−良寛へのとびら−


素顔の良寛

 良寛の時代

 地車のとどろとひびく牡丹かな  蕪村

 良寛が生まれ生きた時代は長く続いた江戸の幕藩体制が「とどろとひびく」音を立てて動揺し、新しい社会が胎動する不安の時代だった。
 農村の荒廃で農民の不満が爆発し全国で一揆と打ち壊し、強訴、が頻発した。江戸でも富裕な豪商の戸板が破られ打ち壊しが行われた。飢饉による農民の累々たる死者、都市への流民化と武士の窮乏化が同時に本格化した。都市で商品経済の中心を握っていた商人は農村経営、新田開発にも出資、進出した。町人階層の経済権力は日本の社会にとって大きな力を持つようになった。幕府は農民と武士を救うために懸命の改革を行った。良寛の少年時代は宝暦の田沼時代にあたっている。出家・修業時代は松平定信の寛政の改革時代である。しかし幕府にその力は残っていなかった。
 都市の人々は柄井川柳らの狂歌に興じ、幕府を揶揄し、多喜川歌麿・東州斎写楽・葛飾北斎・安藤広重らの浮世絵を愛好し、山東京伝・式亭三馬・十返舎一九の洒落本、上田秋成・滝沢馬琴の読本に熱中した。与謝蕪村と小林一茶は都市と農村でそれぞれ新境地を開き、美術では池大雅・蕪村・田能村竹田の文人画と円山四条派の写実が面目を一新し、平賀源内・司馬江漢らが洋画を描いた。荷田春満、その弟子の賀茂真淵そして宣長、土佐では鹿持雅澄らの復古の国学と新井白石・杉田玄白・シーボルトらの洋学が同時台頭し各地に寺子屋、松下村塾などの私塾が開かれ農村地区でも多くの子弟が通った。良寛はそんな中を行乞して歩いていた。
 大動乱の予兆である。
 良寛死後、ペリー来航まで二〇余年。三〇余年で明治維新を迎える。

 出雲崎

 晴れた日に出雲崎の高台に海を望めば佐渡が見える。出雲崎はその磯を日本海に洗われる町である。今でも漁師町に特有の狭い路地を挟んで瓦屋根の家々が密集した集落をなしている。
 橘屋・山本家は幕府から代々出雲崎の名主役を拝命していた家系で金山のある佐渡に往来する役人の世話をし、町をとりまとめ、犯罪や訴訟のとりしきりなどに当たっていた。父・以南は良寛が生まれた翌年から神主兼名主役を正式に継いでいる。また名のある俳諧師で文人でもあった。
 一七五八年(宝暦八)良寛は山本家の長男として生まれた。幼名・栄蔵。母の名は秀(一説に「おのぶ」)。四男三女を生む。弟は由之、香、宥澄。由之は後に父・以南の家督を継ぐことになる。宥澄は観山と名を変え円明院の住職となる。香は京に上り、国学、和歌、俳句に秀でた学者となり、禁中に出入りする教養人と交流。妹はむら、たか、みかの三人。後にむら、みかの二人は剃髪して尼僧になる。
 栄蔵八才で地元の光照寺の寺子屋に通う。師は住職の蘭谷万秀。十三才から一八才までは、江戸から帰国し、隣町の地蔵堂に開いた、北越四大儒者の一人といわれる大森子陽の塾に入る。地元近隣の地主町人の優秀な子弟らに交じって寄宿生活を送りながら四書五経、文選、唐詩選、孝経を習う。当然、師から首都・江戸の政治や学問の実情、文化的雰囲気を聞き、若きエリートたちとともに少年の客気と大望から江戸や京に笈を負ってひとかどの学者になるか文人になることを思い描いたり、また富裕な家庭環境から茶屋遊びの遊興にも身を任せたはずである。

 出家

栄蔵一五才で元服し、名を文孝と易える。
 一八才の時、父・以南から出雲崎の名主役を引き継ぐために名主見習いとなる。
 そのとき子陽塾を辞す。
 一八歳で出雲崎の名主見習となった文孝(良寛)は一転、慣れない世間智の要求される実務に追われるようになる。「名主の昼行灯」と呼ばれたようにその手際は芳しいものではなかったようだ。
 ある時佐渡の金山に渡る役人の駕籠の竿が長すぎて船に乗らないので難渋していた船乗りたちに相談され「長すぎるなら切ったら良かろう」と指示し、彼らは喜んだが、役人には反感を買わせてしまったなどというエピソードが残されている。また、この頃地元の町年寄に敦賀屋があり、なにかと橘屋と揉めていた。隣村の名主京屋も対抗勢力として台頭してきていた。父・以南の時から揉め事が絶えず、処理されないまま仕事のやりにくい環境が文孝の肩に重くのしかかっていた。
 そうした名主の仕事を一年もしないうちに文孝は弟の由之に譲り、自分は曹洞宗・光照寺住職、玄乗破了の下に入り髪を切ってしまった。
 玄乗破了は少年の日寺子屋で学んだ蘭谷万秀住職の後を継いだ人物だった。文孝は参禅三昧の日を送るようになった。
 この突然の出家の謎は解けていない。背景には一五歳の時の安永元年からの暴風・疫病・飢饉・信濃川氾濫で苦しむ地元の人間苦の見聞、敦賀屋との確執による山本家の衰運の予兆、地蔵堂時代から引っ張っていた失恋あるいは婚儀の不成立などが語られている。また、帯刀し、名主役として処刑に立ち会った時の凄惨な現場の様子をまざまざと見て耐えられなかったことなどが挙げられている。
 理由はいずれにしても無常感に駆られ、あるいはある思慮の下に文孝は一八歳で寺に入ることになる。


