【5】
図書館の扉を開けると、冷えた空気と湿った古紙の独特の匂いがした。蛍光灯の灯る部屋の中には数人の生徒の姿が見える。こんな雪の日の放課後に図書室を訪れる生徒というのは、無類の本好きか、あるいは凪嗄と同類の少年達だ。彼等は自分の領域を無闇に侵すものを嫌い、自分の中にある静かな時間を守る為に、周りの人間に対して内向的にしかなれない少年達。
遠夜と出会う前の凪嗄は、よくこの図書室に足を運んでいた。校舎の北側にあるこの部屋は凪嗄にとって居心地のいい場所で、それは保健室と同じような安らぎを与えてくれる空間だったからだ。凪嗄は最近の自分がこの部屋を既に必要としていなくなっていることに気がついていた。その理由は明確なのだ。
遠夜と出会って。
そして先刻、有栖川の柔らかな唇に宿る誘因の印に、何処かで知っている甘やかな感覚を呼び醒まされて、どうしていのかわからなくなってしまった。いつの記憶なのかすらわからないのに、それが酷く痛い記憶のような気がして、胸が苦しくなるのだった。
凪嗄は表紙の取れかかったくすんだ色の本を棚に戻しながら、遠夜に悪いことをしてしまったのではないかと考えはじめ、強い口調で遠夜の口を吐いた言葉が、全て凪嗄の身体のことを気遣ってくれたことに他ならないのだと悟っていた。そして、その好意を踏みにじってしまった自分にもどかしさを感じて失墜した。
「どうしたの?少し疲れたかしら?」
その声がひどく近くに聴こえて、ふわりとした甘い香が凪嗄の背後から覆いかぶさるように陰をつくった。彼女の細い指が凪嗄の両肩を掴んで、その躯が屈み込むように凪嗄の頬に長い髪を落とす。
凪嗄は躯を硬直させた。痩せて骨張った背中に押し付けられているふくよかな膨らみに、自分の心臓の音が反響して不協和音ように響く。真直ぐに伸びた彼女の髪が、仄かに甘い花の薫りを漂わせていた。何処かで薫っていた懐かしいような薫りだった。
「せっ先・・・生?・・・」
「ねぇ、」
耳殻を這うように、息の届く距離で聴こえた彼女の声に、凪嗄は否定的な感情を抱きながら、早くなってゆく心臓の鼓動を感じていた。
「君さぁ・・・あの子のこと、」
その先に告がれた言葉が凪嗄の胸を強く掴んで、弾くように身体を返すと、驚愕と困惑と羞恥をない交ぜにした複雑な表情で、有栖川の意地悪な視線に抗議のサインを送った。
「そんな顔して、図星だった?」
得意げに笑んだ顔が、刹那、やわらかく破顔した。躯の中心が熱く脈動し、発作とは違う胸に宿った鼓動が凪嗄を羞恥に駆る。自分の中に巣食う否定し難い感情に、どうしようもなく気持ちが疼いて、訳のわからない痛みが凪嗄の小さな身体を貫いていた。
「さぁ、手伝ってもらって助かったわ」
彼女は何も無かったように踵を返すと、帳の降りかけている部屋の中央を横切って、貸し出しカウンターの中に納められていた小さな篭のようなものを取り出した。
「お礼に、いいもの見せてあげる」
彼女はポケットの中から取り出した何かを、その手の平に示し、凪嗄の前に差出した。手の平の上には、煌々と本の連なりを照らしている蛍光灯の光源に反射する銀色の鍵のようなものが見えた。彼女は凪嗄にそれを手渡すと、カウンターの上に置いた籐籠に艶のある視線を注いだ。
「開けてごらん」
「この、籠をですか?」
「そう。」
凪嗄は躊躇するようにしばらくその籠を見つめていた。
「別に怖いものじゃないわ」
「はい・・・」
カチリと音を起てて解錠した籐籠の蓋を開けると、その中に手鞠のような小さな黒い塊が見えた。丸くなって眠っているのは、天鵞絨の艶を帯びた小動物だった。光の加減でその毛艶は濃茶のようにも見える。そして、長い耳が器用に折り畳まれて、健やかな寝息に丸い塊が微かな上下動を繰り返していた。
