【8

 微睡みの中で、花の薫りが夢を誘う。

 見えて来たのは、遠夜の部屋の色彩だった。其処にいるのは、鳶色の髪の小さな男の子。
 屈み込んで何かをしている
その傍らに、水碧の透けるリボンを結んだ夏帽子が落ちていた。彼はその小さな手に、落ちている帽子よりも一回り大きめのお揃いの帽子を握り締めて。その帽子に結ばれているのは、綺麗な淡藤色の紗のリボンだった。
「何してる?」
 開かれた障子戸の陰から現れたのは、線の細い色の白い少年だった。深い青色をした双鉾が眼鏡のレンズの奥できつい表情をつくっている。
「兄さん、」
 嬉しそうに云って振り返った小さな少年の瞳も同じ青色をしている。日に焼けて、褐色の肌の中に有るその瞳は、瑞々しい水球のように輝いていて、とても綺麗だった。
「落としたのか?」
「ちょっと、手が滑ったんだよ」
 罪の意識のかけらもない幼い弟の顔に、兄は怠惰な表情を向けて、弟の足下に転がっている割れたフォトフレームを睨み付けた。
「写真は?」
 そのフレームに納まっていたはずの写真が無くなっていることに気がついた兄の目が、弟を疎ましく射竦める。弟は、ただ無邪気に微笑んで、他意のない言葉を繰った。
「貰っても構わないでしょ」
欲しいのか?」
「だめなの?」
「別に、構わないけど。泥棒みたいなことはするな」
 冷たく云い放つ言葉にすら、小さな弟は無頓着で。弟の領分で我が儘に接してくる態度が、兄の神経質な感情を刺激していた。弟が欲しいと云った写 真は、この少年が自ら撮った夜桜の写真だった。確か、今年の春に撮影したもので、満開の桜の花が、闇の中で雪のように花弁を散らしているものだった。
「これ、あの時の桜でしょ」
 小さな少年はふふっと柔らかく笑んで、兄の顔を仰ぎ見た。
「さぁ・・・」
 無表情に応えた兄の唇の端が、嫌なものを思い出したように引き結ばれた。
「危ないから、下がってろ、」
 少年は視線を逸らして、弟の脇に屈み込む。
 濃紺の半袖シャツから伸びた細い手が、割れた硝子片を慎重に拾いあげてゆく。光る欠片が兄の白い手の平に乗せられていくさまを、小さな少年はうっとりと眺めながら、握り締めたままの夏帽子を悪戯に揺らしていた。

「遠夜ったら、また海波(ミナミ)に怒られたの?」
 小さな笑い声と供に、背後にたったもう一つの影が動いた。
 廊下に立つのは、少年達と同じ夏帽子を冠った背の高い少女だった。白いリンネルのワンピースが彼女の日に焼けた褐色の肌に映えている。腰まで伸びた鳶色の髪が背に沿って真直ぐに垂れ、帽子に結んだ淡紅色の透けるリボンが、頬の横で風に涼しく揺れていた。
「別に、怒ってたわけじゃないよ。秋沙(アイサ)・・・」
 海波と呼ばれた少年は、手に乗せた硝子片を近くにあった紙片で包むと、畳の上に落ちている小さな帽子を拾って立ち上がった。

