【3】


「鳴瀬さん、」
 所属バンドの、ライブパンフレットのゲラ刷り原稿を抱えて会社に戻ると、しばらく顔を見せていなかったアルバイトの鷹村秋夏羽に呼び止められた。
  鷹村は現役の音大生で、チェロを弾いている。まっとうに大学に通えばかなり成績は上位 の方らしいのだが、よく講議をさぼって事務所の手伝いをしていた。
 鳴瀬と鷹村の関係を説明するのは簡単では無い。恋人同士と言う言葉は必ずしも適切ではないのかも知れないが、二人はすでに互いの肉を知り合った仲だった。それでいて、始終一緒にいるわけでもなく、何ヶ月も合わないことがあるのも普通 の間柄で。
  お互いを信頼し、必要とし、慣れ合わず、束縛もせず。精神的な繋がりは揺るぎないもので。
 どこにいても、最後には戻れる場所。他人にはとうてい理解できなのかも知れない性別 を越えた得意な世界の住人なのだ。

 鷹村がバイト料で自分のギターを買うのだと云い出して、もう一年近くになるだろうか。チェロはスポンサーから与えられるものらしく、自分で稼いだお金で自分の欲しい楽器を手に入れたいのだと依然から寝物語りに聴いていた。最近、念願のギターを手に入れたのだと言うことを、鳴瀬は誰かの噂に聞いた。
 もう、随分会っていなかったような気がする。
「久さしぶり。元気にしてたか?ちゃんと進級出来たんだろうな、」
「え〜信用ないな〜俺。ちゃんと3年に進級できてますよ。それより、鳴瀬さん、歌。初めたって聞いて」
「地獄耳だな。でも、最近やってないんだ。仕事がたて混んでて・・・もう3週間くらい歌ってないかな?」
 そう、金髪の少年に会ってから3週間、突貫の仕事を幾つか抱えてしまった鳴瀬はあの場所に足を運べずにいた。その間、少年のことはずっと気がかりで。
(誰のための曲?)
と聞いた時の訴えるような視線が頭から離れなかった。
「俺も、最近路上でやってるんですよ」
 鷹村は嬉しそうな顔をして云った。
「何?チェロ?」
「違いますよ〜。買ったんですよ、ギター。」
 空の手でギターをかき鳴らす真似をしながら、鷹村は得意げに微笑んだ。
「一人でやってるのか?歌、下手だろ鷹村。」
「鳴瀬さん・・・それキツいですよ。確かに俺、歌下手ですけど・・・」
「失言。まぁ、俺も人のこと言えないからな」
 鳴瀬は苦笑を漏らしながら、小脇に抱えていたスコアブックを鷹村に渡した。
「弾いてみる?新しいの、何曲か増えたよ」
「え〜。いいんですか?」
 鷹村は真面目な顔つきでページを繰りながら、五線譜の上を視線で追った。
「で、歌は誰が歌ってるの?」
「ああ、知り合いの子です。16歳の高校生。いい声してるんですよ、彼。しかも、曲も持ち込みでスカウトされちゃって・・・」
「スカウト?」
「そうなんですよ。2週間前にフラっとやって来て、一緒にやってくれないかって云われて。俺もちょうどギターを手に入れたばっかりで、ちょっと興味あったんでOKしたんですけど・・・その曲、鳴瀬さんの書く曲に似てるんですよ、って・・・・・あれ?」
 鷹村はスコアブックに落としていた視線をあげて、驚いたような顔で鳴瀬を見た。そして、もう一度楽譜に目を落とす。
「鳴瀬さん、テトラと知り合い?」
「・・・テトラ?」
「そう、鳩居テトラ。」
「・・・誰?それ、」

 鷹村は襷がけにしていた鞄の中から真新しい譜面を取り出した。ブルーブラックのインクで清書されている綺麗な譜面 だった。書いた人物の几帳面さがわかるような整った字体で書かれ、鳴瀬の走り書きとも言えるスコアブックに書かれた曲が、そこに、教えを乞うたように写 し取られているとは到底思えなかった。
 しかし、鷹村の持っていた譜面は鳴瀬のそれを正確に複写していて、曲を書いた鳴瀬さえ驚いた程完璧になぞられていた。
「この曲、外でやったんですか?」
 鷹村は感心したように二つの譜面を見比べている。
「あぁ、一度だけ。・・・ここまで完璧にコピーされると・・・なんだかな〜」
「テトラとは面識ないんですか?」
「・・・いや、もしかして」
 鳴瀬は気掛かりだった人物の顔を思い浮かべる。
「あの金髪のちっこいヤツか?」
「ははは。それ云うと怒られますよ。」
「・・・それにしても、あいつ俺の曲を『低俗な音楽だ』とか云い棄てて行ったくせに、ちゃっかりパクってるとは。」
 鳴瀬は3週間前の出来事を鷹村に話しながら、一度だけ聞いた自分の曲をこれだけ完璧に譜面 化してしまった「鳩居テトラ」と云う少年に惹きつけられていた。
「・・・でも、テトラはこの曲、随分気にいってるみたいだったけど、それに、」
「それに?」
「あいつ、何か凄く楽しそうに歌ってて・・・いつも、あんまり楽しそうじゃないから。あんなに伸び伸びと、いい声で歌ってるテトラ見たの久し振りです」
「いい声・・・か」
「そう、鳴瀬さんの欲しがりそうな声なんです。聞きに来て下さいよ。テトラには内緒にしときますから・・・鳴瀬さん、探してたでしょ。声。」