「兎?・・・」
「その子、ルフナって言うのよ」
「ルフナ?・・・変わった名前ですね。それって確か、紅茶の茶葉の名前?」
「ええ、そうね。君って案外物知りさん?」
よく知っている名前だった。はじめて遠夜の家に行った時に出された紅茶の名前だから。忘れるはずがない。よく見ると、兎の毛色はその茶葉の色にそっくりだった。
「ミルクティーにして飲むとおいしいから・・・」
「好きなの?」
「えっ?」
ルフナは黒い茶葉、チョコレート色の水色のコクのある紅茶で、微かなスモーキーフレーバーを持つローグロウンティーだ。遠夜がこの紅茶が好きだと知った時、凪嗄は無条件にそれを好きになったのだった。遠夜の好きなもの、凪嗄は共通
点が欲しかった。それが何を意味しているのか、その時の凪嗄は考えもしなかったけれど、今ならその感情がどういうものなのかを説明することができる。それを知り、自分自身で認めてしまったのだ。
いつからだろう。何時、凪嗄はその思いに気がついたのだろう。
「ねぇ、あなた『 ルフナ』の意味を知っている?」
「・・・意味?」
彼女は得意そうな眼差しを凪嗄に向けた。
「南」
「ミナミ?・・・」
「そう、東西南北の『南』。いい響きでしょ。当然、知っているのかと思った・・・」
悪戯にくくっと笑んだ唇の端に意地悪な意図を感じて、凪嗄は籠の中で眠る小さな塊を細い腕に掬いあげると、思いのほか強い力でその獣毛を掻き抱いた。
「ミナミ・・・」
凪嗄はその響きを何度も繰り返しながら暗くなった道を歩いていた。少し遅くなってしまった帰宅に家族が心配しているのではないかと自然と早足になっている。それでも押し固められた道路の雪が足を取るので思った程早く歩く事ができなかった。
いや、それだけではない。繰り返される響きが遠い記憶の誰かの声と重なって、苦い重いが胸を支配し、自分の内側を満たす言い知れぬ
甘やかな感覚が、その苦さと表裏一体になっていた。足取りは重く、気持ちは萎えてゆくばかりだと言うのに、凪嗄の身体は憶えてしまったいつもの道を辿っていた。
凪嗄は帰宅途中にある遠夜の家に寄って行こうと、一つ前の角を曲がった。どうしても今日のことを謝っておきたかった。
遠夜は父方の祖父の家に住んでいる。6歳の時に両親が離婚して父親に引き取られた遠夜は、それから父子二人で暮らしていた。ところが父親の海外転勤と再婚が決まって、去年の夏、単身祖父の家に越して来たのだった。新しく母親になる人との折り合いが理由ではないらしかったけれど、何かの理由で遠夜はそれを望まなかったのだ。
遠夜は凪嗄に比べて大人びたところがあった。体躯のつくりや落ち着いた言動は、到底11歳の少年とは思えない程に出来上がったもののように思われた。幼少に強いられた片親の生活が遠夜をそうさせたのかも知れなかったが、それでも両親の元を離れて暮らすのに11歳と言う歳は早過ぎるのではないかと凪嗄には思えたて仕方なかった。しかし、その質問を投げかけた凪嗄に遠夜は笑ってこう答えたのだった。
(本当は、凪嗄より年上だから)
その言葉に二の句が告げなくなっている凪嗄に遠夜は悪戯な表情で微笑んだ。何かの都合で三年遅れで学校に入学した遠夜の年齢が14歳であることに凪嗄は驚きこそすれ、遠夜の風貌が纏う自分との違いを納得したのだった。
遠夜の祖父の家はこの辺りでは有名な旧家だった。その祖父は香道の師範をしていた。広い土地に建つ古風な平家建ての母屋は格式のある日本建築で、植物園のように繁る木々の中に静かに佇んでいる。
