【6】
声の主に驚いて足を止めた凪嗄は、障子の向こうに遠夜の苛立った声を聞いた。先刻凪嗄を叱責した声とはまた違う、激しい口調で毒吐いている。遠夜の方が一方的に怒っていて、もう一人はそれを嘲るような口調で応えているように聴こえた。
薄紙の向こうで二人の影が青い炎のように揺れていて、その障子戸の隙間から部屋の中を薫きしめているらしい紅塵の匂いが微かに廊下に零れていた。
「凪嗄に何を言った?」
「何を、言った?」
口角の上がった唇に不適な笑みを浮かべながら、有栖川は剣呑な眼差しで遠夜を一瞥した。
「何をした?」
「・・・私があの子に何かしたと思ってるの?」
心外だ、とでも云いた気に肩を竦めた有栖川の眼が、遠夜の震える手の先に視線を落とす。
「凪嗄をどうするつもりなんだ?」
「別に、どうするつもりもないわよ。それに、あの子に何かしたのは・・・貴方の方じゃないの?だからあの子、」
「違う、凪嗄は・・・」
遠夜は項垂れたように肩を落として、言葉を続けられなかった。
「あの時と同じなのよ。私の時と、貴方は、そうやって誰かを傷つけて、」
「違う、」
「違う?貴方は、本当は知っているはずなのに、信じたくないだけなのよ。だから、あの子だって、あの時あなたを拒絶したんでしょ。そう、同じなのよ・・・」
「拒絶?」
「決して向けられることのない感情を、誰かに求めることが、どれ程残酷な事なのか・・・あなたが一番よく分かっているくせに」
「・・・・」
「あの子を、誰かの変わりにするのは止めなさい、」
強い言葉で言い含められて、遠夜の顔が蒼冷めてゆく。乾いた唇が何かを云おうとして縺れていたが、それは声にならずに震えたたけだった。
廊下に立ち尽くしたまま二人の会話を聞いていた凪嗄は、自分のことを云っているらしい会話の意味をきちんと理解する事が出来なかった。だた、何かを思い出さなければいけないような気がして、きゅっと拳に力を込める。苦い思いが再び胸の中を満たして、記憶の断片に、哀しく俯いた遠夜の顔を覗き見た。
凪嗄は障子戸の近くまで歩み寄ると、その隙間に眼を凝らし、息を殺して中の様子を確かめて見た。奥に向かって二間続きになっているその部屋は、仏壇以外には何も認められず、伽藍とした手前の部屋に灯された明かりが廊下に細く漏れていた。仏壇の据え付けられた奥の部屋には、燈明だけがゆらゆらと緋橙の炎を揺らしていて、二人は奥の部屋の中程に向き合うように立っていた。
薫かれた香炉から立ち昇る紫煙に包まれて、その姿はぼんやりと霞んでいる。仏壇に小さな位
牌と供に並ぶ写真は煙りに霞んでよく見えなかった。
「あなたは、そうやって同じ事を繰り返すのよ。いつまでも・・・」
「・・・違う・・」
「不毛ね、」
彼女の白い指先が、遠夜の頬を優しく包み込む。
次第にその顔が遠夜の顔に近付いて、
唇が触れあった瞬間、長い鳶色の髪が、はらりと垂れてそれを隠した。
遠夜・・・
凪嗄の胸を強い疼きが襲って、激しくなる動悸と呼応して腕の力が抜けた。その手から滑り落ちた襟巻が、だらしなく廊下に横たわる。
凪嗄は弾かれたように踵を返すと、玄関を飛び出して、外套も羽織らずに歩き出していた。心臓の音が耳の内側で聞こえる程、動揺を隠しきれない小さな肉塊が、嫌な収縮を繰り返し、口元に込み上げる嗚咽をかみ殺した唇の震えが止まらなかった。
どうして?
「止めっ、」
遠夜は力任せに躰を捩らせると、憎悪に満ちた声をあげた。
「そんな顔しなくてもいいでしょう・・・」
「何を、」
「・・・あなたが、あの子にしたこと。こう云うことでしょ?」
「違う・・・」
有栖川は含み笑いを浮かべながら遠夜を見た。
「違う?そうね、違うわね。あなたがしたのは、もっと酷いこと・・・」
「違う、」
遠夜の瞳が力を増した。瞳の中に流れていた澄んだ水は流れを止め、変わって青い炎が起っていた。鬼火のように揺らめいて、遠夜は何かを強く否定しながら鋭い眼光で彼女を射た。蒼白になった額に汗が滲んで、結んだ唇には微かに血が滲んでいた。
「じゃぁ、あなたは、どうして此処に居るの?」
どうして?
記憶が、断片的に甦る。
繰り返されるのは、夢か現か、幻か?
