Sea Lion Island from Paris
2001.11.30-12.25
〜 1カ月のパリ生活の記録 〜
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 2001年8月、僕は12年間働いた会社を辞めた。このチャンスを生かし、しばらく好きな外国で時間を過ごそうと計画して選んだのが、パリだった。短期レンタルのアパートを契約し、1カ月という短い期間ではあったが、「パリに住む」という感覚の片鱗を味わった。ここに、その記録を紹介する。
 
 
 
 
 
 クリスマス。アパート周辺の店は軒並みシャッターを降ろしていたが、観光地まで出ると、開いている店は多かった。サクレ・クール寺院まで坂道を登り、パリの町を見下ろす。そう言えば、11月の終わり、パリを訪れて最初に来たのがここだった。あの日はよく晴れていたが、今日は小雨のそぼ降るあいにくの天気だ。それでも展望台からの景色は格別で、遠くまで見渡せる。サン・トゥスタッシュ教会がはっきりと見え、改めてその大きさを実感する。
 メトロで南下し、シャトレー駅で降りる。雨が強くなってきたので、カフェに入った。ここで、ショコラ・ショーの飲み納め。セーヌ川を眺めつつ飲んでいると、空が少し明るくなってきた。
 カフェを出て、シテ島へ渡る。裏通りを一周し、ノートルダム寺院の前に出る。このあたりは人で一杯だ。今日はミサが行われるためか、中に入っても人の波。ささやき声が重なり合い、かなりの音量で耳に迫ってくる。
 外に出て、裏手に回る。そこからまたセーヌ川沿いを歩く。
 最後にここに来たかった。大好きな風景を見ながら、パリでの生活を終えようと思った。ちょうど焼き栗売りも出ていたので、焼き栗納めもする。これがもう、焼きたてのアツアツ。今回食べたうちで一番おいしかった。
12/25(Tue)
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1. スープから 11/30(Fri) 6. 愛車プジョー 12/6(Thu)
2. パティスリー 12/1(Sat) 7. サンマルタンの落胆 12/6(Thu)
3. 500フランの価値 12/1(Sat) 8. 西のはずれの森 12/7(Fri)
4. 自炊の日 12/2(Sun) 9. 墓地にて 12/8(Sat)
5. パリのパソコン事情 12/5(Wed) 10. 戦いの果て 12/9(Sun)
 
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1. スープから 11/30(Fri)
 最初の食事は、スープだった。前の住人が残していった、まだ封を切っていない紙パック。備え付けの電気コンロに鍋を置き、どぼどぼと流し入れ、温まるのを待った。

 パリに到着したというのに、予約したアパートの管理人と連絡が取れず、苛立っていた。別のホテルに身を置き、留守番電話にメッセージを残して連絡を待った。
 住む場所が確定しないことにはどうにも腰が座らない。観光をする気分にもあまりなれず、ホテルの部屋で本を読み、時間をやり過ごした。

 ようやく連絡が来たのは、パリ到着後三日目。「午後5時半に、アパート前で」との話に、これで何とか落ち着けるかと思ったが、事情は違っていた。
 約束の時間にアパートを訪れてみると、中には荷物が乱れ、黒人のカップルが困惑した表情で立っていた。彼らはそれまでの住人であり、何かのトラブルでもう一日だけ出て行くのを待ってくれと言われた。
 断ることはできたかもしれない。とにかく何でもいいから早く出て行ってくれ、と言えたかもしれない。が、何やかやとやりとりをするエネルギーは、自分の中にはもうなかった。彼らに起きたトラブルが何なのかを聞く気もなかった。
 さいわい、ホテルはまだ確保してあった。もう一日そこに滞在してもしなくても、料金は変わらない。
 しばらく考えたのち、「OK」と返事をすると、二人は安堵の表情を見せた。彼らはタンザニアから来ていて、明日帰るのだといった。

 翌日、約束の午後2時に部屋は明け渡された。管理人から簡単な説明だけを聞き、あっけなく一人部屋に残された。
 しばらく休んでからもう一度ホテルに引き返し、日本との通信などを済ませてからアパートに戻る。
 夜の12時近くになっていた。そのまま眠ってしまいたかったが思い直し、シャワーを浴びた。
 バスルームから出ると、夕食がフルーツだけだったせいか、腹が減ってきた。冷蔵庫の中に、紙パック入りのスープを見つけた。

