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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
瀧廉太郎作曲の童謡・唱歌
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童謡・唱歌 事典 (編集中)




箱根八里

作詞 鳥居 忱
作曲 瀧廉太郎
改編 本居長世

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/08/13)


 【タイトルは「箱根八里」】
 「箱根の山は 天下の険」と歌い出されるため、タイトルを『箱根の山』と思い込んでいる人が多いようです。正しいタイトルは『箱根八里』です。
 箱根八里とは、幕府が設けた五街道のうちの東海道の一部で、小田原から静岡県三島までの八里(今の約三十二キロメートル)の山坂をいいます。その中間に箱根本関所があります。元和(げんな)五年(一六一九年)に開かれました。旅人は日の出前に小田原宿を出発し、箱根宿で昼休みを取った後、夕刻に三島宿へ到着するのが箱根越えの日程でした。

 【瀧廉太郎が作曲】
 明治三十三年(1900年)、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の教授で音楽通論と国語を教えていた鳥居忱(とりいまこと)が自作のこの詩を生徒に見せ、「曲を付けるものはいないか」と聞いた時、瀧廉太郎ひとりが手をあげたといいます。瀧は当時二十一歳。難しい詩に明るく力強い曲が付いた時、鳥居はじめ全員が声も出ないほど驚いたといいます。

  東京音楽学校では明治三十四年出版の『中学唱歌』のために三十二年ごろから委嘱により集められた詩を公表して曲を懸賞募集していました。瀧は「箱根八里」「豊太閤」「荒城月(発表時の曲名)」を応募し、三曲とも入選しました。
 十六歳で東京音楽学校に入学、総代で卒業、研究科に進学して二年生でピアノ授業嘱託に任命された翌年の事です。

 【曲集『中学唱歌』について】
 明治三十四年(1901年)三月三十日、東京音楽学校蔵版で共益商社楽器店から発行された文庫判の小形の曲集。
 明治三十一年頃から中学校用の歌集編纂が議論され、その結果音楽学校が中心になって準備が進められました。まず、広く世の文学者、教育家、音楽家に作詞作曲を依頼し、また一方では作詩を公表して作曲を一般から募集しました。条件は一人三種以内、賞金は一曲入選につき五円支払われました。 こうして集まった二百余曲の中から三十八曲を選び、曲集『中学唱歌』を作りました。


                        ▲『中學唱歌』(東京音楽学校蔵版、共益商社楽器店、
                         明治三十四年(一九〇一年)三月発行 扉

 【三曲が入選】
 瀧は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)編『中学唱歌』の懸賞募集作品として「箱根八里」「豊太閤」「荒城月」の三曲の作曲(メロディーのみ)を応募して三曲共に入選しました。賞金十五円を受け取りました。当時の小学校教員の初任給が十円から十三円だったので、これは大金です。彼は、大分の母に丸髷の型を、妹にはかんざしを、下宿先の瀧大吉の奥さん民子には木のタライを贈り、残ったお金で、おしるこを友人に御馳走したと伝えられています。
 明治三十四年三月三十日『中学唱歌』が出版されました。瀧は、初版を手にして感慨無量でした。一週間後の四月六日にドイツ留学に旅立ちました。

 【初出】
 『中学唱歌』に掲載された曲名は「箱根八里」です。瀧廉太郎が発表したのは、メロディーだけで、伴奏はついていません。
 旋律は、ハ長調(C Dur)、四分の四拍子。ヨナ抜き長音階で作られている。今までのように一つの音符に日本語の一音ずつを付けるのではなく、二音または三音をあてる方法を用いたため、これが曲に力強さを与えている。
 基本のリズムはタッカですが、言葉の持つリズムを生かして、「万丈の山 千仞の谷」のようなシンコペーション、「雲は山を」「霧は谷を」のような三連符などを取り入れたことは効果的で新鮮です。
 三十二小節、唱歌としては大変長いものになっています。

▲歌詞 「山野に狩する剛毅の壮士」そして「斯くこそありけれ近時の壮士」となっている。
「ありけれ近時」の「け」や「近」に斜線などの落書きはない。
▲楽譜 「羊腸ーの」と歌うように書いてある。 この歌詞と楽譜は大分県先哲叢書『滝廉太郎 資料集』
平成六年三月三十一日発行による。
楽譜の八段目に「な」と「当」の落書きがある。「あるなれ当時」と改訂を書き込みたかったのでしょう。

 【歌詞について】  
 鳥居忱(とりいまこと)の歌詞には「第一章 昔の箱根」「第二章 今の箱根」と副題がついています。漢文を下敷きにした格調高い文語体の歌詞は難しく、なかなか理解しにくい部分があります。 (写真は復元された関所と石畳の箱根路)

 「第一章 昔の箱根」
  ・「険」とても険しい場所。
  ・「函谷関」中国河南省(かなんしょう)の西北、黄河の近くにあった昔の関所の名前。深い函(はこ)のように切り立った地形なので、こう呼んでいる。その函谷関よりも、もっと険しい箱根の山ということで、箱根の山の険しさを紹介しようとしている。
  ・「丈」「仞」は長さの単位。「萬丈」と「千仞」は対になっている。「非常に高い」「非常に長い」という意味。「とても高い山」「とても深い谷」が、前後に迫り来るということ。
  ・「羊腸の小径」羊の腸のように曲がりくねっている細い道。
  ・「一夫関に当るや万夫も開くなし」一人の兵が関所を守っていれば、万の敵でも落とせない。
  ・「天下に旅する剛毅の武士」 この武士は何時代のどのような武士か?
  「天下に旅する」とあるので、武者修行か? 軍事か? 「大刀」と「足駄=高下駄(たかげた)」から僧兵、野武士、山武士も考えられますが、はっきりしません。
  ・「往時」=(過ぎ去った時。昔。) 昔といっても江戸時代の武士なのか?  鎌倉武士なのか?はっきりしません。
  それらの武士を思い出して「斯くこそありしか」と結んでいる。
  <諸国を旅する勇士たちは、大刀を腰に携え、小田原から三島までの約八里の大きな岩のある険しい山道を高下駄を履いて勇ましく歩いたことだろう>

 「第二章 今の箱根」
  ・「阻」とても険しい場所。
  ・「蜀の桟道」の「蜀」は、中国四川省付近の地方を指していう名称。肥えた土地と、要害とをもって知られていた。その「蜀」へ行くには、途中、阻(けわ)しい山道(断崖絶壁の検阻な道)にかけ橋が渡してあったそうで、それが「蜀の桟道」といわれていた。交通の難所として知られていた。そんな「蜀の桟道」よりも箱根の山はもっと険しい。
  ・「萬丈の山」から以下、その表記は一番と全く同じ文です。
  ・最後の三行だけが、『今の箱根』を歌っている部分と言う事になります。一番の「天下に旅する武士」が、二番では「山野に狩りする壮士」に、「大刀腰に足駄がけ」が「猟銃肩に草鞋がけ」に、「踏み鳴らす」が「踏み破る」に、「「斯くこそありしか」が「斯くこそありけれ」に、「往時の武士」が「近時の壮士」に改まっているだけです。
  ・「近時」(ちかごろ。このごろ。) 第二章は、「今の箱根」を歌っているのですが、この作品が作られた、明治三十年代の箱根ということになります。
  ・「壮士」勇ましく立派な男子。ここでは、「猟銃肩に草鞋がけ」から猟師のこと。それらの猟師を思い「斯くこそありけれ」と結んでいる。
  <山野で狩りをする勇士は、猟銃を肩にかつぎ草鞋を履いて八里の険しい山道を踏破する>

   発表後、歌詞について意見が続出しました。明治三十四年七月二日、初版の後出た第二刷で第二章の歌詞が一部改訂されました。

 【歌詞の改訂があった】
  『中学唱歌』の披露演奏会が、明治三十四年(1901年)五月十九日午後二時より東京音楽学校奏楽堂にて開催された。三十八曲中の十曲が演奏発表され、瀧の入選曲三曲もふくまれていた。出席者には「中学唱歌音楽演奏会歌題」と書いたパンフレットが渡され盛大に行われた。「箱根八里」は、小山作之助の「寄宿舎の古釣瓶(つるべ)」とともに最も好評を博した。
  しかし発表後、歌詞について意見が続出した。この意見については大分県先哲叢書『滝廉太郎 資料集』平成六年三月三十一日発行で見る事ができます。大変率直で厳しいものです。
 明治三十四年七月二日、初版の後出た第二刷で改訂された。改訂は鳥居忱自身が改作したか、誤植だったものを訂正したかのどちらかと考えられます。改訂部分を見ると、「披露演奏会後、歌詞について意見が続出した」にもかかわらず、その意見は全く反映されていない。
 
  『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)に掲載されている明治三十六年(1903年)十月発行(第七刷)を見ると、「山野に狩する剛毅の壮士」が(山野に狩する剛毅の健兒)に、「斯くこそありけれ近時の壮士」が(斯くこそあるなれ當時の健兒)と変えられています。これが原詩で、誤植だったものを訂正したのでしょうか。鳥居忱の自筆原稿を見たいものです。
 ●『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)に掲載されている「箱根八里」は、明治三十六年十月発行(第七刷)のもので、『原典』ではない。
  初出『中学唱歌』(初版)の歌詞は「山野に狩する剛毅の壮士」、「斯くこそありけれ近時の壮士」で動かしがたい。初版は、大分県先哲叢書『滝廉太郎 資料集』平成六年三月三十一日発行で確認できます。現在一般に歌われているのは初出の歌詞です。
  (註)「浜辺の歌」も、現在歌われているのは初出の歌詞「はまべ」です。

 一方、瀧廉太郎は、『中学唱歌』の披露演奏会と、第二刷の歌詞の改訂を知りません。明治三十四年三月三十日『中学唱歌』が出版され、一週間後の四月六日にドイツ留学に旅立っているからです。

▲明治三十六年十月発行(第七刷)の「箱根八里」歌詞・楽譜
(山野に狩する剛毅の健兒)、(斯くこそあるなれ當時の健兒)に変えられている。

  <なぜ、「壮士・ますらを」を「健兒・ますらを」にしたか>
 「ますらを」は、「手弱女・たをやめ」に対して、勇ましく立派な男子ということ。「益荒男・ますらを」「丈夫・ますらを」とも書きます。この場合、登場者が<猟師>なので、「壮士」より「健兒」の漢字をあてた方がよいと判断したので「健兒」に改めたのでしょう。
 現在、初出の歌詞「山野に狩する剛毅の壮士」で歌われています。後世では、猟師を指して「壮士」という用例もあるそうです(中村幸博編著『読んで楽しい日本の唱歌T』右文書院による)。
 乱暴な言い方をすると、歌ってしまえば「山野に狩する剛毅の壮士(ますらを)」と「山野に狩する剛毅の健兒(ますらを)」は同じなので、この改作が研究者の話題になる事は、ほとんどありません。

  <「當時」に変えた>
 「近時」=(ちかごろ。このごろ。) 「當時(たうじ)」=(現在。今。そのとき。そのころ。) いずれも明治を指すので、どちらを使っても問題はない。

  <二版から(斯くこそあるなれ)と変えられた>
 (斯くこそあるなれ當時の健兒)と変えられた。山田耕筰編曲も、本居長世編曲もこの改訂版の歌詞を使っている。しかし、現在一般に歌われているのは初版の歌詞です。この初版の歌詞は、だれでも見る事ができ、動かしがたいものだからです。

  【山田耕筰が編曲】
 瀧廉太郎作曲の「箱根八里」は、発表当時無伴奏でしたが、山田耕筰が伴奏を付け編曲し、「箱根の山」のタイトルでテノール歌手・藤原義江の帰朝音楽会で発表しました。独唱版楽譜の出版は昭和二年九月。現在、山田耕作伴奏楽譜は藍川由美(編)『日本の唱歌』(音楽之友社、2006年)で見ることができます。不許複製なので紹介できませんが、一部を示します。



 <伴奏を詳しく見ましょう>
  ・この伴奏譜は難しい。ピアノ伴奏のプロでなければ容易に弾きこなせない。
  ・テノール歌手・藤原義江のために音を一音高く二長調(D Dur)にしたため、最高音がFisとなり、一般の人には歌えない。
  ・編曲の際、歌いやすいように所々リズムを変えた。
  ・一番気になるのは、「羊ー腸の」の部分です。「羊」を二拍延ばし、「腸」がFisになるように書いてあります。この方が歌いやすい。
  ●本居長世の伴奏で「羊」を二拍伸ばし、「腸」がFisになるように歌う人がありますが、それは間違いという事になります。このように歌うのは、山田耕筰の編曲の伴奏で歌う場合です。瀧廉太郎も本居長世も「羊腸ーの」と歌うように書いている。

  【本居長世の編曲】
 本居長世は、本居長世編『世界音楽全集17 日本唱歌集』(春秋社版)昭和五年(1930年)十一月十五日発行で次のように自ら解説※し、伴奏を発表しています。
 ※「何と云(い)ふ生気溌剌(はつらつ)たる歌曲であらう。兎角(とかく)安価な感情的の歌曲の流行する時、斯(こ)うしたものは確かに一服(いっぷく)の清涼剤で無くて何だらう。行進曲風の伴奏を附して置いた。男生に絶好(ぜっこう)の教材」。
 注目したいのは「行進曲風の伴奏を附して置いた」という部分です。四小節の前奏はメンデルスゾーンの『結婚行進曲』を模している

  (註)本居長世は、「青い眼の人形」では、前奏二小節にバッハ作曲の「トリオソナタ第六番ト長調BWV530」の冒頭テーマを使っています。また、草川信は、「汽車ぽっぽ」でシューベルトの『軍隊行進曲』を模した前奏を書いている。


