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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
中田喜直の童謡唱歌   (なかだ よしなお)
 かわいいかくれんぼ   ちいさい秋みつけた   夏の思い出
 めだかのがっこう    雪の降るまちを
 茶木滋の略歴   中田喜直の略歴
 日本音楽著作権協会 許諾番号 J100917445号
童謡・唱歌 事典 (編集中)



 
夏の思い出

作詞 江間章子
作曲 中田喜直

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2012/09/01)


箱根 湿生花園のミズバショウ 
2012年4月14日
尾瀬は積雪と低気温の影響で花期が6月


 【「ラジオ歌謡」がスタート】
 昭和二十年当時の日本は終戦をむかえたが、日本人全てが食うや食わずの生活で、時代は暗かった。そんな時、昭和二十一年(1946年)五月一日、「ラジオ歌謡」がスタートした。 国民に親しみやすい曲をラジオで紹介する企画。江間章子も、作家陣の一人に選ばれた。
 当初は週二回、日曜と水曜の朝七時四十五分から八時でしたが、最初の曲「風はそよ風」(“お早うさんとも言わないで・・・”)が子どもからお年寄りまで親しめるホーム・ソング調の歌であったこと、安西愛子が番組で繰り返し歌唱指導したことも効果を上げ、最初から人々に口ずさまれ、番組は軌道に乗った(CD『20世紀の軌跡 ラジオの時代3』清水英雄の解説による)。
 <朝日新聞縮刷版の調査>
 昭和二十一年五月一日(水曜日)のラジオ欄には、(七・四五)ラジオ歌謡・四家文子。(八・三〇)筝曲・「八段の調べ」と書いてある。
 昭和二十一年五月一日は水曜日で、朝七時四十五分から「ラジオ歌謡」が放送された。「風はそよ風」を歌った四家文子の折り目正しい歌い方は戦後のすさんだ人々の心に安らぎを与えた。レコードは安西愛子がコロムビアで吹き込んだ。
  (註)調査は2012年1月28日・厚木市中央図書館。昭和二十一年版は、朝日新聞のみ所蔵。


 【江間章子が作詞】 2000年5月23日(火曜日)の読売新聞には、次のような重要な事が書いてあります。
  “「夏の思い出」の「詩」を作ることになったのは昭和二十二年。敗戦から立ち直ろうという機運がみなぎっているころ、NHKの「ラジオ歌謡」の番組ディレクターから「夢と希望のある歌を」との依頼があったからです。


 【ヒントになった「水芭蕉」と「尾瀬」】
 江間章子は、引き受けたが、自分も夢も希望も失った国民の一人だった。題材に困っていると、子ども時代に岩手山麓で見た「水芭蕉」の白い花が浮かんだ。

 <水芭蕉との出会い(1)>
 父の死後、母親の実家のある岩手県の平舘(たいらだて)村(現・八幡平市)で幼児期を過ごした。雪がとけると水芭蕉が田圃の周りに咲いていた。岩手県では、水芭蕉のことを、花弁の姿が牛(ベコ)の舌に似ているので「ベコの舌」と呼んでいる。

 <水芭蕉との出会い(2)>
 昭和十九年(1944年)五~六月ごろ、疎開先の近所の人にさそわれて食糧を求めて尾瀬の入口(片品村戸倉地区)あたりまで行きました。林の中の湿地帯いちめんに白い花が、とにかく果てから果てまで咲いていて、その美しさに一緒に行った人々は驚きの声をあげました。江間は、小さい頃見た事があったので、それが水芭蕉だとわかった。
 “沼田から片品へ行って、片品の戸倉の入り口で水芭蕉がいっぱい咲いている風景を見た事があったんです。それはもう戦争が終わる一年二、三ヵ月前の出来事だと思います”江間章子の言葉 (鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。

 <水芭蕉> 水芭蕉は、サトイモ科ミズバショウ属の多年草。バショウに似ているので「水辺のバショウ」という意味で、ミズバショウ=水芭蕉と呼ばれる。 白い帆は、仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれるサトイモ科ならではのもの。中に小さな花が集まった黄色の肉穂花序(にくすいかじょ)。花の後、葉は驚くほど大きくなり、雪国では“迷惑雑草”の筆頭。