 出来上がったスープは、思いのほか美味しかった。急に、充実感が体に漲ってきた。
 今、パリのアパートにいて、キッチンで自分で温めたスープを飲んでいる。これからここでの生活が始まる。1週間ほどの観光ではなく、一カ月というパリでの「暮らし」が、始まる。
 明日は、食材の買出しに出かけよう。
 
 
 
2. パティスリー 12/1(Sat)

 朝食をとりながら、店のマダムの話す心地よいフランス語を聞いていた。町の至るところで見かける「パティスリー(patisserie)」という看板は、要するにパンやケーキを売っている洋菓子屋さんのことらしい。
 アパートから近いという理由で入ったこの店は、表通りからは入り込んでいるのに、客が絶えなかった。おかげで、ランドリーの場所を聞こうという思惑がなかなか達成できず、二つのタルトをすっかりたいらげた後も、ずっと席を立てないでいた。

 店主と客との会話では、何を買うのか、それがいくらなのか、ということが主となる。交わされる言葉を何気なく聞いていると、金額についてはなんとなく頭に入ってくる。以前少しだけ勉強した時、とにかく数だけは数えられるようにしようと必死で覚えた名残である。

 ようやく人の絶えたのを見計らい、ランドリーの場所を聞いてみた。初老のマダムは英語が話せないらしく、「イズ ゼア〜」ではわかってもらえない。わずかな記憶を手繰り寄せ、「エスキリヤ〜」と尋ねてみた。「〜はありますか」の意味だが、ランドリーをフランス語で何と言うのかがわからない。手をぐるぐる回しながら、「うぉっしんぐ、まっしーん」などどやっていると、「Oh!」と言って、店の隣を指差す。近くにあるのかと思い店を出てみると、何と本当にすぐ隣にあった。
 パリの人は冷たくて、英語で話し掛けても知らんふり、なんてことがよく言われるが、僕はほとんどそんな経験はない。話し掛ければ大抵親切に教えてくれるし、英語を話せない場合でも、何とかこちらに伝えようとしてくれる。今日のマダムもそうだった。忙しいなか、最後までにこやかな笑顔で僕に応対してくれた。
 客はほとんどがバゲットを買う人ばかりで、すぐに帰っていく。店先でのんびり食事をとっているのは僕一人だった。ストロベリーとレモンのタルトはとても甘くて量があり、二つ食べると十分に腹が膨れた。
 
 
 
3. 500フランの価値 12/1(Sat)

 店で買い物をする時、いまだに20フランとか30フランという値段の価値が、感覚的にピンと来ない。1フラン20円弱として計算し、ああこのくらいかとようやくわかる。先にロンドンで過ごし、1ポンド200円弱という感覚に慣れかけていただけに、余計わかりにくい。
 だが、500フラン。この価値は直感的にわかる。日本円にして1万円足らず。ナイトショーでこの金額なら安いほう、ホテルのシングル一泊だとちょっと高いかな、もう少し安いところはないかな、という程度だし、食事をしてこの値段を請求されると、ぼったくり、と思う。

 なぜこの500フランが直感的にわかるのか。

 前に、モンマルトルで似顔絵を書いてもらったことがある。最初にパリに来た時だからもう、7年も昔のことになる。有名なテルトル広場を歩いていると、キャンバスを抱えた中年の女性に声をかけられた。もともと書いてもらうつもりでうろうろしていたから、即座にOK、書いて下さいと相成った。
 その更に何年か前、ロンドンのコベントガーデンでも書いてもらった。なかなかうまくて、料金も日本円で1500円程度と手軽だった。今回もそのつもりでいた。
 冬のパリは寒く、書いてもらっている20分ほどをじっとしているのはなかなか体にこたえた。そして、出来上がった絵を見せてもらった。

 ……こみあげる笑いを、ぐっとこらえた。似てないうえに、妙に目のあたりが強調されて、小学生の書いた少女漫画の主人公みたいになっている。(後に知り合いにこれを見せたところ、ほぼ100%の確率で大爆笑を得ることになる。)
 ま、みんながみんな上手いわけじゃないか、と思い、それでも書いてもらったからには料金を支払わねばと、値段を聞いてみた。女性はそれには答えず、おずおずとキャンバスを差し出し、紙をめくって板の木地を見せた。そこに、料金が書かれてあった。

