと弾けてしまったのだ。今日の医学はまだ病勢の監視以上には出てゐない。智恵子のやつれ果てた姿を眼のあたり見て、今日は涙をかくすに困った。智恵子は半分はまだ自意識を持ち、半分は自己の自由にならぬ狂った意識を持ち、その相克の中で夢幻の世界にゐるようだ。


 宮崎春子「紙絵のおもいで」

昭和一〇年一〇月の末、高村の伯父に叔母の看護を頼まれて…わたしはそれから毎夜のように伯母のかたわらにやすみ、そのやつれ果てた姿を見ては泣いた、ただ神に祈った。…いつ頃から切り紙細工を始めたか、はっきりしないが、昭和一一年頃から、簡単なものを作り始めていたように思う。朝の洗面、髪もきちんとちいさなまげにむすび、きつけも冬は大島の袷に銀ネズの繻すのだて巻きを結び、朝食が済んでしまうと、一日の紙絵製作が始まる。押入の前にきちんと座り、お辞儀をしながらいろいろの色紙、アラビヤゴム糊、七センチメートルほどの長さの先の反ったマニキュア鋏、紙絵製作の素材道具を静かに取り出し始める。…こうして毎日の食膳を賑わすものを次々と作られた。珍しいものがつけば、それを紙絵にしないうちは箸をつけないので、たいてい食事時間はおくれてしまうのであった。…別にテーブルもなく、じかに種々の材料や台紙に用いた京花紙も畳に置き、たとえばぶどうならぶどうの房をよくよくみて色紙を選び出し、色紙をいろいろの角度にしてマニキュア鋏でぶどうの一粒一粒の丸みを切ってゆく。その間にもいくどもおじぎをしたり、ひとりごとを口の中でつぶやいたりしつつ作ってゆくのであった。…ひとつのむろ鰺の干物ですらもすらすらとは作ってゆかない。ひとつの切り込みも考えながら作っていたようである。…伯父さまがこられたときに…伯母は…押入からうやうやしく紙絵作品を出してお目にかける。「ほう」と伯父さまは美しさに驚きながらごらんになる。そばで伯母は目を細めて嬉しげになんどもなんどもおじぎをしては伯父さまを見る。


昭和13年10月6日 光太郎/難波田龍起宛書簡

智恵子はとうとう昨夜病気で亡くなりました。昨夜遺骸を自宅に連れてきました。あはれな一生だったと思ひます。



レモン哀歌     光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

                   昭和十四年二月


荒涼たる帰宅     光太郎

あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。

                  昭和十六年六月


 今年のお盆は智恵子のにひ盆だといふので二三の人から岐阜提灯などを贈られたが、実感からいって私はさっぱりお盆といふやうな気がしなかった。……私は相変らず智恵子の写真の前に彼女の好きだった香をたき、水を供へ、友人から贈られたメロンやレモンを置き、其を時々彼女と一緒に食べた。お盆の三日間に丁度みんな食べてしまった。額ぶちに入れて壁にかけた智恵子の切り紙細工が私には智恵子の全生活に見える。其を見てゐると智恵子の魂も肉体も知恵も欲望も、そしてかぐはしい此世の讃歌までも感じられ、又私への無言の訴をもひそかに聴くのである。実に細かな、かくれた、口には出さぬいたはりが画面に満ちてゐる。私の芸術も願はくは斯ういふやうにありたいと此を見るたびに思ふ。智恵子の一生は最も純粋に此所にいきづいてゐる。
光太郎散文・「智恵子のにひ盆」



 紙繪の美しさ     河北倫明

 故高村光太郎夫人智恵子(1886〜1938)が南品川ゼームス坂病院に入院中遺した千数百点の紙絵は、その後多くの人々に愛賞され、希有の美しさを示すものとして感動を呼んでいる。いうまでもなく、この紙絵は公開発表を目的として作られたものはない。精神分裂症を療養中であった智恵子が狂騒状態のときを除いて、ひとり熱中して制作し、大切にしまいこみ、毎週一、二度訪れる夫君光太郎に見せることを生き甲斐としていたものである。…その明るさ、美しさ、大ぶりなゆたかさ、純粋さ、さらに透きとおるような繊細さ、あるときは情熱的に、あるときは優しく甘く、また激しく、ほほえましく、ときには光るばかり爽やかに、ときにはまといつくように可憐微妙で…その切り抜き方の微妙な神経のとどきようはどうであろう。…あるときは僅かにズレて、その微妙な不定形がこころよく感情のリズムをのせてくる。また色彩の配合、比例、均衡のゆたかな美しさもすばらしい。…その製作におそろしいばかりの集中度があったことを語るであろう。…たとえ美術作品として小柄であるとしても、その質の高さ、澄みきった純度、あたたかく爽やかな感覚の冴えは…どこから来たのだろうか。…この紙絵の真の作者は、到底いわゆる智恵子個人といったものではなかったとみるべきである。

展覧会企画

智恵子抄展