【1】

 もう四月だと云うのに、東京の空に雪が降りた。仄白く、花弁のように舞い降りた水の欠片は、淡紅色の吉野桜に雪綿の化粧をし、開きかけた柔らかな蕾を悪戯に震駭させながら、色のない無機質な世界を創りあげていた。
 重く垂れ込めた空の、
冷たい銀の雪粒は、ゆっくりと地上の空気を凍らせ、街中の音はその白さの中に溶けるように吸収されていた。

 昼過ぎから寝台の中で寝かされている凪嗄(なぎさ)は、虚弱な自分の躰に腹をたてていた。心臓が悪いのだ。幼少から付き合っている病気だけれど、十二歳になった今でも馴れることはなかった。遊びたい盛りの歳に、運動することを規制される凪嗄にとって、それは酷な病と言える。 少しのつもりの無理が、酷い発作に繋がることが、しばしばあるのだ。
 凪嗄はそんな自分が好きになれなかった。
「どうして今頃、雪なんか降るんだろう」
 透通る白い肌は桜色に上気して、苦しそうに吐き出される呼吸は微かに熱い。躰を支配する嫌な鼓動が、見えない毒手となって彼を襲った。雪明かりの柔らかな光源でさえも彼を不安にさせ、発光した街の超越された空間は、彼を途惑わせるのに十分だった。
 凪嗄の精神は、雪に隠された桜の蕾と同じように頑なに震えながら苛立っていた。
 苦々しく寝返りを打つと、額に張りついた艶のある黒髪が、その部分だけを残してさらりと脇に流れて垂れた。心臓の強い疼きは、顳かみのあたりで痛いくらいに脈打っている。
「どうして、雪なんか・・・」
 溜息まじりの声で呟いて壁時計に眼を凝らすと、針は八時を少し廻ったところだった。 視点の定まらない虚ろな視線だけが、行き場を失って虚しく宙を舞う。
 約束の時間にはもう間に合わない。

(夜桜の写真、七分咲きのうちに撮っておきたいから、凪嗄も一緒に行こうな)

 そう云って笑った遠夜(とおや)の顔がぼんやりと浮かんで消えた。
 約束を守れないのはいつも凪嗄のほうで、邪魔をするのはいつでもこの不安定な心臓だった。早く打ち過ぎるこの心臓は、凪嗄の抱える小さな爆弾なのだ。
 腹立ち紛れに頭まで布団をかぶると、寝台の後方で誰かが扉をノックする音が聞こえた。軋む蝶番いが鈍い音を起てて開く。荒い呼吸づかいで近付いて来る人の気配が、空気を揺らす。
 微かに薫る芳香が、主張し過ぎないほどに存在を暗示させた。凪嗄は乾いた唇の端をキュッと結んで、呼吸を止めた。

「また熱出したって、平気なの?」
 遠夜は頸から下げていた古い写真機を脇机の上に置くと、布団をかぶったままでいる凪嗄の寝台の端に、注意深く腰掛けた。走って来た所為で、両肩が上下に振動している。それを静めるようにして大きく深呼吸する少年は、依然として顔を出そうとしないもう一人の少年を心配そうに覗き込んだ。
 膝を抱え込むようにして潜り込んでいる凪嗄は、拗ねた仔犬のようにじっと動かない。遠夜が覗き込んでいる所為で、彼の乱れた息づかいは、凪嗄の耳のそばで風穴のように増幅されていた。
 この雪の中、遠夜は走ってきたのだろうか。凪嗄の心臓が、トクンと大きく波打った。
「走って来なくても・・・よかったのに、」
 バツの悪そうな顔で掛布を剥いだ凪嗄は、微かに微笑む遠夜の顔が驚く程近くにあることに狼狽した。窺うような視線を送る遠夜の瞳の中には、情けないくらい白い顔をした自分が映って揺れている。