 備中玉島円通寺へ

 玄乗破了にとって国仙和尚は武蔵府中で修行していたかつての先生である。国仙和尚は今は玉島の円通寺の住職である。用向きで関東に来ていた国仙和尚が、かつての弟子の破了のために光照寺に立ち寄った機会をとらえ、国仙和尚の手で文孝が得度を受けるよう取りはからった。名主役を捨ててお寺に入っていた文孝の曖昧な立場がこれで正式の僧、沙門となった。薙髪(剃髪)し、名を良観(寛)と変え、さらに国仙和尚と共に故郷を後に西国へ向かった。
 一七七九年(安永八)、二二歳のことである。
 円通寺に到着した良寛は猛烈な勢いで修行した。朝の三時四時に座禅、本堂での勤行、お粥の朝食、柴刈り、水くみ、野菜作り、洗濯、托鉢、夕方の独禅と、率先して修行した。また、諸国に名僧を訪ね禅の真理を尋ねることもした。
 円通寺時代の托鉢中の良寛のエピソードがいくつかある。托鉢の途中で農家の壁にもたれかかり眠っていたら捕まってしまった、あるいは泥棒があった村の役人に問いつめられ何も言わないので怪しまれたが、名主風の人物に「疑われた自分にどこか非があるに違いない」と落ち着き払って答え逆に感心された、いずれも弁解をしなかった良寛のエピソードである。
 一七九〇年(寛政二)、三三歳の時、もう一人の弟子と共に国仙和尚より印可の偈を受ける。雲水修行の終了である。それ以降円通寺の覚樹庵を与えられた。
 そのときの位は高首座である。

 「良や愚のごとく道転寛し……」(国仙の偈の一句目)

 大愚良寛の誕生である。  


 円通寺から西国行脚へ

 良寛に印可の偈をあたえたあと病床に伏せがちだった国仙和尚は翌年死去した。結果的に国仙最後の弟子となった良寛は、新しく赴任してきた玄透即中和尚と入れ替わるように円通寺を後にした。
 指導者の入れ替わりは教団内部の空気も微妙に変えたであろうし、良寛のいる位置も変わったであろう。また、良寛は永平寺と総持寺の曹洞宗内部での本家争いや政治的動きにも批判的であった。
 後に漢詩に表明されているように円通寺に「仙桂和尚」という人物がいて、座禅もしないで経も読まない、ただ畑仕事をし、雲水たちの食事をつくりひたすら下働きばかりしていたその態度こそ真の僧侶ではないかと思い定め、自分のしてきた修行の内容を問うていたこともあり、円通寺を後に三四歳の時、西国行脚の旅に出る。約二一〇年前のことである。
 越後に帰ったのが三九歳であるとして足かけ六年間の行脚だった。
 この間の良寛の消息はほとんど不明である。
 円通寺は武蔵の国の龍隠寺の組織下にあった。この龍隠寺の勢力範囲は東では今の新潟・長野、西国では中国・四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)・北部九州(豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後)地方だったこともあり、良寛はこの西日本を行脚したのではないかと伝えられている。

