【1】
夢の中で、鳥の影を見る。
翼を広げた大きな影が、頭上を旋回しながら歌を唄い、視界の端に見え隠れする青い空が、その対称をなしてきらきらと輝いていた。
手の中に収まって仕舞う程の小さな鳥であるはずなのに、その影だけが不規則に膨張し、空を覆い尽くした刹那、鳥は唄うことを止めた。
夢はそこで終わる。
そして、手の中に残る温くて不快な感触で目が醒める。いつもその繰り返しだ。
「鳴瀬さん?」
その声で覚醒した。
「鳴瀬さん、汗・・・凄いですよ、」
声の主はそっと手を差し伸べ、困ったような笑みを浮かべた。
三ヶ月ぶりに見る鷹村の顔は、日に焼けて、ほっそりとした長身の体躯が一層引き締まって見えた。いや、痩せた、と云った方が正確だろうか。
「少し、痩せたな。」
そう云っている自分も、鷹村と最後に会ってから5キロ以上体重が減っていた。非日常的な忙しさから解放されたと云うのに、たった三ヶ月で身体は不健康になるばかりだった。止めていた煙草も、吸っている。
「鳴瀬さんも、だいぶ痩せたんじゃないですか?それに・・・」
視線が鳴瀬の指先で交差する。
紫煙をあげる煙草を、鳴瀬は少しはにかんで、口に運んだ。
「ああ、色々萎えてる。煙草、止めてたのになっ」
「あいつ、煙草嫌いだったから、」
「・・・まだ、駄目か。」
鷹村は、ふっと溜息まじりに頬を歪め、
「俺も駄目です。わかっていたことなのに、ダメージ大きくって・・・」と云いながら、鳴瀬の隣に腰を下ろした。肩からかけていた黒いギターケースがコトリと小さな音をたてる。
そのまま二人でぼんやりと空を仰ぎ、抜けるように青い空から降り注ぐ夏の強い日射しに、肌が侵食されてゆくのを感じていると、隣に居るはずのもう一人の影が微かに笑ったような気がした。
歌が聞こえる。
伸びやかに澄んだ、透明な歌声。
もう、唄うことのない、テトラの声。
鳩居テトラ。
彼が逝って、まだたった三ヶ月だ。春が、夏に変わっただけの一瞬に、俺達は何十年も歳を重ねてしまったような、錯覚の中でもがいていた。
「なんで、ここなんですか?」
不意に解けた沈黙に、鳴瀬は視線を地面に落とした。
何故?
何故、俺はここに居る?
思い出の場所は、傷口を拡げる凶器。
浅緑の葉が縦横に茂る桜の木の下で、鳴瀬はテトラの歌に酔う。少年は葉を透かす光の中に立ち、蜜を含んだ甘やかな声で歌っていた。
清冽なボーイソプラノ。
まだ、ほんの小さな頃の話だ。おそらくテトラはそのことを憶えていないだろうと、鳴瀬は鷹村に云ったことがあった。
それが、この場所。教会のある敷地の中に立つ、桜の老木。鳴瀬はあの日、この木の根元に死んだ小鳥を埋めたのだった。教会の窓から見えるこの桜の下で、いつまでも綺麗な歌を聞いていられるように、と願いを込めて。そして、教会のピアノでレクイエムを弾きながら最後の歌を心の中で口ずさむ。
「手紙が届いた、」
鳴瀬は鞄の中から桜色の封筒を取り出しながら言った。
「ラブレター?」
鷹村は戯けたような口調で云い、表書きの筆跡に見覚えがあることに気がついて、小さな声をあげた。
几帳面に整っているように見えて、少しだけ右下がりに傾いだ文字。
「テトラ?・・・」
「昨日、届いた。消印つきで、ちゃんとポストに入ってた」
「悪戯坊主、」
「御両親に投函日の指定までしてたらしい、夏までは無理だってわかってたんだなきっと。でも、憶えているとは思わなかった、今日が・・・」
「今日?」
「・・・はじめてテトラと此処で会ったんだ。14年前の今日」
そして、封書を鷹村に差出しながら、新しい煙草に火をつける。立ちのぼる煙りに目を細め、鳴瀬は大きく息を吐いた。
幼少の頃、鳴瀬は教会の聖歌隊に所属していた。その頃の、声楽に気触れていた幼い自分を振り返る度、その滑稽さに苦笑を漏らす。歌うことは好きだった。けれど、鳴瀬は上手く歌える子供ではなかったのだ。
変声期が来て、11歳で聖歌隊を辞めた。普通、少年の変声期は13歳から15歳くらいまでに訪れると聞いていたので、自分のそれが早い時期にやって来たことに、両親は酷く落胆していた。もともと、教会の聖歌隊に入ることを薦めたのは彼の両親だったから、その落胆ぶりは彼を動揺させ、困惑させた。
訓練、毎日がより良い声を造る為の訓練だった。声を保ち、維持する為に規制と云う足枷をはめられることは、幼い鳴瀬にとって、苦痛以外のなのものでもなく、6年間続けた聖歌隊の生活の中で、「歌うこと」の幸せを見つけることが出来なかった。だから、鳴瀬は自分で足枷を外した。
誰にも内緒で、規律を破った。本当は、変声期が来て声が嗄れたのではなく、自分で声をつぶしたのだ。だから、鳴瀬の声は今でも高音域が嗄れたまま。
「あの日、」
鳴瀬は記憶の糸に捕われた罪人のように表情を硬くした。視線は空に流されて、所在なく漂っている。
「あの日?」
「ここで、テトラは俺に言ったんだ・・・」
(逃げたの?)