 凪嗄は遠夜の瞳の色が好きだった。紺碧に近い色の虹彩 は、海のように深い透明なブルーをしていて、光の反射がその深く黒みがかった青を美しい藍紫に変える。その瞬間、遠夜の容貌は不思議なほど大人びて見えるのだった。外国人の母親からもらったと云うその晴色の持つ柔和な眼差しは、彼の神経質に尖った顎の印象を和らげ、どこまでも深い海の色は、端正に整い過ぎた容貌の中にある精粋と言えた。
「外で、長居をしたのが原因?」
 遠夜は今朝方クラスメートと共に雪遊びに興じていた凪嗄を思い返して聞いた。いつもなら無理じいをすることのないクラスメートが、季節外れに降った雪に興奮したのか、凪嗄を雪合戦に誘ったのだ。
「うん、少しはしゃぎ過ぎたみたい。いつも、遠夜が止めてくれるから・・・自分一人じゃ、なんか上手く断れなくって」
「ごめんな、今日は少し遅れて登校したから、」
 いつでも遠夜に頼ってしまっている自分が腑甲斐無く、やりきれない気持ちでいる凪嗄に、遠夜はだだ優しく笑み返してくれる。凪嗄は苦しそうな呼吸を繰り返しながら、遠夜がやったように大きく深呼吸をして、脅える手つきで胸を弄った。まだ少し早い心拍に眉を顰める。
 癒すような遠夜の眼差しが凪嗄を射る。彼はそうして何も云わないまま、言葉を探しているようだった。
「さっき、薬飲んだから大丈夫だと思う」
  凪嗄はそう云って強がって見せたけれど、遠夜の瞳の中にある冴々と澄みきった水は、その中で苦しそうにもがいて溺れる自分の姿を映したまま、澱み無く流れていた。曇りのない瑞々しい水の中で、凪嗄の顔は醜く引きつって歪んで見えた。
 そんな自分に耐えられなくなって、凪嗄は視線をそらして目蓋を閉じた。
「凪嗄・・・」
 遠夜の物静かで落ち着いた声音は、そんな凪嗄の不安をかき消すように、穏やかに発せられる。旋律の狂った鼓動は、その声に同調して次第に整えられてゆく。そして凪嗄の小さな心臓は正確なリズムを取り戻しながら、弱々しく階調を刻み始めた。
 遠夜は立ち上がって、先刻脇机の上に置いた写真機を手に取ると、「笑って」と云ってシャッターを切った。ファインダーの中の凪嗄は硬い表情を崩さないまま、じっとこちらを見据えていた。
 遠夜はファインダーを覗いたまま動きを止める。写真機を支えている左手の指だけが、底部をさらうような仕種をしていた。
 遠夜の写真好きは、彼が五歳の時に逝った九つ年上の兄の影響らしい。この古びた写 真機も元はその兄の所有物で、別れる時に貰ったものなのだ。底部に傷のように彫られた「ミナミ」と云う文字を、遠夜は癖のようにいつも指でなぞっていた。
 海波(みなみ)と云う名前の遠夜の兄は、凪嗄のように癖のない黒髪をした、線の細い少年だった。遠夜とあまり似ていなかったと云う彼の印象はむしろ日本的で、唯一遠夜と同じ色を持つ瞳でさえ、繊細に並ぶ淡白な部品の中では彼ほど際立って見えなかった。
  遠夜は早くに逝ったその兄の、多くを語ることはなかったけれど、縁無しの眼鏡を癖のようにいじりながら、読書ばかりに耽っていた口数の少ない兄のことを、疎ましく思ったことはなかったと遠い眼をして話してくれた。

「気にしてるの?今日のこと」
 遠夜は視線を外した凪嗄を気遣うように問いかけた。凪嗄は返事をしようとしない。自分の躰の弱さを嫌う凪嗄は、約束の守れなかったことを自分の病気の所為にされるのを恐れていた。自分の病気を他人に避難され、

(そういう病気だから仕方ない)

そう思われて等閑にされるのが悔しかったからだ。
「ちゃんと、約束・・・したのに、」
 息を詰まらせた掠れて弱々しい声が凪嗄の小さな唇を震わせた。そのまま押し黙ってしまった凪嗄を見て、遠夜はしばらく何も言わなかった。けれども、二人の間にある沈黙は言うべき言葉を押し殺す重圧を感じさせない。むしろ、凪嗄は不意に訪れた沈黙に安堵し、遠夜の無駄 のない洗練された表情を弄っていた。
 遠夜は言葉を選んで話すところがある。決して相手を傷つけまいとする彼のひたむきさが、凪嗄にとって優しかった。凪嗄は、こうして遠夜の言葉を待っている時間の流れが好きで溜まらなかった。紡がれる言葉が沈黙を破る瞬間、遠夜の瞳に宿る暖かな温もりが心地良くて。
「自分の病気が好きになれたら、凪嗄はもっと強くなれるのに」
 遠夜の唇がそう告げた。そして凪嗄の細い手を取って、遠夜は自分の胸にあてた。空いているもう片方の手は、凪嗄自身の胸にあてがわれる。
 遠くから退いては寄せる海潮音に似た響きが、凪嗄の手の中でトクトクと心音を伝えていた。凪嗄の心拍が穏やかに、遠夜のそれと重なってゆく。
「・・・ちゃんと、動いてる。ほら、同じリズムで動いてる・・・」
 そう言う遠夜のやさしい顔は、微笑を浮かべながら、

