日本の近代詩百年の先導者・高村光太郎

「僕は詩人ぢゃない。只自分の思っていることを詩や絵に現はすに過ぎないんだ。」
       (「詩壇の進歩」明治四十五年)

「……詩は言語活動のお祭りではない。詩は言葉そのものの生まれなければならなかったその源初の要求にいつでも目覚めてゐる者の言語活動の最も純粋な瞬間に於ける記録である……」     (「詩について」昭和六年)

 「詩はもとより高度の感激から生まれるが、その高度の感激を言葉に形象化するにあたっては最も深い智恵を要する。それは計画せられた知能のみによっては果たされない。詩とは殆ど生理までとどく程の、強い、已みがたい内部生命の力に推された絶対不二の具象による発言であって、ああも言へる、こうも言へるといふ中の選択ではない。……即ち其れは詩人の全生涯から来る積み重なった体験の下に温醸された魂の深さを意味する。……この深さから来ない詩は詩であるかいがない。」
         (「詩の深さ」昭和十七年)

「詩精神とは事物の中心に直入する精神である。」

「詩精神が言葉に純粋にあらはれれば詩となり、造形に形をとれば美術一般となり、音波に乗れば音楽となる、およそ詩精神を欠く時、これらの諸芸術は碌々たる形骸に過ぎない。」
          (「詩精神」昭和十六年)

「詩人とは……不可避である。」
      (「草野心平詩集序文」昭和三年)


  ぼろぼろな駝鳥

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。


  道程

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため




「パンの会」と『方寸』グループ

 若き詩人の木下杢太郎・北原白秋と『方寸』に拠る青年画家の石井柏亭・山本鼎等が発起して個人単位の自由な論談の場としてたちあげた会。パリから帰った高村光太郎も加わり明治末期の日本の美術と文学が結びついていた会である。
 パンの会が催した明治四十三年十一月の大会に参加した面々は以下の通り。

世話人 高村光太郎 北原白秋 小山内薫
    永井荷風 倉田白羊(美術家)
    森田恒友(美術家) 木下杢太郎
    吉井 勇

参加者 与謝野鉄幹 石井柏亭 南 薫造
    武者小路実篤 谷崎潤一郎
    久保田万太郎 小宮豊隆 他
場 所 西洋料理店「三州屋」会費二円
日 時 十一月二十日(日)午後四時

 一方、美術雑誌『方寸』は石井柏亭、山本鼎、森田恒友の青年美術家によって創作版画と美術評論の発表の場となった。後、坂本繁二郎、小杉放庵、織田一麿、倉田白羊等、二十代の美術家が加わった。また光太郎、白秋、杢太郎等が文学作品を寄せた。『白樺』とともに新時代の息吹きで若い芸術家達を魅了し美術文芸誌として一時代を画した。



 東京大学医学部皮膚科教授・木下杢太郎『百花譜』を描く

 伊豆・伊東生まれの杢太郎は中学校を卒業したとき、絵描き志望だった。家族の反対にあって断念した。高校を卒業し文学を志望した。これも反対にあって東京大学医学部に入った。それでもというより、それだからといってよいほど白秋らと「パンの会」でデカダン的な行動と活発な文学活動を行い、詩・小説・戯曲を発表した。だが杢太郎・大田正雄は鴎外・森林太郎のアドバイスで卒業とともに研究室に入り、満州病院長となって渡満するとき自己の青春を埋葬した。そしてその後東大の医学部教授となった。
 しかし、杢太郎は日記帳に加えスケッチブックだけは旅の伴侶として手放していない。また、晩年の勤務の傍ら描いた植物画は八百枚を超えている。

「僕は物を考えるよりも物を味わう方の素質を余計に持って生まれてきた因果で、用の多い晩などにも、雑草の花、茎などを写生する為に時を費やすことが有る……」
       (木下杢太郎「すかんぽ」)

とさりげなく記しているが、この『百花譜』は昭和十八年三月から昭和二十年七月まで飢えと空襲の中、自宅周辺や大学の構内、伊東や熱海からもたらされた植物を横罫の便箋に描き続けられた。その年、杢太郎は亡くなっている。
 少年期から絵を描くことの情熱が埋火のようにつづいていたことの証である。
 この『百花譜』は杢太郎死後遙かに隔てられた一九七九年に全八七二枚が収録され刊行された。
  五月の微雨


五月の雨に桐の花のうす紫、
そのあまき薫ただよひ、
灰色の病院の窓、
やはらかき白絹のかあてんをそと開けて
いまわかきあえかの女、肺をしもやめる女、
なみだぐみ、花に見入れる……