(逃がしたの?)
(殺したの?)
静謐で無垢な言葉でテトラはそう問いかけた。
「何?それ、どう云う意味?」
鷹村は不思議そうに鳴瀬の横顔を見た。結ばれた口唇の端が微かに震えて、
「鳴瀬さん?・・・」
あの日。
聖歌隊での最後の礼拝を終えて家に帰ると、飼っていた小鳥が鳥籠の中で躯を丸め、小さくうずくまっていた。まだ躯には温もりが残っているのに、頑なに閉じられたままの瞳は再び開くことは無かった。鳴瀬の小さな手の中で、それ以上に小さな鳥は次第に冷たくなって、死んだ。
鳴瀬は教会の敷地の中にある桜の木の下に、その小さな亡骸を埋めたのだ。
小鳥の躯を埋めるだけの穴を小さく掘った。その時、後ろで小さな少年の声が聞こえた。潤いのある、聖なる水のような声。
(逃げたの?)
(逃がしたの?)
(殺したの?)
「ねぇ、レクイエムを歌ってあげようよ、聖歌隊の人でしょ?」
少年は上気した桜色の頬に満面の笑みを浮かべて立っていた。死んでしまったものへの鎮魂には余程相応しくない至極の微笑に、鳴瀬はたじろいで言葉を呑む。
「ねぇ、一緒に歌ってあげようよ。僕、来週からここの聖歌隊に入るんだ、」
「・・・僕は、もう聖歌隊のメンバーじゃないから・・・それに、声が出ないから、一緒には歌えない。」
「じゃあ、伴奏はできる?」
あの日。
下草の薫る桜の木の根元に短い影を落としながら、鳴瀬の伴奏をなぞった少年の声。清涼で、不思議な魔力を持った、汚れのない歌声。
自分には無いもの、自分が失ってしまったもの、自分が欲して得られなかったもの。その少年の声は、その全てを満たし、完璧だった。
しかし、11歳の少年が、「完璧」などと表現出来る程、何を分かっていたと云うのか。今となって思えば、背伸びをしていた少年の過信に過ぎなかったのかも知れない。自身の開花がこれ以上望めないものであることを知ってしまった少年にとって、その声はただ残酷な魅力を持つ。
羨望、嫉妬。
鳴瀬は汚れてしまった自分の声を呪う。
「飛べない鳥は、死んでしまって幸せだったよ。きっと・・・」
少年は最後にそう言って、邪気のない微笑みを返した。
それが、テトラとの出会いだった。
まだ5歳の小さな少年。
少年は胸の中に小さな鳥籠を持つ。鳥籠の中の小さな鳥は、彼の小さな頤を介して、歌を歌う。
「殺したの?」
遠い昔の少年が鳴瀬に問う。
そして、最後の。
「俺を・・・殺して、」
飛べない鳥は、
「鳴瀬さん?」
再び、鷹村は鳴瀬を呼んだ。
「あぁ、すまない。その手紙、読んでいいぞ」
「でも、」
「読んで、欲しいんだ。お前のことも書いてあるし、答えは全部その中にある」
そう云った鳴瀬の頬に伝い落ちるものがある。
「鳴瀬・・・さん・・」
「俺、泣いてる?」
惑った声が震えて、喉の奥が戒めのように痛んだ。三ヶ月、必死に堪えていたものが、堰を切る勢いで流されて、鳴瀬は鷹村の細い腕に縋った。
鷹村は優しく鳴瀬の肩を抱く。恋人同士がするように頬を合わせて、鷹村は鳴瀬の目蓋にそっと唇を落として云った。
「いっぱい泣いて、いいですよ・・・」
そして、鷹村はゆっくりと手の中にある封印を解いた。
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