エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.186

ベツレヘムだより(44)    2003年1月4日
トワーヌ・ファン・テーフェレン

 12月31日火曜に正義と平和の行進が行われました。前夜の雨は幸いにも上がりました。ベツレヘム〜エルサレム間の検問所で足止めをされている教会の指導者を、何百人もの人々が待っていました。これらの人々のあとからバス3台に分乗したトスカーナの司教たちと枢機卿を含むイタリアからの巡礼団がやってきて、全員が行進に参加しました。進むに連れて、参加者はおよそ1000人に膨れ上がりました。これは私と何人かのジャーナリストの推定ですが、こういった推定にはいつも大きなばらつきがあります。その後、途中で離れる人もあれば、加わってくる人もありました。鮮やかな紅白の帽子や風船、政治的あるいは「検問所を祈りの場に変えよう」というような政治・宗教的スローガンを書いた横断幕に引きつけられてやってきたのです。将来海外渡航許可証の発行を拒否されるかもしれないと言って、横断幕を掲げたがらない若者もいました。現に、行進の前に私の周りの幾人かの人たちが、報復が怖いので来られないと言っていました。マリーの姉たちと子どもたちは参加しましたが、最後尾にとどまりました。私は、ヤラを肩車して歩き、みんなが良く見えるようにしてあげました。

 イスラエル軍は長くは行進させてくれませんでした。初めに1キロ進んだところで止められました。しかしまた進むことを許されました。2度目に止められたのはラケルの墓の近くでした。そしてそれ以上進むことは許されませんでした。通りいっぱい広がったイスラエル兵の列に向き合って、参加者は一同に集まり立っていました。その場の雰囲気にはほとんど緊張感はありませんでした。近所のアル・アッザキャンプの子どもたちがイスラエル兵に話しかけました。カメラが向けられているのを意識して、兵士は敵対的な反応はしませんでした。教会の指導者たちとイスラム教の指導者、さらにベツレヘムの知事が演説を行いました。ミシェル・サバー大主教もイスラエル兵に対して呼びかけました。ヤラは、兵士の内の一人の顔が好きだと私に耳打ちしました。その兵士は、彼女のクラスメートの1人に一見似ていました。次の日、マリーとマリーの姉が、ぶっきらぼうな会話で、外出禁止令が予告なしに実施されることについて、イスラエル人は月に行って欲しいと言いました。ヤラはそれを文字通り受け止めて「だめ。全部じゃないよ。私の見たイスラエル兵は別だよ」と言いました。行進の最中にある若者が、非暴力行動は抗議のための本当に最高の方法だけど、兵士の前に長時間いなくてはならないし、教会とモスクの責任者が祈っている間に座っていなければならないと、言いました。そうすることで放送局と写真報道家にはその場の出来事が良く見えます。結局のところ、メディアにとって視覚的イメージは言葉よりも重要なのです。その他では、すべての主催者は好感を持っています。それは単に行進がおおよそ計画どおりに運んだだけでなく、人々に顔を上げて、元気を出す機会をあたえることができたからです。
その後、マリーとマリーの姉は、兵士の間を抜けて買い物に行こうと考えました。兵士たちを見ていて、その内の一人が、聖誕教会の包囲の折りにマリーの実家を捜索して、私たちの家にも損害を与えたことにマリーは気づきました。初めは、マリーとマリーの家族は通してもらえませんでした。マリーは兵士の1人に「エルサレムを開放しろ」というスローガンが付いた帽子を差し出し、それをシャロンに渡して「彼を元気づけて欲しい」と言いました。その兵士は笑い、気が変わりました。しかし、行進のリラックスした雰囲気はもはや忘れ去られました。午後9時に外出禁止令が敷かれ、人々は大晦日のお祝いから、家へと追い返されました。あざけるかのように、外出禁止令を知らせる軍用ジープが、勝利を祝うサッカーのサポーターの警笛をまねています。