燕は来り、また去れる……
むしろかのええてるの、はたやはた くろろふおるむの、
夕暮の限もしれぬ
海に似る薄闇の眠のはてへ、
そのはてへ、そのはてへ往かましかばと、
涙ぐみ女思へる……

篠懸木のわか葉ふるへる……

雨のいろ利休鼠の銀なして
しとしととうす紅き煉瓦をひたし
花も無く荒れにたるわか草の医院遊歩場の
垣のあなた、遠き山、遠き森、街を罩めたる……

あはれ、あはれ、五月の昼の病む情緒。


 日本語の魔術師――北原白秋

 詩集『思ひ出』は、白秋を柳川詩人として有名にしただけでなく日本の近代詩の扉を開いた記念碑的詩集である。
 高村光太郎は〈千古を貫く傑作〉と賞した。白秋を決して読まなかった草野心平は最晩年に全作品を読み、感動の余り「若い文学の友よ。どうか白秋を読んでくれ」と訴えた。
 その詩集『思ひ出』には白秋自筆のペン画の挿し絵がたくさんちりばめられている。『桐の花』『雲母集』『白金之独楽』『雀の卵』もペン画や水彩画で彩られている。
 これらの画はイメージの喚起力が強く、版画的簡素美を備え、いずれも不思議な味わいのする魅力を放っている。
 また白秋の詩の持つ絵画性や音楽性の詩風にぴったり合わさっている。
 白秋の周りには杢太郎や光太郎、本職の画家たちが居たせいもあって白秋の絵画は本格的な展開をみせなかったが、晩年には流麗な墨書、軽妙な墨絵をたくさん描き残している。
 白秋は詩・歌・童謡の作詞と領域を広げ日本語の持つ美しさを追求した開拓者であった。最後は、新幽玄歌体を唱え、万葉から新古今までを包含する浪漫的表現に全体重をかけた。
 日本語の魔術師、北原白秋は一九四二年、「新生だ、新生だ」の言葉を残して五七歳で没した。



  片 恋


あかしやの金と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋の薄着のねるのわがうれひ
「曳舟」の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。


  落葉松


  一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

  二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。

  三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

  四
からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。

  五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

  六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。

  七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

  八
世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。



ヒユウザン会

岸田劉生、斎藤与里、清宮彬が発起人。参加者は高村光太郎、万鉄五郎、木村荘八、バーナード・リーチ、山脇信徳、長沼智恵子、有島壬生馬、中村彝等三十余人。大正始めに結成された青年美術家集団。ゴッホ、ゴーギャン、マチスなどをならって主観性の強い表現を試み、官展に対抗し美術界に新しい風を送った。読売新聞社三階で第一回展覧会を開いた。「気の弱いものはその強烈な顔料の色で卒倒してしまうだろう」と新聞で評された。



絵が恋人の天才的抒情詩人・佐藤春夫

 「佐藤春夫は明治以来、日本最大の抒情詩人の一人であり、しかもその最高峰を示している。彼は生来の天才的な抒情詩人であった。彼は人間生活に現れるすべての存在を感情化することができるまれにみる天分を持っていた。普通の人なら何にも感じないものを彼は感情の世界として表現することができた。
……また『万葉』風の歌謡詩人であった……」
         (西脇順三郎「佐藤春夫」)

 昭和になって佐藤春夫は言っている。

「僕は一五六からこの方今でも(!)画描きにならうか小説書きにならうかと思って迷っている……もし食ふ心配をしなくてよい……と仮定したら僕は多分絵の方に熱中するだらうと思う。絵の方のパッションは昔のままで一向に衰えない。……絵の……出来不出来などは大して問題にならない。僕は絵を描き出すと、夜も寝られないような状態になる。夜中に起きて行って覗いてみたり……夜が明けるのが待ってゐられない。……美術は僕にとってついに娶らなかった恋人になるだろう」と。
      (佐藤春夫「美術と文学と自分」)

 「彼は若い時から洋画をたしなみ二科会に出品したことがある。立派な画家になりそうな風格を見せていた。佐藤春夫は晩年に『画家になっていたらよかった』と(知人に)もらしたそうだ。この出品した一枚の絵が彼の書斎に長い間かけられていた。しかし訪問者の多くは誰も気づかなかったようだ。……私は……この絵を実際に二科会の展覧会で見て知っていた。その時はうらやましく思ったこともおぼえている」
      (西脇順三郎「佐藤春夫の芸術」)