 山田耕筰の伴奏より本居長世の方がわかりやすい。現在一般的に歌われているのは、『中学唱歌』の初出の歌詞で、本居長世編曲の伴奏楽譜が使われている。「一夫關ニ」と「カクコソ」の二ヶ所、リズムを改作している。「いーぷ かん に」「かーく こ そ」と歌うようになっている。力強さが強調される。この二ヶ所は、山田耕筰も同じように改作している。本居長世が山田耕筰の編曲を見た可能性があります。
  (註)「荒城の月」では山田耕筰が「ちーよのまつがえ」と歌うようにリズムを改作している。現在は「ちーよのまつがえ」と歌われている。

 <二番の歌詞 初出との比較>
  ●「箱根の山は 天下の阻」が(箱根の山は 天下の険)になっているのは誤植。
  ・「山野に狩する剛毅の壮士」が(山野に狩する剛毅の健兒)に、「斯くこそありけれ近時の壮士」が(斯くこそあるなれ當時の健兒)と改訂されたものを使っている。 山田耕筰が編曲しようとした際、手にした瀧廉太郎の楽譜は、改訂された第二刷以降のものだった事がわかります。本居長世は、山田耕筰の楽譜を見ているので、同様に二刷以降の歌詞を使った。

 <伴奏楽譜 初出との比較>
  ・「はこねのやまは 天下の阻」となっていて、初出と同じ。
  ・「羊腸ーの」と歌うように書いてある。瀧廉太郎も同様。
  ●「山野にたびする剛毅のますらを」は「狩りする」の誤植。
  ・「かくこそあるなれ當時のますらを」と改訂されたものを使っている。
  ・「一夫關ニ」のリズムは、「ターンタタンタン」。初出は「ターンタターンタ」。
  ・「カクコソ」のリズムは、「ターンタタンタン」。初出は「ターンタターンタ」。 現在、一般的に歌われているリズムは「ターンタタンタン」の方です。
  ●長田暁二編『日本抒情歌全集1』(ドレミ楽譜出版社)に掲載されている「箱根八里」の楽譜は、山田耕筰編曲となっているが、「本居長世編曲」の間違い。これは重大なミス。さらに、「万夫も」=「ターアータンタン」が「ターンタタンタン」に変えられている。
  ●奥村美恵子著『神奈川の歌をたずねて』神奈川新聞社発行は、長田暁二編『日本抒情歌全集1』を使っているので、同じ間違いです。

 【『日本童謡唱歌大系』の「箱根八里」の検証】
 後世に残すために作られた『日本童謡唱歌大系T』(東京書籍)に掲載されている「箱根八里」の楽譜を見ました。
  ・タイトルは「箱根八里」です。
  ・歌詞は初出の歌詞です。
  ・「羊腸ーの」と歌うようになっている。
  ・「万夫も」は「ターアータンタン」。
 ●「鳥居恍 詩」と間違っている。「鳥居忱 詩」が正しい。
 ●滝廉太郎作曲となっていて、本居長世編曲とは書いてありませんが、使われている伴奏譜は、本居長世編曲の楽譜です。「本居長世編曲」と書くべきです。
 ●「一夫關ニ」のリズムは、初出の「ターンタターンタ」になっている。本居長世編曲では「ターンタタンタン」に改作している。
 ●「カクコソ」のリズムは、初出の「ターンタターンタ」になっている。本居長世編曲では「ターンタタンタン」に改作している。 以上のように編集者が勝手に手を加えたものが掲載されている。これを見た人は混乱します。

 【瀧廉太郎の略歴
 明治十二年(一八七九年)東京で生まれ、明治三十六年(一九〇三年)大分で没するまで、わずか二十三歳十ヵ月の生涯だった。

 【鳥居忱(とりいまこと)の略歴
  ・嘉永六年(1853年)八月二十二日、江戸大名小路若年寄役屋敷で生まれた。本名は忠一(ただかず)、初名を尾巻(おまき)、通称忱(まこと)といいました。父は下野国壬生(みぶ)藩江戸家老職だった忠敦(ただあつ・志摩)で、母は登與(とよ)。祖先には徳川家康の家臣で徳川十六神将の一人、鳥居元忠(もとただ)がいる。
 (註) 嘉永六年(1853年)アメリカの東インド艦隊率いるペリー提督が来航。6月3日(7月8日)、4隻の黒船で浦賀沖に到着。
  ・幼くして皇漢学(中国の王室に関する学問)や漢学(漢文によって旧中国文化を研究する学問)を学ぶようになる。維新後、藩命を受けて明治三年(1870年)には大学南校でフランス語を学び、また外国語学校にも入っている。
  ・明治十三年(1880年)、音楽取調掛が発足して伝習生を募集すると聞き応募、初の伝習生に採用された。一八八〇年にキリスト教の宣教師として来日し、日本の音楽教育の基礎を築いたメーソンに師事して洋楽を学んでいます。
  ・明治十五年(1882年)、音楽取調掛(とりしらべがかり・後の東京芸術大学の前身)を首席で卒業。卒業後、直ちに助手に採用され、明治二十四年(1891年)には和漢文と音楽理論を受け持つ教授となった。生徒の中に瀧廉太郎がいた。 大正初年までの間に音楽取調掛、文部省および音楽学校で出版した音楽図書で彼の手を経なかったものは一つもなかったそうです。
  ・大正二年(1913年)まで東京音楽学校教授として活躍。西洋音楽を広く日本に紹介した先達者としての功績は大きい。大正六年(1917年)五月十五日、満六十七歳で亡くなりました。

 【教科書での扱い】
  小学校音楽共通教材(歌唱)、中学校音楽共通教材(歌唱)に、「箱根八里」は選ばれていません。
  ・平成21年発行(平成16年検定済)、東京書籍『新しい音楽5』(滝廉太郎の歌曲) 「箱根八里」初出譜一番と、「花」と「荒城の月」を掲載。
  ・平成21年発行、教育出版『音楽のおくりもの6』(滝廉太郎のうた) 「箱根八里」初出譜一番と「荒城の月」を掲載。
             ▼平成21年発行、教育芸術社『音楽6』初出譜一番を掲載

  ・平成21年発行の中学、高校の音楽の教科書には「箱根八里」は掲載されていません。
  ・昭和32年発行 音楽之友社『中学生の音楽1』には、「荒城の月」と参考曲として「箱根八里」の一番が掲載されています。ハ長調 旋律だけ。滝廉太郎作曲と紹介されていますが、初出とリズムがあちこち違います。「はこねのやまは タッカタッカタタタン」、「しりえにさそう タッカタッカタタタン」、「羊ー腸の」、「一夫関に ターンタタンタン」、「かくこそ ターンタタンタン」など。これは山田耕筰編曲のリズムです。「小径は タンタンタンウン」ここだけ編集者が直している(山田耕筰編曲はターアータンタ八分休符)。ハ長調で掲載されている。編集者(堀内敬三 小出浩平 下總皖一 井上武士 ほか)が山田耕筰編曲の楽譜を見ていることがわかります。

  ・昭和34年発行 教育芸術社『中学音楽3』には、市川都志春編曲の混声三部合唱が掲載されています。ハ長調 伴奏譜は付いていません。
  ・昭和33年発行 講談社『総合中学の音楽3』にも混声三部合唱が掲載されています。ハ長調 伴奏譜は付いていません。編曲者名はありませんが、編集代表に小松耕輔 高山清司の名があります。
 (註)山田耕筰は、大正13年(1924年10月)にセノオ音楽出版社から女声三部合唱用の編曲版を出版している。

  ・昭和56年から58年度使用 音楽之友社『精選中学生の音楽 伴奏編3』教師用。 本居長世編曲と書いてある。伴奏譜は本居長世編曲のもの。歌詞は初出が使われている。二番は「かくこそ ありけれ きん(近)じ(時)のますらお(壮夫)」となっている。「羊腸ーの」と歌うようになっている。ハ長調。
 ●しかし、「いっぷ かんに ターンタ ターンタ」、「かく こそ ターンタ ターンタ」となっていて、本居長世の編曲と違う。長世は「ターンタタンタン」。

 【歌碑】
  ・箱根の芦ノ湖畔、神奈川県立恩賜箱根公園に歌碑が建てられています。昭和四十一年(1966年)五月除幕。
  ・箱根町芦之湯の「きのくにや旅館」の新館玄関前横には、「瀧廉太郎 箱根八里 作曲之碑」として石碑が立っています(昭和六十年七月九日除幕。十代目儀三郎が建立。看板に描かれた楽譜は描いたひとに楽譜の知識がないため三連符が3ではなくSになっている等、誤りがある)。右の写真は原田昭治郎氏提供。
 瀧は、音楽学校の学生の時、よくここを訪れ、結核の療養をしています。「きのくにや旅館」で『箱根八里』の曲想を練り、曲を完成させたと伝えられています。「きのくにや旅館」九代目主人のめいが瀧の義妹だそうです。
 星野辰之著『日本のうた唱歌ものがたり』(新風舎)には次のように書いてあります。“「きのくにや」と滝廉太郎との経緯は、滝の親戚で東京在住であった大阪朝日新聞社主幹・土屋元作氏が、きのくにやの八代目シロの次女セキと結婚したのが縁で、廉太郎が夏の避暑と療養のために訪れたことにある。”

 【さあ、歌おう】
 ・上笙一郎編『日本童謡事典』に「箱根八里」の項目はありません。
  ・文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』には選ばれていません。
  ・足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版社)にも、掲載されていません。
 みんなで歌わなければ「箱根八里」が消えてしまいます。
 私・池田小百合が主宰している童謡の会では、初出の歌詞で、本居長世編曲の伴奏譜で歌っています。最初に「羊腸ーの」と歌う事、「一夫關ニ」「カクコソ」のリズムは「ターンタタンタン」であることを確認してから歌っています。本居長世の伴奏は好評です。
 この歌で一番大切な事は、リズムを正しく、はぎれよく歌う事です。特に、スキップのリズムや三連符のリズムをはきはきと歌いましょう。但し、「昼猶闇き」の部分は、なだらかにしかも堂々と歌いましょう。特に男性に好まれる歌です。

  (註T) 私の童謡の会で使っている楽譜は、真篠将・浜野正雄編『少年少女歌唱全集 日本唱歌集(3)』(ポプラ社)昭和36年5月10日発行に掲載されているものです。昭和30年代は、中学校でこの楽譜が使われ歌われていました。全集は好評で、どこの図書館にも置いてありましたが、今は除籍図書となっています。絶版。

  (註U) 昭和の時代に、何度も「第三章 昭和の箱根 を作って歌おう」という新しい箱根をPRする企画、観光客を呼び込むための企画が持ち上がっては消えました。今では言い出す人はありません。蛇足だからです。そんな物を付け加えたら、笑いものです。平成二十四年の今、文部省唱歌「故郷」に四番を作る大学の授業が話題になっているようですが、同じ事です。

 (註V)第13回『はこね学生音楽祭2013』が2013年9月1日(日)、午後1時から仙石原文化センター大ホールで開催されます。6団体が自由曲と課題曲「箱根八里」を歌います。箱根町、箱根観光協会、箱根温泉旅館協同組合、伊豆箱根鉄道ほかの後援で行われます。私の童謡の会員も、毎回大勢、小田原からバスで約一時間かけて聴きに行きます。「楽しかった」「好かった」「元気をもらった」という感想を聞きます。中には真鶴から「私は友だちと5回行きました。今回も予定しています。音楽祭、楽しい会です」という人気ぶりです。

 【ダークダックスの喜早哲さんの感想】
 格調高いが、漢詩調の難解な表現が多く、ダークダックスの喜早哲さんは、その著『日本の抒情歌』(誠文堂新光社)の中で「歌って疲れる歌」と言っている(吉田悦男著『うたの里を行く』(舵社)より抜粋)。

 【もう一つの「箱根の山」】
 野口雨情の詩に山田耕筰が作曲した「箱根の山」があります。これは童謡です。『童謡百曲集』第三集 第52曲(日本交響樂協会出版部)。昭和二年(1927年)11月15日発行に収録されています。国立音楽大学附属図書館で所蔵しています。 この曲は、小松耕輔編『世界音楽全集11 日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行でも見る事ができます。
 (註)私、著者・池田小百合が以前から言っているように、この全集は研究者は必見です。この全集についての分析は、金田一春彦著『十五夜お月さん』(三省堂)に詳しく書いてあります。これも必見です。



 【後記】  
 箱根には沢山の保養所や旅館、ホテルがあります。二人の娘たちが小さかった頃、おじいちゃんが運転する車に乗って一泊旅行に行きました。宴会場で夕食になりました。箸袋に「箱根八里」の最初の歌詞が一行書いてありました。それを見た娘たちが「この歌は、お母さんが歌えるよ」「お母さんは、歌が上手なんだよ」と配膳係の人に言いました。すると、配膳係の女性が、「じゃあ、歌ってもらおうかしらねえ」と拍手をしたのです。まわりにいた人たちも拍手をしました。「ひとつ、歌ってやれよ」とおじいちゃんまで言いました。もう、後に引けなくなり、歌い出すと、手拍子が入り、みんなも歌い出しました。宴会場は大合唱となりました。みんなが知っていて歌いました。大勢の大人に交じって、娘たちも手拍子をし、嬉しそうでした。おじいちゃんはお酒が入って上機嫌でした。「箱根八里」を歌うと、この時の事を思い出し冷や汗が出ます。さぞ、作曲者の瀧廉太郎は驚いたことでしょう。箸袋に「箱根八里」の歌詞が書いてあるとは、洒落ていますが、どこに宿泊したかを覚えていません。

著者より引用及び著作権についてお願い
≪著者・池田小百合≫


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お正月

作詞 東 くめ
作曲 瀧廉太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/12/03)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