 文献に出てくるのは土佐の良寛のことである。


 土佐の良寛と近藤万丈『寝覚めの友』

 謎の六年間の放浪の旅で土佐滞在時の様子のみが文献に残されている。近藤万丈『寝覚めの友』である。要約すると以下のごとくである。
 「まだ私が年若い頃、土佐を旅していた時、城下三里のところで雨に降り込まれた。庵を見つけ宿借りを申し込んだ。招き入れてくれた僧は痩せこけ青白い顔をして最初に一言いっただけで話しかけても笑うばかりでものをいわない。夜更けまで向かい合っていたが僧なのに座禅も念仏もしない。「こいつは尋常ではないなと思った」が炉端で休んだ。翌日、目が覚めると僧も炉端で寝入っていた。その日も雨でもう一日宿を申し込むと何日でもと言って麦焦がしを練って食べさせてくれた。部屋の中には木仏が一体、『荘子』が二冊あるばかり。本の間に挟んであった草書があまりに見事だったので書いて欲しいと頼むと応じてくれた。サインに「越州の産 了寛書す」と記した。お礼にお金を渡そうとしたが受け取らないので、代わりに紙と短冊を置いて辞去した」
 そういう内容である。良寛と交流のあった解良淑問の三男・解良栄重が記した『良寛禅師奇話』にも「土佐ニテ江戸ノ人萬丈ト云ヘル人、師ト一宿ヲ共ニセシト、其時ノ事、萬丈の筆記ニアリ」と触れられてある。
 この僧の描写の核心はこの人物が「荘子」を読んでいたこと、座禅などしないことである。通例の僧侶の対極に位置するこのイメージは円通寺の「仙桂和尚」の深化された姿のようでもあるし、道元禅から離れ、自然と遊び、「無用」の用に価値を見いだす隠棲者の姿である。越後に帰った良寛が托鉢をする以外は非僧非俗の隠棲を貫く生活を行ったことを考えあわせるとその原型の姿が報告されている文章である。


 故郷を目指す良寛と父の死

 良寛が西国行脚をしている途上に父・以南は出雲崎を離れ京都への旅をしている。京都には学者になった四男・香も居る。その病気慰問も兼ねていた。北陸道を上り途中で文人と交流し京都についてからも多くの趣味人文人と交流した。さらに長崎まで行っている。以南は京都滞在中に『天真録』を著した。勤王の書である。幕府から目を付けられ弾圧された。また、脚気に苦しみ元の元気な体に回復しないことに悲観した節もあった。

「蘇迷廬の山をしるしに立ておけばわがなきあとは出づらむかしぞ」。

 蘇迷廬*の山(=天真録)を残しておくので自分は死んでもきっと勤王の世が来て私のことをまた世に出してくれるであろうという内容の辞世歌。『天真録』一冊を抱いて桂川に入水した。以南、激情のひとである。その際知人に一封を託し良寛と称する僧がやがて京に来るので渡して欲しいと頼んでいる。
 「朝霧に一段低し合歓の花」の半切である。
後に、
 「みづくきのあともなみだにかすみけりありしむかしのことをおもひて 良寛拝書」、

と記され現在、木村家に遺されている。
 寛政七年以南六〇歳、良寛三八歳のことである。
 六年後、以南追悼句集『天真仏』が友人たちの手によって編まれた。

                      *蘇迷廬は須弥山のこと
                      仏教上の想像の山、宇宙の中心にそびえるという

 五合庵の生活の開始と訪問者

 良寛は父・以南の死の翌年、一七九六(寛政八)年三九歳の時越後に帰り、今浦島の心境で各地を転々としながら住みかえて、翌年国上山の国上寺境内の五合庵の生活を始めた。四〇歳のことである。子陽塾の同門で五歳年下の医師、書画を善くし、詩歌俳諧に通じた原田鵲斎を心の友とした。翌年、京にいる宮中歌人で学者の弟・香が病没。二八歳。更に翌年円明寺住職をしていた弟・宥澄も続いて死去。三一歳。

「あしひきの国上の山をもしとはば心におもへ白雲の外」良寛
「白雲の外としきけば朝夕におもひわすれぬにしの山の端」鵲斎

 寛政十三年父以南の追善句集が京都の出版社から刊行された。良寛は、
  「そめいろの音信告げよ夜の雁」
の俳句を載せた。他に由之、香の句も収録した。
 信濃松代藩士で江戸の文人の大村光枝も五合庵の訪問者の一人であった。
「なべてよの光をたえしおく山の雲ゐの月はいかにすむらむ」光枝
 光枝は良寛のことを大徳の人と呼び無冠の良寛に禅師の尊称で対している。良寛が帰郷して五年目、享和元年のことである。
 この年、鵲斎、由之らと共に良寛も弥彦神社に和歌百首を奉納。

「くさのいほにひとりしぬればさよふけて太田の森になくほととぎす」良寛

 ともかくこうして良寛は故郷で肉親知人たちの打ち続く死の哀しみを超えて居場所を得て、詩人歌人としての存在を周辺に明らかにしていった。
                          ぬれば/寝れば

