【7】
ここは、何処だろう。
ここは・・・
隣の仏間で香を薫いているのか、時折仄かな沈丁花に似た香木が薫っていた。寝つけずに何度も寝返りを打っている凪嗄に、遠夜は蒼白い顔を向ける。
「伽羅の香りだよ。この家に居れば嫌でもあの匂いが染みついて・・・」
遠夜は自分の躰に染みついたように薫る香木の香りを嫌っていた。凪嗄は微かに薫る遠夜の匂いが好きだったけれど、強過ぎる芳香に身体を裂いた嫌な痛みを思い出した。
「香炉を消すように云ってくるよ」
その言葉を残して、遠夜は障子戸の外にある深い闇に呑まれて消えた。凪嗄は、遠夜の部屋の見慣れぬ
天井を仰ぎながら、遠夜の足音だけを聞く。就寝前に灯した洋燈の燈が、天井に異形の影を浮かびあがらせていた。しばらくそのまま揺れる影を眺めていたが、戻ってくる気配のない遠夜が心配になって、凪嗄は寝床から起き上がった。
「遠夜?」
返事が返ってくる様子はない。急に不安になって廊下に飛び出した凪嗄の眼前にあるのは、ただ広がるばかりの闇だけだった。眼の慣れるのを待って辺りを見回すと、蝋燭の燈のような小さな灯りが濡れ縁の上を通
り過ぎるのが見えた。
濡れ縁に出ると、その燈は積雪で仄白く浮かび上がる庭に向かってゆっくりと移動していた。そして庭の中程にある池の辺りでぴたりと動きを止めた。その燈を追って縁側から降りると、畔の菖蒲田の近くに佇む遠夜の姿が視界に入った。声を掛けようとして近付いて、凪嗄はその姿に息を呑んだ。
白い半袖シャツに濃紺のズボンから透徹る白さの手脚が伸びていて、素足のままの脚先は泥に触れて汚れていた。包帯の巻かれた右の手も泥が付いて黒ずんでいる。遠夜は汚れた両手をだらりと垂らしたまま、向こう岸で池を見下ろすように立っている銀木犀の大樹を見上げていた。暫くそうしていたかと思うと、不意に何かを思い出したように屈み込むと、暗く澱む水面
に両手を浸し、巻かれた包帯を気にかける様子もなく、憑かれたようにその手を洗い始めた。
凪嗄は尋常ではない遠夜の様子に声をかける切っ掛けを失ってしまった。そのうちに遠夜はおもむろに立ち上がる。解けかけた包帯の端から水が滴り落ちていた。
「・・・死んだんだ・・」
吐き出された言葉に凪嗄は息をのむ。
「 ルフナが、死んだんだ、」
振り向いた遠夜の瞳は、凪嗄を通り越して遠くを見ていた。表情のないその顔が、闇の中で蒼い輪郭だけを残して暗い影を落とす。深く、蒼い遠夜の双鉾は、其処にいるはずの凪嗄の姿を映してはいなかった。凪嗄は自分を越えた視線の先を追って、ゆっくりと振り返る。
「ぁっ・・・」
凪嗄の視線が捉えたのは、遠夜の蒼白い頬だった。窓から差し込む淡い月燈りが、その顔にさらに暗い蔭を落としている。遠夜は静かな寝息をたてながら、貌のよい頭を枕の中に沈めていた。
振り返ったと思った動作が、自分の寝返りだったことに、凪嗄は小さな溜息を漏らした。そして穏やかな表情で眠っている遠夜の顔が、過ぎる程に蒼白な事に不安が募る。その白さは、凪嗄の持つ病弱な白さとは違う、闇に紛れてすぅと消えてしまいそうな脆弱な白さだった。
蒼白な顔の中で、整った唇だけが、紅を引いたように色付いている。それは、あの甘い林檎の紅玉
色によく似ていた。
この唇を、
知っている。
「遠夜・・・」
消えてしまいそうに蒼白い遠夜の存在を確かめようと、凪嗄は自分の白い腕を闇の中に伸ばす。指先がその頬に触れようとした刹那、遠夜の瞳がうっすらと開かれた。凪嗄は慌てて所在なく伸ばした腕をもとに戻す。そして、虚ろな眼差しを向ける遠夜に閉口した。
「眠れないの?」
穏やかで柔らかい声が響く。
「ごめん。起こすつもりはなかったんだ」
「別に構わないよ。・・・少し、外に出てみないか?」
真白な木綿の寝巻の襟を整えてから、遠夜は静かに立ち上がった。凪嗄に外套を手渡してから、自分の外套を羽織ると、枕辺に置かれていた洋燈に燈を灯す。そして、銀木犀の樹に続く路を示して庭に降りた。月燈りに照らされた仄暗い木樹の中で、先を行く遠夜の外套の裾が小刻みに翻り、ちらちらと見隠れする、細くて色のない足首が酷く艶かしく見えた。