 【いつ歌うのか】 
 『お正月』といっても、正月に歌う歌ではありません。「もーいくつねると、お正月」と歌いながら、指折り数えて正月を待つという、年の暮れに歌う歌です。

 【発表】 
 『お正月』は、共益商社編『幼稚園唱歌』共益商社楽器店、明治三十四年(1901年)7月25日発行の中の一曲です。
 『幼稚園唱歌』の中で、もっとも愛唱された歌が『お正月』でした。くめが、東京・浅草の仲見世や境内の羽子板市など、暮から正月にかけての賑わいを観ながらイメージして作ったといわれています。口語体のわかりやすい歌詞に、ヨナ抜き長音階の旋律が付いています。 (註・ヨナ抜き長音階とは、明治時代に伊澤修二によって考案された。ドレミファソラシの七音を、ヒフミヨイムナと呼んで、ヨ(ファ)とナ(シ)を抜いた五音からできている日本の音階です)。


 ●『幼稚園唱歌』には、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)に書かれている「瀧廉太郎(編著)」「共益商社書店」という記載はありません。

 【『幼稚園唱歌』を作った人々】
 『幼稚園唱歌』の着想ならびに企画・準備は、瀧廉太郎と、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)で瀧より二級上の東くめ、そして、くめの夫の東基吉、瀧の親友で二年後輩の鈴木毅一の四人が相談し、協力し合って作ったものです。
 当時、東基吉は女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)助教授と附属幼稚園の批評掛を兼任していました。基吉は、従来の幼児唱歌に疑問を抱き、幼児のための新しい歌を求めていました。この唱歌集の発案者です。そのことを夫人のくめに相談しました。
 東京府高等女学校(後・東京府立第一高等女学校、現・都立白鴎高校)助教諭のくめもまた、夫の基吉が奉職中の女子高等師範学校の附属幼稚園で、幼児が歌っている歌の歌詞が文語体で難しいので、子供たちが日常使う言葉で楽しい歌を作ろうと考えていました。
  くめは、夫の基吉に瀧を紹介しました。瀧とは、それ以前にもコンビで『納涼』『四季の瀧』などの曲を作っている親しい関係でした。  
 これに、瀧の親友の鈴木毅一が加わりました。

 【『幼稚園唱歌』の特徴】
  全二十曲を収録したこの唱歌集は、子供たちの興味関心を引き出すため、身近な風物や童話から取った題材を織り交ぜ、四季の順に配列されています。当時の唱歌集が美文調の文語体で単音無伴奏なのに対し、話し言葉と書き言葉を同じにした「言文一致」のやさしい口語体の歌詞と、活動的な子供たちの要求に応えるため、軽快な旋律に「伴奏を付けた曲」を掲載したのが特徴です。子供の歌で伴奏の付いた最初の唱歌集です。弾きやすくするために簡易な伴奏となっている。言文一致の歌詞だけでなく、音楽面にも配慮していたので、歌った子供たちは大喜びをしました。

 【全二十曲の構成】
  『幼稚園唱歌』をもっと詳しく見ましょう。 四季の順に二十曲が収められています。
 口語体のわかりやすい歌詞に、ヨナ抜き長音階を基本音階として作られた平易な旋律がついています。

  <各作品の作歌者・作曲者とその配列。>
   「ほーほけきょ」   瀧廉太郎作歌   瀧廉太郎作曲
   「ひばりは歌ひ」   東クメ作歌      瀧廉太郎作曲
   「猫の子」       鈴木毅一作歌   鈴木毅一(きいち)作曲
   「鯉幟(こいのぼり)」 東クメ作歌      瀧廉太郎作曲
   「海のうへ」      東クメ作歌     瀧廉太郎作曲
   「桃太郎」       瀧廉太郎作歌    瀧廉太郎作曲
   「白よこいゝゝ」    鈴木毅一作歌   鈴木毅一作曲
   「お池の蛙」     東クメ作歌     瀧廉太郎編曲(ドイツ曲)
   「夕立」          東クメ作歌     瀧廉太郎作曲
   「かちゝゝ山」     東クメ作歌     瀧廉太郎作曲
   「水遊び」       瀧廉太郎作歌    瀧廉太郎作曲
   「鳩ぽっぽ」     東クメ作歌      瀧廉太郎作曲
   「菊」          東クメ作歌      瀧廉太郎作曲
   「雁」          瀧廉太郎作歌    瀧廉太郎作曲
   「軍(いくさ)ごつこ」 東クメ作歌      瀧廉太郎作曲
   「雀」          佐佐木信綱作歌   瀧廉太郎作曲
   「風車(かざくるま)」 鈴木毅一作歌    鈴木毅一作曲
   「雪やこんゝゝ」   東クメ作歌       瀧廉太郎作曲
   「お正月」       東クメ作歌       瀧廉太郎作曲
   「さよなら」       東クメ作歌      瀧廉太郎作曲

 『お正月』は、十九曲目に掲載されています。作者名は記されていません。後の研究で判明したものをまとめた安永武一郎監修 松本正著・大分県立先哲資料館編『大分県先哲叢書 瀧廉太郎』(大分県教育委員会)平成七年発行によると、構成は、瀧が十六曲を作曲(その内、瀧作詞は『水遊び』『雁』など四曲。くめ作詞は『お正月』『鳩ぽっぽ』『雪やこんゝゝ』など十一曲。佐佐木信綱の詩は『雀』一曲)。鈴木毅一の作詞作曲は『白よこいゝゝ』など三曲。そして一曲だけ原曲不明の外国曲(ドイツ曲)に瀧が伴奏を付け編曲し、くめが作詞した『お池の蛙』があります。
 一つだけある佐佐木信綱の詩『雀』は、明治二十八年、『少年世界』(博文館)十二月号に「雀の歌」として掲載された詩です。瀧は、明治三十二年十一月から十二月にかけて、『少年世界』編集発行人の巌谷小波(主筆)に鈴木毅一と共に三度訪ね、『幼稚園唱歌』の相談をしています。この時、この詩の使用について依頼したのでしょう。「ちゅぅ ちゅぅ ちゅぅ」という雀の擬声語があるのが気に入ったのでしょうか。佐佐木信綱は歌人で国文学者。当時は帝国大学文科大学附属古典講習所を卒業した新進気鋭であった。
 『お池の蛙』は、外国曲に瀧が伴奏を付けた作品。『鳩ぽっぽ記念』(昭和四十二年六月)では、「ドイツメロディー」となっていますが、原曲は不明。★今までの学校唱歌、特に外国の曲に日本語の歌詞を付けただけのものを批判して、新しい曲作りに取り組んでいたはずの瀧が、なぜ同じ事をしたのか疑問が残ります。「くわっ くわっ   くわっ くわっ くわっ」という蛙の擬声語があるのが気に入ったのでしょうか。
 ●藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)の「二十四曲を四季の順に配列」は間違い。「二十曲を」が正しい。
 ●金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔上〕明治篇』(講談社文庫)の「滝自身のもの十七曲」は間違い。「瀧自身のもの十六曲、外国曲に伴奏を付けたもの一曲」が正しい。
 ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂)の「二十曲のうち十三篇の歌詞がくめの作であり、作曲は瀧廉太郎」は間違い。「二十曲のうち十一篇の歌詞がくめの作であり、作曲は瀧廉太郎。そして一曲だけ原曲不明の外国曲に瀧が伴奏を付け編曲し、くめが作詞した『お池の蛙』があります」が正しい。
 ●小長久子編『瀧廉太郎 作品と解説』(音楽之友社)平成十九年一月(第二十刷)発行の「お池の蛙」は、「東くめ 作歌 瀧廉太郎 作曲」は間違い。小長久子著『滝廉太郎』(吉川弘文館)平成十五年八月(第四刷)発行の「東クメ作歌、瀧廉太郎編曲」これは正しい。

 【家族の誕生を祝う行事】
 『お正月』は、当時の子供を知る貴重な歌です。子供たちにとって、晴れ着が着られ、ごちそうが食べられ、みんなで遊ぶ事のできるお正月は、楽しい家族の行事でした。正月が来ると、数え年の年齢では、みんなが一つ年を取りました。お正月は、みんなの誕生を祝う大事な行事でもあったのです。ですから盛装し、ごちそうを作って祝ったのです。しかし、時代と共に、満年齢で誕生日を祝うようになり、みんなで正月を待ち望んで、祝い合う習慣が薄れてきました。

 【時代的背景】 
 この詩が作られた時代は明治です。
 男子、特に長男が大切にされていました。「男女七歳にして席を同じゅうせず」という時代でもあったので、遊びも男女別でした。それが、この歌に表れています。「凧あげ」「こままわし」は男の子の遊びで、「まりつき」「はねつき」は女の子の遊びです。一番に男の子が歌われ、女の子は次の二番に登場します。大きい子も小さい子も一緒に日が暮れるまで思う存分遊んだものでした。
 また、子供たちにとって最大の楽しみである「お年玉」が、歌詞に出て来ないと思われるのは当然です。お年玉の風習は、戦後の新円切り替えの時期から始まったものだからです。

 【曲の構成と歌唱について】
 ヘ長調、四分の四拍子、十二小節の小品です。四小節ずつ三つのフレーズでできた三部形式。<サンドウィッチ形式>といわれています。ヨナ抜き長音階の旋律。

 「もーいくつねると、お正月。」と歌い出しただけで、のんびりとしたお正月の雰囲気になります。のびのびとしたリズムです。
 続く、お正月に遊ぶものの説明は、八分音符を主にした胸がワクワクするような早い動きのリズムです。子供たちは、早くお正月の遊びをしたいなあと思ったことでしょう。「こまをーまわして、」と歌います。ここは、「こま」をひとまとまりの言葉として歌います。
 最後は、またのどかなお正月の楽しさを思い描きながら歌いおさめます。この短い歌は、自分たちの希望を歌ったものなので、わかりやすく、子供たちはすぐに覚えました。  

 【レコード情報】
 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんから珍しい蝶印ポケットレコー ドをいただきました。かわいいレコードです(直径15cm)。
 “歌手の片山道子は、「こーまをまわし て」と歌っています(北島治夫より)。”
 29-A「お正月」、29-B「數ゑ唄」。
 “電気吹込とありますから
昭和に入ってからのものです。
溝が狭い、さらに浅いので、
あまり音は良くありません。
 
 袋には「ふんでもたゝいてもこわれぬ」と
書いてあります。軽くて割れないものと
いうことで開発され特許をいろいろとった
ようですが、やはり音楽で大切な音質が
劣るということで、見向きもされな かった
ようです。一般化することなく終わり、
レコード史には埋れてしまっています。
 袋の影絵は、かわいらしいです。
 (北島治夫より)

 【教科書での扱い】
 昭和三十年発行の教育芸術社発行の「一ねんせいのおんがく」の歌詞は、一番が「もういくつ寝ると お正月 元気にみんな 凧あげて〜」で、二番が「もういくつ寝ると お正月 なかよくみんな 毬ついて〜」となっています。★なぜ「お正月には」を変えて掲載したのか疑問です。変える理由がありません。現在は、原曲の歌詞の通り歌われています。変えた方の歌詞は、定着しませんでした。

▲おしょうがつ/絵は河目悌二。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊、講談社より
▲おしょうがつ/絵は武井武雄。「童謡画集(3)」1960年11月25日刊、講談社ゴールド版より


 【東くめ略歴
 瀧廉太郎が有名なのに対して、東くめは、あまり知られていません。『四季の瀧』の瀧廉太郎の自筆譜を見ると作歌者の記載は「東クメ」と名前がカタカナで書いてあります。
  ・明治十年(1877年)6月30日、旧新宮藩主水野家(現・和歌山県新宮市)の家老を勤めた由比甚五郎の長女(由比くめ)として生まれました。六歳で父を亡くし、母と叔父に育てられました。
  ・「十歳の時、大阪のウイルミナ女学校に入学。十二歳の時、叔父のすすめにより東京音楽学校を志望したが、年齢が足りないため、明治二十二年九月に選科に入学、ピアノと和唱歌を学び、のち二十五年同校予科へ入学した」(小長久子著『滝廉太郎』(吉川弘文館)による)。
 ●「大坂ウィルミナ女学校(現・大阪女学院)を経て明治二十三年、十四歳で東京音楽学校(現・東京芸大)に入学。しかし年齢が不足していたため選科でピアノと唱歌を学び、同二十五年同校予科に入学」(毎日新聞学芸部編『歌をたずねて』音楽之友社より)。
  (註)女学校の名前は「ウヰルミナ女学校」が正式名。

  ・明治二十五年(1892年)、同校予科に入学。翌年専修部に移りました。
  ・明治二十九年(1896年)7月、高等師範学校附属音楽学校専修部を卒業。さらに研究科に入り、ピアノと和声学を学びました。
  ・明治三十年(1897年)6月より、研究科在籍のまま東京府高等女学校の助教諭になりました。 由比クメ。
 ●「明治三十二年、東京女子高等師範学校助教授と付属幼稚園の批評掛を兼務していた東基吉と結婚した」(小長久子著『滝廉太郎』(吉川弘文館)による)。
 ●「明治三十一年十二月、当時、高等師範学校の学生であった同郷の東基吉と結婚」(松本正著『瀧廉太郎』(大分県教育委員会)による)。
  ・基吉は、高等師範学校卒業後、岩手県師範学校教諭(附属小学校主事)を経て、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の助教授と附属幼稚園の批評掛を兼任。唱歌集の発案者。従来の幼稚園唱歌に疑問を抱き、新しい歌を求めていました。夫を通して教育の現場で子供たちに接してきたくめだからこそ、本当に子供たちが親しめる子供たち自身の言葉を知っていたのかもしれません。くめは、後輩の瀧を紹介。これに鈴木毅一が加わり唱歌集出版へと発展して行きました。
 ・明治三十二年『四季の瀧』、明治三十三年に組歌「四季」の中の『納涼』を作詞し、これを二年下級生の瀧廉太郎が作曲。
 ・明治三十三年、東京府第一高等女学校助教諭。東クメ。
 ・明治三十七年、東京府立第一高等女学校助教諭。東くめ。
 ・明治三十九年(1906年)三月、退職。
  その後のくめは、夫が大阪の池田師範学校(現・大阪教育大学)の校長として赴任したので、池田市に住み、ピアノを教えひっそりとした生活をしていました。
 ・昭和三十三年(1958年)、NHKテレビ番組「私の秘密」に出演し、『お正月』や『鳩ぽっぽ』の作詞者として再び世に知られました。
 ・昭和三十七年(1962年)七月、新宮市名誉市民の称号を受けました。
 ・
 ・昭和四十四年(1969年)3月5日、大阪・池田市で九十一歳で亡くなりました。