(また今度、一緒に行こう)

と静かに唇を動かしていた。
 大きく頷いた凪嗄は、寝台の上の天窓にポカリと浮かぶT下弦Uの月を見つめていた。いつの間にか降っていた雪も止んで、雪雲の途切れた宵群青の夜天には、黄褐色の星がきらきらと明滅して、瞬いていた。

「でも、なんだか一緒には行けない気がする・・・」
 凪嗄が冗談のように言って笑ってみせると、遠夜は少し青ざめた表情で微笑んで、凪嗄の白く貌のよい額をポンと叩いて、俯いた。
 心臓がまた、トクンと今度は小さく波打った。

 

 その晩、凪嗄は引き込まれるような微睡みの中で夢を見た。眠りに入る以前の曖昧な記憶の中で、机上の水時計が単調なリズムで水滴を落としていたのを憶えている。繰り返されるその音に耳を傾けていた凪嗄は、自分の躯の内側を流れる透明な水の音を聞いているような錯覚に捕われていた。得々と流れる水音は次第に大きさを増して、いつしか水槽の中で揺れる水泡の音に変わってゆく。
 その泡の向こうに聞こえるのは、夏の喧噪に混じって跳ね上げられる水飛沫の音と、少年達の歓喜に満ちた煩いほどの歓声だった。
 遠夜と出会った夏の日も、あの歓声が遠くで雑音のように聞こえていた。浅い眠りの中で甦った夏の暑い午后の色彩 が、凪嗄の目蓋の裏側で鮮明な色を取り戻す。

 

 人いきれに澱む空気の中で、凪嗄は脇に抱えていた分厚い書架を取り落としてしまった。盛夏の刺すような日射しが凪嗄の白過ぎる肌に強く切り込んでくる。白昼の太陽は彼をひどく憂鬱にさせた。
 夏のはじめから体調のすぐれない凪嗄は、夏期休暇のほとんどを病院の寝台の上で過ごしていた。木漏れ日の淡い光でさえ、そんな彼の体力を消耗させ、躰の倦怠感は拭えなかった。もともと焼けることのない凪嗄の白い肌は、その所為で一層白く、小麦色に焼けた少年達の中では嫌なほど目立って見えてしまう。