  大人 800フラン
  学生 500フラン

 普通、町中で支払ったことのない金額だった。落ち着いて日本円に換算して、愕然とする。
 こ、この、へな、へなちょこな絵が、いちまんえん……。言葉にならない。
 女性は、当然という顔をして、僕が払ってくれるのを待っている。交渉しようかどうか迷ったが、最初に値段を聞かなかった僕に非があるのは明らかな気もしてくる。躊躇していると、「学生料金でいいよ」と、女性は言ってきた。もうすっかり術中にはまっていた。素直に500フランを要求すると反発を食うが、最初に800フランという金額を見せておき、そのあと500フランを提示することで、同じ500フランでも出してもらいやすくなる。ここで何度か似顔絵を書いて過ごすうちに身に付けたテクニックなのだろうか。
 結局、トラベラーズチェックで支払った。500フランのT/C札が一度に消えてなくなるという買い物など、僕にはほとんど経験がなかった。悔しくて情けなくて、その後の気持ちをおさえるのに苦労した。

 あの時のことは忘れない。確かその同じ日、夕食のあと現金を持っていないのに気付いて往生したことも覚えている。徹底的にツイてない一日だった。だから余計に記憶に深く刻み付けられている。

 数十フランの価値はわからなくても、500フランの意味だけは忘れない。
 
 
 
4. 自炊の日 12/2(Sun)

 夕方から、サントゥスタッシュ教会にパイプオルガンを聞きに行く。外観が少しでっぷりとしていて威厳があり、この教会を外から眺めるのは大好きだが、入るのは初めてだった。ここに、7000本ものパイプを持つというパイプオルガンがある。開始の5時半直前に行くと、既に大勢の人が座って待っていた。
 何かアナウンスメントがあり、演奏が始まった。
 低音が腹によく響く。かといって、聞き苦しいほどの大音量でもない。パイプは背後の壁面に剥き出しになっていて、そこから建物内部に複雑な反響音が作り出される。あまりに反射が多過ぎる場所だと、音が広がりすぎて細かな演奏部分がよく聞き取れないが、ここはそんなこともない。逆に、ゆったりとした曲調よりも激しい曲調部のほうが、迫力があって聞き応えがする。
 一本一本のパイプを見てみると、小学生の頃に使ったリコーダーと同じようなスリットがあいている。原理は同じなのだろうが、見た目は、束ねられた雨どいだ。
 30分の演奏を聞き終え、満足してアパートに戻る。今日は家で夕食をとるのだ。

 昨日の昼間、アパート近くの大通りまで買出しに出かけた。大小さまざまのスーパーが散在するなか、肉屋と魚屋が並んであり、大層な賑わいだった。魚屋のほうを見ると、カニやエビ、カキなどに混じって、見たこともないような魚までいろいろと揃えてある。それらを見てまわりながら、これなら調理できるかと、シャケを一切れ買う。バター焼きにするのだ。
 それから、水やミルク、コーヒーなど、雑多なものも手に入れた。「暮らす」という気分が高まってくる。

 その日の夜に作ったシャケのバターソテーは、大成功だった。もちろん、素材の良さが決め手であって、バターを入れて焼くだけの料理に作り方も何もない。油がよく乗っていて、骨からうまくほぐれるのを、ほくほくと食べた。これに、バゲットと、トマトスープ。バゲットの本物は初めて食べたが、焼きたてはこんなにやわらかいのかと驚いた。ホテルなどで出てくるのはもう日が過ぎたもので、固まってしまっている。そして、スープ。粉をお湯で溶くだけなのに、抜群にうまかった。たった一人の晩餐会は大成功のうちに幕を下ろした。