 ●藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)の「昭和四十三年・・・世を去っています」は間違い。「昭和四十四年」が正しい。

 以上、【東くめ略歴】は、毎日新聞学芸部編『歌をたずねて』(音楽之友社)掲載の和歌山県新宮市市役所に保存されている記録と、安永武一郎監修 松本正著・大分県立先哲資料館編『大分県先哲叢書 瀧廉太郎』(大分県教育委員会)平成七年発行による。

  【東基吉の略歴】
  ・明治三十二年三月、高等師範学校文科卒業
  ・明治三十二年、岩手県師範学校教諭 附属小学校主事
  ・明治三十三年、女子高等師範学校助教授
  ・明治三十四年、同 助教授
  ・明治三十五年、同 助教授 附属幼稚園批評掛・附属幼稚園・附属小学校勤務
  ・明治三十六年、同 教授 附属幼稚園批評掛・附属幼稚園・附属小学校勤務
  ・明治三十七年、同 教授
  ・明治四十一年、宮崎県師範学校 校長
  ・明治四十二年、栃木県女子師範学校 校長
  ・大正四年、三重県女子師範学校 校長
  ・大正六年、大阪府池田師範学校 校長
  ・大正十四年、退職

 【瀧廉太郎略歴】
 《明治十ニ年〜明治三十ニ年》  「荒城の月」参照。
 《明治三十三年〜明治三十六年》 「荒城の月」参照。 

 【瀧廉太郎からの「お年玉」】 毎日新聞学芸部著『歌をたずねて』(音楽之友 社)には、次のように書いてあります。
 “滝の運命を思うと、この唱歌集、滝が日本の幼いこどもたちにのこしたお年玉のような気がする。”
 毎日新聞の記者が書いた名文です。

 【堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』検証】●「単行唱歌集」一覧に、瀧廉太郎(編著)『幼稚園唱歌』(共益商社楽器店)としてありますが、原著にはこのような記載はありません。共益商社編『幼稚園唱歌』(共益商社楽器店)が正しい。しかし、実際には瀧が作曲だけでなく編集にも中心的な役割を果たしていた。瀧が留学をした後、共益商社により作成され、十分な校正ができないまま出版された。 『幼稚園唱歌』は、大分県教育庁文化課『大分県先哲叢書 瀧廉太郎 資料集』(大分県教育委員会)平成六年三月三十一日発行で見る事ができます。貴重な資料集です。この本では、『幼稚園唱歌』は共益商社楽器店編となっています。


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鳩ぽっぽ

作詞 東 くめ
作曲 瀧 廉太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/10/03)


 鳩の幼児語の「鳩ぽっぽ」という言葉を巧みに織り込んだ作品です。
 鳩の鳴き声「ぽっぽ」「くっく」、犬の鳴き声「ワン」「キャン」、猫の鳴き声「ニャー」「ミャー」などを、人が聞いた言葉で表すことを、「聴きなし」といいます。

  【発表】
 幼児語で、「鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ」と歌うこのかわいい『鳩ぽっぽ』の歌は、東くめ作詞・瀧廉太郎作曲のコンビで作られました。明治三十四年(1901年)七月二十五日発行の共益商社編『幼稚園唱歌』(共益商社楽器店)の中の一曲です。『荒城の月』『箱根八里』で有名な瀧廉太郎が、なぜこのような子どもの歌を作ったのでしょうか。

 【『幼稚園唱歌』を作った人々
 【『幼稚園唱歌』の特徴】  【全二十曲の構成】を参照してください。
 幼児の唱歌集に伴奏を付けたのは、これがわが国で最初の物です。やさしい口語体、親しみやすいメロディーで共通している。子供が楽しく歌える歌を集めてある。文部省の唱歌が、文語体、内容も教訓的なものを含んでいたのと対照的です。春夏秋冬と、四季の順に並んでいる。当時としては画期的なものでした。

  【瀧廉太郎が作曲】
 「鳩ぽっぽ」は、『幼稚園唱歌』の十二曲目に掲載してあります。
 くめの長男の貞一(故人)夫人の綾子によると、「鳩ぽっぽ」ができたのは、くめが結婚した直後の明治三十二年。
  (註)瀧廉太郎が基吉やくめたちと最初に話し合ったのが明治三十二年(1899年)で、それから一年半かけて編纂がおこなわれた。

 夫の基吉が女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)附属幼稚園の批評掛(がかり)も受け持ち、幼児の教育に非常な関心を持っていた。当時の唱歌の文句は全部文語体で、たとえば、いまなら“まるくまるく輪になって”とでもいうところを、“めぐれどはしなし、たまきのごとくに”といっていた。そこで子どもたちにもよくわかり、楽しんで歌える歌ができないものだろうか、と基吉がくめに相談したのがきっかけ。
 くめは、浅草の観音様境内で無心に遊ぶハトと子供たちの平和な姿を心に浮かべながら作詞。音楽学校時代二年後輩で、それまでもコンビでいくつかの歌を作っていた瀧廉太郎に作曲を依頼したところ、瀧は、ピアノの前で、わずか二十分ぐらいで曲をつけたという。 つまり、『鳩ぽっぽ』は、「話し言葉による童謡」の第一号で、歌詞に出てくるハトは新宮ではなく、浅草のハトだった。(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)による)。

 東くめが小長久子に語ったところによると次のようです。
 “この唱歌集は明治三十二年頃、東基吉から、これまでの幼児唱歌は文語体で難しいので、「何かやさしい子供の歌はないものか」といわれた時、私の二年後輩に瀧という作曲の巧い学生がいるから紹介しようといったことから、初めて東基吉と瀧さんが会い唱歌集作成の案が立てられ、それに鈴木毅一が加わって準備した。私の歌が一つできて、それを瀧さんに渡すと、彼はその歌を読むとすぐ鼻歌でも歌うように五線紙に曲を書いた。あの「鳩ぽっぽ」の歌は私の最初のもので、瀧さんに見せると、「これはよい歌だ」と口ずさみながらいかにも楽しそうにその場で作曲した。”(瀧廉太郎研究家の小長久子が生前のくめから取材した話)。
 この文章は、小長久子著『滝廉太郎』(吉川弘文館)に掲載されていますが、あらゆる出版物で使われ、元の文章が次々書き換えられ使われています。出典を明らかにし、東くめの言葉は正確に伝えてほしいものです。それは、ルールです。

  【楽譜を詳しく見ましょう】
 「かへらずに」は、「みなたべよ」と同じ音とリズムです。「鳴いて遊べ。」のリズムを正しく歌いましょう。



  【東くめの作詞】
 東くめの作った歌詞には、擬音が効果的に取り込まれています。子供たちが親しみやすいように、日常の音を入れたのです。東くめが新たに創作したものではありません。詳しく見ましょう。
  「お池の蛙」くわっくわっくわっくわっくわっ、 「夕立」ごろごろ、ぴかぴか、ざーざー、 「かちかち山」かちかち、ぼーぼー、ざぶざぶ、 「鳩ぽっぽ」ぽっぽぽっぽ、 「雪やこんこん」こんこん、

  【『鳩ぽっぽ』と『鳩』の比較】
  『鳩ぽっぽ』は、明治四十四年五月発行の『尋常小学唱歌』第一学年用に掲載された『鳩』「ぽつ ぽつ ぽ、 鳩 ぽつぽ、」(文部省唱歌・作者不詳)と、比べられます。両方「豆を食べに来い」と言っていますが、『鳩』は、「食べたら 一度にそろつて 飛んで行け。」と、あわただしいのに対して、『鳩ぽっぽ』は、「たべてもすぐに、かへらずに。ぽっぽぽっぽと、鳴いて遊べ。」と、鳩に呼びかけ、のんびりしています。作詞者の東くめの優しさが現われています。

 【歌碑について】 五か所にあります。

  ・東くめが浅草寺の鳩が群がるのを見て作詞したということで、浅草観音の本堂前に「鳩ポッポの歌碑」があります(曲名がカタカナになっている。東くめ 八十六歳 昭和三十七年十二月八日除幕)。説明文には「・・・観音さまの境内に於て鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものであります。・・・鳩は平和の象徴です。・・・」と書いてあります。  

  《歌碑の写真→》

 ・長野県・善光寺境内にも、鳩の絵が刻まれた「鳩ぽっぽ」の歌碑があります。鳩の供養のために建立したものです。
 碑面は東くめ八十六歳の筆による
  (昭和三十九年八月吉日 寄進人 長谷川幾山 長谷川あや子)。

  ・東くめが新宮出身のため、新宮市新宮、新宮駅前に「鳩ぽっぽ」の歌碑があります。昭和三十七年七月十五日建立。東くめ八十五歳の自筆の歌詞が刻まれている。大きなソテツの下に建っている。


  ・和歌山県、江住海岸公園の中の童謡をテーマにした公園『日本童謡の園』に紀州ゆかりの歌碑が建つ「紀州の童謡広場」があります。鳩と少年のモニュメント「鳩ぽっぽ」が遊歩道に並んでいます。


  ・東くめの終焉の地、大阪府池田市の五月山公園内にも記念碑があります。昭和三十八年五月五日建立。三羽の鳩が羽をひろげている近代的な美しい碑です。「八十六歳 東くめ」の署名で自筆の「鳩ぽっぽ」の全文が彫り込まれています。


  【東くめ略歴

  【瀧廉太郎略歴】を参照してください。



 【レコード情報】 北海道のコレクター、北島治夫さんのレコード

 会社  番号  歌手  タイトル   特記事項
ニッポノホン 120D 納所文子 「鳩ポッポ」
リーガル 65631 納所米子 「鳩ポッポ」
オリエント 1518 井上ます子 「鳩ポッポ」
ニットー 3960 福田 栄 「鳩ポッポ」 註(1)
コロムビア 2549 吉澤とも子 「鳩ぽっぽ」
内外 2013 濱村よね子 「鳩ポッポ」 註(2)
キリン K597 谷中百合子 「鳩」 註(2)
註(1) 福田栄のニットー盤は同一面に「鳩、鳩ポッポ」
註(2) キリンの谷中百合子と内外の濱村よね子のレコードは同一音源で、
 収録曲は「鳩ポッポ」「日の丸の旗」「兎と亀」「牛和丸」「池の鯉」「小馬」。
 全6曲の時間も同じで、「池の鯉」は同じ箇所で間違っている。
 キリンレーベルはタイヘイレコードの傍系レーベル(廉価盤)で、タイヘイは元々
ナイガイであるので、濱村よね子のレコードがオリジナルである。
 マイナー・レーベルの会社では、当時傍系レーベルで再発するときは、
歌手名を変えて発売することがよくあった(この場合は濱村を谷中百合子と改名)。



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水遊び

作詞 瀧 廉太郎
作曲 瀧 廉太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/10/03)


 『幼稚園唱歌』(共益商社楽器店編集発行)明治三十四年七月発行の中の一曲です。「水遊び」は、十一曲目に掲載されています。

  【瀧廉太郎が作詞・作曲】 
 「水遊び」は、瀧廉太郎の作詞・作曲による十二小節の短い曲です。アクセントにそって作曲がしてあります。 水遊びの楽しさが躍動感のある旋律によって表現されています。
 『幼稚園唱歌』全二十曲の小品の内、瀧廉太郎の作曲は十六曲。鈴木毅一(きいち)の曲が三曲、外国曲が一曲。全ての曲に伴奏が付けられていました。
 瀧廉太郎作品の作詞者の内訳は、東くめが十一曲、佐佐木信綱が一曲、あとの四曲が瀧自身が作詞したものです。いずれも口語体(言文一致)のわかりやすい言葉で書かれています。曲はヨナ抜き長音階を基本音階として作られています。
 『瀧廉太郎全曲集 作品と解説』小長久子(こちょう ひさこ)編 音楽之友社 2007年1月31日 第20刷発行の「水あそび」は、瀧廉太郎作歌・作曲と書いてあります。◆作歌とは作詞のことです。小長氏は通常は作詞と表記されるところを、すべて作歌と表記しています。
 映画『わが愛の譜・滝廉太郎物語』のパンフレットは、「水あそび」<作詞共>となっています。

【タイトルについて】
 タイトルは、出版物によって「水あそび」だったり、「水遊び」だったりしています。それには理由があります。初出の『幼稚園唱歌』の目次は「水あそび」で、掲載されている歌詞と、楽譜のタイトルは「水遊び」だからです。

 【歌い方について】
  ・「遊びましょー。」のリズム(タタタタタンウン)を正しく歌いましょう。
  ・最後の四小節の「一二三四 ちゅっちゅっちゅっ」は、言葉そのものが活発な躍動感のある旋律によって表現されています。元気に歌います。