「行くぞ、」
 海波は遠夜の頭にそれを乗せる。
「これ、兄さんのだよ」
 遠夜は手に持っていた帽子を差出すと、嬉々として海波を見つめた。海波は無言でそれを受取ると、何も云わずに部屋を出ていってしまった。
「兄さん、」
 遠夜の呼ぶ声に反応はない。置き去りにされた自分の声に惑っている遠夜の手を、姉の秋沙は乱暴に捕まえて、彼を部屋から連れ出した。
「父さんも母さんも待っているんだから、早く行くわよ」
 遠夜は掴まれた手を嫌がっって、振り解こうと身体を捩る。そして、先を行く海波の名前
をもう一度呼んだ。
「兄さん」
 廊下の先を行く海波が蒼白い顔で振り返る。鬱陶しそうな表情を隠そうともせずに、ふっと溜息を吐いた。
「早くしろ、手間をかけさせるんじゃない」
「わかってるよ」
 海波の言葉を従順に受け入れた小さな弟を見て、手を引く秋沙は呆れたように眉を寄せた。
「離して、秋沙。秋沙の手は、暖っかくて嫌、」
「・・・変な子」
「兄さんの手は、もっと冷たくて、いい気持ちがするんだ・・・」
 遠夜の瞳がその先の意識の中に何かを思い出したようにうっとりとした表情をつくる。秋沙は困った顔で遠夜の手を強く引いて、早足で廊下を抜けた。
「海波は・・・病気なのよ」

 海波は生まれつき呼吸器が弱く、夏になるとその大半をこの祖父の家で過ごしていた。空気の澄んだ広い庭を持つこの家で、夏の間、静かに静養しているのだ。室内で、本を読んで過ごすことの多い海波の肌は、日に晒されることが少ない所為で焼けることもなく、いつも透き徹るように白い。日に焼けて、これ以上黒くなることはない程に褐色の肌をしている二人の姉弟とは対照的な少年だった。
 口数の少ない寡黙な海波は、何処か掴みどころがない。九つ年下の五歳の弟に対して時々とる突き放すような態度は、小さく無邪気な少年の何かを疎ましく思っている風でもあったし、自分の中の何かに苛立っている風でもあった。そんな海波の態度に、遠夜はいつでもただ無為に陰のない真直ぐな視線を向けていた。
 噛み合わない二人の間に入って仲を取持つのは、海波の双子の姉である秋沙の役割だった。しかし、兄との間に割って入ってくる秋沙のことを、遠夜は快く思ってはいなかった。

「兄さんは、『海』に行くのが楽しくないみたいだ」
「強い日射しは海波の身体に悪いのよ。でも今日は『家族』で会えるのが最後だから、海に行きたいって言った遠夜の我侭を聞いてくれたんでしょ」
「・・・ふうん」
 遠夜は秋沙の言葉の意味を半分も理解できないまま、曖昧な返事をした。秋沙を越して見える庭に、八重咲きの酔芙蓉が朝の白い花を咲かせていた。夕方になると紅色になって萎むその花を、幼い遠夜は不思議な顔をして眺めていた。
「まだあの花が気になるの?」
「・・・色が変わるんだよ」
「あなたは、そんなことで夢中になれるのね・・・」
「だって、あの花、兄さんに似ているから、」
「何、それ」

 一週間前から祖父の家に遊びに来ている遠夜は、庭で見つけた不思議な花に魅せられていた。その時の遠夜は、両親の離婚によって家族が家族でいられなくなる事実を理解できない程の小さな子供で、庭で起きているそんな些細な出来事の方が気掛かりだったのだ。
 そして、その花に兄をだぶらせる。淡い季節の初め、満開の桜の樹の下で見た海波の白い肌の記憶を辿り、その肌が、色を変えてゆくさまを思い返していた。

 庭を挟んだ表通りから、二人を呼ぶ声が聞こえる。海へ行くために迎えに来た両親の声だった。秋沙は花に見蕩れて足を止めてしまった遠夜の小さな手を、もう一度強く引くと急ぎ足で玄関に向かって歩き出した。

 