 教会から帰り、すぐに支度を始める。今日はソーセージと野菜のスープ。日本では見たことのない小さなサイズの玉ねぎがたくさんあって、これを何とか使おうと思った。最初、玉ねぎかどうかも疑わしかったのだが、皮を剥いて切っていると涙が止まらなくなった。匂いを嗅いでみる。OK。確かに、玉ねぎだ。
 ソーセージはスーパーでパックになったのを買ってきたものだが、包丁を入れてみると、かなり固く、匂いもきつい。
 実は、朝食用に買ってきたハムでしくじっていた。パックを切った瞬間、ものすごい刺激臭に襲われた。それは時折、フランス人と会話する時に気付く強烈な口臭、それと全く同じだった。何とか一枚食べたが、それが限界だった。
 このソーセージも、今朝のハムと似た匂いがした。さいわい、あれほど強烈ではなかったので、そのままスープに入れる。あとはニンジン、それからサラダ用の野菜も適当に入れる。味付けは簡単、コンソメの素を入れ、塩コショウで整えるだけ。
 またバゲットを添えて、食べてみる。昨日に続き、これまた大成功。ま、今回も味の決め手はコンソメスープだから、失敗のしようがない。それでも自分で作ったものの味が良いと、すこぶる気分はいい。少し作りすぎたかと思ったが、少食の僕がすっかりたいらげてしまった。

 自炊生活、順調なり。
 
 
 
5. パリのパソコン事情 12/5(Wed)

 ロンドンではホテルから簡単にネット接続できたのに、パリではえらく苦労する羽目になった。問題はなんとか解決し、こうしてサイトの更新もできている。ここで少しだけ、パリでのネット関連の話を書きたいと思う。

 まず、ホテルの電話回線。去年のホテルは問題なく接続できたが、今回のホテルでは苦労した。壁からはモジュラープラグが出ていて、そのままパソコンに接続できる。モデムセーバーで調べたが、極性も問題なかった。
 それなのに、パソコンからのダイヤルアップができない。何度かやってみたが、どうもパソコンからのダイヤルが受け付けられていないようだ。ダイヤリングさえうまくいけば、以降の処理はうまくいきそうな気がする。
 結局、どうしたか。まずモジュラーの二又分配器を買ってきた。これは、「BHV(ベー・アッシュ・ベー)」という、日用雑貨などが揃っている大きなスーパーのパソコンコーナーで手に入れた。
 分配器からの一端を受話器につなぎ、一端は開放しておく。受話器からアクセスポイントの番号をダイヤルし、パソコン側もダイヤルアップの接続手続きを行う。ただしパソコン側にはまだつなげていないので、これは空打ちだ。
 そして、受話器から相手先に繋がった音が聞こえたら、すかさずパソコンにモジュラーのもう一端をつなぐ。タイミングがうまくいけば、これで繋がる。

 そして、ホテルを出たあと。アパートに電話のコンセントはあったが、回線は死んでいた。管理人に聞いても、回線を繋げてくれそうにない。パリでは携帯電話を使う人がほとんどなので、部屋の回線は使われることはないそうだ。
 しかたなく、町中でアクセスできるところを探した。まずは、公衆電話。データポート付の電話機をモンパルナス駅とリヨン駅で見つけたが、どちらもデータポートは使えなかった。どうしてかは、わからない。
 それから、インターネットカフェ。パリには多数あると聞いていたが、実際には、町中を歩いてごくたまに見かける程度。決して、数は多くない。そして、店に置いてあるマシンを使うのではなく、僕のように自分のパソコンをネットに繋ぐサービスを扱っているのは、そう、4〜5軒に1軒ぐらい。しかもそれらは全て、電話回線ではなく、LAN接続によるものだ。
 LANカードは、持ってきていなかった。こんな事態を全く予想していなかったのだ。とはいっても、残る手段はただ一つ。パリでLANカードを手に入れ、LAN経由で繋げる。これしかない。
 しかし、パリのパソコン店では、なかなかLANカードが売っていない。そもそも、パソコンショップ自体がそれほど多くはない。前述の「BHV」でも、デスクトップ用は売っていたが、ノートPC用のものはなかった。
 ここで活躍したのが、あるインターネットカフェ。パリではサイバーカフェというらしいが、日本人が経営する、日本語の使えるサイバーカフェが、オペラ座近くにあった。ここでいろいろと調べることができ、リヨン駅の近くの「スーコフ」という地域にパソコンショップが固まっているという情報を得た。