 【「ちゅっちゅっちゅっ」と歌う】 
 歌詞の最後は、「ちゅっ ちゅっ ちゅっ」で、おもしろく、水遊びの楽しさが伝わって来ます。 水鉄砲の音をわかりやすくとの考えからでしょうか、「しゅっ しゅっ しゅっ」と変えている出版物があります。これでは詩がだいなしです。

  <ある童謡の会では>
 三十年前、平塚に童謡の会が発足し、著者 私・池田小百合は、会員となりました。女の先生がアコーディオンを弾きながら指導していました。ある日、『水遊び』を歌うことになりました。先生が、「この歌は、『ちゅっ ちゅっ ちゅっ』という歌詞と『しゅっ しゅっ しゅっ』という歌詞の楽譜があります。どちらで歌いましょうか?」と質問しました。すると、前列の女性が手を上げて立ち上がり、「水鉄砲から水が勢いよく出るようすだから、『しゅっ しゅっ しゅっ』が、いいと思います。」と答えました。先生は、「じゃあ、そうしましょう。」と言われました。そして、その場にいた三百人の会員が『しゅっ しゅっ しゅっ』と歌い、口々に「なつかしいですね」「童謡はいいですね」と言った。先生はじめ、三百人の会員が平気で間違った歌詞で歌ったことに、私は驚きました。

  <瀧廉太郎記念館では>
 『瀧廉太郎記念館』にも電話で問い合わせました。すると年配の女性が出て、「今、手元にある本を調べてみますから、少しお待ちください」と言い、長い時間待たされた後、「この本には『しゅっ しゅっ しゅっ』と書いてありますから、『しゅっ しゅっ しゅっ』が正しいと思いますよ。」という返事でした。著者 私・池田小百合が、「出典を教えて下さい。」と言うと、「あっ、団体さんがおみえですから、すみませんが、これで失礼します。」で終わった。
 電話に出た女性は学芸員ではないようだった。最初に名前と、小田原から電話をかけている事を言っているのに、長い電話は無駄となった。重要な事項は、文書で回答を求めないといけないと反省しました。そもそも「記念館なら、歌詞ぐらい、すぐわかるだろう」と思ったのが間違いでした。
  (註) 大分県教育庁文化課編『大分県先哲叢書 瀧廉太郎 資料集』平成六年」三月三十一日発行では、全ての資料を写真で見る事ができます。写真だと歌詞や楽譜の写し間違いを未然に防ぐ事が出来ます。研究者は必見です。 ほかの童謡の雑誌や、残されている楽譜も、写真で公開してほしいものです。 そうすれば、研究が飛躍的に進むはずです。

  【水鉄砲で遊ぼう】 
 みなさんは、水鉄砲で遊んだ事がありますか。 水鉄砲は、竹で作ります。大きく分けて、水を入れる竹の筒と、水を押す竹の棒の二つに分かれます。竹の棒の方には布を巻きます。この布が水を吸って「ちゅっ ちゅっ ちゅっ」と音をたてるのです。遊んだ事がない人には、全くわからないでしょう。
 現在は、水鉄砲を作る竹がなくなり、しだいに竹で作った水鉄砲を見なくなりました。時折り、学校や公民館の企画で「昔の遊び」として作るだけとなりました。珍しいのでテレビのニュースで取り上げられるほどです。
 市販のプラスチックの水鉄砲は「しゅっ しゅっ しゅっ」と勢いよく水が出ます。今も昔も水鉄砲遊びは、子供を夢中にさせてくれます。楽しい遊びです。


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荒城の月

作詞 土井晩翠
作曲 瀧廉太郎
改編 山田耕筰

池田小百合なっとく童謡・唱歌
   (2009/02/03)


 

 【曲集『中学唱歌』について】
 明治三十四年三月三十日、東京音楽学校編纂で共益商社楽器店から発行された文庫判の小形の曲集。  
 明治三十一年頃から中学校用の歌集編纂が議論され、その結果音楽学校が中心になって準備が進められました。
 まず、広く世の文学者、教育家、音楽家に作詞作曲を依頼し、また一方では作詩を公表して作曲を一般から募集しました。条件は一人三種以内、賞金は一曲入選につき五円支払われました。 こうして集まった二百余種の中から三十八種を選び、曲集『中学唱歌』を作りました。

 【三曲が入選】
 瀧は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)編『中学唱歌』の懸賞募集作品として「荒城月」「箱根八里」「豊太閤」の三曲の作曲(メロディーのみ)を応募して三曲共に入選しました。
 瀧は賞金十五円を受け取りました。当時の小学校教員の初任給が十円から十三円だったので、これは大金です。彼は、大分の母に丸髷の型を、妹にはかんざしを、下宿先の瀧大吉の奥さん民子には木のタライを贈り、残ったお金で、おしるこを友人に御馳走したと伝えられています。
 明治三十四年三月三十日『中学唱歌』が出版されました。瀧は、初版を手にして感慨無量でした。一週間後の四月六日にドイツ留学に旅立ちました。

 【初出】
 『中学唱歌』(明治三十四年三月=1901年共益商社楽器店発行)に掲載された曲名は「荒城月」ですが、明治三十五年七月発行(第五刷)では「荒城の月」となっています。ロ短調で八分音符単位の四分の四拍子で書かれ、「花の宴」の「え」のホ音にシャープが付けられて嬰ホ音になっています。全体わずか八小節の小品です。


 【山田耕作の編曲】
 山田耕作が編曲をしました。この楽譜は後藤暢子編集・校訂『山田耕筰全集・第9巻』(春秋社)で見る事ができます。


山田耕筰編曲 1917年版 「荒城の月」 『山田耕筰作品全集9』より

  【1917年の楽譜の検証】 
 楽譜には1917年と書いてあります。1917年は大正六年です。楽譜をくわしく見ましょう。山田耕筰作品全集9 箱
 まず、ニ短調に移調し、ピアノ伴奏を加えました。曲は四分音符単位に書きかえられ、原曲の一小節が二小節になり、音符の長さが倍になり、歌の部分は十六小節です。「花の宴」の「え」のシャープ記号は省かれ、「千代の松が枝」の付点部分のリズムに改作が施されています。「ちーよのまつがえ」と歌うようになっている事が確認できます。現在、歌われている形になっています。

  【なぜ耕作はシャープ記号を省き編曲をしたか】 
 それに関しては作曲家の森一也氏が興味深いことを書き記していました。(『山田耕筰の遺産11器楽曲篇』(日本コロムビアCOCA13181)解説より)
 "昭和12年の秋、欧州視察から帰ったばかりの橋本国彦助教授が、ある日、東京音楽学校の教官室で数人の教授達と興味深い雑談をしているのを、生徒だった小生は運良く耳にすることができました。
 橋本助教授の話を要約すると、『欧州で音楽愛好家に会うと日本の曲を聞かせてくれと言う人が多い。こうした時「荒城の月」を紹介するのはよいが、山田耕筰さんがピアノ伴奏をつけた「荒城の月」でなくてはならない。瀧廉太郎の原曲のままだと「花のえん」の「え}の個所に#がついている。つまり短音階の第4音が半音上がっている。これはジプシー音階の特徴だから、外国人は日本の旋律ではなくハンガリー民謡を連想してしまう。それを避けるために山田さんは、三浦環にこの曲の編曲を頼まれた時、Reについていた#を取ってしまったんだ。外国で歌う機会の多い彼女にとってその方が良いとの判断だったに違いない。それで、あの歌は日本の曲らしくなった』という内容でした。
 (中略)
 山田耕筰は三浦環に頼まれて編曲し、ピアノ譜を作りました。それは三浦女史が大正七年六月四日、ニューヨーク・スタジアムで「蝶々夫人」のアリアと共に、日本の歌を歌いましたが、その中に「荒城の月」が入っていたからです。その楽譜は早くも同年(1918年)七月八日、瀧廉太郎作曲、山田耕筰改編と明記されてセノオ楽譜から出版されましたが、それが広く流布して「荒城の月」のほとんどの歌唱や演奏は、山田編によるシャープ(#)のつかないものが定着したのです。"

  山田は、ソプラノ歌手・三浦環のためにロ短調より三度高いニ短調に移調したのでしょう。この1917年(大正六年)版の楽譜が、現存する最も古い山田耕作の楽譜です。  

 ●後藤暢子著『山田耕筰作品全集9』(春秋社,1993年2月10日発行)解説p.38には、「山田はこれを原曲より4度上のニ短調に移調し」とあるが、ロ短調をニ短調にしたのだから3度上である。

 【山田耕作編曲の経過とアメリカでの活躍】 
 『山田耕作全集 第一巻』(春秋社)昭和六年一月発行の解説には次のように書いてあります。「大正六年十二月、作曲者が渡米するに先だつて、この夭折した天才瀧廉太郎氏の旋律に伴奏を編まれたものである」。
 大正七年(1918年)、三十二歳の山田耕作は、10月16日カーネギー・ホールで自作の音詩『暗い扉』や舞踊詩曲『マグダラのマリア』などを自らの指揮で発表している。翌年(1919年)第二回を開催。
 日本音楽学会の機関誌『音楽学』第46巻に武石みどり氏が「山田耕筰のアメリカ旅行(1918/1919年) 日米現存資料に基づく再検討」を発表しているようです。武石氏の調査の結果を略述すると、
 "山田のアメリカ旅行は資金的に大変苦しい状況で実現。主な資金は岩崎小彌太とチャドボーン夫人より提供された。1918年6月頃に資金を獲得するまでは、山田は当時ニューヨーク滞在中であった伊藤道郎の日本的素材による創作舞踊の上演に音楽面で協力し、また出版社の求めに応じて日本旋律の編曲を行った。歓迎されたのは特に日本的旋律を用いた作品であった。指揮者としての技量は高く評価され、日米歌手による「蝶々夫人」の制作に指揮者として起用されたが、その準備のために帰国中、計画は中止となり再渡米を断念した。常に「日本」を求められたアメリカでの経験は、その後の山田の作曲・活動に大きな影響を及ぼしたものと考えられる。"

 【セノオ楽譜の検証】
 <大正七年版のセノオ樂譜>
 セノオ音樂出版社から獨唱「荒城の月」として出版(初版)。これには、シャープが付けられていました。★未確認。
 というのは、海老澤敏著『瀧廉太郎』(岩波新書)に、
 「山田耕筰編曲のこの『荒城の月』(おそらくは大正六年に編曲)が大正七年に東京のセノオ音楽出版社から刊行された時、問題の<嬰ホ音>(ここでは<嬰ト音>)はまだそのままであったからである。そのシャープが大正十三年の再版で初めて削除されるのである」(p.218)と記されているからです。
  さらに後藤暢子著『山田耕筰作品全集9』(春秋社)の解説には、「ちなみに、1918年の初版では、第1節1行目の歌詞「花の宴」の歌唱旋律は瀧の原曲どおり半音進行をふくむものであった。だが、再版時にこの#は削除された」とある。1918年の初版とは大正七年にセノオ音楽出版社から出版された楽譜のことです。

 <大正九年版のセノオ樂譜>
 セノオ樂譜九十二番(セノオ音樂出版社)大正九年一月二十五日発行(国立音楽大学附属図書館所蔵)。 楽譜をくわしく見ましょう。

 タイトルは「獨唱 荒城の月」とあり、「瀧廉太郎原作 山田耕作改編」と書いてあります。二短調で、「はなのえん」の「え」にはシャープが付いています。もちろん伴奏部分にもシャープがあります。ほかは、1917年の楽譜と同じです。
 大正七年(1918年)の楽譜にも、シャープがあったと確信できます。
 詩の四番の後には次のような文が掲載されています。これには署名がありません。書いたのは妹尾幸陽でしょうか。
 「■山田耕作氏が渡米に際し、早世の天才、瀧廉太郎氏の靈腕に感じ涙で編んだのが此の曲です。伴奏の妙、切々として古城の昔を語るやうです。」
 妹尾氏はセノオ楽譜の『浜辺の歌』にも、これに類したコメントを付けており、署名もしています。

 山田耕作が自分の目を通した大正六年版にはシャープがなく、渡米後に出版された大正七年版・大正九年版のセノオ楽譜には、シャープがあるのは奇妙です。楽譜の出版の際、妹尾幸陽が手を加えた可能性があります。『浜辺の歌』でも妹尾氏は楽譜に手を加えた可能性が高いからです。

 <大正十三年版のセノオ樂譜>1917年の楽譜と同じ。ニ短調で、シャープはついていません。この楽譜には、「瀧廉太郎旋律―山田耕作改編」と書いてありますが、出版を重ねるにしたがって、この事は書かれなくなりました。

 [註]大正九年にも楽譜が出版されていることは「誠」さんからメールで教えていただきました(2009年2月3日付)
 “セノオ音楽出版社から発行されたセノオ楽譜92番「荒城の月」には以下の二つの版があります。
  ■大正七年(初版)・・・斎藤佳三氏の装画。
  ■大正九年(改版)・・・竹久夢ニ氏による別画。
 夢二のものがあまりに有名過ぎてか、初版はあまり知られていないのですが、この楽譜には、問題の「え」にシャープがついており、海老澤氏はこの事を書いておられると思います。
 ただし、改版(シャープなし)の発行日については、少しこみ入った経緯があり、「大正十三年の再版で初めて削除される」と、海老澤氏も勘違いしたのでしょう。シャープの削除は、正しくは大正九年です”。
 この記述には大正九年(シャープなし)とありますが、私が調べた大正九年の楽譜にはシャープが付いていました。自分で調べる事の重要性を痛感しました(2009/08/01)。