凪嗄の頭は混乱していた。外套も羽織らずに帰宅した所為で発熱し、目蓋の裏で焼き付いた光景に眠ることも出来なかった。疲れ切った躰を寝台の上に横たえながら、重たい頭を枕に沈めた。頬に垂れる髪は、払っても払っても同じ場所に戻ってくるばかりで、凪嗄は前髪を掻き上げた姿勢のままで、天井を仰ぎ見た。凛とした静けさが空気を張り詰め、耳鳴りのように聞こえる心音が凪嗄を不安にさせた。
眠りたかった。眠ってしまえば今朝からの出来事が全て夢だった、などと云うことがあるかも知れない。眼が醒めれば、季節外れの雪など降らなかったいつもの日常が其処にあって、遠夜は変わらず、笑顔でいてくれる。
あの朝、凪嗄は本当に目醒めたのだろうか。この世界が夢か現か、その境を見極める鍵を何処かに落としてしまったような、得体の知れない恐怖が凪嗄の小さな心臓を貫いていた。
「遠夜・・・君なら知っているの・・・」
不意にそんな気がして、凪嗄は無理やり目蓋を閉じた。
再び眼を開けた時、凪嗄は自分の居場所を疑った。凪嗄が居るのは、見紛うことなく学校の教室の中だった。窓際の自分の席で、前を見ながら座っていた。
教室の中に生徒はまばらで、昼休みに入っているのか、雪の積もった校庭には悲鳴のような声を出しながら遊ぶ少年達の姿が見えた。空は、今にも降り出しそうな厚い雪雲に覆われている。
ひどく喉が渇いていて、席を立つと後頭部に軽い浮遊感を伴った。全身にある虚脱感は、水飲み場に向かう凪嗄の足を重くしていた。蛇口を開くと、勢い良く流れ出た冷水が蜜色の飛沫を上げる。両手で作る水盤に水を溜めると、凪嗄は一気にそれを飲み干した。躰の中をゆっくりと浸透してゆく透明な水が、意識をはっきりしたものに変える。
「起きたの?」
遠夜の穏やかな声が背後に聴こえた。彼の静謐な顔が、凪嗄を見つめていつものように微笑んでいた。変わらない笑顔を向けられて、凪嗄の蒼白く曇った顔がほんのりと上気する。凪嗄は少しほっとして、何処からが夢だったのか考えようと意識を集中した。しかし、俄に憶えた空腹感に上手くものを考える事ができなかった。
「お昼、食べはぐれただろ、」
「あの・・・」
「凪嗄、ずっと眠っていたから」
「ずっと?」
「あぁ、今日は朝から居眠りばかりしているよ」
「そう・・・なの?」
遠夜は呆れたように肩を顰めて、ゆるりと右手を差出した。
「ほら、」
白い包帯の巻かれた手の中に、熟した林檎の実が一つ乗っていた。艶やかな紅玉
色の果実は水を弾いて濡れ、巻かれた白布がその水滴を吸って、湿ったように細い手首に張り付いていた。
「手、怪我したの?」
「うん。木から、落ちたんだ・・・」
凪嗄は、以外な科白を吐いた遠夜の眼に、不安と悲しみの入り交じった翳りがあることに気が付いて、眉を顰めた。そう云えば、遠夜と初めて逢ったあの日も、彼は手首に白い包帯を巻いていた。差出された遠夜の手を、凪嗄は今でも忘れてはいない。そして今、遠夜の手は再び凪嗄の為に差出されているのだった。
「洗ってあるから、そのまま齧って食べるといいよ」
「うん・・・ありがとう」
遠夜は凪嗄の手にそっと果実を手渡した。微かに触れた遠夜の指先はひどく冷たく、蒼白い。渡された林檎の実も、雪の中に埋もれていたような凍った冷たさをもっていた。
凪嗄はその実を口に運ぶ。唇にあたる紅い果実の感触は丸みをもって柔らかだった。甘くて、少し酸味のある味が口の中で弾け、瑞々しいその果
実は、咬む度に涼しい音をたてて割れた。
「おいしい」
「そう・・・」
凪嗄の手の中の林檎のように紅く艶のある遠夜の唇が笑った。いつもの笑顔のはずなのに、どこかぎこちなく、瞳の中の翳りは消えずに闇を濃くしている。その瞳に直視されて。
「ぁ・・・」
凪嗄は、自分の濡れた唇が、知らずにいた感覚を与えられたあの夜の記憶を思い出したことを悟った。遠い記憶のようでいて、そうではなく、甘い余韻を感じたようでいて、苦い記憶。
鼻孔を刺激する何かの花の薫りに混じって、鳶色の髪が凪嗄の頬を撫でたあの一瞬が甦り、白い石膏のような肌を辿った深紅の唇が、凪嗄を震撼させた。手の中を満たす果
実の冷たさが指先を強張らせ、凪嗄の手の中で小さく抉られた林檎の果肉が、驚く程その唇の形に類似していることに気がついた時、脱力した凪嗄の手から、紅い林檎の実が零れ落ちた。
「遠夜・・・」
遠夜は憐れむような眼差しで凪嗄を見ると、小さな呟きに憔悴した頬を歪めた。
「・・・眼を、醒まして。凪嗄・・・」
重い目蓋が、視界を緩やかに闇へと導いて、闇の狭間に二日月のように細く消えてゆく白く濁った世界が、時間の観念を無意味なものへと変化させた。
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