  “とにかく締め切りは迫るし、ノイローゼみたいになって何も書けなくていた時に、ふっと浮かびあがったの、水芭蕉を書いて見ようと。その時、故郷の水芭蕉を書いてもよかったの。でもその前に(その前の週に)高木東六さんの歌で≪美しい鳥≫に、懐かしい母、故郷よっていう言葉があるんです(故郷の歌を作っていた)。また、故郷を書くのではということで、思い切って尾瀬を書いてやろうかな、と。
   (註Ⅰ)カッコの文は、読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)による。
   (註Ⅱ)江間章子作詞・高木東六作曲≪美しい鳥≫は、昭和二十三年二月八日から一週間、NHK「ラジオ歌謡」の番組で放送された。
   (註Ⅲ)≪美しい鳥≫も昭和二十二年に作詞されたことになる。≪美しい鳥≫の次の週に、「夏の思い出」の「詩」を作ることになった(昭和二十二年)。

 ・・・NHKの人すら、あれは曲が先にできたんですかなんて、呑気に聞きますもん。私たちの時は、詩が先。詩を書かなきゃ曲にならなかったし。今はメロディーを先にして詩を乗っけることが多いみたいですね”江間章子の言葉(鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。

 【夢と希望の歌】
 江間章子の言葉 “NHKの「ラジオ歌謡」の番組ディレクターから「夢と希望のある歌を」との依頼があった。それで浮かんできたのが私が育った岩手山麓に咲き乱れていた水芭蕉でした。私の目、心から離れない花なのです。
 その水芭蕉を目にしたもう一つの場所が尾瀬、片品村。そこに行ったのは昭和十九年の事でした。そのころは、特別の人以外は尾瀬の中に入りませんでした。
 でも、尾瀬の入り口で見た水芭蕉の群生。その瞬間、岩手山麓の水芭蕉とのイメージがダブって夢心地でした。戦争末期の昭和十九年ですよ。こんな時でも、夢と希望があるんだと思いました。その感動、思い出を詩にしました。
 そうして書き上げたのが「夏の思い出」です”(2000年5月23日(火曜日)の読売新聞より)。

 【原稿を持参】
  東京の内幸町にあったNHKの制作部へ「夏の思い出」の原稿を持参したときには、まだ、「尾瀬」という地名は知られていなかった。聞いたことのない地名だったので、「尾瀬ってどこですか?」とディレクターの反応は冷たかった。ボツになりそうでした。

 【中田喜直が作曲】 昭和二十四年(1949年)にNHKの委嘱で作曲。新進作曲家として知られ始めた中田喜直が作曲しました。
 「作曲家は中田喜直にしよう」と決めた人が誰だったかは未だにわかっていません(喜早哲著『日本の美しい歌』(新潮社)による)。
 江間と中田は面識がなかった。
 作曲当時、中田は尾瀬に行った事がなかったが、詩を見てスラスラ作曲した。 中田が尾瀬に行ったのは平成二年(1990年)ごろになってからだという。

 <中田喜直の言葉が残っています>
  ・「昭和24年、NHKから「ラジオ歌謡」のための作曲を依頼された。当時、私は一度も尾瀬に行ったことはなかったが、いつものように、詩を読んでいるうちにわいてきたイメージをもとにその場で書き上げた。後に尾瀬を訪れる機会を得て、この詩のすばらしさを改めて感じた」(平成21年発行の『中学生の音楽1』(教育芸術社)による)。
  ・「作曲の時は、詞からくるイメージだけで作った。作詞の江間さんが女性だし、女性にぴったりくる叙情的で美しいメロディだけを考えていました。今の尾瀬は女性が多いんですってね。珍しく曲がピッタリ合ったものです」(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)による)。
  ・「江間さんとは面識もないし、尾瀬なんか行ったこともない。今ならNHKもまずは現地を見てと言うところだろうが、それもなかった。でもね、作家が殺人をせずに殺人事件が書けるのと同じ。詞ならともかく、曲は出来ます」(読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)による)。

 【日本語のアクセントに忠実に作曲】
 しかし、出来上がった曲を聞いていた中田の母親が「ちょっと、これは少々お粗末ではないですか。こんなものをNHKさんにお持ちすることはなりません。すぐ作り直しなさい。書き直しなさい」と言ったので、大幅に手を入れて今のような曲に作り直しました。母親の耳は確かだった。夫は中田章。東京音楽学校のオルガンと和声学の助教授で「早春賦」の作曲者だったから。 日本語のアクセントに沿わない旋律が各所にあった。詩を読み返し、「日本語のアクセントに忠実」な現在歌われている曲に仕上げました。
 この時の母親とのやりとりは、喜早哲著『日本の美しい歌』(新潮社)に詳しく書いてあります。これが、よほど面白い事なのか、どの解説書にも引用してあります。書き直されるたびに、少しずつ違っているのは困ったものです。
 ちなみに最初の楽譜は「その場で破いてしまいましたよ!」と中田さんは喜早哲(きそうてつ)さんに言ったそうです。喜早哲さんは、2011年に解散したダークダックスのバリトン。愛称はゲタさん。
 (註)読売新聞1979年5月31日夕刊9ページで、(自伝抄 私の歌 中田喜直<1>「夏の思い出」のころ)という中田本人が書いた文章を見ることができます。