 早速この、スーコフに飛ぶ。駅の高架に沿って何軒か並んでいた。が、すぐに店は途切れてしまう。これだけか、と思い高架をくぐって反対側に出ると、もう、あるわあるわ、確かに店の数は名古屋の大須を思わせるほどだ。店々で、ノート用のLANカードがあるか聞いて回る。
 あるには、あった。2軒に1軒ぐらいの割合で、売っている。しかし、高い。500フラン前後。あの忌まわしき「500フラン」、そう、1万円弱だ。日本では今や1000円で手に入るというものに1万円をかける気にはなれない。
 何軒か聞いて回るうち、ノートPCの専門店のような小さな店に入る。ぱっと見あらくれ者の店員さんだったが、英語で丁寧に応対してくれる。他の店では見たことのない製品を出してくれた。値段、290フラン。これでもかなり高いが、他の店と比べると格安だった。これを買うことに決めた。
 早速、近所のカフェに入り、インストールをしてみる。かなり不安だった。まず、日本語版Windows2000に対応しているのか、という問題。そして、僕のPCにはCD−ROMもフロッピードライブもついていないので、付属のドライバがあってもそれを使うことはできない。何とかWindows内臓のドライバで対応しなければいけない。
 カードを差す。手続きが始まる。これで、何かの指示が出ずに終われば、正常にインストールできたことになる。
 祈った。心から。そして、ディスクのアクセス音が聞こえなくなる。……終わったようだ。
 デバイスマネージャーで確認する。やった!!ドライバは正常にインストールされたようだ。

 残るは最後のステップ。サイバーカフェで、ネットにアクセスできるかどうか。
 昨日立ち寄った、LANカードでアクセスさせてもらえる店に行く。モンパルナスだった。到着し、回線を使わせて欲しいと言うと、店員は申し訳なさそうに首を振った。
 「今日は……駄目なんだ」
 店内を見渡すと、客は誰もいない。そして、全てのPCはストップしている。ネット回線に異常が起き、店内の全てのPCが使えないようだった。
 落胆する。疲れがどっと出てくる。しかし気を取り直し、別の店に向かう。
 リュクサンブール公園の近くに、店はあった。店内のPCを見回す。問題なく動いている。
 店員に許可を得たあと、ケーブルをつなぎ、チェックしてみる。動かない。ツールを起動させ、確認してみた。メッセージが画面に表示される。
 「…cable disconnect.」
 なぜに?!IPアドレスは自動取得だから、ただ繋ぐだけで使えるはず。店員が何か設定を見てくれたが、音をあげた。
 「I don't know.」
 うーむ、やっぱりだめなのか……。絶望。しかし念のため、といったんカードを取り出し、再び差してみる。試しに、店内の別のPCとの接続を確認。……あ、つながっている。じゃあ、インターネットエクスプローラを起動してみてください、と店員が言う。
 やってみた。そして何と、ちゃんと自分のぺージが出てきた。OK!!あとは、メールの受信と、サイトの更新。OK!これも大丈夫!!イェイ、イェイ、イェ〜〜イ!!!

 ……と、パリのパソコン事情というよりも、単なるプライベートな情報になってしまった。
 ま、パリでネットを自由に使おうと思っても、こういう状態だということです。
 
 
 
6. 愛車プジョー 12/6(Thu)

 今日も相棒のプジョーに乗り、町中へ出てゆく。愛車の乗り心地は、すこぶる良い。グリーンのカラーも、町に映えて綺麗だ。出会ったのは、バスチーユ広場。狭い店の奥にひっそりと置かれていた。三週間レンタルで850フランの契約をとりつけた。

 プジョーなら、どんな渋滞でもお構いなし。往生する車の脇を、颯爽とすり抜ける。こいつのおかげで、町中の移動が格段に楽になった。今までだと、目指す場所に着くまでに何度もメトロを乗り換えたり、駅から長い距離を歩く必要があった。それが、こいつがあれば、最短距離を選んで行ける。パリの町は意外に狭く、市内の南西部に位置するアパートからでも、30〜40分もあれば、たいていの場所までたどり着ける。
 ただ、やっかいなのは、突然の雨だ。油断していると、水びたしになってしまう。少々の雨ならコートのフードを頭からかぶり、大降りにならないことを祈りながら、目的地へ向かう。
 知らない人が多いかも知れないが、プジョーというメーカーは、自動車だけでなく自転車も製造している。僕が借りたのは、一見マウンテンバイク風だが、その実乗ってみると意外に後傾姿勢になり、はた目にはオバチャリに近い。
 変速は三段だけ。それでも、町乗りには十分だ。