 良寛托鉢の日々

 五〇歳前後から良寛と地域住民の関係は黙契を結んだように安定した関係を示し始めている。
 庵の竹の子が延びつかえていたので蝋燭で床や屋根に穴をあけて火事を出してしまった、子供と鬼ごっこをしていて子供たちが皆帰ったのに気づかず藤井家のおばあさんに「ばあさん、声を立てたら子供に見つかるがの」と言った、立派な書が書けたとき筆をもったまま踊り出した、三輪家の応挙の犬の絵に勝手に賛をつけて遁走した、どじょうに引導をわたしながら泥鰌汁も食べた、子守を引き受けて背負ったまま眠ってしまった、等々。「手毬上人」「子供と遊ぶ良寛」のイメージが証言の中に見えてくる。住民は托鉢のため里に出た良寛が難渋していると雨宿りの部屋を提供したり、埃まみれの良寛を風呂に入れたり、濡れた着物の着替えを提供したりして、そうしたことを良寛も受け入れている。そして本拠地の国上山にまた帰るという関係である。山の良寛と里の住民それぞれの距離と関係が見られる。また長く托鉢に出れば気ままに空庵や旧知の人の家に泊まり詩をつくり話を聞きまた托鉢に出るという一所不在の「雲遊常無く」のスタイルをとっている。
 この頃の良寛にとっての事件は出雲崎の名主の弟・由之、馬之助父子が住民から訴えられ名主を返上し島崎の地に隠棲してしまって出身の山本家が没落していくさまを見聞していることである。
 もう一つは江戸の文人儒者の亀田鵬斎が越後の弟子たちのための講義に出かけて来た際良寛を訪ね交流したことで良寛の名が自然と江戸に知れわたったということである。その後も二人の関係は折にふれ長く続いた。


 文人達との交流

 文化八年良寛五四歳のとき橘崑崙『北越奇談』が江戸の永寿堂から出版された。序文は柳亭種彦である。第六巻人物其の三の項に良寛が出てくる。「実に近世の道僧なるべし」と記されている。江戸表での良寛伝説のはじまりである。
 越後の若き学者鈴木文台一八歳の時の『喫烟詩話』での良寛評。子供と手毬して遊び、庵にこもり蚤シラミを友とし洗面兼食事用の鉢一つで生活し壁に詩を貼りだし、草書を善くし、詩は詩経を基とする良寛のことを、
「……世の人これを名づけて愚とし賢とし痴とし有道としその名紛紜たり……」と観察し当時の二面的評価で揺れる良寛の人物像を掬い上げている。
 江戸より帰郷した鈴木文台は良寛詩集を「草堂集」と名付け出版したい意欲も持って長く交流を続けた。
 島崎の至誠庵に住む僧の遍澄も訪問者の一人である。地元の学者や歌人他郷の学者や歌人も多く訪ねて来た。
 五合庵時代に一番交際があった人物は国上山のそばの庄屋渡部の庄屋の阿部定珍だった。心友であり、生活の支援者でもあった。このころ良寛は定珍から万葉集を借り註釈を始めている。文化十三年より乙子神社脇の庵に移ったがその暮らしぶりは変わらなかった。
 牧が花の解良喜惣左右衛門・号叔問とも法華経を書写したり、子息の放蕩の相談を受けたりする濃い関係だった。
 文化十五年大関文仲の手で『良寛禅師伝』が作られた。良寛は固辞したが数部遺されている。
 秋田出身の旅行家の菅江真澄『高志栞』にも、てまり上人として良寛が出てくる。
 長岡藩主牧野忠精も乙子庵に寄ったとされる。他にも多くの交友を結んだ人々がいた。
 文政九年六九才になった良寛は山を下りることになる。
 定住先は島崎の木村家である。


 最後の良寛と貞心尼

 文政九年六九才で山を下り島崎の里、木村家の離れに住むことになった良寛はそれでも出歩くことが多くその離れを何日も空けることがあった。翌年三月から夏にかけて照明寺密蔵院に一人でしばらく居た。
 秋になり木村家の庵室に戻った七〇才の良寛を三〇才の貞心尼が訪ねてきた。夏に貞心尼が手毬をもって木村家を訪ねた時は留守であった。二人は夜を徹して歌と話のやりとりをした。数日木村家に泊まりながら良寛と交流した貞心尼は自分の庵室・えんま堂に戻っていった。良寛はこの若い尼僧のことが気に入った。
 翌年四月、能登屋・木村元右衛門は大蔵経六千七百余巻を隆泉寺に寄進している。また、徳昌寺の大蔵経が彼の元に質入れされてきたが質金も取らず徳昌寺へ返還してその危機を救った。初夏には七一才の良寛が塩入峠を越えて貞心尼を訪ねている。
 その年十一月に三条大地震がありその惨状を歩いて見に行っている。
「………しかし災難に逢う時節には逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ」と山田杜皐に見舞状を書き送っている。

 良寛は貞心尼に逢いたがった。

 「きみやわする みちやかくるる このごろは
         まてどくらせど おとづれのなき」

 翌文政十二年、まだ雪の消えぬ塩入峠を越えて貞心尼が島崎の七二才になった良寛を訪ねた。
 文政十三年夏頃から、しぶり便・腹痛・下痢に悩まされる七三才の良寛、貞心尼宛、
 「あづさゆみ はるになりなば くさのいほを
         とくでてきませ あひたきものを」