  <楽譜を詳しく見ましょう>
  ・斉唱・独唱用は変ホ長調。この楽譜は『中田喜直ポピュラー歌曲集』(音楽之友社)で見る事ができます。二部合唱はホ長調。三部合唱はへ長調に編曲してある。
  ・美しいメロディーです。言葉を丁寧に歌いましょう。一小節の前奏の後、半拍(八分休符)休んでから歌い始めます。


  ・「なつがくれば おもいだす はるかなおぜ とおいそら」と、「きりのなかに うかびくる やさしいかげ ののこみち」は、同じ旋律ですが、伴奏が違います。二度目の伴奏は、より華やかで、次の高音の旋律「みずばしょうのはなが」につながるようになっています。
  ・「みずばしょうのはなが」で音の跳躍をこころみている。
  ・二回出て来る「さいている」と、次の「ほとり」は、歌詞をよくあじわい、歌い方に工夫が必要です。 一回目の「さいている」の前には八分休符があり、pp(ピアニッシモ)ごく弱く歌うようになっている。 二回目の「さいている」には三連符が使われている。「ほとり」にはtenuto(テヌート)がついている。各音符の長さを十分にのばして演奏する。どちらかというと音符の長さよりも少し長いような気持ちでそしてひとつずつきるように演奏するとよい。“音を支えて”ということ。
  ・「しゃくなげいろに たそがれる」で、また歌い出しのメロディー「なつがくれば おもいだす」にもどっている。同じメロディー。  (右の写真はアズマシャクナゲ)
  ・最後の「はるかなおぜ」は、だんだん大きくし、「ぜ」の音符にはフェルマータ(延長記号)がついていますが、そのフェルマータの上には(少し)と書いてあるので、ここは声を大きく張り上げて長く伸ばすわけではない。
  ・「とおいそら」は、遠くに響かせて静かに歌いおさめます。
  ・「たそがれる はるかなおぜ とおいそら」の「そら」は、最初の「おもいだす はるかなおぜ とおいそら」の「そら」と同じ音です。「F  Es」なのは、日本語のアクセント「空」に忠実に作曲したからです。「F  G」では「空」にならない。同じメロディーを踏んで非凡な作曲を試みたわけではない。当然の結果です。
  ・二番の「みずばしょうのはなが におっている ゆめみてにおっている」の「におっている」は、「よい匂いがする」ではなく、「美しく咲きほこっていて夢のよう」という意味です。
  ・どの解説書にも“音が急に上がったり下がったりということがあまりなく、順に隣の音に移って行く旋律で、これがこの曲の歌いやすい親しみやすい理由”と書いてありますが、私・池田小百合は、本当に譜面通り歌うのは至難の業で、この曲は、とても難しい大人の歌だと思っている。簡単には歌いこなせない。沢山練習しないと歌えない。だから、みんなが挑戦するのです。
 私は、この歌を教育実習で指導した事があります。うまく歌わせることができませんでした。練習を積み重ねないと歌えない事を痛感した歌です。今でも、この歌を指導する時は、難しくて悩みます。清々しく、さわやかに歌いたいものです。

 【だれに歌わせるか】
 中田喜直の指名で石井好子が歌う事になりました。その頃の石井好子は、進駐軍相手のクラブでジャズを歌っていました。この先、何を歌えばいいか悩んでいました。
 中田は東京音楽学校のピアノ科に入学してすぐ、憧れた一級上の石井好子の歌の伴奏をしていましたから、石井を思い出したのです。
 歌はヒットし、「ラジオ歌謡」が残した大傑作の一つとなりました。石井は、後にアメリカからフランスに渡り、シャンソン歌手として大成した。結局、「夏の思い出」は歌手としての石井にはあまり影響していないが、「あの曲をもらった時、ようやく自分の人生に薄日がさした気がして、前向きになれたんです」と石井は振り返っている(読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)による)。

 【「ラジオ歌謡」放送時間の変更】
 昭和二十四年の一月から「ラジオ歌謡」は月曜~金曜の毎日夕方6時15分からの放送になりました。それまでの朝の時間は「朝の歌」と変わったものの「ラジオ歌謡」の曲目が多く採り上げられました(CD『20世紀の軌跡 ラジオの時代3』清水英雄の解説による)。
 ・昭和二十四年には、午後6時台の10分間の放送となり、朝の時間帯は「朝の歌」と変わった(CD『NHKラジオ歌謡大全集』三木容の解説による)
  <朝日新聞縮刷版の調査>
 昭和二十四年一月四日(火曜日)、朝7時30分「朝の歌」と書いてある。夜5時15分は「七つのカギ」、7時15分は「歌の明星」二葉あき子と書いてあるだけで、「ラジオ歌謡」という番組名はない。

