【2】
凪嗄が目を醒ましたのは、見慣れた天井のある寝台の上だった。消毒液の微かな匂いが鼻をつく。何処かで静かな水音が響いていた。
通い慣れた保健室の、寝台の廻りに引かれた薄布のカーテンが、西側の窓から延びる午后の長い日射しを遮っていた。蜜色に染まるそのカーテンの向こう側で、誰かの話し声が微かに漏れ聴こえていた。
若い女性の涼しげな声に対峙して聞こえるのは、凪嗄と同じくらいの少年の声だろうか。落ち着きのある穏やかな響きを持ったその声は、鬱陶しい気怠るさを纏った凪嗄の耳に心地よく届く。
窓の外で繁る緑が弱い陰を落とし、金色の日を窓辺にこぼす。天井に揺れる水の波紋を認めて、凪嗄は安堵したような溜息を漏らした。葉蔭から溢れた光が、窓辺に置かれた水槽の水草の群れに反射している。
凪嗄の細くて華奢な容姿と、少女のような面
立ちは時折クラスメートの揶揄をかうことがあった。病気の所為で休みがちな教室の中で、孤立してしまうことがしばしばるのも事実だった。だから、学校は彼にとって、必ずしも居心地の良い場所ではなく、この部屋の寝台は、学校の中にある数少ない彼の居場所なのだった。
「起きたの?」
凪嗄の気配を感じとったのか、部屋の主人は柔らかな声でカーテンを引いた。顔を覗けるくらいに薄く引かれたカーテンの隙間から顔を覗かせた彼女は、真新しいシャツの包みを抱えていた。
「それじゃあ、気持ち悪いでしょう。新しいのに着替えなさい」
不用意に動かすことを躊躇したのか、凪嗄は斑模様に汚れたシャツを着たまま寝台の中にいた。泥跳が乾ききらないうちに横たえられた所為か、シーツに汚れが落ちてしまっている。
「・・・すみません。シーツ汚してしまったみたいで」
寝台の上にゆっくりと躰を起こした凪嗄の頭は、寝ぼけているようにはっきりしなかった。夢から醒めたばかりの子供がそうであるように、しばらく焦点の定まらない視線が左右に泳いでいる。
「これ、持っててよかったわ」
彼女は小さなブリキ缶を凪嗄に手渡すと、寝台の脇にシャツの包みを置いた。ポケットに収まる程の小さな容器は、黒猫の柄のついた萌葱色のピルケースは、不意の発作を起こした時の為にいつも持ち歩いているものだった。
「・・・発作、起こしたんですか?」
「えぇ。でもね発作はすぐに治まったから。ただ、気を失っちゃって・・・ちょっと大変だったのよ。あの子達も随分驚いて、」
汗を吸った汚れたシャツが、いやらしく躰に張り付いていた。不快な熱を帯びた躰は、全身に鈍い痛みを走らせている。擦り傷の出来た痛々しい手脚には、大きな痣が、戒めの斑のように残っていた。
「あ・・・」
凪嗄の眼は寝台の脇に置かれた土埃のついた分厚い図鑑と、丁寧に皺を伸ばされた頁の束を捉えている。整然と眼の前に置かれた書架に、凪嗄の胸がきゅっと収縮した。脳裏を掠める記憶の中で、鮮明に甦る轟音が、彼の背筋を凍らせる。
汚れたシャツのボタンをはずす指先が微かに震えて、血の気が退くように顔色は蒼白になった。
「少し、外の風を入れましょうね」
寝台の側にあった窓が乾いた音をたてて開けられた。除湿された部屋の中に少し湿った外気が流れ込んで来る。それは、夏の夕刻の萎えた下草の匂いを運んだ。
その刹那、不意に強まった風が、少しだけ開いていた遮蔽用の薄地のカーテンを大きく翻した。流れたレールがカラカラと音をたてながら視界を広げる。
人影が、ゆらりと揺れた。
そこに見えたのは、診察台を去ろうとして立ち上がった背の高い少年だった。手首に真新しい白い包帯が巻かれている。少年は驚いた様子でこちらを振り向いていた。
夏服の白い半袖シャツと、濃紺のズボンからはすらりと細い手脚が伸びている。日に焼けて褐色に輝いたその細い手脚が、長身の彼の躰を華奢に見せていた。けれどもそれは、凪嗄の骨張って細すぎる手脚とは違って、少年らしいしなやかな曲線を描いていた。
煌々と見開かれた瞳は印象的な深い青をしていて、凪嗄の直線的な黒髪とは対照的に、綺麗な鳶色の髪が、深く澄んだ瞳の横で柔らかなカーブをつくっていた。