 声を聞かせて。

 鷹村は早速今日の夜にでも聞きに来て欲しいと催促した。路上での場所を聞くと、なんのことはない、鳴瀬が借りている花屋の店先で歌っているのだと云う。そこが自分の場所なのだと話すと、鷹村は声をたてて笑った。
  そして、「聞いて欲しい人がいるから」と云いながら、テトラがその場所で歌うことを提案したのだと教えてくれた。
「いい度胸だ。」
 怒る気持ちはやはり湧いてこなかった。その変わりに、鳴瀬は久し振りに腹の底から込み上げてくる笑いに心地よさを感じていた。

 歌を聞かせて。

 時計は既に11時を廻ってしまっていた。もう無理かな、と思いながらも鳴瀬の足は駅前に出る近道をたどっていた。もう、すれ違う人もあまりいない。聞こえてくる音もなかった。
「やっぱり、今日はダメか、」
 呟いて角を曲がると、花屋とは道路を挟んだ向い側の路上に出た。
「おっ。」
 鳴瀬の視線の先に鷹村と向かい合って話しをしている少年の姿が見えた。ガードレールに腰掛けながら、子供のように足をプラプラさせている。鳴瀬の曲を聞いている時にしていたポーズと一緒だった。ギターを片付けはじめていた鷹村が鳴瀬に気付いて手をあげようとする。鳴瀬はそれを手ぶりで制して、「曲を、」と合図を送った。

「・・・テトラ、悪いけど、もう一回あの曲やらない?」
 鷹村はギターに手をかけてコードを押さえる。
「別に、構わないけど。何?今日は随分張り切ってるね、」
「そう?ほら、やっとギターに慣れてきた所だから、ちょっと練習したいかな〜とか思ったりして。一人でやるより、テトラの歌をつけてもらったほうが、やりがいあるしさっ。」
 少年は、ガードレールに腰かけたまま、軽く流すように天を仰いだ。 そして大きく息を吸う。
 少年の位置からでは鳴瀬の姿を確認することは出来ない。鳴瀬はゆっくりと道路を横切りながら、人気のない路上に流れはじめた少年の声に耳を傾ける。

 君の歌声を、

 鳥は、緩やかに羽根を広げ、無限の空に羽ばたいた。
 肋骨の中で、静かに扉を開いた小さな籠を抜けて、その鳥は解き放たれる。

 僕に聞かせて。

「まさか・・・」
  知っている、と思った。忘れるはずはない。鳴瀬はこの声を知っていた。彼の頭の中でいつも置き換えられているあの声だ。声質と音域が変わっても、聞き間違えるはずはない。
  鳴瀬の求めて止まないもの。
「君、」
 歌を中断させる程、鳴瀬は大きな声をあげていた。
 少年の眼がショーケースに映る鳴瀬の姿を驚愕の表情で見つめている。鳴瀬は手を延ばし、少年の肩に触れる。
「君。」
 次の瞬間、少年は素早く身を交わし、「逃げて、」と叫びながら鷹村の手を取った。
「えっ。」
 鷹村は唖然としたまま引きずられるように駆け出した。
「ちょっ。おい、なんで逃げるんだよ、」
 鳴瀬は二人の後を追う。相手は16歳の高校生。鷹村を抱えているとはいえ、鳴瀬よりも体力的に勝っている二人相手では、かなうはずもない。
  500mも走らないうちに息が切れて膝が笑った。
「それでも、まだ25だぞ。俺。」
 心の中で嘆いた時、前方を疾走していた少年の身体が、バランスを崩して右側へ揺らぐのが見えた。転倒するかと思った瞬間、一緒に走っていた鷹村がその身体をしっかりと支え、そのまま地面 に倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か?」
  少年は鷹村の腕の中でうずくまるように荒い呼吸を繰り返している。追い付いた鳴瀬の息が整いはじめていると云うのに、少年は過呼吸気味になった自分の呼吸を制御出来ずに眉をしかめたままだ。鷹村の腕の中で苦しそうに背を上下させながら、立ち上がれないことに言葉を詰まらせる。

