【3】
水時計の漏刻が静かに時を告げていた。黎明の空に淡翠い月が浮かんでいる。夜に比べて稀薄になった月は、半透明の磨り硝子のように光りを失いかけていた。
凪嗄は目醒めた確かな記憶のないまま窓辺に佇んでいる。そこに在るのは、どこまでも白い凍りついた街の姿だった。眼下に広がっていた雑然とした街並は、石膏で造られた彫刻のように動かない。まるで、時間の止まった虚像の街のようだった。
硝子戸の下に見える小路には、沈丁花の生垣がある。毬のように密集して咲く小さな花は甘い芳香を持っている。昨日まで仄かに薫っていたその花も、今は積雪の下に隠されてしまっていた。
刹那、生垣の中を何か黒いものが移動したように視界を掠めた。茂みの中から白い小路へ飛び出した小さな黒い塊は、大きく長い耳をピンと側だてて辺りを窺っている。その傍らに、静かに佇む人影があった。
ぼんやりとして輪郭のないその人影は、雪の白さに同化していた。踵を隠すほどの長い外套の上に小さな整った面
立ちが乗っている。腰のあたりまで真っすぐ伸びた鳶色の髪は、朝日に透けて繻子のように輝いていた。それは、瞬きをすれば幻影のように儚く、全てが曖昧であるのに、肌の色やその質感だけが不思議な程はっきりと、凪嗄の感覚器官に焼き付いてくる。
透過性のあるその肌は雪花石膏のように白く、女性特有の丸みをもったその顔は、塑像のように表情のないまま、凪嗄をじっと見つめていた。硝子細工のような栗色の瞳にはまったくと云っていい程、生気が感じられなかった。表情のない硬質な顔の中で、濡れたように鮮烈な色をもった小さな唇だけが、生き物のように微かに蠢いているのが見えた。
眼を凝らしてよく見ると、声にならない唇の動きが、凪嗄の名前を呼んでいた。
「凪嗄・・・」
その声で眼が醒めた。
枕元に、心配そうな顔つきの遠夜がいた。薄暗い部屋に緋橙の明かりが灯る。窓の外を小さな雪片が力なく舞っていた。もう夜なのだろうか。
凪嗄は自分の部屋の寝台の上で目を醒ました。確か昨晩、遠夜が帰ってすぐに眠りに落ちたのだった。それから夢を見ていたようだった。今朝方、覚醒した記憶は酷く曖昧で、部屋の中には、既に闇が迫っていた。洋燈の光りが柔らかく遠夜を照らし、その横顔に淡い陰を落としている。
自分は昨日の晩から眠り続けていたのだろうか。躰が厭な気怠るさをもって、頭の中は霞みががったように虚ろなままだった。
「大丈夫?」
遠夜の声が耳もとで反響している。
「・・・遠夜、」
引き戻された意識に軽く頭を振って応えた凪嗄は、ゆっくりとした動作で寝台に身を起こした。
「凪嗄、今日学校に来なかったから、心配になって電話したら・・・昨日からずっと眠ったままだって云うから・・・」
「あれから、ずっと眠ったままだったのかな」
「そうらしい。少し疲れが出たんだって、さっき医者が来て言ってた。陽気もなんだかおかしいし、今日は一日中雪が降ったままなんだ」
「雪は、ずっと降ったままなの?」
少し不安そうな顔をした凪嗄に、遠夜は微かに笑んで目を伏せた。凪嗄の額にかかる濡れた前髪を優しく掻きあげて、疲れたようにもう一度微笑んだ。
「降ったり、止んだり。三月に逆戻りしたみたいだって、ニュースが言ってる」
部屋の中には仕舞われたはずのストーブがつけられていて、上に乗った薬缶
からは、盛んに蒸気が吹き出していた。
「一度、起きたような気がしたんだけど。気の所為だったのかな」
凪嗄は何か腑に落ちない表情をして、窓のほうに視線を廻らせた。自分の名前を呼んだあの妖艶な唇の動きが脳裏に焼き付いている。それは否定し難い鮮明さを伴っていて、凪嗄は惑ったように瞳を揺らした。
「どうしたの、」
怪訝そうに遠夜が聞いた。
「窓の下に、人影を見たんだ。白くて長い外套を来た女の人が立ってたんだ。何か、黒っぽい小さな動物を連れて・・・多分、兎だったんじゃないかな。沈丁花の生垣の向こうだよ、」
「黒い・・・兎?」
遠夜は立ち上がって、硝子戸の向こうに目を凝らした。生垣はすっぽりと雪に覆われ、小路の雪は人の通
った跡に掻きだされていて、向かいの塀の辺りに人影のように積みあげられていた。
「誰もいないよ」
独り言のように呟かれた言葉は何故か少しだけ険を含んだように聴こえた。胸の鼓動が不安定な吐息を口元に与える。窓の外に視線を落とした遠夜の横顔がいつもより遠く、感覚が鈍くなっている躰が熱を憶えた。
