【2】

 三年前、大学を卒業した鳴瀬は中堅のレコード会社に就職した。学生時代のサークルの先輩が勤めている会社だった。在学中、友人数人とバンドを組み、将来はこれで飯が食えればいいと、大きな理想に胸を膨らませていた。しかし、プロを目指す程の技量 がメンバー全員にあった訳ではなく、結局、バンドは卒業と同時に解散した。
 卒業後に業界に足を踏み入れたのは、鳴瀬だけだ。鳴瀬は底々に楽器を扱い、いい曲を書いた。その先輩は、鳴瀬の書く曲を高く評価してくれていた。
 と云っても、会社での仕事はアルバイトでも出来るような簡単な雑用が大半で、雇用条件はあくまでも事務関係の仕事に過ぎない。音楽には程遠い。
 所詮、実力の世界だと痛感しながら、それでも鳴瀬は曲を書き続けていた。
 先輩はよく、実力だけでは実らないものもある、と力説し、鳴瀬の曲に足りない何かを見つけ出せ、と辛い言葉で応援し、希望を捨てるなと激励を送り続けてくれていた。

 足りないもの。
 それが何であるのか、鳴瀬には分かっていた。
 鳴瀬の曲に足りないもの。

 就職して1年が過ぎた頃から、夜、仕事の身体が空くと、鳴瀬は一人、路上で歌うことを始めた。ギターを抱え、自分の曲を弾き語る。
 決して悪い声質ではない。けれど、鳴瀬は自分の声が嫌いだった。掠れ気味に揺らぐ高音部は、ある意味とても魅力的に聞こえるのだが、鳴瀬の声は彼の書く曲を生かせない。
 先輩の云う、足りないものとはそれ。声。歌声。
 聖歌隊を辞めたあの日以来、鳴瀬は自分の声で歌うことを極力避けることにしていた。だから、学生時代のバンド活動の中ですら、決して歌うことはなかったのだ。
 それが今、こうして路上で声をあげる。自分の曲に耳を傾け、その声の在り処を探すために。とうてい無謀なことだとわかっているのに、鳴瀬はいつも心の中で声を重ねる。
  忘れることができない、あの、小さな少年の声音を。

 天の高みを凌駕する、天使の歌声。
 少年期の極短い間だけ歌うことを赦された、儚く、不完全な、高音の声域。成長とともに手放さなければならないもの。しかし、少年のあの発声は、訓練や技法で身につけたものではない。神から与えられた天賦の才能。
 成長し、変わるであろう声質は、さらなる深みを増して、強靱なテノールの音域に到達するに違いない。
 鳴瀬が、求めて止まないもの。

「ねぇ。」
 路上での弾語りはいつも1時間と決めていた。時間は仕事の都合でまちまちで、場所は駅前の花屋の店先を借りている。閉店後も店のショーケースには淡い光が灯っていて、浮かび上がる花の影と色彩 が彼の目を惹いたのだった。店の前を汚さないこと、と云うのが条件で店主は快く夜間の使用を許可してくれた。
 ギターを仕舞い終えた鳴瀬は、先程まで聴衆の中にいた少年に後ろから声をかけられた。高校生くらいの少年だろうか、短かめの髪を白に近い金髪に染めている。線の細い小柄な少年の姿は、ショーケースのガラスに花影と共に映り込んで、ぼんやりと頼り無さげに見えた。
 鳴瀬はその少年がここ数日、決まって同じ位置に座して1時間、始めから終わりまで鳴瀬の歌を聞いていることに気がついていた。数少ない他の聴衆が、曲間に拍手をしてくれたり、楽しそうな表情を見せてくれる中にいて、その少年だけは、ただふらりとそこに居る。
 聞いているのか、いないのか、それすらわからないように表情を変えずに。

「ねぇ、その曲、誰が書いてるの?」
 少年は射るような視線を鳴瀬に向けた。
「俺、だけど・・・」
「ふぅん。もったいないね。」
「勿体無い?」
「そう。だって、曲はすごくいいのに、そのギターとあなたの声じゃぁ・・・」
 少年は溜息ともつかないようなけだるい声で、呆れたような表情をつくる。
「・・・死んだも同前だよ。あなたの曲。」
 そう云って、上目使いに鳴瀬を覗き見た。
 鳴瀬は些か驚いた顔で少年を見返すと、力無く、ふっと表情を和らげた。
「そうなんだ。目下の悩みは、君の云う通りでね。でも、いい曲だろう?」
 鳴瀬の言葉に少年は意外そうな目をして答えた。
「自分の為に書いてるの?」
「・・・たぶん、違うな、」
「じゃあ、誰のための曲?」
 少年はたたみかけるように聞いた。無表情だった顔が次第に色づいて、何かを訴える眼差しを返して来る。
「さぁ、誰のための曲だろうね。・・・君も、歌を歌うの?」
 他意はない質問だった。自分の曲に興味を示し、適格な評価を下した少年に対して抱いた興味のままに、その質問を投げかけた。ただそれだけのつもりだったが、少年は意外な反応を鳴瀬に見せる。鳴瀬を真直ぐに見つめ返し、軽蔑と侮蔑をないまぜにした表情で、きつく口角をあげた。
「歌?、歌うよ。でも、こんな俗っぽい歌じゃない。僕が歌うのはもっと高尚な『歌曲』だよ。同類だなんて、考えないで、」
 強がる子供のような口調に、高慢な笑みが、青白い頬に張りついていた。

  少年は髪を染め、流行りの服を身につけ、どこから見ても今時の高校生に見えた。しかし、よく見ると、姿勢だけが矯正されているように天に伸び、きちんとした背筋がその容姿と適合せずに違和感がある。
「君、もしかして声楽をやっているの?」
「えっ?」
「・・・背骨をのばし、真直ぐ前を見て、顎の力を抜き、喉をやわらかく?」
 かつて、聖歌隊の練習で暗記する程に繰りかえした動作だった。鳴瀬は昔を思い出して、少し笑った。少年の瞳が大きく見開かれる。
「馬鹿に、しているの?」
 鳴瀬の言動の何処が気に触ったのか、少年は好奇心で上気していた顔色を失ない、羞恥で顔を赤く染めた。そして、乱暴な科白を鳴瀬に吐き棄てながら、逃げるようにして人込みの中に紛れて消えた。鳴瀬は唖然とその後姿を視線で追う。
 しかし、すぐに見失ってしまった。

(あなたの曲、いいと思ったけど、所詮は低俗な音楽だ)

 酷いことを云われたのだと思ったけれど、不思議と怒りの気持ちは興らなかった。ただ、その言葉も、あの高慢な表情も、どこか無理をしているようで、少年には似合わないな、と思っていた。
  悪いことを云ってしまったかもしれないと考えたけれど、きっとまたこの路上で会えるような気がして、鳴瀬は少年を追うことはなかった。

 もしも、彼が本当に低俗な音楽だと鳴瀬の曲を愚弄するのであれば、何日も続けて聴講に来る道理が無いと自惚れに近い感情を抱きながら、鳴瀬は明くる日から仕事に謀殺されてしばらく路上を離れることになる。
 ただ、その予感めいた少年との出会いが、鳴瀬の人生を大きく変えることになるなどと、この時の鳴瀬は露とも思っていはいなかったのだけれど。


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