 その年十二月に改元、天保元年この頃より良寛危篤状態、貞心尼来訪。

 「いついつと まちにしひとは 来たりけり
         いまはあひ見て なにかおもはん」

 貞心尼、弟・由之献身的介護、

 「かひなしと くすりものまず いひたちて
         みづからゆきの きゆるをやまつ」(貞心尼)

 翌天保二年(一八三一)正月六日遷化する。良寛七四才。





良寛の歌

 田安宗武と・福井の歌人・橘曙覧そして良寛

 近世文芸はどちらかというと和歌にとっては下降の時を迎えており俳諧に生き生きとした詩形式が生まれた時代だった。その中にあって松平定信の父・田安宗武と・福井の歌人・橘曙覧そして良寛の作品が近世和歌を代表させることが出来るほど何気ない日常生活を新鮮に歌って近代短歌に接続する境地を示したとされる。


すくすくと生たつ麦に腹すりて燕飛びくる春の山はた

こぼれ糸 あみにつくりて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす

はつとれの鰯のやうな良法師やれ来たといふ子等がこゑ

日は暮れて浜辺を行けば千鳥啼くどうとは知らず心細さよ

武蔵野を人は広しとふ吾はただ尾花分け過ぐる道とし思ひき


 子供たちの遊ぶ姿が私たち現代人の感性にも手にとるようにありありとした画像として浮かび上がってくる。自然詠も眼前の情景をそのまま読み出す直接性が際だっている。明治の正岡子規は宗武・曙覧を「実朝以来」の大歌人とし、伊藤左千夫は良寛の歌を「素湯のむ思いす……ひねりこくりの詩細工人者流いずくんぞ詩を談ずるの資格あらんや」とし「心の響きをさながらに響かせたものなり」としている。斎藤茂吉もまた「良寛歌集私鈔」を著しその魅力に迫っている。



      春

飯乞ふとわが来しかども春の野に菫つみつつ時を経にけり


道のべに菫つみつつ鉢の子を忘れてぞ来しあはれ鉢の子


鉢の子に菫たんぽぽこきまぜて三世の仏にたてまつりてむ


草の庵に足さしのべて小山田の山田のかはづ聞くがたのしさ


この宮の森の木下に子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし


山住みのあはれを誰に語らましあかざ籠にいれかへるゆふぐれ



      鉢の子―托鉢の鉢のこと、その愛称
      あかざ―原野に自生し、若菜は食用。若い芽は紅色。茎は老人用の杖に用いられる。


        夏

わが庵はもりの下庵いつとても青葉のみこそ生ひしげりつつ


夏草は心のままにしげりけりわれいほりせむこれの庵に


夏衣裁ちて着ぬれどみ山べはいまだ春かもうぐひすの鳴く


ひさかたの雨の晴れ間に出てみれば青みわたりぬ四方の山山


あしひきの国上の山を今もかも鳴きて越ゆらむ山ほととぎす


ひとり寝る旅寝のゆかのあかときに帰れとや鳴く山時鳥

                    あかとき―暁


        秋

わが待ちし秋は来ぬらし今宵しもいとひき虫の鳴きそめにけり


秋のゆふべ虫の音を聞きに僧ひとりをち方里は霧にうづまる


さびしさに草の庵を出てみれば稲葉おしなみ秋風ぞ吹く


月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに


秋もややうらさびしくぞなりにける小笹に雨のそそぐを聞けば


わが宿をたづねて来ませあしひきの山の紅葉を手折りがてらに


さ夜ふけて聞けば高嶺にさを鹿の声のかぎりをふりたてて鳴く

           月よみ―月の神の意。月の光が明るくなってから帰られてはいかがですか


       冬

飯乞ふと里にも出でずこの頃はしぐれの雨の間なしく降れば


水や汲まむ薪や伐らむ菜や摘まむ朝の時雨の降らぬその間に


山かげの草の庵はいと寒し柴をたきつつ夜を明かしてむ


み雪ふる片山かげの夕暮れは心さへにぞ消えぬべらなり


うづみ火に足さしくべて臥せれどもこよひの寒さ腹にとほりぬ


        雑

山かげの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも





長歌

   松山の鏡

越路なる 松の山べの
乙女子の 母に別れて
忍びずて 逢ひ見むことを
むらぎもの 心に持ちて
あらたまの 年の三とせを
恋ひつつも 過ぐしやりつれ
くれぐれと 年の師走の
市に出て 物買ふときに
ます鏡 手にとり見れば
わが面の 母に似たれば
母刀自は ここにますかと
喜びて います日のごと
言問ひて ありの限りの
価もて 買ひて帰りて
朝にけに 見つつ偲ぶと
聞くがともしさ