  少年の日


  1
野ゆき山ゆき海辺ゆき
真ひるの丘べ花を敷き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは青し空よりも。
  2
影おほき林をたどり
夢ふかきみ瞳を恋ひ
あたたかき真昼の丘べ
花を敷き、あはれ若き日。
  3
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。
  4
君は夜な夜な毛糸編む
銀の編み棒に編む糸は
かぐろなる糸あかき糸
そのラムプ敷き誰がものぞ。




  秋刀魚の歌


あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ
  男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
思ひにふける と。
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて
さんまを 食ふは その男が ふる里の ならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒を。いかに
秋風よ
いとせめて
証せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児とに伝へてよ
  男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
 


『白樺』に集った美術家と文学者

 創刊号の表紙は児島喜久雄の若葉の白樺スケッチ。以後、有島生馬、バーナード・リーチ、岸田劉生、富本健吉の絵やヨーロッパの名画で表紙や口絵を飾り、ロダン特集号で問題提起したり、美術展を開催したり、印象派以降のヨーロッパの芸術の動向を反映させ日本の文学と美術の先端を牽引した。
 同人は当時若かった武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎ら詩人文学者で始められたが、美術家の岸田劉生、中川一政、梅原龍三郎、高田博厚、富本健吉ら多くの人々が加わった。高村光太郎も交誼を結んだ。
 「自我」優先の個人性の強調から十人十色の個性が咲き、文壇・画壇の既成の権威に頼まず、自立した歩みを大切にした。友誼と絶好とを繰り返しながら、明治末に始まった『白樺』は大正末期まで約十四年間刊行され続けた。多くの衛星的雑誌を産み落とし、社会実践まで足を踏み入れる行動的側面も持ち、その影響力は甚大なものがあった。
 白樺は回覧雑誌『暴矢』『麦』『桃園』の三誌の同人が合流して出来たもの。当初、雑誌名は『麦』に決まりかかっていたが、最期に逆転して『白樺』となった。


 大正の早熟の天才詩人画家・村山槐多

 宮澤賢治と同年の村山槐多が大正の伝説的な人物として私たちに伝えられているのは死の翌年に出版された一冊の書物によっている。すなわち『槐多の歌へる』がそれである。大正の二二歳で亡くなった天才画家・村山槐多が残した唯一の詩集である。編集は友人、発行所アルスは北原白秋とその弟さんである。当時の出版を伝える広告である。



  ああ君を知る人は


ああ君を知る人は一月さきに
春を知る
君が眼は春の空
また御頬は桜花血の如赤く
宝石は君が手を足を蔽ひて
日光を華麗なる形に象めり

また君を知る人は二月さきに
夏を知る
君見れば胸は焼かれて
火の国の入日の如赤くただれ
唯狂ほしき暑気にむせ
とこしへに血眼の物狂ひなり

ああ君を知る人は三月さきにも
秋を知る
床しくも甘くさびしき御面かな

そが唇は朱に明き野山のけはひ
また御ひとみに秋の日のきららかなるを
そのままにつたへ給へり

また君を知る人は四月のまへに
冬を知る
君が無きときわれらが目すべて地に伏し
そこにある万物は光色なく
味もなくにほひも音も打たえてただわれら
ひたすらに君をまつ春の戻るを。


  村山槐多       高村光太郎


槐多は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足で上つて来た。
風袋のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。
いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないじやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は目がつぶれたら自殺します。」
眼がつぶれなかつた絵かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。