* * *

 翌1月1日は記念すべき祝日です。少なくともそうなることを私たちは望んでいます。タメルが洗礼を授かるのですが、こちらでは祝賀会まで催して盛大に祝います。たぶん外出禁止令は出ないだろう考え、1月1日という日を選びました。しかし、早朝に外出禁止令が出されそうな様子でしたがテレビで外出禁止令の解除が報じられました。マリーはほっとしました。しかし、2台の戦車がベツレヘムの目抜き通りを行ったり来たりして、外出禁止令を告げました。
どうなっているのでしょうか。マリーはあちこちに電話をしましたが、誰も、知事さえも何が起こっているのか分かりません。地元のテレビ局は、外出禁止令が解除されたことをイスラエル軍本部に確認したと知らせていますが、外の通りでは依然2台の戦車が車と人々を通りから追い払っています。多分その戦車は人々の神経をもてあそぶために無許可でこんなことを行っているのでしょう。電話の前に座り込んでマリーは泣いていました。最初にレストランに90人分の祝賀会を取りやめると伝えました。それから、やはり行うと告げ、そして今度はもうどうしたらよいか分からなくなってしまいました。とうとう最後に、良いアドバイスをもらった後、意を決して「けりをつけましょう。イスラエル人が自分たちのやっていることが分からないのなら、外出禁止令が出ていようが出ていまいが、自分たちのやることは自分たちで決めるわ」とマリーは言いました。決行です。ヤラは、教会に行くときに「エルサレムを開放しろ」、「占領をやめろ」と書いた帽子をかぶって、それを兵士に渡して通してもらったらと言いました。明らかに、昨日のマリーのささやかな抵抗の行為に刺激されたようです。レストランの主人は引き受けてくれましたが、食事を用意するのにもう1時間余分にいかかると言いました。洗礼も1時間遅らせました。パン屋からケーキのことで電話がありました。例の2台の戦車がまだ行ったり来たりしているので、レストランにケーキを持って行けないとのことでした。それでタクシーでパン屋まで行き、パン屋が「タメルの洗礼 1/1/2003」とケーキに手早くスプレーするのを待って、聖誕教会の向かいのレストランに移動しました。レストランの主人は私を招き入れると、あきらめを示す身振りをしながらため息をついて「私たちの生活はこんな有様だよ」と言いました。

 洗礼式は思った通りのお祝いになりました。式の間とてもたくさんのビデオとスチルカメラで写真を撮られたので、タメルはメディアのヒーローのようでした。司式したベツレヘム大学のピーター神父は、タメルがよだれの泡を吹くのを見て「神聖さであふれている」と言い、私たちは皆笑いました。ピーター神父は後で、この洗礼式はお決まりの仕事というよりは、催しだったと語りました。家族と友人たちは祝賀会を楽しみました。マリーの同僚の1人は「精神を高揚させてくれることは、何でもいいことだ」と言っていました。あたかももっと良い時代に生きているかのように、にこやかに笑っているサラマン家とモロコス家の集合写真を撮りました。家族と友人の何人かが、人にタメルをキスさせないようにとマリーに忠告しました。さもなければ、災いの目の影響を受ける恐れがあると言うのです。タメルはとてもかわいいので、人によってかすかな嫉妬を覚えるかもしれないのでなおさらだと言うのです(言い伝えによると嫉妬は災いの目の源だとのことです)。

 次の日もまた、引き続く不安の中に暮らしました。木曜の日中、午後2時に、事前に何の警告もなく外出禁止令が告げられました。ベツレヘム大学の授業は中断されました。教師の1人によると、担当しているクラスの生徒が電話で外出禁止令のことを聞き、それからすべてを取りやめねばならなかったのです。学生が建物の外に集まって、バスを待っているのが見えました。市場で売り子と商人が、値段を大幅に下げてまだ何か商品を売ろうとしていました。しかし人々は慌てて帰宅して行きました。大学の丘の頂上に立っていた時に、動物のように自分たちの家から追い立てられ、あるいは家へと追い返されているこれらすべての一般の人々に対して、深い同情を不意に感じました。人々が増大していく不安に堪えなければならないという残酷な実験を正当化する何か特別な理由があるのでしょうか。それは推測するしかありません。子どもたちが映画館広場でタイヤを燃やしていたとノーマが言っていました。それから、60号線のエルサレム−ベツレヘム間で誰かが撃たれたと噂されました。金曜から土曜にかけての夜間、爆発音を聞きました。逮捕が行われ、3軒の住宅がイスラエル軍によって爆破されたのです。多分この逮捕が外出禁止令に関わっていたのでしょう。しかし逮捕はもっぱら夕刻と夜間に行われるように思われます。土曜の朝になってからも、状況がはっきりしませんでした。ヤラをスクールバス乗り場に連れて行ったところ、外出禁止令がまた出ていることをそばにいた人に教えられました。ジープが夜中の1時半に知らせていたのです。外出禁止令の時間について混乱を引き起こしたり、曖昧なあるいは予定と異なった発表をぎりぎりになって急に行い人々を悩ませることが新たな政策のようです。あたかも私たち皆が、矛盾した標識が掲げられている見知らぬ夜道を歩いているかのようです。



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