少年は、露になった凪嗄の透けるように白い上半身を悚然とした様子で見つめていた。立ち尽くし、瞬き一つしないその表情にはっとなって、凪嗄は慌てて新しいシャツに袖を通
した。はだけた胸元から覗く胸部の大きな傷を隠すように、急いでボタンを留めた凪嗄は、小さな躰を強張らせて息を詰めた。
小さな胸を裂くように盛り上がった大きな傷は、以前に受けた手術の跡。白い躰に残る醜い傷痕は、見るものをこのような表情にさせるのだろうか。それは、何か怖いものを見た時のぞっとしたような顔つきだった。
少年はその表情を変えないまま、残酷に凪嗄を見つめ続けていた。
「そうそう、君のその手首、軽い捻挫だと思うけれど、一応病院に行っておきなさいね」
沈黙を破った声に、少年は憑かれたように動かない躰を弾かせた。
「あっ、はい。・・・どうも、ありがとうございました」
少年は穏やかな声で云って、軽く会釈すると何ごとも無かったように踵を返した。部屋を出て行こうとする少年の顔からは、先刻まで凪嗄に向けられていた厳しい表情は既に無く、それどころか微かに笑みさえ浮かべていた。
茜色の日を全身に浴びた少年は凪嗄を一瞥すると、静かに扉を閉めて消えた。
「さて、君はどうする?もう少し休む?」
茫然と寝台に腰を下ろしたままの凪嗄に彼女は優しく声を落とした。何かを気にしているような凪嗄の瞳が、閉ざされた扉に視線を注いでいる。
「綺麗な瞳をしていたわね、彼。クウォーターなんですって。新学期から編入して来るらしくて職員室に呼ばれていたの。そう、あなたのこと気にしていたわよ・・・倒れたところ職員室の窓から見ていたんだって、」
「えっ、見てたの・・・」
凪嗄は何故か酷く気恥ずかしくなって寝台を降りると、脇に置かれていた鞄を取り上げた。クラスメートにからかわれながら必死になっていた自分の姿は、あの少年の瞳にどんな風に映っていたのだろうか。胸に沸き上がったざらついた感触に、きつく唇を噛み締めた視線の先で、壊れた図鑑の金の箔押しが夕映えに反射して、黒めがちの凪嗄の瞳を焼いた。
「帰ります。もう、大丈夫だと思うから、」
「そう。本当に大丈夫?」
「はい。迷惑かけてすみませんでした」
項垂れて礼を述べた凪嗄を見咎めて、心配そうな声が届く。
「あの子達も・・・反省しているみたいだから。だから、」
「わかっています。もう、あんな無茶は、」
少しむきになり過ぎた自分にも非があるのだと、凪嗄は自分に言い聞かせた。あの時、あれほどまでに冷静さを失ったのは、少女のような容貌と白過ぎる肌のことを非難されたからだった。それを恥ずかしいと思っている自分がなんとなく情けなかった。
壊れた図鑑は、少年達が弁償することになったらしい。不本意にも、壊れた図鑑は凪嗄の手の中に納まった。それが発作の代償のような気がして厭だったけれど、複雑な気持ちで図鑑を受け取った凪嗄は、外れてしまった頁を元の場所に挟みこんで、それでも大事そうに胸の前に抱えて部屋を出た。
人気のない廊下には、長く伸びた窓枠の影と夕日の朱が、縞模様のように並んでいる。放課後の校舎の中は閑とした静寂に包まれていた。ただ凪嗄の足音だけが閑寂な廊下の均衡を崩すように響き渡っていた。
昇降口で靴の泥を落としながら、凪嗄はぼんやりと先刻の少年のことを考えていた。少年が投げつけた痛い程の視線が黒い革靴にこびりついていた泥のように凪嗄の心を汚し、憂鬱な気分にさせていた。昇降口の重たい扉が、いつにも増して重たく感じられた。
その扉の向こうで蜩の啼声が大気にとけている。それは、暮れ暮れの蒸した暑さを少しだけ和らげてくれるように聞こえた。大きく張り出した庇を支える列柱に規則正しい影が落ちて、その淡色の影は逃げるほどに長く尾を引いていた。
凪嗄はその中に同化するようにして動くもう一つの影に狼狽えて息を呑んだ。
先刻の背の高い少年である。少年は柱に背を擡げ、右脚で蹴るような動作を繰り返しながら俯いていた。頬はかかる鳶色の髪が、日に透けて繻子のように輝いている。出来ることならば、少年を避けて通
