【4】

「母さん?」
 凪嗄はカーテンを引き開ける。そして、思わず息を呑んだ。
 白雪が庭一面を覆い、踏み敷かれることなく残っているそれが、白雲母の剥離片のようにきらきらと輝いていた。そして、眼前に雪の白さとに同化するような白い外套を纏った、見知らぬ 顔の女性が立っていた。表情のない白磁の顔の中で、小さな深紅の唇が濡れたように潤んでいる。胸の前で両手に包み込まれるようにして、天鵞絨の毛艶を持つ黒兎が丸くなって眠っていた。
 凪嗄は深紅の唇に魅せられるように動けなくなっていた。沈丁花の香が誘うように漂って来る。不意に表情のない顔の中で、口角だけが僅かに上がって彼女は俄かに微笑んだ。それは、凪嗄の記憶の何処かで仕舞い込まれた、懐かしさのある柔和な笑顔だった。
 そして、彼女は手招きするように凪嗄に右手を差出した。腰まである長い髪が風に揺れる度、沈丁花の芳香が強さを増す。
 凪嗄は憑かれたように彼女に歩み寄っていた。裸足の足が深く積もった白い雪の中に落ちる。柔らかな真綿のような感触に不思議と冷たさは感じられなかった。差出されるままに、凪嗄は彼女の細い雪花石膏の手を取った。

「痛っ、」
 ほんの一瞬走った痛みに凪嗄は頬を歪めた。凍るように冷たいその指先が、握った途端、硝子細工の繊細さをもって凪嗄の手の中で粉々に粉砕したのだ。細かい硝子片は凪嗄の白くて小さな手の平を傷つけ、痛む手に鮮血が滲み溢れた。
 彼女の身体に内包されていた濃厚な香が砕けた手首から迸り、噎せるほどの強い香に眉を顰めた凪嗄は、彼女が濡れた唇にうっすらと至極の笑みを浮かべていることに気がついて後ずさった。
「あっ・・・」
 屑折れた身体を支えることが出来ずに、酔うように弛緩した両膝を抱えて、凪嗄はその場に屈み込んで目を閉じた。

 

 静かに揺り動かされている微かな振動が、凪嗄の眠りの壁を破った。
 教室の机に伏して居眠りをしていたらしい凪嗄は、隣の席に座る遠夜に揺り起こされたのだ。窓の外はどんよりと曇り、再び降り出した雪が、踏まれるままに起伏をつけて汚れた校庭を、薄く被いはじめていた。
 凪嗄の手脚は冷えて硬くなり、ひどく気分が悪くて、額に厭な汗が滲んでいた。鼻についた強い残り香が生々しく思い出される。
「大丈夫?凪嗄の顔、真っ青だよ」
 遠夜は覗き込む姿勢で凪嗄の肩に手をかけた。
「・・・えっ」
 湿った空気が支配する教室の中で、降り出した雪にうんざりする様子も見せずに生徒達が談笑している。教室の壁時計は朝のホームルームの時間をさしていた。
「ここは・・・」
 凪嗄は自分の記憶が曖昧に交錯していることに困惑して頭を振った。自分の置かれている状況が把握できないのだ。確かに先刻まで視界にあった自家の庭は夢だったのか。それともこちらが夢なのか。吐き出された息が不安に歪んだ。
「凪嗄?」
「ここは、何処?」
 妙なことを言う凪嗄に遠夜は怪訝そうな顔で答えた。
「学校の教室の中だよ」
「どうして、此処に居るの?」
 遠夜は肩にかけていた手に力を込めた。
「さっき、一緒に来たばかりじゃないか。悪い夢でも見ていたの?」
「・・・悪い、夢?」
 凪嗄は右手の感触を確かめた。冷えた爪先が紫色に変色していたけれど、怪我をした様子はなかった。痛みも無ければ、血の滲んだ跡すら認められない。
「夢を・・・」
「少し保健室で休んで来たほうが、」
訝しむ遠夜の瞳が、凪嗄に何かを言おうとして強く光る。
「・・・大丈夫。すぐに良くなるよ」
 その瞳の強さが少し怖くて俯いた凪嗄に、遠夜は憐れむような視線を投げた。それは何かを非難されたような冷たい眼差しだった。そんな目で見られたことに凪嗄は急に苦しくなって、慌てて遠夜の名前を呼んだ。