「・・・くそっ」
「大丈夫なのか?逃げたりするから、」
「だって、」
 少年の顔が蒼白になっていることに気付いて、鳴瀬は言葉を制した。
「・・・鷹村、お前も何一緒になって逃げてるんだよ。」
「なんか・・・成り行きでつい、それにしてもテトラ、ちょっとおかしくないか?呼吸が、整わないし・・・」
 鷹村は不安そうに鳴瀬を見る。
「病気か何かか?救急車・・・」
 鳴瀬が携帯に手をかけと、その手をテトラが力なく遮った。半分閉じられた眼が泣きそうに潤んでいる。そして、いやいやをするように首を振った。
「だめ・・・救急車は・・・呼ばない・・で・・お願い・・」
 途切れ途切れの声で云うと、テトラは鷹村の腕の中でそのまま意識を失った。
「おい、」

 鳴瀬は自分の手の中で冷たくなっていった小鳥の姿を彼に重ねる。胸が気味の悪い動機で満たされながら悲鳴をあげそうになる。
「・・・死んだりしないよな、まさか、」
「まさか、」

 意識を失ったテトラの口唇に薄く紅が差しはじめたのは、それからしばらく経ってからだった。呼吸も直、正常に戻ったようだった。しかし、依然、意識は戻らない。やはり救急車を呼んだ方がいいのではないかと思案した二人だったが、どうしたものかと顔を見合わせる。
「とりあえず、家族の人に連絡を入れるのが得策か?」
 鳴瀬は鷹村を促すように携帯を差出した。「えっ」と云う顔で、一瞬躊躇した彼を見て、鳴瀬は肩を竦めた。
「・・・知り合いの子、なんだよな。」
「いや、そう云うことまでは、ちょっと・・・」
 困惑した頬が苦いものを噛んだように吊っている。
「知らないのか?連絡先、」
「大学に出入りしてる子で・・・うちの科の教授と親しい、声楽科の教授にレッスンを受けてる高校生なんですけど、家族の話とか、あんまりしたことなくて、」
「・・・どうする?」
「どうしましょう・・・」

 結局、鳴瀬は眼を醒まさないまま静かな寝息の中に居るテトラを背負って、近くの医院の扉を叩いた。もう時計は明日になろうと云う頃、扉を叩かれた方もさぞ迷惑そうに顔をしかめた応対だったが、昏睡状態の少年をそのまま帰す訳にもいかず、渋々と云った感じで診察室に彼等を通 した。
「夜分遅くに、申し訳ありません。」
 鳴瀬は深々と頭を垂れる。鷹村もつられて頭を下げた。医師はちらりと二人を見ただけで、寝台に横たえられた金髪の少年の胸を開いた。
「・・・これは、」
 一瞬、医師の眉間に険しい表情が浮かび、聴診器を持つ手がつと宙に止まる。
「君たち、この子とは知り合い?」
 心配そうに聞いてから、医師はゆっくりと時間をかけて、過ぎる程丁寧に少年を診察した。二人は少年との関係と、倒れるまでの経緯を問われ、できるだけ早急に身内の者と連絡が取れないだろうかと相談を受けた。
「何かの病気ですか?彼」
「胸を、一度手術しているようだね。開胸の跡がある・・・しかも、これは最近のものだね」
「心臓ですか?」
「私も専門外のことで、詳しくは判断しかねるが、おそらく・・・」
 おそらく、まだ新しい手術跡の状況から判断すれば、療養中の身だったのではないか、とその医師は判断した。心音は落ち着いているようだったが、何かあっては不味いということで、医師は知り合いの外科医が勤務している大学病院に連絡を入れ、
病院に搬送することになった。
 その間、鷹村は学部の教授と連絡を取り、少年の連絡先を調べていた。結局、搬送された病院まで付き添う形になってしまった二人は、成り行きとは云え、まんじりともせず病室の前の長椅子で夜を明かすことになった。

「すみません。鳴瀬さん・・・俺、」
「・・・別に、お前が悪いわけじゃないだろ」
 鳴瀬は縋るように額を寄せて来た鷹村の肩をそっと抱いた。こうして、二人寄り添って、病院で何かを待つ経験はこれで二度目だった。二人にとっては酷く苦い記憶で、鷹村との奇妙な関係が始まったのも、あの時依頼のことなのだ。
「鷹村、平気か?」
「・・・変なこと、想いだしそうで・・・嫌です」
「眼、つぶってていいぞ。少し、楽になるだろ?」
「手、握っててもいですか・・・」
 二人の視線か交差して、鳴瀬は静かに頷いた。安心したように鳴瀬の手を取った鷹村は、そのまま鳴瀬の肩に身を委ねて眼を瞑った。心の中で、普段決して呼ぶことのない鳴瀬の名前をそっと呟くと、見透かされたように、鳴瀬は交わった指先に力を込めた。
「大丈夫・・・」

 真鷺・・・


  日が昇りはじめてしばらくすると、取るものもとりあえず、と云った風体で少年の両親が病院に現れた。その頃には少年の容態も安定して、得に心配はないと医師に告げられていた。
  憔悴しきった表情のまま、こちらが恐縮する程に頭を下げられて、鳴瀬と鷹村はあの少年が1ヶ月前に病院を退院したばかりだと云うことと、この2週間、家人に無断で家を飛び出していた
「家出少年」だったことを知らされた。

 

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coming soon・・・

 

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