 【歌詞について】
 明治三十年、土井晩翠は東京郁文館中学の英語教師の職につきました。その頃、東京音楽学校で『中学唱歌』の編纂が計画され、文人に題名が与えられ作詞が求められました。晩翠は三篇の依頼を受け、その中に「城月」がありました。
 晩翠によると、作詞の際にイメージしたのは、父親から会津戦争の話を聞かされていた福島県会津若松市の「鶴ヶ城址」。ここには第二高等中学校時代に訪れています。また、郷里の宮城県仙台市にある「仙台城址(青葉城址)」もイメージして書きました。この二つの荒れた城址が作詞に大きな影響を与えました。吉田悦男『うたの里を行く』(舵社、1996年)には、“晩翠自身が語ったところによると、主として鶴ヶ城跡の印象が強く、「垣に残るはただかつら、松に歌ふはただあらし」の詩句だけは青葉城跡から得たという”との記述があります。晩翠は「古城」では時代の古い城という意味にしかならず、悲哀の感情が出ないと「城月」と題名の変更を申し立てて、受け入れられました。
 (註1)瀧廉太郎や土井晩翠がイメージした城については、安永武一郎監修 松本正著『瀧 廉太郎』(大分県教育委員会、)にくわしく書いてあります。瀧は大分県竹田市の「岡城址」をイメージして作曲したとされています。
 (註2)旧制二高は、当時は第二高等中学校(松本正『瀧廉太郎』1995年)だが、鶴ケ城址に建てられた「荒城の月」の詩碑には、晩翠の言葉として「第二高等学校生徒時代」と刻まれている。

      
▲ 桜咲く岡城址

 文治元年(1185年)
緒方三郎惟栄(これよし)が
源義経を迎えるために築城
した。
 明治四年廃城となる。
 
←「岡城跡」解説資料より

 二ノ丸跡に滝廉太郎の銅像
 が建てられている

▲滝廉太郎銅像
横山太郎「名曲の舞台を訪ねて」
(交通新聞社、平成25年)より 

  <詩を詳しくみましょう>
 明治政府の廃城令により、各地の城郭や石垣は崩され、堀は埋められ、天守閣 も取り壊されて、全体の一部だけが保存されました。人々に親しまれた城のたどった道は、人の世の栄枯盛衰とその哀れを思わせる物でした。この詩は、そうした廃城にたたずむ者の感懐をうたったものです。

 詩は七・五調の四句を一連とした四連構成になっています。
 <第一章>と<第二章>は、対(つい)になっている。春(平和な時)と秋(戦いの時)を対比させている。

 <第一章>
 「高樓」この歌では城のこと。その昔、ここに城があり、天守閣で花見の宴がはられたに違いありません。城が栄華の盛りにあったころの情景を桜の宴に象徴させている。「めぐる盃」盛大な酒の宴で差し廻される盃に、「千代の松が枝わけいでし」みごとな老松の枝をかき分けて出た月がその姿をうつしだしている。古語の「かげ」=「光。姿」ここでは姿の方。「千代の松が枝」という表現は、松が、古代から今に至るまで、「長寿・永遠の繁栄」の象徴とされている事が背景になっている。城は永遠に繁栄を謳歌(おうか)すると思われていたころの情景です。その昔の月光は、今、どこにあるのか。

 <第二章>
 戦闘の拠点としての城が描かれている。戦の厳しさを「秋陣営の霜の色」と表現している。四字熟語のひとつ「秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)」をふまえたもの。緊張感がみなぎる城の状態を描いている。夜空には秋を告げる渡り鳥の雁(かり)、「數見せて」で、月がはっきり雁の姿を照らしている事がわかる。「月と雁」は、日本画の代表的な図柄の一つ。「植うるつるぎ」まるで木々を植えたように林立しているという比喩的表現。月は、戦闘を前にして城の随所にある槍(やり)や刀(かたな)の刃(やいば)の上にも輝いている。その昔の月光は、今、どこにあるのか。 <第一章>と<第二章>は、「むかしの光いまいづこ」という問いかけで締めくくられている。この城の、かつての姿はどうなってしまったのだろうという嘆息がこめられている。

 <第三章>と<第四章>は、すでに「荒城」廃城になった場に立ち、「よはの月」夜半の月を仰いでの感慨をうたっている。

 <第三章>
 「たがためぞ」昔と変わらないその光は、今、誰のために輝いているのか。もはやこの城には誰も居ない。ただ、石垣にわずかに「かつら・葛」(つる草の総称)が残るだけ。かつて宴の歌声が響いた地には、松を吹く嵐だけ。芭蕉の「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」の無常観に共通する物がある。

 <第四章>
 古語の「影」=「光。姿」ここでは光の方。天空を照らす月光は昔と変わらないが、人の世の栄枯盛衰のはかなさは、今この城の姿に表れている。この人の世の栄枯変転をうつそうとして、月よ、夜空に輝いているのか。杜甫の「国破れて山河在り 城春なして草木探し」と似た感懐です。

 詩の意味を考える時、<第一章>と<第二章>が対句になっている事に留意したい。<第四章>は<第三章>を受けたものです。キーワードは、まさに「荒城」と「月」で、テーマにそった優れた作品になっている。
  (参考文献)黒沢弘光・解説『日本名歌曲百選 詩の分析と解釈T』(音楽之友社)。

 【「かつら」はミスか】 
 明治三十四年刊行の『中学唱歌』掲載の第三章の歌詞は「かつら」となっていて、楽譜も「カツラ」です。セノオ楽譜・大正13年刊の山田耕作版も「かつら」です。では、どのように歌ったらよいのでしょうか。
 当時の表記は、濁点を省略する事がありました。例えば隅田公園にある「花」の歌碑は、武島羽衣の自筆で、「すみた河」のように、いっさい濁点がありません。実際には「すみだがわ」と歌います。「かつら」の表記も、歌う時は「かづら」と歌われていたと思われます。現代かなづかいでは「かずら」と表記します。「葛」は、石垣にからまるつる草の総称です。歌う場合には「かずら」と歌います。

 【「歌ふ」の歌い方】
 明治三十四年刊行の『中学唱歌』掲載の第三章の歌詞は「歌ふ(うたふ)」となっていて、楽譜も「ウタフ」です。セノオ楽譜・大正13年 刊の山田耕作版も「うたふ」。では、どのように歌えばよいのでしょうか。
 歴史的かなづかいの「歌ふ(うたふ)」は、この歌では昔のままの文語的発音で「ウトー」と歌います。

 【土井晩翠の略歴】
 ・土井晩翠は、明治四年十月二十三日(=1871年12月5日)仙台市生まれ、本名は林吉。元は「ツチイ」というのが正式な姓でしたが、周りから「ドイ」と間違って呼ばれるので、「ドイ・バンスイ」と自分で名まえを変えてしまいました。第二高等中学校(後の旧制二高)をへて、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)英文学科に進学。 明治三十年七月に卒業(卒業時は東京帝国大学と改称されていた)。
 ・郁文館中学勤務のとき、『中学唱歌』に委嘱されて「荒城月」を作詩しました。
 ・明治三十二年に詩集『天地有情』を刊行し、新体詩の雄として島崎藤村と併称されました。十二月に結婚。翌三十三年に仙台の第二高等学校教授となりますが、一時退職し、ドイツに留学。
 ・明治三十七年に帰国し再び第二高等学校に奉職。ホメロスを七五七五の韻文で原典と等しい行数に翻訳するという難事業に独学のギリシア語で挑み、昭和十五年に『イリアス』を、昭和十八年に『オヂュッセーア』を完成します。
 ・晩翠は、明治三十五年八月末、ロンドンに停泊した若狭丸に病気で帰国途中の瀧を見舞いに行っています。「荒城の月」の作詞者と作曲者が会ったのはこれが最初で最後でした。  
 ・詩人、英文学者、第二高等学校名誉教授として活躍し、昭和二十七年十月十九日に亡くなりました。八十一歳でした。

 【瀧が「荒城月」の詞を選んだ理由】略歴を参照してください。父が直入郡の郡長を務めた関係で十三歳から竹田の町で多感な少年時代を二年半にわたって過ごしました。そこに「岡城」がありました。この城跡が瀧の遊び場でした。土井晩翠の詞を見た時、強い共感を覚えて作曲したのでしょう。

 【瀧廉太郎の略歴】 《明治十ニ年〜明治三十ニ年》
  ・明治十二年(1879年)8月24日、東京府芝区南佐久間町に誕生。
瀧廉太郎
△瀧廉太郎

  ・明治十五年(1882年)11月4日、父親の吉弘、神奈川県少書記官に任ぜられ一家は横浜伊勢町一丁目十番地の官舎に移る。
  ・明治十九年(1886年)8月28日、吉弘が富山県書記官に任ぜられる。9月、富山県師範学校男子部附属小学校尋常科一年生に転入。
  ・明治二十一年(1888年)4月24日、吉弘が非職を命ぜられる。5月、一家は東京に戻ってきた。麹町区上二番町二番地に落ち着いた。麹町尋常高等小学校尋常科三年に編入。(現在の千代田区立麹町小学校)
  ・明治二十二年(1889年3月14日、父親の吉弘が大分県大分郡長に任ぜられた。廉太郎は、祖母ミチ、姉リエとともに東京に残る。5月、尋常科四年生。
  ・明治二十三年(1890年)●3月7日、祖母ミチ、麹町にて没(八十三歳)。3月、麹町小学校尋常科卒業。4月、大分町の父母のもとに帰る。5月、大分県尋常師範学校附属小学校高等科一年生に入学。十二歳。
 ●5月31日、姉(長女)リエ、麹町にて病没(二十一歳)。
  ・明治二十四年(1891年)5月、高等科二年生。11月27日、父親の吉弘が大分県直入郡長に任ぜられた。12月、一家で竹田町溝川の郡長官舎に転居。十三歳。
  ・明治二十五年(1892年)1月8日、直入郡高等小学校二年生に転入。5月、高等科三年生。十四歳。
  ・明治二十六年(1893年)5月、高等科四年生。渡邊由男に音楽を学ぶ。十五歳。
  ・明治二十七年(1894年)4月30日、直入郡高等小学校卒業。5月に上京し、麹町区平河町三丁目一七番地の瀧大吉宅に身を寄せる。12月、高等師範学校附属音楽学校予科に本入学となる。十六歳。
  ・明治二十八年(1895年)1月、大吉一家とともに麹町区富士見町一丁目二九番地に転居。2月、大吉一家とともに本郷区西片町九番地に転居。
 ●三学期二度の試験を欠席。八月中旬、療養のため大分に帰郷。九月、本科専修部へ進む。
  ・明治三十年(1897年)9月、専修部三年生。ピアノの演奏で活躍。作曲を次々発表する。この年、大吉一家とともに麹町区四番町四番地へ転居。
  ・明治三十一年(1898年)9月、研究科入学。10月15日、 ●妹(四女)イク没(十一歳)。
  ・明治三十二年(1899年)9月、研究科二年生。音楽学校のピアノ授業嘱託となり、一ヶ月金十円給与。写譜の授業も担当。10月には授業補助を命じられる。11月5日、12日、そして12月10日、童謡の作曲の件で鈴木毅一とともに巌谷小波を訪問する。この年、大吉一家とともに麹町区上二番町二二番地へ転居。

幸田延幸田延のヴァイオリン・ソナタが初録音された(2009年2月)。一曲目のヴァイオリン・ソナタ第2番ニ短調はブラームスの作品のような魅力的な曲で、印田千裕・堀江真理子の演奏も優れたもの。

 ≪明治三十三年〜明治三十六年
 ・明治三十三年(1900年)1月、『幼稚園唱歌』を作っていた親友の鈴木毅一が宮崎県師範学校の教師に採用され東京を去った。
  ・6月12日、ピアノと作曲研究のため三年間のドイツ留学を命じられた。しかし、留学出発延期願を提出している。延期願いを出した九月前後から翌三十四年の初頭にかけて瀧にとって最も繁忙な時期。ピアノ曲『メヌエット』、組曲『四季』、『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の作曲。『中学唱歌』(東京音楽学校)出版。そして、『幼稚園唱歌』出版の計画が進行中でした。鈴木は、作業半ばで卒業し、宮崎県師範学校に赴任したので、瀧が作曲や編集などの雑務をこなしました。瀧は、くめ夫妻の助力を得て、この『幼稚園唱歌』をまとめ、ドイツ留学に出発する直前に完成した原稿を出版社に手渡しました。
 ●『幼稚園唱歌』には、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)に書かれている「瀧廉太郎(編著)」「共益商社書店」という記載はありません。