 賢治の芸術論と高村光太郎

「詩人たちの絵展」にはいくつかのドラマと物語がある。賢治と光太郎の二人の関係もその一つである。
賢治は光太郎の東京千駄木のアトリエを一度だけ訪ねている。ちょうど光太郎は仕事中で一回り年下のこの無名の花巻の詩人と面会することができなかった。「春と修羅」一冊を読んですでに高い評価をしていた光太郎は機会をあらためゆっくり話をすることを約束して別れている。しかしその機会はついにこなかった。一九三三年九月二十一日賢治が三七才で急逝したためである。
 光太郎は九十日後、宮沢賢治追悼のために即座に文章を書いている。『コスモスの保持者 宮沢賢治』と題した文である。
「……内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠にいても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀に見る此のコスモスの所持者であつた。彼の謂うイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。……」
 この文章は全くの無名の花巻在住の宮沢賢治が第一級の日本を代表する詩人に他ならないことを予言した文章である。このとき光太郎は妻・智恵子が自殺未遂から精神を病み苦闘の生活を送っている最中だった。寸暇を惜しみ身を削って書いた文章だった。戦争中も戦後も光太郎は賢治の業績を訴え、その結果世の多くの人々の知るところとなった。
 時間は巡り一九四五年、東京大空襲で千駄木のアトリエを焼け出された光太郎は花巻の宮澤家に疎開している。賢治の弟さん・清六氏が救いの手をさしのべたのだった。
 ついに一度も話し合うことのなかった賢治と光太郎の二人の詩人の機縁は裏になり表になりながら光太郎が没するまで続いたのだった。
 本展には宮沢賢治の作品がご遺族のご協力の下に四点出品されている(複製作品含む)。亡くなった後発見された絵でいつ描かれたものかわかっていない。「雨ニモ負ケズ」も死後トランクに入っていた手帳の中に書き付けられていた文で生前の発表ではない。当時全く無名だった賢治の世界は亡くなってから初めて伝承され後の人々の努力によって作りあげられたものといってよい。
 そのなかに賢治の独自の芸術観を表す宣言がある。
 人間は生きて働き、何気ない日常生活を重ねる存在である。そしてその生活は日々消え去っていく性質のものである。その中で芸術生活というものを考えたらひとはプロにならなくても普段の生活の中で声を出せばそれが音楽となり、手足を動かせば舞踊となる、そうした生活の機縁が芸術なんだと農民たちのすぐそばにいた賢治は考えた。
『農民芸術概論』である。
 賢治も人知れず絵を描き、チェロを弾き、生徒たちと芝居をした。すべて専門家の仕事ではない。今回展示している賢治の絵もその実行であった。
 専門家の芸術より、むしろ人々の日々消えていく日常そのものが芸術になっていく究極のイメージを思い描いたのが賢治の芸術論である。
 以下に賢治の詩に際して書かれた三つの光太郎の文章を掲げる。
 コスモスの保持者――宮澤賢治

 「セザンヌは文化の中心巴里から遠く離れた片田舎エクスにひきこもつて一人で絵画に熱中してゐた。彼は別に新しい事を成しとげるといふやうな心構えもなく、ただ絵画そのものの当然の道を追って自分の力の不足をむしろかこち勝であつたくらゐだ。その片田舎の一老爺の仕事が、世界の新しい芸術に一つの重大な指針を与えるほど進んでゐたのは、彼が内に芸術の一宇宙を深く蔵して居り、その宇宙に向かって絶え間なく猛進したからの事である。内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠にいても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀に見る此のコスモスの所持者であつた。彼の謂うイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。
 私は今或る身辺の事情のため是以上書いてゐる時間がない。彼について書けばきりの無いほど書かねばならぬ。だが是だけで止めても結局は同じ事だ。」
             昭和八年(一九三三)
 賢治没年に高村光太郎が書いた追悼の文章。殆ど世に知られてなかった賢治に対する最大の評価。セザンヌはピカソらキュビズムの「父」となった後期印象派の画家。「或る事情」とは智恵子看病のため身辺急迫していることを指す。


 宮澤賢治について

 「宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど濁逸語で謂ふ所の「詩人」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの遺稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩編の由来する所が遥かに遠く深い事を痛感する。彼の詩編は彼の本体から進出する千のエマナチョンの一に過ぎない。彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。ギョォテが「詩人」であると同様の意味で彼は「詩人」である。日本文学史の上に彼の持つ新らしい意義の重点を私は此所に置く。
 彼の詩の独自のスタイル、大和コトバの眞の把握、不思議な偏倚と普遍との同存、彼の自然現象の肉体そのものである詩作の雰囲気について今語って居られず、まして彼の数多くの童話と自称する星雲的実質物について述べてゐる場所もないが、其れはむしろ宮澤賢治全集を読む人が各自の心魂に十分汲みとられる事であろうから、此処に蛇足を加へる必要もない。」
      (昭和十年『宮澤賢治研究』に発表)


 宮澤賢治の詩

 「……こんなにまことの籠もった、うつくしい詩(「永訣の朝」及び「松の針」のこと)が又とあるだろうか。この詩を書きうつしてゐるうちに私は自然と浄らかな涙に洗はれる気がした。これは妹の死を書いた、岩手県花巻の宮澤賢治という日本に珍しい立派な詩人の詩である。殆ど世に知られずに彼自身も死んでしまった。……地方の生きた言葉が如何に美しく力強く又比例正しく扱われているかをこの場合見ねばならぬ。……同時に彼の詩語全部が生きている。内面から湧きだしてくる言葉以外に何の付加物もない。不足もないし、過剰もない。……少しも巧妙な顔をしてゐない。……陰惨が書いてあってしかも其れを貫き破る光がある。「松の針」の中で死に瀕する妹さんが兄の採ってきた松の枝に触れて喜ぶくだりの崇高の美は、「ああいい、さっぱりした。まるで林の中がさ来たよだ」という妹さんの素朴な言葉に到って殆ど天上のものに類する。……日本の詩を語れといふ依頼をうけて、敢えて此の無名に近い一詩人について私が語るのは、過去よりも未来に多く実りを持ちたいといふ私の心に外ならない。……この詩人の死後、小さな手帖のなかに書き残された言葉があった。その為人を知るに最も好適なので此処に採録しておく……。」
        (昭和十三年『婦人の友』発表)            *「雨ニモ負ケズ」のこと