 便利な地図を買った。ほんの小さな薄いものだが、パリ中の全ての通りの名前とその場所が載っている。町なかには至る所に通りの表示があって、迷ってしまっても通りの名前から場所を探り当てられる。プジョーで外に出る時には、必ずこれをポケットに入れておき、わからなくなったらすぐに取り出す。適当に走っていると、何気ない場所に、ライトアップされた壮麗な建物を見つけたり、意外なスポット同士が近くにあったり。発見は尽きない。

 今日もオバチャリ型プジョーにまたがり、どこまでもペダルをこぐ。
 
 
 
7. サンマルタンの落胆 12/6(Thu)

 今日向かったのは、サンマルタン運河。これまで一度も訪れたことはなく、ずっと行くのを楽しみにしていた。東駅のすぐ近くにあり、「北ホテル」という映画の舞台にもなったホテル跡のある、静かで叙情あふれる場所、のはずだった。

 パリは、久しぶりに晴れた。これまでずっと低い雲が立ち込め、一日のうち必ずいくらかは雨の降る重たい天気が続いていた。だから、今朝窓を開け、青空が見えたときは驚いた。
 自転車に乗っても、爽快感が全く違う。
 途中にあるリュクサンブール公園に立ち寄り、ベンチに座ってしばらく本を読む。先週雨の中訪れた時には人は誰もいなかったのに、今日は日向ぼっこをする人々でいっぱいだ。モンパルナスタワーもエッフェル塔も、空にくっきりとその稜線を見せていた。
 晴れていても気温は低く、じっと座っていると体が冷える。リュクサンブール公園からまた自転車を飛ばす。途中、レピュブリック広場に立つマリアンヌ像を横目に、サンマルタン運河に到着。しかし、期待していた風景は、思惑とは全く異なっていた。

 運河に、水はなかった。中には工事車両が連なって置かれ、無様に泥の水底を晒している。周辺一帯が何かの工事中のようだった。
 ビデオや写真で見ると、思わず音楽が聞こえてきそうな、雰囲気のある場所だった。それなのに……。
 落胆しながらも、周辺を見て回る。北ホテルが見つかった。本当に何の飾り気もない、すっぴんの外観。今はレストランとして運営されているらしい。

 しばらく歩いたあと、ちょっとだけいい場所を見つけた。運河にかかる、独特の鉄橋。味わいのある緑色で、ゆるやかな弧を描き運河をまたいでいる。
 工事現場がなるべく見えない場所に移動し、写真を撮る。

 反対側に渡ろうとすると、階段の上り口に、酔っ払いが座り込んでいた。立ち上がれないほど飲んでいるらしく、小さな声で鼻歌を歌っている。そばを通ると、強烈なワインの香りがした。
 
 
 
8. 西のはずれの森 12/7(Fri)

 ロンドンに比べると、パリには緑が少ない。公園もいくつかあるものの、ハイド・パークやケンジントン・ガーデンズのような、都会の真中に突如現れる巨大な異空間、という感じにはほど遠い。ロンドンとパリ、日本人からするとどちらもよく似た中世風の町だが、一番の違いはそこにあるのではと、よく思う。

 そのかわり、といっては何だが、パリには東西に一カ所ずつ、有名な森がある。西がブーローニュ、東がヴァンセンヌの森だ。晴れたらどちらかに行ってみようと思っていた。
 とりあえずアパートから近い、ブーローニュに行く。途中、アンバリッドやエッフェル塔をやり過ごし、セーヌ川を渡る。さらに、パリ中心部を囲むように走る高速環状道路を越えると、もうそこが入り口だ。凱旋門からもほど近い。

 競馬場の脇をすり抜け、森の奥へと入っていく。綺麗な湖があって、太ったおじさんが釣りをしていた。犬達は紐をほどかれ、嬉しさを全身で表しながら走り回っている。それを、ベンチに座った老夫婦が目を細めて見つめる。ちょっとこれベタじゃないのと照れてしまうほど、いかにも、といった風景。