 海に着いたのは、正午をだいぶ過ぎた頃だった。夏だと言うのに私有海岸にある小さな浜辺はひっそりとしていて、潮騒の音だけが規則的な響きを繰り返していた。岬の上のコテージで遅い昼食を済ませた遠夜たちは、両親を残して浜辺に下りた。
 あまり乗り気ではなかった海波も、二人だけで話がしたいと言った両親に促されて、渋々夏の浜辺に足を踏み入れていた。照り返しの強い太陽が彼の白い肌を刺す。雲一つなく晴れているのに、波立つ海の向こう側はかえってぼやけて霞んで見えていた。
 海波は熱い砂の上にラグを広げると、気怠い身体を日傘の下に隠すようにして座り込んだ。秋沙は履いていた白いサンダルを手短に脱ぎ捨てると、波打ち際に向かって元気に駆け出していく。彼女は遠夜の名前を呼んで手を振っていたけれど、遠夜は広げられたラグの側の、焼けた砂の上にしゃがみ込んで動こうとしなかった。
「行かないのか?」
「うん、」
「そんな所にじっとしていると、日射病になるぞ、」
 そう言われた遠夜は、被っていた帽子の鍔を小さな手でしっかりと掴むと、
「大丈夫だよ」
 と言って、拗ねたような顔でちらりと海波の顔を見た。
「馬鹿だな」
 海波は突き放すように言って、自分の帽子を差し出した。一回り大きめの鍔のついたそれは、遠夜の小さな帽子よりも、強い日射しを遮ってくれそうだった。
 遠夜は自分の帽子の上からそれを被ると、それでも緩い帽子の感触を楽しむようににこにこと頭を揺らしていた。
 海波は視界の端ではしゃぐ遠夜には無関心に、持って来た分厚い書架を開いて読みはじめる。
「兄さんは、遊ばないの?」
「あぁ・・・」
 溜息に似た返事は、煩わしげに海波の口から漏れた。
「ふうん・・・」