 <「ラジオ歌謡研究創刊号」によると>
 「ラジオ歌謡」の放送日、時間は何度も変更されている。「ラジオ歌謡研究創刊号」日本ラジオ歌謡研究会(2007年6月)によると
  ・昭和21年から昭和23年は朝15分間、週2日ないし3日、同じ曲が週2回、2週間替わり、日替わり4曲などさまざま。
  ・昭和24年に初めて夕刻6:15-6:25、月から金、同じ曲。
  ・昭和25年は7:20-7:30、月から金、ニュースのあとのゴールデンタイムに移る。
  ・昭和26年は7:20-7:30、月から土(5月以降7:25-7:30、11月以降6:45-6:55と時間変更)。
  ・昭和27年は6:45-6:55。 ・昭和28年は5:30-5:45、月から金(5月以降5:45-6:00)。
  (註)以上は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2014年3月29日)

  【「ラジオ歌謡」でヒット】
  “昭和二十四年(1949年)六月十三日から石井好子の歌で放送されたこのうたは、「ラジオ歌謡」が残した大傑作の一つです”(CD『20世紀の軌跡 ラジオの時代3』清水英雄の解説による)。
 江間章子によると次のようです。“<夏の思い出>がラジオ歌謡の時間にたった一週間、午後六時のニュウスの前に放送され”、“新らしく発表されるラジオ歌謡は、月曜日から土曜日まで、毎夕ニュウスの前のラジオ歌謡の時間に放送されるので、一カ月のうち四篇の歌となる。十二月下旬には、その年の評判のいい歌が、十曲ぐらい再放送されることになっていたが、<夏の思い出>も昭和二十四年の暮れ、その中に加わって、くり返して電波を流れた” (江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館)による)。
 清水英雄の解説、(「ラジオ歌謡」は月~金の毎日夕方六時十五分からの放送)と、江間章子が書いた(ラジオ歌謡は、月曜日から土曜日まで、毎夕(午後六時のニュウスの前)のラジオ歌謡の時間に放送され)と食い違いがある。どちらかが間違い。

  <朝日新聞縮刷版の調査>
 昭和二十四年六月十三日(月曜日)のラジオ欄には、「ラジオ歌謡」や<夏の思い出>の文字はない。朝七時四十五分は「朝の訪問」、夜五時十五分は「子供のシンブン」、七時二十分は「歌の明星」田端義夫と書いてある。

 <江間章子の記憶違い>
  「どちらかが間違い」は、江間章子の記憶違い。「ラジオ歌謡」は、月から金のpm6:15-25の放送です。昭和二十四年六月十三日の読売新聞番組表では――5:45音楽、6:00英語会話◇ラジオ歌謡、6:25明日への食糧◇神奈川県の時間、6:45 向う三軒両隣り――なので、6:00-6:15英語会話、6:15-6:25ラジオ歌謡でしょう。
  昭和二十四年十二月二十三日の番組表では5:45音楽、6:15ラジオ歌謡、6:25明日への食糧となっている。
  昭和二十四年十二月二十七日の朝日新聞番組表では、6:15-6:30「今年のラジオ歌謡」と書いてある。江間の言葉の「年末に再放送」があったことが推測できます。通常の「ラジオ歌謡」は十二月二十三日(金)が最終、十二月二十六日(月)から年末再放送。
  (註)以上は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2014年3月29日)

  【レコードでもヒット】
  レコードは藤山一郎が吹き込みヒットしました。
  歌:藤山一郎、コロムビア女声合唱団
  (A1952b/1954年2月10日録音/1954年5月15日発売)この情報は『20世紀の軌跡 ラジオの時代3』による。

 【「NHKみんなのうた」で放送】
 昭和三十七年(1962年)八~九月の歌として高木淑子とヴォーチェ・アンジェリカの歌で放送されました。

  【教科書での扱い】
  ・昭和49年発行の中学校の二年生の音楽の教科書に二長調の楽譜が掲載されています。音楽之友社は斉唱。音楽教育図書は「みずばしょうの~ほとり」までが部分2部合唱になっている。教育芸術社は2部合唱を掲載している。
  ・平成21年発行の『中学生の音楽1』(教育芸術社)は二長調、「みずばしょうの~とおいそら」まで部分2部合唱の楽譜を掲載。