りたい凪嗄は、素知らぬふりで彼の横を通り過ぎようとした。しかし、少年の穏やかな声がそれを赦さず、制止した。
「よかったら、一緒に帰りませんか?」
悪意のない彼の表情が凪嗄を捉える。ほんの数分前に見た少年とはまるで別
人のような表情が、優しい視線を凪嗄に注ぐ。注がれている視線の柔らかさに当惑している凪嗄を見て、少年はくすっと小さく笑んで頸を傾げた。
「困ってる。そう云う顔してるね」
凪嗄はこくりと頷いた。
「・・・だって先刻、君が恐い顔をしてたから、」
「えっ」
「はじめてだったんだ。あの傷、他人に見られたの・・・」
「傷?」
少年は何の事だかわからないと云う風に、不思議な表情をした。
「胸の傷、見て・・・驚いてた・・・」
疑うように云った凪嗄の言葉に少年は頸を振った。澄んだままの濁りのない瞳が凪嗄を窺っている。その瞳は嘘を吐いているとは思えなかった。それではあの時の彼の表情は何だったのだろうか。確かに彼の視線は凪嗄の躰を這い、息を詰めて立ち尽くしていたのだ。
「じゃあ、どうしてあんな顔をしていたの?」
凪嗄の問いを反芻するように空を仰いだ少年は、
「・・・君が、あんまり綺麗だったから・・・」
と、妙に真面目な顔をして云った。
また、自分はからかわれているのだと思った凪嗄は、羞恥で顔を背ける。けれども少年は臆することなく言葉を続けた。
「怖いくらい、綺麗に見えたから」
綺麗などと形容されたことは今までに一度もなかった。綺麗と言えるのは、むしろ彼の容貌のほうではないか。少年の深く青い瞳や、緩やかで柔らかい印象を持つ色素の薄い髪こそ、綺麗だと形容してしかるべきもののように思えた。
凪嗄は彼ほど秀でた容貌をしている訳ではなかった。つぶらな栗色の瞳や滑らかな白い肌、程度の良い厚みを持った唇が少女のような印象を与えたが、それは綺麗と云うよりもむし可愛いと云うものに近い。凪嗄は少し腹がたって、
「からかわないでよ、」
凪嗄はあからさまな怒気を示して歩きだす。
少年は凪嗄の態度に少し驚いた様子で後を追ってくる。長く伸びた細い脚がすぐに凪嗄を追い抜いた。少年の乾いた肌が凪嗄のシャツの袖を掠める。仄かに甘い香が、ほんの一瞬凪嗄を捉えて、その歩調を緩めさせた。沈丁花に似た柔らかな芳香は、少年の服に薫き染められたものらしい。
「からかってる訳じゃないよ、君・・・海の中にいるみたいに見えたんだ。映りこんだ波紋が、躰の上で揺れてて、すごく綺麗だったから、」
凪嗄は寝台の上に映っていた水の波紋を思い出して、少年の言葉を反芻する。あの寝台が凪嗄を心地よくさせるのは、波紋の映し出す揺らぎが、彼を水の中にいるような不思議な感覚に誘うからだった。凪嗄は水の中の自分を想像し、先走りした自分の考えを恥じた。
「あの、てっきり傷を見て驚いているんだと思ったから、」
自責する凪嗄を見て、少年は慰めるように微笑した。
「誰にだって・・・知られたくないことってあるし、君が気にしているんだとしたら、」
少年の細い指が凪嗄の鼻筋をそっと撫でる。
「えっ」
「通った鼻筋、整った骨格、清楚な感じがする君の容姿も、それは恥ずべきことではなくて、自信をもっていいことなんだよ。」
全てを諭っているような彼の言葉が凪嗄の胸を鷲掴んだ。伏せた瞳が強さをもって輝いてくる。この少年は、凪嗄の知っているどの少年とも違う気がした。
おもむろに差出された右手の先で、少年は柔らかく微笑んだ。凪嗄は静かに微笑み返すと、巻かれた包帯を気遣うようにその手に触れた。
沈丁花の甘い香が凪嗄をゆるく包みこむ。自分が久し振りに笑っていることに気がついて、凪嗄はもう一度確かめるようにして、笑みを重ねた。
新学期になって凪嗄のクラスに編入して来たのは、背の高い、鳶色の髪をした、瞳の綺麗な少年だった。
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