 ・明治三十三年(1900年)10月7日、麹町区五番町十五のグレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で受洗しました。受洗から約二十日おいた10月28日 の日曜日には堅信式を受ける。この事は余り知られていません。
 瀧は明治二十七 年上京以来この教会近くに住んでいて、礼拝の時にオルガンで讃美歌の伴奏をしていました。これまで、小さい頃、開港都市横浜で生活した事や、親族が次々亡 くなっている事にも注目したい。
 ●大塚野百合著『賛美歌・唱歌ものがたり』(創元社)8ページで、「堅信礼は一月二八日」となっているのは、「〇」が落ちたためで、実際は「堅信礼は一〇月二八日」 です。
  ・明治三十四年(1901年)4月6日、文部省の派遣留学生としてドイツへの船旅に横浜港から出発。留学は、幸田延(のぶ)、幸田幸(こう)に次ぐ三人目。男子では初めて。目的は、ライプツィヒ王立音楽院に入学、ピアノと作曲の研究をすること。
  ・明治三十四年(1901年)7月25日、共益商社編『幼稚園唱歌』(共益商社楽器店)が刊行。9月にライプツィヒの下宿にできあがった本が届けられました。
  ・10月1日にライプツィヒ王立音楽院の入学試験に合格。
  ・本格的な勉強を始めた11月25日、ビゼーの悲劇『カルメン』を観た後、風邪をひき、こじらせて入院した。入院した大学病院から結核の診断を受け、しだいに衰弱がひどくなり回復の見込みが立たず、「病気のため一九〇一年クリスマスに/退学」。10月2日初登校からわずか一ヶ月と三週間余りという短さでした。
  ・明治三十五年(1902年)8月下旬にライプツィヒを発つ。ライプツィヒを出発した日は8月22日とされているが定かではない。8月24日未明には、イギリスに向けて出港している。船はその日の午後五時にロンドン郊外テムズ河口のチルベリー・ドックに着岸した。若狭丸は五日間碇泊した。ここで瀧は土井晩翠と姉崎正治の見舞いを船上に受けた。晩翠は前年六月に、私費によりヨーロッパ遊学し、ちょうどロンドンに滞在中でした。『荒城の月』の作曲者と作詞者・土井晩翠が出会ったのはこれが最初でした。
  ・10月中旬、神戸港を経て、横浜港に入港し、東京の従兄、瀧大吉・タミ夫妻の家に落ち着いたが、11月23日、大吉が脳溢血で亡くなった。
 ・11月24日、東京を出立。大分に帰着後、大分町三三九番地の父母の元で療養 する。病状はますます悪化。
 ・明治三十六年(1903年)6月29日午後5時に亡くなりました。享年二十三歳と十ヶ 月の短い生涯でした(「二十四歳で逝った」と書いてあるものもあります)。病気が胸の病であったため、書きためておいた作品は母が彼の死後焼いてしまい、大分での作品は昭和三十五年十二月二十九日付けの『荒磯の波』と、亡くなる四ヶ月前に作曲した明治三十六年二月十四日付けのピアノ曲『憾』が残されました。絶望の中からの悲痛な叫びが聴こえるような曲です。
 現在、瀧が最期を迎えた大分町三三九番地一帯は、遊歩公園(大分市府内町)と して整備され、住居跡近くには、終焉の地として瀧廉太郎像が立つ。銅像の制作者は高等小学校時代の後輩、朝倉文夫(1883〜1964)である(大分県立先哲史料館編集『瀧廉太郎』(大分県教育委員会)平成七年発行 安永武一朗監修  松本正著 276ページ抜粋)。


 大分県竹田市大字竹田には、瀧の旧家を改造した「瀧廉太郎記念館」があり、遺品が展示してあります。

 以上、略歴は安永武一郎監修 松本正著『瀧 廉太郎』(大分県教育委員会)を参考にしました。この本は、とてもわかりやすく書かれていて、優れています。
 『』も参照してください。

 【没後九十周年記念映画】
 澤井信一郎監督『わが愛の譜 滝廉太郎物語』という映画が製作されました。滝と恋愛関係になる中野ユキのモデルは幸田幸ですが、エピソードはフィクションです。

 【本居長世編曲の「荒城の月」】
 本居長世編纂『世界音楽全集 第十七巻』 (春秋社)昭和五年十一月十五日発行には、本居長世編曲の「荒城の月」が掲載されています。前奏はなく、ロ短調、四分の四拍子、「エ」にシャープあり、音符を二倍にし、瀧廉太郎の原曲に忠実に和声を付けて、唱歌のように仕上げています。「・・・日本の代表的唱歌として之を省くに忍びず、新伴奏を附して載せることとした。・・・」と解説しています。
 本居長世の編曲は、瀧廉太郎の原曲に従った新たな伴奏です。山田耕作の編曲と同じに、一拍の単位音符は二倍に引き延ばしています。これは、瀧が指定したAndante、四分の四拍子を、八分音符で歌うと速すぎて情緒が表現できないためです。
  山田耕作編曲と本居長世編曲を比べると、山田耕作編曲の方がレベルが高く、華やかです。したがって、歌われるのは山田耕作編曲の方が圧倒的に多い。


 【教科書での扱い】
 過去に出版された教科書を調査しました。
 いずれも原曲の「え」の半音高いシャープは削除。子どもたちの声を考慮してイ短調、ハ短調、ロ短調に移調してあります。山田耕作がソプラノ歌手・三浦環のために移調したニ短調の楽譜はありませんでした。しかし、テノールやソプラノの歌手が歌う場合は、ニ短調の楽譜が使われています。
 <小学校の教科書>
  ・平成十三年発行『小学生の音楽5』(教育芸術社/畑中良輔ほかの編集)では、「滝廉太郎の歌曲」として「花」「箱根八里」と一緒に掲載しています。楽譜は子どもたちにもわかるようにイ短調、十六小節、伴奏なし、一番のみ掲載。「ちよのまつーがえー」と歌うようになっています。
  <中学校の教科書>
  ・昭和四十年発行『中学の音楽2』(講談社/著作者 岡本敏明 小山章三 高山清司 柳田c也)には、山田耕作編曲としてロ短調の伴奏つきの楽譜が掲載してあります。ロ短調の音階を学習する教材になっています。一般的に歌う場合はロ短調が歌いやすい。四番まで掲載。
 ●「山田耕作編曲」と書いてあるのに、山田耕作のニ短調の伴奏譜をロ短調に移調して掲載しています。また、「ちよのまつーがえ」と歌うようになっています。
  ・昭和三十二年発行『中学生の音楽1』(音楽之友社/堀内敬三ほかの編集)では、男子にも歌えるように低くイ短調に移調してあります。山田耕作編曲の楽譜をイ短調に移調しただけなので、「ちーよのまつがえー」と歌うようになっています。「山田耕筰編曲」と書いてあります。
  ・平成九年発行『中学音楽2・3上』(教育出版/三善晃監修ほか)では、合唱曲として新美徳英の編曲が掲載されています。後半が二部合唱になっています。合唱で歌いやすいようにハ短調に移調してあります。二番までが掲載してあります。「山田耕作 補作編曲」と書いてあるのに、「ちよのまつーがえー」となっています。伴奏譜は、山田耕作編曲をハ短調に移調して使ってあります。
  <高校生の教科書>
  ・昭和51年発行『高校生の音楽1』(音楽之友社/浜野政雄ほかの著作者)では、平井康三郎編曲の混声四部合唱を掲載しています。合唱で歌いやすいハ短調です。無伴奏。

  (註)かつて「荒城の月」は、小学校五年生と中学校二年生の音楽の教科書への採用が義務づけられていた。しかし、平成十四年(2002年)度実施の文部省の新学習指導要領は、教材の採用について教科書会社の自由裁量を大幅に認め、共通教材の枠から外した。

  <平成二十一年発行版の調査>
  ・『小学生の音楽5』(教育芸術社)「荒城の月」掲載。
  ・『新しい音楽5』(東京書籍)滝廉太郎の歌曲として「荒城の月」「花」「箱根八里」を掲載。
  ・『小学音楽 音楽のおくりもの6』(教育出版) 滝廉太郎の歌曲として「荒城の月」「箱根八里」を掲載。
  ・『音楽のおくりもの』中学音楽A・B上(教育出版)「荒城の月」掲載。
  ・『中学生の音楽』2・3上(教育芸術社)「荒城の月」掲載。
 平成二十一年発行版には「荒城の月」が掲載され、全国の小学校や中学校で歌われている事がわかった。

 【戦争の遺恨】
 教育学者で元・東京都立大学総長だった山住正己は著書『子どもの歌を語る』(岩波新書)で次のように語っています。荒城の月のすべて
 「ここで日本人として忘れてはならないことを一つ付け加えておきたい。それは、第二次世界大戦中、日本軍がアジア各地へ侵略し、そこで現地の人に日本語を強制するさい、「君が代」とともに「さくら」(「さくら さくら やよいの空は・・・」)と「荒城の月」を教えることが多かったということである。そこでこれらを強制的に歌わされた人は、これらの歌を耳にすれば、いやでも戦争と日本による支配を思い出す。「荒城の月」がすぐれているだけに、国として、アジア諸国の人々に戦争への反省をしていないことをあらためて遺憾に思う」。

 【荒城の月 音源】
 『荒城の月のすべて』 「荒城の月」をいろんな歌手が歌った音源CDがあります(キングレコード。KICG3133)。このCDの解説には、大正九年発行のセノオ楽譜山田耕作版「荒城の月」についての情報がありません。

 【「荒城の月」北島治夫・所有レコード一覧】
 「荒城の月」について所有SPレコードをまとめてみました。CD『荒城の月のすべて』には、さまざまな音源がありますが、SP復刻は一部しかおさめられていません。有名な曲だけに、沢山の演奏があります。北島さんは、北海道在住のレコードコレクターです。

No 会社 レコード番号 歌手 編曲者
ビクター 1175 藤原義江 米ビクター録音, 昭和3年2月発売
1番「わけいで」,2番「飛び行く雁の」
ビクター NK3148 藤原義江 ヴィンセント・ロベツ&ヒズ・シンフォニック・
ジャズオーケストラ 昭和28年4月発売.「わけいで
コロムビア A1425 藤山一郎 奥山貞吉 マトリックス 2206250 
A面は霧島昇(歌)「白虎隊」詩吟詠者が次と違う
コロムビア A1425 藤山一郎 藤山一郎 マトリックス 2219374 同じ番号で再録音をして
前の物を廃盤にした
コロムビア A345 三枝喜美子 坂本良隆
キング 10002 永田絃次郎 福田幸彦
コロムビア 35221 牧 嗣人 山田耕筰 耕作改編並オーケストレーション
ビクター V40116 中山梯一 飯田信夫
ビクター V40912 奥田良三 服部 正
10 コロムビア AK79 東京音楽学校 コロムビア音楽鑑賞第三集 中学校用女声合唱篇
これだけが「はなのん」で♯をつけて歌っている
11 グラモフォン KN-2 ドン・コザック合唱団 セルゲイ・ジャーロフ編曲「かげさし」オクターブ上
1・2番のあとに再度1番 ソロはファルセットで
12 キング 67025 井口小夜子 宇賀神味津男 この編曲者の名前は初めてですが、実に凝った
編曲をして、長い創作の部分があります(北島)
13 ポリドール 7763 奥田良三 鈴木二三雄 最後1オクターブ上げている
14 ビクター 13109 荻野綾子 1930年発売  裏面「お菓子と娘」
<器楽>
コロムビア 53013 (Fl)マルセル・モイーズ
コロムビア J5537 (Vc)モーリス・マレシャル
コロムビア 27927 (Vn)コンラード・リブレヒト
コロムビア J5053 (Vn)ボリス・ラス
テイチク C7017 バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ
  (註)宇賀神を名乗る作曲家は、過去に「ろばの会」の宇賀神光利(うがじんみつとし)しかいません。宇賀神味津男は、彼のペンネームかもしれません。昭和三十年春、磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直の作曲家五人が“よい詩によい曲をつけよう”という主旨で結成したグループが「ろばの会」です。昭和四十二年二月、宇賀神光利は亡くなりました。メンバーの補充はせず、四人でその後も活動をしました(池田小百合)。


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作詞 武島羽衣
作曲 瀧廉太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
   (2009/01/25)


 【初出】
 隅田川周辺の春の美しさ、のどかさを歌ったこの曲は、明治三十三年(1900年)十一月一日、共益商社楽器店から自費出版された、瀧廉太郎作曲の組曲『四季』の第一曲、春の部に当たる「花」で、武島又次郎作歌に、瀧廉太郎が西洋の七音音階で作曲した日本で初めての二部合唱曲です。瀧は当時二十一歳でした。

 【原譜「花盛り」は】
 「花」の自筆楽譜は、大分市大字国分の「歴史資料館」で見る事ができます。原稿では題が「花盛り」となっています。楽譜には「R.Taki.」とサインがあります。歌詞の右下には、「武島又次郎氏作歌」と書いてあります。現在歌われている楽譜と、かなり違いがあります。初版楽譜出版に際し、瀧自身が推敲したか、本人以外の手が入った可能性が高いと言われています。

 【組曲『四季』】
 『四季』の他の三曲は夏の部・独唱曲「納涼」(東久米子作歌)、秋の部・無伴奏四重唱曲「月」(瀧廉太郎作歌)、冬の部・ピアノとオルガン伴奏の混声四部合唱曲「雪」(中村秋香作歌)です。作歌とは作詞のことでした。瀧は斬新な手法で、学校唱歌よりも芸術的に高水準の音楽を創作し、今までの外国に歌詞を付けるだけの唱歌教材から、日本の音楽を発展させようとしました。特にピアノ伴奏部分が美しく優れているのは、瀧がピアニストとして並々ならぬ能力だったことを物語っています。

 【組歌『四季』について東くめの言葉】
 「瀧さんは最初に「花」と「雪」の歌詞に作曲されたが、夏と秋に当る適当な歌詞が見あたらないので、夏の歌詞を私に依頼され、瀧さんは秋の詞を作られ、四季の組歌とされて作曲された」(小長久子著『瀧廉太郎全曲集 作品と解説』(音楽之友社)より抜粋)

 【歌詞について】
  「見ずや」見てごらん。
  「あけぼの」夜明け。
  「われさしまねく」私を呼んでいるような。
  「錦おりなす」美しい模様を織り出した絹織物のように、桜や柳が色を織り成して美しい。
  「長堤」長い土手。 「くるれば」日が暮れると。
  「げに」実に、本当に。
  「一刻も千金の」ひとときが千金に値するほどすばらしい。
 武島は、「げに一刻も千金の ながめを何にたとふべき」と歌っています。「げに一刻」は、「げに異国」や「げに一国」と勘違いされることがあります。
 さらに「見ずや」は「水や」、「くるれば」は「来るれば」と思っている人が多いようです。