「昔、小さな兎を飼っていてね、」
遠夜は独り言のように呟いて歩みを止める。
「濃い茶の毛色の、手の平に乗るくらいの小さな奴で、名前は『ルフナ』て云って、随分長く飼っていたんだけど、」
銀木犀の大樹を指差した遠夜は、無表情のまま振り返る。
「あの日、君と初めて言葉を交わした、あの夏の暑い日に・・・死んだんだ」
「えっ・・・」
「水に落ちて、溺れたんだよ」
自分を責めるように引き結んだ唇が色を失い、庇う仕種で袖の中にある右腕の白布が痛々し気に闇に浮かんだ。
「ルフナは池に堕ちたんだ。あの鳥に、目が眩んだんだ、」
遠夜の細い腕が上がって、示された先に一羽の鳥が仄白んでいた。細長く、鉤状に曲がった嘴を持った鳥が、月光に照らされていた。
「時々来るんだ。海鴨の一種で、アイサって云うんだよ。冬鳥なのに、何故かあの夏、この池にいて・・・」
その鳥は、池の中を滑るように悠々と泳いでいた。
「ちゃんと、籠の中に仕舞ってあげなかったから」
俯いた遠夜の躯に落ちた葉陰が大きく揺れて、冷えた夜気がその足下を駆けあがった。
「風が、出てきたね」
「うん」
「寒い?」
不意に、遠夜の腕が、背後から凪嗄を抱いた。暖かく包み込まれてゆく感覚はこれが初めてではない。凪嗄は遠夜の右腕にそっと触れる。どうしてか、涙が溢れそうになって、云いたい言葉が声にならなかった。
「凪嗄・・・」
遠夜の声が耳元に落ちる。
凪嗄を、傷つけるつもりはなかったんだ
凪嗄はアルドワーズの色を呈した水面で、月燈りに蜜色の水尾を引く鳥を眺めながら、白い息を吐いた。遠夜の肩に頭を預けながら、ゆっくりと顎をあげると、柔らかい遠夜の視線の甘さに躯の力が緩んでゆく。
そして、自分の頬を包んだ細くしなやかな遠夜の手が、氷のように冷たいことに気がついた瞬間、二人の唇は微かに触れあって、凪嗄は遠夜の腕の中で意識を手放した。
「・・・本当はもう、気がついているんでしょ・・・」
これも、また夢。
暗い闇の中で、手の中から零れ落ちた林檎の紅い色が鮮烈な色を発して。凪嗄は暗中を転がってゆくその果
実を、必死になって追い掛けていた。そして、追いついたと思った時、小さな果
実は突然遠夜の姿に変わった。
遠夜は有栖川の白い外套に抱かれて、満開の桜の大樹の下に立っていた。包帯の巻かれた蒼白い腕だけがだらりと外に垂れている。解けて下に垂れる包帯の端からは、水が滴り落ちていた。
木から落ちたんだ。そう云っていた遠夜の顔が、壊れた幻燈機のようにいつまでも凪嗄の脳裏を巡る。そして、遠夜の哀しい顔。しかし今、有栖川に抱かれる遠夜の顔に表情は無かった。
凪嗄はその手に手を伸ばす。刹那、有栖川がおもむろに口を開いた。
「その手を取ったら、夢から醒めなくなるわよ、」
それでも構わなかった。
分かっていた。いつから自分が夢の中にいるのかすら。ずっと、そうしなければならないような気がしていたから。だから、
その手を。
そんな凪嗄に遠夜は夢から醒めるようにと、ずっと警鐘を鳴らし続けていてくれたのだ。今、凪嗄は自分から、遠夜の手を取りたいと思ったのだ。傷つけてしまった遠夜の為に。
そう。傷ついたのは、僕ではなくて
遠夜のほう、
僕は、
君を。
凪嗄は購うようにその手を取った。凍る程に冷たいその指先は、握り締めた途端、硝子細工の人形のように凪嗄の手の中で砕け、その鋭い破片が凪嗄の白い掌を購罪の刻印のように汚した。
そして、砕けた遠夜の手首から溢れ出たのは、仄かに薫る沈丁花の薫りだった。
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【7】
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