「きっと、夢を見ていたんだよ」
「夢、」
「それとも、本を読んだ所為?」
遠夜は机の椅子を引いて腰を下ろした。その上にのった書架を指さしている。
「・・・昨日は本は読まなかったよ」
「そう、」
遠夜は栞の挟まれた頁を括った。その前後を確かめるようにして、薄く笑って、凪嗄の瞳を覗き込んだ。諭すようにゆっくりとした口調が文字を綴る。
『・・・あなたは、月の満ち欠けに隠されたこんな話を知っているだろうか。月の光、あれはまさしく死んだ子供の発する燐光なのだ。
月に住む醜悪な姿の妖魔は、地上の子供をさらうために、自らの姿を美しい乙女に変えて、小さな兎を供に朔月の晩に地上に堕ちる。白い外套に身を包み、一晩ごとに一人づつ、人間の子供を殺して月にさらうのだ。満月の晩まで続くその殺戮は、月に妖力を与え、それは蒼白い輝きとなって地上の夜を照らすのである。
満月の晩、月に戻ったその妖魔は、集めた子供の躰を次の新月までゆっくりと時間をかけて、一人一人愛おしげに食んでゆく。月は一晩ごとに光を失い・・・
』
そこまで読んで遠夜は本を閉じた。その顔が穏やかに凪嗄を捕らえる。
「凪嗄は、これを読んで夢をみたんじゃないの?」
その本は遠夜が凪嗄にくれたものだった。月にまつわる幾つかの寓話が書かれた厚い本だ。途中まで読んで、怖くなってそのままにしたのはいつのことだったろうか。随分前のことだったような気がするのだが、昨晩その本を開いた記憶はなかった。机の上に放置されたままになっていた本の一節を、発熱した凪嗄の躰が思い出して、夢を見せたと言うのであろうか。昨晩、寝入る前に見た天窓に浮かんだ下弦の月の悪戯だろうか。
感覚が鈍くなっている躰の機能に反して、神経が過敏に反応しているのか、思わしくない心臓の調子が躰を想像以上に疲弊させているのかもしれなかった。
気がつくと、遠夜は立ち上がって、再び窓の外を眺めていた。蛍光する光が反射して、彼を蒼白く浮かびあがらせている。凪嗄はそんな遠夜を見て、何故だか分からない不安に胸が騒いだ。遠夜の躰が、青い燐光を放っているように見えたのだった。
「遠夜?」
掠れた声で名前を呼んだ凪嗄は、熱のある腕を遠夜に伸ばす。伸ばされた指先が遠夜のそれを性急に求め、触れた瞬間、その冷たさに驚いて指を弾いた。
遠夜の指の先は凍えたように冷たかった。
「遠夜、いつからここにいたの?」
脅えの宿る力ない声音に、遠夜は柔らかく笑み返すと、離れた指を絡め取った。
「ずっと・・・いたよ。」
遠夜は小さな声で呟いた。その瞳は鬼火のように揺らめいて、凪嗄の瞳の中の何かを追っているように見えた。
「凪嗄のそばにずっと・・・」
「ずっと?」
「ずっと・・・そばに、だから」
「だから?」
「だから・・・」
その言葉の先が聞き取れなかった。薬が効いてきたのか、そこで意識が遠のいた。
絡んだ指の冷たさだけが、躰に強い痛みを与えて、耳に残る残響音が何か違う音階の雑音と重なった。
遠夜は何を言ったのだろうか。
翌日、凪嗄が眼を醒ますと、既に日は高く昇っていた。よく晴れた青い空が広がっている。至上の天空、セレストブルーに浮かぶのは少し太った十日の半玉
盤。半透明のその月は、空に溶けてしまう程の薄片だった。
時計を見ると、学校の一時限目の終わる時刻に程近い。ことのほか頭の中はすっきりとしていて、昨日までの気怠るさは嘘のようになくなっていた。心臓は静かに正確な鼓動を刻み、顔色はいつもより血の気を帯びて健康的に見えた。
昨日一日眠り続けていたというのだから、それは驚く程のことでもない。おそらく自分の想像以上に疲弊していた身体が眠りによって癒されたのだ。
制服に着替えた凪嗄は外套と襟巻をとって階下に降りた。不思議なことに、居るはずの母の姿は見当たらず、食卓の上にはまだ温かい朝食だけが置かれていた。
何処からか沈丁花の甘い香が漂っている。庭へ続く居間の窓が大きく開け放たれていて、薄布のカーテンが風を受けて大きく波打ちながら揺れていた。その向こうに人影がある。ちょうど沈丁花の垣の辺りだった。
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【3】
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