家のぐるりは低い満天星躑躅の生垣で囲まれていて、表通りに面する辺りはその奥に櫨の古木が植わっていた。秋になると一帯が燃えるように紅葉する様は壮観の一言に尽きるのだった。今は小さな鈴蘭に似た花が頭を垂れていたが、一昨日からの雪で可憐な花も凍えるようにその真綿の下に隠されてしまっていた。
凪嗄は幼い頃からこの庭を眺めることがよくあった。もちろん遠夜と知り合う以前は外から眺めるばかりであったが、季節毎に色々な表情を見せるこの庭が大好きだったのだ。
表門の脇にある白木蓮の大樹は三月になると大きな雪白の花をその樹一杯に綻ばせ、天使の羽根のように天に向かって伸びやかに咲く。その花が終わる頃には隣の花蘇芳が濃桃色に花開く。夏になればその奥にある槐の樹冠が淡い黄白色の小さな蝶形花を頂生した。その楕円形の葉は鳥の翼のように並ぶ。秋にはその向かい側に金木犀の花が咲き、玄関までの三和土に植えられた木犀の垣はその甘い香で来客を招き入れた。
季節は幾度となく通り過ぎても、その光景は手に取るように凪嗄の中で鮮やかな色を残して存在していた。
そして凪嗄は、この庭の離れの茶室の近くに植栽された銀木犀の大樹に感慨に似た思いを抱いていた。表の金木犀はど強く香らず、控えめな上品さを好いていた。それはこの家の裏手の小路から眺めることができるのだが、まだ小さな頃、診療所へ通
う為、母に手を引かれながら通った路で、その優しく香る芳香と白銀の小花は診療所へ向かう憂鬱な気分を和らげてくれたのだった。
木犀が花をつける初秋の頃、夏の熱さで疲弊した身体は決まって体調を崩し、浄罪のようにその芳香を纏うことになるのだった。
その庭も夜の闇の中で静謐に息を顰めていた。凪嗄は表門の脇に立つ白木蓮を眺めながら呼鈴を押した。花はもう散ってしまっていて、浅緑の若葉を芽吹いていた。外套にばんやりと照らせれて浮かび上がる樹形は蠢く陰を落とし、積もった雪が所々で鈍くその光を反射している。凪嗄は呼鈴の返事を待ちながら、光の反射を視線の先に追っていた。吐き出される息が細い首を覆うフランネルの襟巻を湿らせ、夜気の冷たさに指先が次第に感覚を失ってゆく。
(ミナミ・・・)
遠夜の掠れた吐息混じりの声が、凪嗄の内耳を這い上がった。
しばらくすると遠夜の祖母の声が聴こえた。凪嗄が名前を名乗ると門を開けて入って来るようにと指示される。凪嗄が門を開け、木犀の垣の脇を通
って玄関に着くと、明るく灯った玄関の扉が開いて遠夜の祖母が姿を現した。
葡萄茶の紬を上品に着た白髪の老女は、制服のままの凪嗄に少し驚いた様子だったが、静かに頷いただけで別
段何も聞かないでくれた。ただやわらかく、
「奥の部屋に居ますから、どうぞあがって下さい」
と丁寧な口調で言って、廊下の奥を指し示した。仄暗い廊下には蛍のような灯明が点々と灯されていて、誘うようにその先に伸びる廊下を照らしていた。庭に面
した長い廊下には使われていない座敷がいくつかあって、その一番奥が遠夜の部屋になっていた。そこから直角に伸びる濡縁は離れの茶室に通
じている。
「今、熱いお茶を持って行きますからね」
遠夜の祖母はそれだけ言って、居間の方に姿を消した。
廊下の先、一部屋だけ明かりが灯っているのが見えた。障子から淡い光が廊下に漏れている。よく見るとそれは遠夜の部屋からではなくて、その手前にある仏間から漏れているものだった。そして、微かな話声が凪嗄の耳をついた。その声は、間違えなく遠夜のものだ。近づくにつれて大きくなるその声に、凪嗄はもう一人別
の聞き覚えのある女性の声音が混じっていることに気がついて、寄せた眉根に力を込めた。
あの声は。
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