瀧廉太郎『四季』(明治33年11月、共益商社楽器店刊)より

 【曲について】
 イ長調、四分の二拍子の二部合唱曲として作曲されています。四小節の簡単な伴奏に続いて歌になります。低音部も、歌いやすい美しいメロディーです。歌詞を細かく重視したため歌詞付けに応じて各節の旋律を少しずつ変えて変化をつけています。
 ただ、「すーみーだがわ」と「つーゆーあびて」の旋律は、言葉のアクセントにあっていません。「歌詞のアクセントからいくと、反対の方がのぞましかろうにと惜しい」と、金田一春彦は著『日本の唱歌』(講談社文庫)で書いています。しかし、桜の花をめでて、華やかに歌うには、この部分は、上昇旋律が欠かせないものです。
  「にしきおりーなーす」の「にしき」の後には十六分休符がありますが、「くるればのーぼーる」の「くるれ」の後には休符がありません。日本語の言葉の意味を考えての作曲です。
 中間部は、低音と高音のパートが交互に歌うように書かれています。各パートの持ち味を発揮する聞かせ所です。
 「げにいーつこくも」は、リズムが変えてあります。強弱記号も、それぞれの歌詞によって変えてあります。
 「千金の」は、原譜では「せーんきんのー」と「せ」を延ばすように歌詞が付けられていますが、現在は「千金」をひとまとまりの言葉として歌うように「せんきんのー」と歌詞が付けられています。
 歌の最後の四小節は、難しい旋律です。強弱や速度の変化を示す記号の指示も複雑です。「なーにーに」の「に」にフェルマータを使った所は、見事です。フェルマータは、外国の曲に多くみられます。瀧の勉強ぶりがうかがえます。
 伴奏の最後の四小節は、美しく穏やかな前奏の旋律をもう一度聞かせて、ゆっくりと静かに終わります。天才瀧廉太郎の優れた作品です。

 【その頃の瀧は】
  ・明治二十七年(1894年)四月三十日、直入郡高等小学校卒業。5月に上京。12月、高等師範学校附属音楽学校予科に本入学となる。十六歳。
  ・明治二十八年(1895年)九月、本科専修部へ進む。
  ・明治三十年(1897年)九月、専修部三年生。ピアノの演奏で活躍。作曲を次々発表する。 幸田延(のぶ)から和声学の指導を受ける。
 
 当時の瀧廉太郎については、安永武一郎監修 松本正著『瀧 廉太郎』(大分県教育委員会)によると次のようです。
  ・明治三十一年(1898年)七月九日、高等師範学校附属音楽学校本科専修部を首席で卒業。九月、研究科入学。
  ・明治三十二年(1899年)九月、研究科二年生。九月十三日、音楽学校のピアノ授業嘱託となり、一ヶ月金十円給与。写譜の授業も担当する。十月三十一日、嘱託報酬停止とともに授業補助を命ぜられ、一ヶ月金十円を給与される。
  ・明治三十三年(1900年)九月、研究科三年生。 研究科の学生として研鑚を積む一方で、成績優秀だったので後輩を教えていたようです。

 (註)<瀧廉太郎の音楽学校での職名についての調査>
 調査結果、「助教授」の資料はなかった。
  ・『東京藝術大学百年史』によると
  明治三十二年九月十三日 授業補助。
  明治三十二年十月三十一日 授業嘱託。
  明治三十三年六月十二日から明治三十四年三月三日 在外研究、在職期間は明治三十四年三月三十日まで。
  ・『東京音楽学校一覧』によると
  明治三十二年から三十三年 授業嘱託(洋琴)。
  明治三十三年から三十四年 授業嘱託(ピアノ)。
  明治三十四年から三十五年 独国留学。

  ・明治三十三年(1900年)六月十二日、ピアノと作曲研究のため三年間のドイツ留学を命じられた。しかし、留学出発延期願を提出している。延期願いを出した九月前後から翌三十四年の初頭にかけて瀧にとって最も繁忙な時期。ピアノ曲『メヌエット』、組曲『四季』、『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の作曲。この三曲は東京音楽学校編集の『中学唱歌』(共益商社楽器店発行)に採用されました。そして、『幼稚園唱歌』出版の計画が進行中でした。 瀧廉太郎の略歴については『荒城の月』を参照してください。

 【武島羽衣の略歴】
  ・明治五年十一月三日(天長節)、東京・日本橋の木綿問屋に生まれる(武島達夫『武島羽衣・とな子歌集』1968年出版による)。本名は又次郎。赤門派の詩人、美文家として知られる。
武島羽衣
△武島羽衣
 (註1)『児童文化人名事典』(日外アソシエーツ)1996年発行では「明治5年11月 2日(1872年)生まれ」となっている。
 (註2)藤田圭雄著『解題 戦後日本童謡年表』(東京書籍)発行でも「明治五年 十一月二日生まれ」となっている。
 △武島羽衣 ☆隅田公園の「花」の歌碑の説明看板には、「昭和四十二年二月三日、九十四歳で没した」と、亡くなった月日まで詳しく書いてあるのに、誕生日の方は「明治五年」としてあり、月日が書かれていません。なぜ書かなかったのか不思議です。

  ・明治二十九年七月、帝国大学文科大学国文学科を卒業。同大学大学院に進学。大学院で上田万年の指導を受ける。明治三十三年まで研究生として籍をおく。
  ・明治三十一年九月、東京音楽学校講師。大学院生のかたわら国文学・文学史・歌文などを教えていた。
  ・明治三十三年七月、東京音楽学校教授。
  ・明治三十三年九月、東京帝国大学大学院文科学生。
  ・明治三十三年、本名の又次郎で「花」の原型「花盛り」を作歌した。

 隅田公園の「花」の歌碑の説明看板によると次のようです。
 「明治三十三年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授・瀧廉太郎とともに、「花」を完成した。羽衣二十八歳、廉太郎二十一歳の時であった」。
  ☆この記載は、文献として多くの出版物に使われていますが、「教授」、「助教授」(滝は助教授という資料はない)でいいのか疑問です。また、出版は羽衣二十七歳の時です。

 羽衣の息子の武島達夫によると次のようです。
 「瀧廉太郎さんが作曲された<花>は三十前の作品のように思います。父は東京帝国大学をでて上野の音楽学校に奉職したのですが、その当時瀧さんは学生でしたから、接触はあったはずです」(鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)による)。

  ・明治三十四年九月〜明治三十八年五月、東京音楽学校教授と高等師範学校(明治三十五年東京高等師範学校と改称された)教授を兼務。
  ・明治三十八年五月、東京音楽学校教授。
  ・明治四十二年九月、休職。
  ・明治四十三年九月、日本女子大学校(現・日本女子大学)教授に就任し、昭和三十六年まで勤務。
  日本女子大学名誉教授。国学院大学、聖心女子大学、実践女子大学などの講師、教授を歴任。

  ・詩人としては、明治二十九年に鹽井(しおい)雨江・大町桂月との共著「美文韻文 花紅葉」(博文館)を刊行。ほかに国文学関係の著書が多数あります。
  ・瀧が文部省の派遣留学生としてドイツに出発した明治三十四年四月、武島も留学生に選ばれていましたが、胸の病気で断念。瀧は結核を発病して帰国、療養の甲斐なく亡くなりましたが、武島は回復して九十四歳の天寿を全うしました。昭和四十二年二月三日没。
  ・唱歌の詩に『花』『美しき天然』があり愛唱されています。
  瀧については『荒城の月』を、武島羽衣については 『美しき天然』も参照してください。

 【「花」の歌碑】
  『花』は、今でも広く親しまれ、愛唱されています。東京都台東区浅草の隅田公園に武島羽衣自筆の歌碑があります。武島が歌碑建立を望んでいることを知った教え子が、昭和三十一年十一月三日(除幕式)に、八十四歳の誕生日を記念して建てたものです。
 歌碑は「すみた河」のように詩中すべての獨点が省かれています。武島は、歌詞は旧仮名使いのままを希望していました。

 【今の隅田川は】
  東京の文化が刻々と変化しても、隅田川沿いの桜は、春になると美しく咲き、変わることなく私たちを喜ばせてくれます。この桜は、四代将軍徳川家綱が現在の茨城県・桜川村から桜を取り寄せて、木母寺付近に植えたのが始まりで、八大将軍吉宗がさらに植桜を行い、その後も手が加えられ、現在は両岸で約千百本にもなり、桜の名所になっています。






▲隅田川 

川幅いっぱいに水がある
▲東京・国技館前で若いお相撲さん
が写真撮影に応じてくれた。
モンゴル出身の横綱・朝青竜と、
山形県尾花沢市出身の琴ノ若
が活躍していた頃。










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        『わが愛の譜 滝廉太郎物語』の紹介    2009年10月10日

 澤井信一郎監督、木村大作撮影、郷原宏原作、宮崎晃・伊藤亮爾・澤井信一郎脚本、佐藤勝音楽の音楽映画。滝に思いを寄せていたというピアニストで第二回文部省のドイツ留学生の中野ユキ(鷲尾いさ子)が回想する形式になっています。

△帰国演奏会後、幸田延と兄・露伴

△ユキから楽譜「謝肉祭」を借りる

△日雇い人夫・鈴木とみさ子
1993年公開。日本テレビ・東映制作。

 中野ユキのモデルは、第1回留学生の幸田延の妹、幸田幸で、本当はヴァイオリニスト。実際の幸田幸は滝と恋愛関係にあったわけではないので、遺族からクレームがつき、虚構の人物に替えたそうです。

 全体としてウェルメイドな伝記映画ではあるものの、なぜ滝廉太郎の伝記映画なのかという疑問はぬぐえませんでした。滝廉太郎没後九十年記念企画。本格的音楽映画として、日本版『アマデウス』を作ろうとしたのでしょうが、怪物モーツァルトとサリエリに比べて、優しすぎる滝廉太郎は小規模です。

 音楽一途で「一生、生徒として勉強を続けたい」と言っていた滝が、国の威信を背負ってドイツに留学、肺を病んですぐに帰国せざるを得ず、ユキと約束したピアノ曲、「憾」(うらみ)を最後に作曲して亡くなります。女性に対して禁欲的だった滝の一途さを風間トオルがわざと生硬な演技で表現しています。ピアノ演奏場面は俳優さんたち一人一人にピアノ・アドバイザーがついて実際に特訓。音にあわせて手を動かせるように曲を覚えての熱演で、特に鷲尾いさ子の完璧な演奏の演技にはスタッフが驚嘆したそうです。

 多彩な出演者たち。滝の親友だった鈴木毅一(天宮良)、鈴木と結婚する女給みさ子(浅野ゆう子)、滝の母(藤村志保)、滝の父(加藤剛)、滝が櫛を贈る女中ふみ(藤谷美紀)、唱歌運動を推進する東くめ(渡辺典子)、絵描きの坂口(柳沢慎吾)、幸田露伴(柴田恭平)、幸田延(壇ふみ)、島崎赤太郎(ベンガル)・・・・宮崎淑子=美子も滝の叔母役・民子で出ていました。
 伝記的事実は、ほとんど知っているため、あまり新味はありませんでした。滝がシューマンに興味があると言っていたことになっていますが、これは澤井監督の創作。澤井自身がシューマンが好きだった(『映画の呼吸』p.347)。

 1993年に、小田原の映画館へ見に行ったときは、客が自分も入れて三人しかいなかった。さらに、映画の三分の二くらいのところに滝の送別演奏会の場面があり、ソプラノ歌手・佐藤しのぶが「荒城の月」を歌います。滝がピアノ伴奏をつとめているのですが、実際にはずっと後で山田耕筰が作曲したピアノ伴奏で弾いており、佐藤しのぶの歌も、山田耕筰が原曲を一部替えた楽譜で歌われている。歴史的にあり得ないことだと思った瞬間に興味を失ってしまいました。さらにその後に鈴木毅一が小学生に「箱根八里」を歌わせる場面でも、オルガン伴奏に山田耕筰作曲の伴奏を使っていて興ざめしてしまいました。どちらの曲も、滝の原曲には、ピアノ伴奏がついていなかった。もっともそんな些細なところに注意してしまう人は、いないでしょうが。
 澤井監督は、「どうして原曲でいかなかったかと後悔しています。(音楽担当の)佐藤勝さんから、どちらにするかと問われて、僕が山田バージョンでと答えての結果だと思いますが、どうしてそんな返事をしてしまったのか、僕自身、訳が分からず後悔しています」と証言しています(『映画の呼吸』p.346)。

 ドイツ時代の滝の場面はコンサートにしろ、「熱情」の演奏指導でユキの自信を取り戻す挿話にしろフィクションですから、「作った話」の感じが強い。
 ところで、壇ふみは好きになれないのですが、この映画では気位も高く強気で、ある意味、生意気な幸田延役だったので役柄に合っていました。実際の幸田延が、東京音楽学校で日本の音楽教育に果たした役割は大変に大きいものがあります。また作曲家としても最近そのバイオリン・ソナタが再評価されました。ブラームスを思わせる素晴らしい曲です。彼女がドイツに留学したときに、ドイツ作曲界を牽引していたのはブラームスでした。それにしては、この映画にブラームスの曲が一曲も出て来ないのは不思議です。滝がピアニストを目指していたということで、ピアノ曲が中心に取り上げられていました。

 出て来る曲は、バイエルやソナチネの他、リストの「コンソレーション第3番」「3つの演奏会用練習曲」、バッハ「主よ人の望みの喜びよ」、シューマン「謝肉祭」「間奏曲」「ピアノ協奏曲」、ベートーベン「運命」「熱情」、ショパン「ピアノ協奏曲第1番」、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲」。

【参考書】澤井信一郎・鈴木一誌『映画の呼吸』(2006年、ワイズ出版)


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