 海波の横に座り込んでしまった遠夜は、暫くは広げた脚の間にある渇いた砂を掴んでは放し、同じ動作を繰り返していたのだったが、じきに飽きてしまったらしく、時間を持て余して拗ねていた。時々顔を上げて遠夜の方を見るのだが、本に視線を落としたきりほとんど動かない海波は、気がついているようでいて、それでも何も言わなかった。
 打ち寄せる波に足を濡らしていた秋沙は、そんな遠夜の様子を見て、一緒に遊ぼうと言って誘った。けれども小さな弟は首を振って、頬を膨らませるばかりだった。
「仕方ないわね、」
 秋沙は呆れて肩を竦めると、そのまま駆け出して、暫くすると何処から拾ってきたのか空き缶 に水を汲んで戻って来た。それを遠夜に手渡すと、
「これで砂山でも作って遊んでなさい」
 と言って苦く笑うと、ふいっと一人で何処かへ行ってしまった。
「秋沙にあまり面倒をかけるな」
 海波は厳しい言葉で言う。
「どうして?」
「これから大変なんだ。父さんを手伝わなくちゃいけない・・・」
 少し強い口調で言われて、遠夜はきょとんとした顔で海波を見上げた。
「・・・じき、わかるよ。遠夜にも」
 全てを悟ったような顔が、何も理解遠夜を非難するように向けられた。遠夜の眼差しはいつでも無垢で、残酷なほど無邪気だった。それが、海波を萎えさせていた。
 日が傾きはじめた頃、遠夜は目の前に出来た不格好な砂城を崩しながら、日傘の下で読書に耽っている兄の横顔をまじまじと眺めていた。風に揺れる黒髪は、夕日を浴びて天鵞絨のように輝いていた。
  頬にかかる前髪を細く白い指が掻き上げる。時々縁無しの眼鏡の金具を弄る仕種は、海波がよくやる癖だった。昼過ぎから読み始めた厚い書架は、既に終わりの方に達していた。
 遠夜は一向に日傘の中から出ようとしない海波に、少し腹が立っていた。
「せっかく一緒に居るのに、兄さんはちっとも遊んでくれないね」
「・・・気分じゃないんだ」
「具合が、悪いの?秋沙が、兄さんは病気だからって云ってた」
「・・・別に、そういう訳じゃない。もうすぐ父さんが迎えに来るから、つまらないのだったら秋沙と遊んでおいで」
 海波はそう云って無関心に本を閉じる。傾いた日の向こうに、姿を消していた秋沙の姿が見えた。息を切らし、駆けてきた彼女は、海波の横にトンと腰掛けると、足を汚す渇いた砂を払い落として、脱ぎ捨ててあった白いサンダルに足先を入れた。 褐色の華奢な足首が、夕日を浴びて扇情的に光を弾いている。
 海波は、ふっと視線を外した。
「海波は、いつ発つの?」
 荒い息のまま秋沙は聞いた。肌が、夏の匂いと薄い汗に濡れている。
「・・・夏期休暇が終わったら。向こうの学校のこともあるし」
「そっか。じゃあ、もう直ぐね。遠夜が寂しがるわ、」
 海波は眼鏡を外して本の上に置いた。
「遠夜は何も、わかってないよ」
「そうみたいね。・・・だから、その後が心配だわ。気がついて、海波が居なくなってたら、また駄 々を云って、父さんを困らせるんじゃないかしら・・・でも、」
「何?」
 含んだ言葉を訝しんで海波が聞く。
「・・・何でもない。それよりこれ、」
「ん?」
「餞別」
 秋沙は服のポケットから何かを掴みだして海波に渡した。それは、波に洗われて棘をなくした小さな硝子の欠片だった。海波の白い手の中に、お酒の入った砂糖菓子のような色をした硝子粒が三つ乗せられた。
「向こうで、拾ったの」
「・・・綺麗だね。ありがとう」
 海波は微かに微笑んだ。それを見ていた遠夜が、不貞腐れたような顔をして立ち上がった。
「欲しいのか?」
 何も云わずに鋭い目を向ける遠夜に、海波はその中の一番大きな欠片を選んで、弟の手に握らせた。それからもう一つ、今度は一番形の整った欠片を、海波は秋沙の手の中に置いた。
「ひとつづつ・・・ね」
 秋沙は柔らかく微笑んで少し寂しい顔をした。
 遠夜はその手をぎゅっと握りしめて、ぷぃとそっぽを向いてしまう。自分だけが特別 ではないことに拗ねているのた。そして、暫く、三人は黙って其処に座っていた。
 夕凪が耳に痛い。音の無い世界が視界の茜色を無為に強調し、湿った潮の香が鼻孔を刺激する。
「兄さん、あそこまで行ってみようよ」
 不意に、視線の先に何かを見つけだした遠夜は、自分が今まで拗ねていたことなど忘れたように、嬉しそうに振り返った。
 遠方に見える、海上に突き出した灯台を指さして。
「だめだ。あの距離じゃ、帰るまでに暗くなってしまうだろ」
「急いでいけば、平気だよ」
「だめだ。」
 海波の口調は今までに無く強く、大きな声に驚いた遠夜は、脅えた表情で身体を硬直させた。
「いいわ、私が連れて行くから」
 秋沙は優しい視線を海波に送る。険しい顔をした海波に向かってゆっくり頷いて、立ち上がりながら、遠夜の腕を強く引いた。
「嫌だ。兄さんと一緒に行きたいんだよ」
「我が儘云わないの、明るいうちに帰れなくなるわ」
「走って行けば、全然平気でしょ、ねっ」
 秋沙の困惑した顔が、小さな弟を覗き込んでいる。
「・・・海波は、走れないのよ・・・」
 それから海波に何か目配せをしたかと思うと、俄に海波の顔が笑顔をつくる。
「行きたいんだろ、灯台。秋沙と一緒に行っておいで」
「・・・・」
 海波から向けられた優しい笑顔に無言で頷いた遠夜は、秋沙に手を引かれて歩き出した。強引に掴まれた腕が微かに痛む。そして、いつまでも振り返り、振り返り、海波を顧みる遠夜は、引かれる手に途惑いながらも尖った視線をずっと海波に向けていた。

 兄さん・・・


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