  疲弊した躰が小さな溜息をもらす。

  今日は夏期休暇の中盤にある登校日で、読み終えてしまった図書を返却し、新しい書架を手にする目的の為だけに学校の門を潜ったのだ。今朝、家を出た時は気分もさして悪くはなかった。だた、予想以上の暑さに躰がついて行けず、久し振りに触れた人の多さに呑まれていた。
 今、手中にあった分厚い書架は、するりと凪嗄の細い腕をすり抜けて、陰の落ちた乾いた地面 の上に横たわっている。
 水泳教室に参加する生徒を残して、校庭は帰宅を急ぐ生徒と遊戯に興じる生徒でごった返していた。昇降口から校門までは、校庭を直線距離で突っ切ればたいした距離ではない。しかし、木陰を探しながら迂回路をとった凪嗄にとって、その校門までが果 てない距離に思えてならなかった。
  凪嗄は無理をして登校したことに少し後悔していた。結局、図書館で目当ての本を探し出すことは出来なかったのだ。仕方なく、凪嗄は担任教師に頼みこんで、以前から読みたいと思っていた理科室の蔵書を特別 に貸し出して貰ったのだった。ずっしりと重いその書架は、瑠璃色の革表紙に金の箔押しが施されている美しい装丁の天文図鑑だった。いつも鍵のかかった硝子扉の奥にあって、少年を魅了していたものだった。
 凪嗄は落としてしまった図鑑を拾おうとして屈み込む。一瞬早く、誰かの腕がそれを拾い上げていた。日に焼けた、肉の厚い腕だった。
「これ、貸し出し禁止の本じゃないのか?」
 逆光になって影を落とす大きな躰が、凪嗄の前に立ちはだかる。聞き覚えのある太い声は、凪嗄の苦手なクラスメートのものだった。太った小麦色の丸い顔が薄笑いを浮かべている。
「おまえ、ずるいことするなよ」
 強められた語気が凪嗄を威嚇し、それを取り囲む数人の小さな眼が中傷するような視線で凪嗄の躯を蹂躙している。
「ちゃんと先生に借りたんだから、」
「だから?」
「だから、返してよ」
「返してよ、」
 太った少年は鸚鵡返しに口調を真似て、嘲りの表情を浮かべる。
「返してやろうか・・・」彼は含んだような言い方をしたかと思うと、図鑑の頁をおもむろに開いてニヤリと笑った。端のあがった唇が妙に赤く見えて厭な感じがした。
「やめて、」
 凪嗄の声に重なるように、鈍い音が耳に届く。引き千切られた頁の束が、野太い少年の指の中で形なく潰されて、悲鳴のような声をあげそうになって、凪嗄は口元を手で覆った。周りにいたもう一人のクラスメートがその潰された紙束を天にかざして、かん高く咆哮した。
 頁の取れた瑠璃色の図鑑が、無惨に形を崩して地面に落ちる。舞い上げられた砂埃が、視界の先をくすんだ色に変えていた。
 凪嗄は落とされた図鑑を拾いあげると、縋るような眼で相手を見た。泣き出しそうな顔をして困惑している凪嗄をからかうようにして、数人の意地悪な手が破かれた頁の束を回しあっている。
「返して」
 取り返そうと必死になっている凪嗄の細くて華奢な腕は、それでも空を切るばかりで、その束に触れる事すら出来なかった。
「お願いだから、それ返して、」
 面白がるような視線が凪嗄を取り巻いて、あちこちで起こる小さな笑い声が、彼を酷く厭な気持ちにさせていた。

 暑さで蒸し返る空気は、そこだけ流れを止めたように汚されてゆく。
 凪嗄は息苦しさの中で目眩に似た吐き気を感じた。じっとりと粘る汗が几帳面 に留められたシャツの襟に執拗に纏わリついて離れない。
「こいつ、女みたいな面して、この俺に返せって言ってるぜ。返して欲しかったら、力ずくでも取ってみな、」
 挑発するように吐かれた言葉とともに、潰れた頁の紙束を乱暴に掴み返して、太った少年は校舎の裏手に向かって笑いながら駆け出していった。
 凪嗄は興奮して早くなりはじめている自分の胸に手をあてた。この鼓動を静めなければいけない。そう思いながらも、少年が吐き棄てていった言葉の奥に潜む揶揄に、驚く程に冷静さを失ってしまっていた。そして、彼は何の躊躇もなく、ただその少年を追い掛けて走り出してしまったのだ。
 その瞬間の凪嗄は、本気であの太った少年に追いつけると考えていた。自分は女の子ではないのだ。しかし、思うように前に進まない躰は、いくらも走らないうちにその手脚を痺れさせ、悲鳴をあげさせていた。
 周囲の音が高波のように迫ってくる。幻聴だろうか。吹き抜ける生暖かい風、木樹のざわめき、跳ね上げられる水飛沫、少年達の歓声。渦を巻く音の波は、洪水となって全ての感覚をその躰から奪いさった。
 感覚を失って重くなった下肢は、地についている感触さえ持たずに、散水で出来た泥濘に足をとられてよろめいた。倒れかけた躰からだらりと投げ出された上肢は、壊れた操人形のような影を地上に落としている。勢いよく地面 に叩き付けられた凪嗄は、全身を貫く胸の痛みに唇を咬んだ。濁った水の飛沫が、彼の清楚な白いシャツを斑に汚す。
 地を這う躰が、恐いくらいに大きく波打ち、上手く呼吸が出来なかった。耳の奥で響く轟音は、周囲の音をかき消す勢いで迫り、蜉蝣のように揺らめく世界は、一瞬哀し気に啼いたような声を発して、彼の視界から唐突に消失した。

 いつまでも止まない轟音と痛みは、初めて彼を不安にさせた。今までに感じたことのない激しい恐怖が彼の頭を混乱させた。そして、意識を失うその瞬間、凪嗄は自分の命の期限が周りの少年のそれとは違うのだということを諭ったのだった。

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