                      朝にけに―「け」は日の意。朝に昼に。いつも。
                      ともしさ―羨ましい
  国上

あしひきの 国上の山の 山かげに 庵をしめつゝ 朝にけに 岩の角道 ふみならし いゆきかへらひ ますかゞみ 仰ぎて見れば み林は 神さびませり 落ちたぎつ 水音さやけし そこをしも あやにともしみ 春べには 花咲立てり 五月には 山時鳥 うち羽ふり 来鳴きとよもし 長月の 時雨の雨に もみぢ葉を 折りてかざして あらたまの 年の十とせを すごしつるかも

  手まり

冬ごもり 春さりくれば 飯乞ふと 草のいほりを 立ち出でて 里にい行けば たまほこの 道のちまたに 子どもらが 今を春べと 手まりつく ひふみよいむな 汝がつけば 吾はうたひ あがつけば なはうたひ つきてうたひて 霞立つ 長き春日を 暮らしつるかも

霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつけふも暮らしつ

                        国上―五合庵のある国上山のこと


 老いの中の良寛


  老いをいたむ歌

ゆく水は 塞けばとまるを 高山は 毀てば岡と なるものを
過ぎし月日の かへるとは 書にもみえず うつせみの 人も
かたらず いにしへも かくやありけむ 今の世も かくこそ
あらめ かにかくに すべなきものは 老にぞありける

老いもせず死にせぬ国はありと聞けどたづねていなん道の知らなく
老いらくを誰がはじめけむ教へてよいざなひ行きてうらみましものを


  眠れぬ夜

この夜らの いつか明けなむ
この夜らの 明けはなれなば
をみな来て 尿をあらはむ
こひまろび 明かしかねけり
ながきこの夜を

      良寛が腹痛としぶり便に悩まされ寝たきりになった最晩年の歌。
      長く苦しい夜もいつかは明けて、あけたら(木村家の)女性が来てお尻を洗ってく
      れる。はやく明けないものだろうか、介護をまってこの苦しい夜に耐えている。  

 良寛・貞心尼

        良寛に貞心尼が手毬を渡す際に

これぞこのほとけのみちにあそびつゝ
つくやつきせぬみのりなるなむ      (貞心尼)

つきて見よひふみよいむなやこゝのとを
とをとをさめてまたはじまるを      (良 寛)

        良寛の訪ねなさいの手紙の返書に

おのづからふゆの日かずのくれゆけば
まつともなきにはるはきにけり      (貞心尼)

あめがしたにみつるたまよりこがねより
はるのはじめのきみがおとづれ      (良 寛)

        女たちだけの山田家の歌会の席で

やまがらすさとにいゆかば小がらすも
いざなひてゆけはねよわくとも      (貞心尼)

いざなひてゆかばゆかめどひとの見て
あやしめ見らばいかにしてまし      (良 寛)

        良寛激しい下痢におそわれ戸を閉じるを聞き

そのままになほたへしのべいまさらに
しばしのゆめをいとふなよきみ      (貞心尼)

あづさゆみ春になりなば草の庵を
とくでてきませあひたきものを      (良 寛)

いつ  と待ちにし人は来りけり
今はあひ見て何か思はむ         (良 寛)




                 「やまがらす」は山田家の女中がつけた綽名で良寛のこと



逸話の中の良寛


〈子供の発見〉と子供と遊ぶ良寛

 近世社会は〈子供の発見〉の時代でもあった。「分家や下人の独立でそれまでの複合家族から夫婦と子供を核とする小農家族が村の単位となっていった。〈かわいがられる〉子供の登場である」(高橋敏)。そうした子供たちは寺社の境内などで群れて遊んだ。そんな子供たちにとって良寛は格好の遊び相手として迎えられたのである。
 良寛は「戒語」のなかで子供に触れて次のように云っている。大人が子供にしてはいけないことは、

一、子供をたらす
一、かりそめにわらべにものいひつくる
一、こどもの泣くときに誰がしたといふ

 また、こどもに余計な知恵をつけて

一、こどものこしゃくなる

はいけない、と。



 手毬のうた三体

 子供と遊ぶ良寛のイメージは手毬つきのうたに代表させることができる。詩と和歌と長歌を採録してみる。

 裙子は短く褊衫は長し
 騰々兀々只麼に過ぐ
 陌上の児童忽ち我を見
 手を拍ちて斉しく唱う放毬の歌
           (「騰々」)


 霞たつながき春日を子供らと手毬つきつつこの日くらしつ   (「手毬つき」)


 霞たつ ながき春日に
 飯乞ふと 里にしゆけば
 里こども いまは春べと
 うち群れて み寺の門に
 手毬つく 飯はこはずて
 そがなかに うちも交じりぬ
 そのなかに 一二三四五六七
 汝はうたひ 吾はつき
 吾はうたひ 汝はつき
 つきてうたひて 霞たつ
 ながき春日を 暮らしつるかも               (「手毬つき」)
 また、手毬つきのうたに代表される良寛の童心の背後には良寛自身の鋭敏な自己批評も隠されていることを見逃すわけにはいかない。
 