 森の北の端に、遊園地があった。動物園も兼ねているというので、入ってみた。
 これは、期待はずれに終わった。何十年も昔の設備がそのまま残っているのではないかというほどの寂れた乗り物、そしてくたびれた動物達。人も少ない。週末にもなれば、もう少しにぎわうのだろうか。それにしても中は広く、自転車は入れないため歩いて回っていると、もう夕日が薄く辺りを覆い始めていた。
 急がねばならない。森のちょうど反対側のはずれに、まだ見たいところがあるのだ。
 ローラン・ギャロス。テニスの全仏オープンが行われる、テニスコート。中に入らなくても、入り口でも見られればと思っていた。
 自転車を飛ばす。端から端まで、地図で見ると3〜4kmはある。釣瓶落とし、とはフランス人は言わないだろうが、日の暮れるのは速い。夕焼けが瞬く間に色を変え、深い朱に包まれていく。焼けた空を横切る飛行機雲もまた赤く染まり、空を大きく横切って延びてゆく。
 美しい。日本では馴染みのない光景だ。

 ローラン・ギャロスには着くには着いたが、もうあたりはすっかり暗く、入り口付近にも目立った特色はなかった。「ローラン・ギャロス」という表示さえ見つけることはできなかった。
 あきらめて、帰路に着く。地図で見て気付いたが、すぐそばにはパリのサッカー・クラブ「パリ・サンジェルマン」のホームグラウンド、「パルク・デ・プランス」もあるようだ。
 また改めてここには来ることにしょう。
 
 
 
9. 墓地にて 12/8(Sat)

 午後早くに出かけるつもりが、すっかり遅くなってしまった。自転車で5分ほど走った所にあるモンパルナス墓地に足を踏み入れた時、既に日は傾きかけていた。
 冷たい空気のなか、取り急ぎ目当ての著名人の墓を探す。しかし広大な敷地内には、一般の方のも含め、膨大な数の墓が建てられている。しかも、有名人だからといってそれほど顕著に目立つわけではないため、そうそう探し出せるものではない。まずはモーパッサンからと、ガイドブックを参考に探すが、どうしても見つからない。
 歩き回っていると、お墓参りの人に何人か出くわす。自分の姿はというと、リュックとガイドブックを手にした、明らかな観光客だ。ちょっと恐縮してしまう。物見遊山の東洋人が、自分達の大事な人の眠る墓地の中を歩いて見物しているのは、愉快ではないに違いない。なるべく厳粛な気持ちを保とうと思った。

 ふと、お墓というのは、死んだ人自身と残された人、どっちのためのものなんだろう、と考えた。人は、死んだあとも何かの痕跡を残したいと願うのだろうか。
 僕は昔から、自分の墓は要らないと思っている。死後の世界があるにせよないにせよ、死んだらいったんはこの生は終わり。いつまでもしがみつくようにお墓を残したくはない。それに、残された遺族に墓参りの義務を強要するようで、嫌なのだ。
 僕が死んだら、どこか景色の綺麗なところに散骨してもらいたい。そんなの気持ち悪い、と誰かに言われたらまた考えるけれど。
 以前、「400字の遺言」という本を読んだ時、自分が死んでも葬式はあげてほしくないとか、墓は要らないと思っている人が結構いるんだなと思った。だいたい、ふだん信仰心もないくせに、冠婚葬祭の時だけ宗教儀式を持ってくるのが不純だ。結局、ただの形式に過ぎないではないか。考えてみると、結婚式や葬式やお墓などなど、形式を保つだけのために、人は信じられないほどのお金をかける。不思議だなあと思う。

 これが、キリスト教国だと少し違ってくる。彼らの祈りは、まさしく神に向けての真摯な願いだ。キリスト教の教えが真実かどうかは関係ない。教会で行う結婚式は、心からの神様への誓いのはずだし、葬式だって同じだ。もちろん、そうでない例も、ある割合で確実に存在するだろうが、一般的な態度として、日本人の行動とは明らかに異なる。

 「To My Beloved Wife」などと書かれた墓標などを見ているうち、これらのお墓にこめられた思いが、胸に迫ってきた。生年と没年から、30代の若さで亡くなったとわかるお墓もある。もしそれが愛する妻のものだったらどんなだろう。他にも、もう30年も前に亡くなった人のものなのに、よく手入れが行き届いて、驚くほど綺麗なお墓もあった。
 結局、大切な人が亡くなった時、そのやり切れない気持ちの象徴が、墓という形なのではないか。愛していた人への感謝の気持ちや弔いの気持ちがまずあって、それが形としてお墓というものに具現化された。もしそうならば、墓にも意味はある。