 教室の扉が開く。初老の担任教師の姿が見えた。
 凪嗄の声は遠夜に届かなかったのか、彼は頬杖をついた姿勢で黒板のほうに向き直り、押し黙ってしまっていた。
「皆さん、おはようございます」
 教師のおっとりとした口調に戯れていた少年達の声は止まなかった。教師はそっと、扉に目配せする。それに促されるようにして、すらりと背の高い、見覚えのある顔が扉を潜った。
「あっ」
 凪嗄は小さく息を呑んだ。
「昨日、お話した教育実習の先生です」
 その言葉に、教室は一瞬静まり返り、そしてざわめきに似た秘かな声があちらこちらで漏れ聴こえた。促されて教壇に立ったその人は、そろりと教室を目で一巡すると、にこやかに微笑んだ。

「有栖川と申します。どうぞよろしく」
 お辞儀をして乱れた髪を、細くしなやかに伸びた指がそっと撫でた。くすみ無く白い肌はすべらかに、桜色の唇がその中で甘い声を宿す。
 背筋にぞくりとする感覚が走る。凪嗄は、 その唇に自分が惹き付けられていることに気がついて狼狽した。そして、彼女の廻る視線が遠夜のあたりで止まったように見えて、凪嗄は遠夜を覗き見た。しかし遠夜は彼女の視線を避けるように俯いたまま、苛立った表情を浮かべ、拳に力を込めていた。何かに苛立っている遠夜を、凪嗄はその時初めて見た。ような気がした。
 その日一日、教室中が浮き足立った空気に包まれていた。少年達を魅了した彼女の存在がそうさせたのだ。その中で、遠夜だけは違っていて、凪嗄は言葉をかけられずにその一日をぼんやりとやり過ごした。非難されているのは自分なのではないかと云う思いが次第に広がって、耐えきれなくなって、放課後、その袖を引いた。
「ねぇ、遠夜?」
 振り返った遠夜はいつものように優しい笑みを浮かべていた。けれどもその態度が何処かよそよそしい。
「何か怒ってるの?」
「別に」
 言葉が棘を含んでいた。凪嗄は怖じけづいて声を低めた。
「一緒に帰るよね?」
 確かめるように聞いた言葉に、遠夜の表情が少しだけ明るなる。しかし、鞄を抱えて教室を出たところで凪嗄を呼び止める声が聴こえて、遠夜は再び硬く頬を強張らせた。
「有栖川先生?」
 凪嗄は彼女を見上げて怪訝そうに聞いた。
「君、確か図書委員さん?」
「はい」
「よかった。これから少し時間ある?」
「えっ?」
 そのまま視線を遠夜に移すと、遠夜は不意に眉を顰めた。
「これから図書館で本の整理をするように云われてるの。委員さんに手伝ってもらえると助かるのだけれど、いい?」
 彼女は凪嗄に向かってそう云った。隣にいる遠夜の存在など、はじめから無いもののように扱う視線に、凪嗄は居心地の悪い思いを抱いていた。
「遠夜も一緒に・・・」
「あぁ、君一人で十分なの、」
 そう云いかけた言葉を、彼女は慌てたように遮ると取り繕うような笑顔を浮かべた。
「あの・・・」
 惑った凪嗄の肩に遠夜の細い指がかかる。強く力を込められて、凪嗄は困惑の眼差しで遠夜を見つめた。遠夜の唇が青ざめて微かに震えている。
「凪嗄は、帰った方がいいよ。発作を起こしたばかりじゃないか。無理してすることないだろ?」
 遠夜の怒ったような強い口調に、有栖川は嘲笑の表情で声をたてた。
「そんなこと、君が決めることじゃないでしょ」
 その語尾が意地悪な響きを含んでいる。
「凪嗄、」
 強められてゆく語気と、険しい遠夜の表情が凪嗄を畏縮させた。いつもと違う遠夜の態度に思うように言葉が告げない。そして、仰ぎ見た有栖川の唇が薄く開いて、歯列の間から覗く濡れた舌先を見た瞬間、喉の奥に得体の知れない痛みを感じて、声を発することが出来なくなった。

 この唇。
 知っている?


「帰った方がいい・・・」
 懇願するように云った遠夜の言葉に凪嗄は答えを返せない。ただ俯いてしまった凪嗄に遠夜は哀しく微笑むと、同じ言葉を繰り返した。
「帰った方が、いい」

(遠夜・・・)

 凪嗄は遠夜を直視することが出来なかった。

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【4】


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