 青陽二月の初
 物色稍新鮮なり
 此時鉢盂を持し
 得々として市廛に遊ぶ
 児童忽ち我を見
 欣然として相将いて来る
 我を要す寺門の前
 我を携えて歩遅々たり
 盂を白石の上に放ち
 嚢を緑樹の枝に掛く
 此に百草を闘わせ
 此に毬児を打つ
 我打てばかれ且歌い
 我歌えばかれ之を打つ
 打ち去り又打ち来たって
 時節の移るを知らず
 行人我を顧みて笑い
 何に因ってか其れ斯くのごときと
 低頭して伊に応えず
 道い得るとも也何か似せん
 箇中の意を知らんと要せば
 元来只這れ是れ

「元来只這れ是れ」の句にこれまでの良寛の長い修行の果ての思索と遍歴の後の覚悟が短く述べられている。
  


良寛の好きなもの嫌いなもの/飲酒・喫煙・囲碁・盆踊り

 良寛は旧知の友人たちと逢ったときには好んでお酒を飲み、共に歌を作り、話に花を咲かせた。煙草も吸った。お菓子は金平糖、栗飴、羊羹、干菓子、落雁。好物はなんばん、唐辛子、豆腐、百合の記録がある。詩・書・囲碁・琴が文人の教養だったこともあり、囲碁も打ったが上手ではなかったと伝わっている。
 盆踊りの季節になって太鼓や笛の音が聞こえてくるとうきうきした気持ちを抑えきれず七月十三日の西蒲原郡の夜を徹しての盆踊りの時女装し、ほおかむりをしてわからぬように踊っていると村人が気づき「この娘はしながよい」といわれひどく喜んだ、また一杯機嫌で毎年のように踊りの輪に加わってときには夜明けまで踊った、とされる。

 風は清し月はさやけしいざ共に
         踊り明かさむ老いの名残に

 君うたへわれ立ち舞はむぬばたまの
         今宵の月にいねらるべしや

 反対に嫌いなものが鈴木文台の「草堂集・序」に見える。

「……貧道(私)の好まざるもの三あり。詩人の詩、書家の書、膳夫(料理人)の調食(料理)……」

 これは、さとりくさき話、学者くさき話、風雅めいた話、茶人くさき話を避けたいものだという良寛の戒語にも通じる感想で、専門家の陥りやすい倒錯に対する警告でもある。




良寛を求めて

 相馬御風の良寛

 明治の詩人・文学者・相馬御風は早稲田大学の校歌「都の西北」の作詞家で知られる。東京暮しを辞し地元の新潟県糸魚川に居を構えて文学活動を続けその中で良寛を敬慕し「相馬良寛」を展開し、近代における良寛の再評価を決定した。
 正岡子規が病床で「……良寛の筆跡を見るに絶倫たり。歌は書に劣れども万葉を学びて俗気なし……」と書き注目したり、伊藤左千夫、斎藤茂吉が万葉調の良寛の歌を絶賛し、書人・良寛、歌人・良寛のそうした評価に加え、僧としての良寛の孤高の修行、良寛の春風駘蕩とした逸話に包まれた生き方を総合し人間良寛を『大愚良寛』として大正に著し良寛の全体像を世に問うた。私たちの知る良寛像が相馬良寛に因っているほどその功績は大きい。
 『大愚良寛』全十章の結語にあたる「良寛の眞生命」で次のように書いている。
「……良寛は一個の隠遁者であった。しかも北国辺土の一隅に彼自身の所謂「山かげの岩間をつたふ苔水のあるかなきかに」に生き且死んだ……憐れむべき敗残者、為すなき逃避者に過ぎないのである。……彼の如き人格とその芸術とが今日の吾々の心胸に然く切実なる響を伝ふると云うのは、そもそも何故であるか。……」と問い。
 良寛の詩も書も歌もすべて単なる芸ではなく良寛の人柄の不可分の表現に他ならないとし、その芸術を人間良寛に帰している。書家の書、詩人の詩を否認する良寛にとって芸術はついに人と別にある技巧ではない、とした。
 いったんは世のため人のために大衆を救うことに向かっていた良寛の志が蹉跌反転し、自己の弱さを深く自覚し世間の無用者として生きることに徹した時その並はずれた沈黙の行住坐臥の行動が村人の苦悩とつながった。良寛は深く大衆に感化を現し慕われ、当時の権力と結びついた宗教界と一線を画す真の宗教家であったと結論し、その歌や書がこれほどにまで私たちを引きつける理由とした。