 時間がなかったので、とりあえずこれだけはと思っていた、サルトルのお墓目指して歩く。途中、鐘が鳴り始めた。教会でもないし、何だろうと思っていると、門が閉まっていくのが見えた。閉門の時間らしい。
 
 
 
10. 戦いの果て 12/9(Sun)

 駅前から見る風景がふと、見慣れたものに映った。が、すぐに思い直す。この町には、ほんの数時間前に初めて降り立ったばかりだ。
 レンヌの駅前にあるカフェで、レンタカーのオフィスが開くのを待っていた。今朝は7時に起き、モンパルナス発のTGVに乗って、ここまで来た。最終目的地はまだ先だ。あのモン・サン・ミッシェルに、どうしても今日のうちにたどり着きたいのだ。

 イライラさせられるタネは、いくらでも転がっている。ドライバーのマナーの悪さや、レジの女性の傲慢な態度や、踏んづけてから気付く犬のフン。そして何よりも増して、自分の運のなさに。
 アパートの契約やレンタサイクル、ネットへの接続など、パリに来てからというもの、トラブルなしに済んだことの方が珍しい。そのたびに苛立ち、神経をすり減らせた。それが旅行の醍醐味ではないか、そんなことで腹を立ててどうする、と思うことも、さらにイライラを募らせた。

 2時間の快適な列車の旅のあとに待ち受けていたのは、またしてもそんなトラップの連続だった。
 レンヌまでTGVに乗ったあと、レンタカーを借りようと思っていた。モン・サン・ミッシェルへ列車で行くには乗り継ぎが悪く、現地でホテルを探すにも車があったほうが便利だと考えたからだ。
 しかしここに来て、日曜日のレンタカーオフィスは、午後4時からしか開かないことを知った。日曜日に発とうと思ったのには、さほど大きな意味はない。ただ、一日目は早く着いて、夕焼けのモン・サン・ミッシェルを見る、そして一泊した翌朝に朝焼けを見たあとに島内を見て回り、帰るという計画だった。夕焼けを、何としても見たい。なにせ、こんなに晴れた日なのだ。その思いは強く、観光案内所でいろいろと探ったが、やはりだめだった。
 4時に借りてからだと、間に合わない。レンタカーを扱っているホテルがあると聞き行ってみたが、鍵がかかっており、誰もスタッフはいなかった。
 ……待つしかない。諦めて、近くのクレープリーで昼食にした。

 しかし、パリとは全く異なる静かなこのレンヌの町は、歩くにはいい所だった。単純な路地なのに、なぜか嬉しくてビデオを回してしまう。そうやって歩くうち、いつの間にか気持ちがほぐれていた。

 午後4時、並んだ数軒のうち最初に開いた一軒で聞いてみる。が、「今日は無理です。1台も空きがありません」の返事。次なるトラップ。そうだった。オフィスが開いているからといって、借りられるとは限らない。
 別のオフィスが開くまで待った。そこでようやく借りられた。しかし、駐車場に行き、乗り込んでから、しまったと気付く。マニュアルミッションなのだ。左ハンドルだと、右手で操作することになる。しかしもうそんなことは言っていられない。前にも一度、運転したことはある。とりあえず、日が沈むまでに何とかたどり着きたい。早々に車を出す。
 レンヌの町でたっぷりと休養を取った体は軽く、車も快調。さらに、目的地までは、標識を見ていれば、道を外れることもない。高速道路を降りる頃、時間は、午後5時を過ぎていた。
 今日も見事な夕焼けが出ていた。しかしもうそのピークは過ぎ、光が失われつつあった。もうすぐ着くはず、そう思い、車を飛ばす。
 カーブを曲がった時だった。一瞬、目に映ったものがあった。
 ……角(つの)、だ。何か尖った先端、ガイドブックで見た覚えがある。また見える。
 ……塔、だ。ディズニーランドのシンデレラ城を思わせる、あの形。間違いない。着いたのだ。
 間に合った。喜ぶ先に、全貌が姿を表す。
 夜中に大仏を見た時のような戦慄。怖くなるほどの衝撃が走る。

 正直、ほっとしていた。まだ何か自分に襲い掛かるトラップがあって、今日はもう見ることはできないかも、などという怖れはどこかにあった。しかし、無事にたどり着けたのだ。
 静かにふもとの駐車場に入っていく。車を降りてこの僧院を見上げ、もう一度つぶやく。

 ……ついに、着いた。

 

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