  林と思想


そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行って
みんな
溶け込んでゐるのだよ
ここいらはふきの花でいっぱいだ



  永訣の朝


けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (*あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまえがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(*Ora Ora de shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (*うまれでくるたてこんどは こた
    にわりゃのごと ばがりでくるし
      まなぁよにうまれでくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変って
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ



「二科会」、「草土社」そして「春陽会」

 新進の画家たちによる反官展の動きは文展洋画部の二科制の提案からはじまり在野の二科会の誕生をみる。二科会の委員は石井柏亭、山下新太郎、津田青楓、梅原竜三郎、小杉未醒、有島生馬、坂本繁二郎、岸田劉生、南薫造等であった。一方で岸田劉生は「草土社」を結成し中川一政、清宮彬、木村荘八、バーナード・リーチ、河野通勢等とともに「白樺」の人道主義を背景に大正期洋画に新局面を開いた。路傍の雑草に宿る生命や大地の恵みに視線を注ぐ、という観点から命名され「内なる美」を目指した。
 こうした大正画壇の主要メンバーはやがて梅原竜三郎、万鉄五郎、石井鶴三、中川一政、椿貞雄、木村荘八、小杉未醒、山本鼎、足立源一郎らを中心にして春陽会を結成し、日本の洋画の本流を形づくっていくのである。
 この間の動きの中に身を置いた中川一政もまた、油絵を描き、同人雑誌をつくり、詩集『見なれざる人』を刊行して画家と詩人の両面を担ったのだった。



 抱懐の詩人・中川一政

 油絵を日本人の絵として確立した文人画家の巨匠として有名な中川一政は若い時その文学的才能を有島武郎に認められて詩集「みなれざる人」を刊行した。文学的出発は早く中学生の時代から同人回覧雑誌に入ったり、短歌に熱中して若山牧水の家に出入りしたり、佐藤春夫等と同人を組んだりしたことは余り知られていない。その後は絵の道に活動の殆どが集中されたが、晩年の歌集は自費で出版したほどであった。

「……富田砕花は歌を作り詩もつくった。人を訪問するのがすきで、私をつれてどこへでも行った。……石川啄木にもあった。……尾上柴舟、前田夕暮、斎藤茂吉、若山牧水、みな一度は逢っている。……牧水は水道橋の駅うらの川沿いに日英舎という下宿住まいであった。丁度学校の帰り途なので締め切り近くになると原稿を届けた。……学校のひけるのは三時か四時である。牧水は寝ていたが起きてきた。……牧水一人かと思っていると隣からけたたましい声がした。北原白秋が泊まっていて、ねどこで新聞を読んでいたとみえる。……私はその頃歌を作り、それから詩をつくり、それから画をかくというようになった。……私はそういう遍歴をへて今日にきている。……」(中川一政「腹の虫」)

「……私たちはまず、フランスから教わった。しかしいつまでも教わっていることはない。フランス以外の国々を眺めてみたらどうだろう。……ムンクにしてもホードラーにしても風土が絵描きを育てる。……いろいろ画描きを引き出して書いたが、日本の画家も日本を土台にすべきだ。追従することはない。しかし故意に日本的を企てたのでは駄目だ。……」      (中川一政「腹の虫」)

 中川一政の詩の言葉と言葉の間には、身近な人々や動物たちの体温に似たあたたかい愛情が湛えられている。それらをひっくるめて自分の進む道に対する人生への抱懐の志しが述べられている。


  秋 思


われ一夜
かうべ港にありて
くらき甲板にのぼり
さぬきのかたをみたりき
かのそらのもとには
わがとほきこひ人すめり

夜十二時
くらき空はきみがねむれるうへに垂れ
星はしろくまよなかを領ず
わがとほきこひ人よ
ねざめてこの大空をのぞめと
こころに念ずるとき
なみださうばうにながれき

きみがとほきむかし
われありし一事をおもひうかべよ
われはいくとせをへて
いまかうべ港の一夜
くらき上甲板にありて
きみをおもふ
星しろく秋思しげし
くらき深夜
さぬきのかたへ
なみはべうべうとしづみゆき
かぜはへうへうとなかれゆくなり

展覧会企画

詩人たちの絵展 1/2