 唐木順三・厳しい貌の良寛

 唐木順三は戦後、その著『良寛』でこの詩一つを精細に鑑賞し、良寛の生涯と境涯をたどり、僧としての良寛の境涯の変化と深化の跡を辿って見せた。

 生涯懶立身
 騰々任天眞
 嚢中三升米
 炉辺一束薪
 誰問迷悟跡
 何知名利塵
 夜雨草庵裡
 雙脚等閑伸

 暖かさにあふれた柔和な良寛のイメージの奥にじつは厳しい貌をした良寛が座っていることを指摘したのが唐木良寛だ。
 その顔つきは良寛の漢詩を辿ることで果たされている。〈魯直〉だった少年良寛がいかに人間社会の〈是非〉をめぐる争い、飽くなき〈得失〉へのこだわりについて悩んだか、良寛は出家しそのことを徹底的に考え抜いた。玉島での修行はすさまじく〈静慮〉を学び〈気息を調へ〉〈殆ど寝食を忘れるに至る〉〈朝参、常に徒に先んず〉の修行だった。そして青年良寛は〈良や、愚の如く、道転寛〉の偈を受ける。「僧伽」という詩では当時の僧侶の実態とその教団の堕落に、まさしく道元禅師が築いた大きな家が倒れようとしている、とするその批判は苛烈を極めている。〈朝に孤峰の頂を極め暮れには玄海の流れを裁つ〉意気込みも、良寛は現状を打開する指導者になることがどうしてもできない自分を自覚し、深く断念する。そこには「雙脚等閑伸」の良寛とは違った、現状に悲嘆し夜中に寝られず輾轉反側し、唱導の詞を誦するもう一人の良寛がいる。そして道元禅に参じなくなった老年の自分を、「錯って箇の駑駘(のろい馬)となる」「辛苦、虎を描いて猫にもならず」「今草庵を結んで宮守となる」と語る良寛に深い苦渋の色を見た。


 常不軽菩薩と阿羅漢の道

 良寛の「法華讃」の「常不軽菩薩品第二十」に詩が書き込まれている。

  朝に礼拝を行じ暮に礼拝し
  但礼拝を行じて此身を送る
  南無帰妙常不軽
  天上天下唯一人

 この常不軽菩薩は人を軽んじないのでそう呼ばれたが、誰彼なく人に会ってもただ拝むばかりで、ひとが馬鹿にするなと怒っても罵っても相手の反応には一切構わずひたすら礼拝したといわれている人物だった。
 かつてのように座禅もせず経も読まず道元禅の本道から外れてしまったと思っていた良寛にとって法華経の中に出てくる常不軽菩薩の行状は拠り所となったに違いない。
 もう一つは『正法眼蔵』のなかの「阿羅漢」の道は自分が現世的な利益や名利を求めず、人を自分の姿で教化しよう、人のために役立とうという考えを捨てて、全く執着なしに自然を眺め自然を自分の心として受け止める生活をするという道として書かれている。
 この常不軽菩薩の行状と阿羅漢の道は「仙桂和尚」という玉島円通寺にいて修行僧たちの炊事当番のような下働きばかりして座禅もしないお経もあげない仙桂和尚は真の道者だとする良寛の詩の内容とともに、故郷に帰り草庵に住み、托鉢する以外は外見的に僧としての活動をしなかった良寛の「大愚」の姿と重なる、と吉本隆明は『良寛』の中で語っている。


 清貧の思想

 中野孝次は『清貧の思想』の中で良寛をとりあげ、戦後の日本人が向かった文化の態度とはあきらかに違った伝統が日本にはあって、良寛もその代表者であるとし、良寛の生き方やその芸術を一つの日本の文化の規範として再認識すべきことを説いている。
 高度成長による物質的豊かさが人間的な豊かさにつながっていない、むしろ荒廃さえ感じられるこの間の日本人の品性に落胆した中野孝次は、一体なにが世界に誇れる日本人の本当の文化であるのかを問うた。
 そのとき見えてきたものが、物質的には不如意の極にありながらも日常の立ち振る舞いで住民をあれほどまでも感化した良寛の世界であった。
 良寛は人々に仏教の説法をするわけでもなく、知識を与えるでもなくただひたすら行乞し、人の家にやっかいになるときには黙って竈の火をおこしたり水を汲んだり、ときには子守をしたりとひとびとの生活の中にとけ込んでいたに過ぎない。それでもその時に良寛さんがいるだけで人々の間に争いは起こらず、良寛さんが立ち去った後しばらくはその家の中には和気が満ち、豊かな気分に浸ることができたと住民は証言している。
 そうした世界は目にみえない心の世界の陶冶に関係していて、物質的な世界をいくら拡大しても到達し得ない独自の世界とし、西行、鴨長明、吉田兼好、本阿弥光悦、松尾芭蕉、池大雅と、連綿と続く日本人の生き方、感じ方、芸術の系譜を描いた。これらの世界には生き方の宝庫があり、人間にとって本当に大切なものは心の価値なのだ、精神的あり方なのだとした。もし私達が豊かな生活を望むならそれは物質の方からはやって来ず、こうした世界の存在を自覚しない限り永遠に到達できない、とその著で価値序列の転倒を促した。

展覧会企画

良寛展