  【「尾瀬」と「水芭蕉」を一躍有名にした歌】
 この歌のヒットで「尾瀬」と「水芭蕉」が有名になりました。
 尾瀬ヶ原は、群馬・福島・新潟の三県にまたがる本州最大の高層湿原で、標高約千四百メートルに位置し、四季おりおりに数百種におよぶ高山植物がみられる。
 たとえば・・・五月に咲く「リュウキンカ」、六月ごろ咲く「アズマシャクナゲ」、五 六月に咲く「ミズバショウ(水芭蕉)」、七 八月に咲く「ニッコウキスゲ」、七月中旬に咲く「オゼコウホネ」、七~八月にかけて咲く「ヒツジグサ」、八月に咲き秋の到来を告げる「ヤナギラン」、秋の最後を飾る「エゾリンドウ」・・・など。水芭蕉だけが尾瀬の花ではない。
 尾瀬は、この歌に歌われるまでは、わずかに植物学者や地質学者などがおとずれる静かな湿原だったが、今ではシーズンになると木道にハイカーの行列が続くようになり、自然保護対策が話題になる。現在、尾瀬の環境破壊は深刻な状況です。
     ▼水芭蕉の咲く尾瀬の風景

 【ヒットの条件】
 「曲のできがよかったからこそ、ヒットした」という意見がある。よい曲が生まれるためには、よい歌詞がなければいけない。歌詞を読めば、その美しさに感動します。「歌詞がすばらしかった」から「よい曲ができた」のです。
 聴く人が、尾瀬や水芭蕉を知らなくても何も問題ではなかった。「夏の思い出」は、殺伐とした時代にそぐわない明るい夢と希望を与える、見事な歌詞と曲だった。
 そして、クラシックの素養があり楽譜が読めて発声も確かな石井好子が歌うと、大ヒットとなった。ヒットの条件が三拍子(よい歌詞・よい曲・よい歌手)そろっていた。それを時代と社会が受け入れた。
  江間章子の言葉がある。“すべて運がよかったと思うんです”。“究極的に言えば、運がよかった歌だとおもいますね”。“最初にラジオで聴いた時、これはいけるなんて、夢にも思いませんでした。いわゆる悪い歌とは思いませんでしたよ。でもどれくらいいいのかも正直言ってわからない。ですから、まして生涯皆様に広く歌っていただける運命の歌だとは夢にも考えませんでした”(鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。

  【クレームもあった】 曲がヒットすると、クレームもついた。
 「なぜ、<夏の思い出>というタイトルなのか?」
 「夏休みに尾瀬に行ったら、水芭蕉の花は咲いていなかった」
 「水芭蕉の花は匂わないのではないか」など。

 水芭蕉が最もみごとな花を咲かせるのは五~六月ごろです。水芭蕉は雪解けの季節に続いて花を咲かせます。六月中には花の時期が終わってしまいます。夏休みの頃には咲いていません。ではなぜ、「夏の思い出」としたのでしょうか?
 江間章子の言葉がある。“花そのものから、鼻で嗅ぐ匂いでなくとも、その情景から漂うものを、<匂っている>と表現していいのが、詩の自由なのだ。そして、水芭蕉が最も見事な、五、六月を、私は<夏>とよぶ。歳時記の影響だと思う。そして、この前の戦争末期、五人ほどの人たちと尾瀬に入って、いちめんに咲いていた水芭蕉を眺めたのは、その季節だった。”(江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館)による)。
 『歳時記』では、俳句の季語と実際の季節とを比べると、季語の方が前倒しになっている。『二十四節気(せっき)』では、立夏(りっか)の頃は新暦の五月初句の頃にあたる。『歳時記』や『二十四節気』からすれば、「水芭蕉にまつわる思い出」=「夏の思い出」としても問題はない。旧暦では、一・二・三月が春、四・五・六月が夏、七・八・九月が秋、十・十一・十二月が冬にあたった。

▲江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館) 装画 西丸震哉  
私、池田小百合が買った本の元の持ち主は、江間章子と親しい関係にあった人のようです。
しゃれたコメントが添えてあった。


 【さあ、歌おう】
 「この曲は、美しい自然に話しかけるような気持ちで歌い、詩や旋律の流れを楽しむようにしてほしい。また、同じ旋律の所も、伴奏の響きの違いを味わってほしい」(中田喜直の言葉・平成21年発行の『中学生の音楽1』(教育芸術社)より)。

 【江間章子の略歴】  詩人
  ・大正二年(1913年)三月十三日、新潟県高田市(現・上越市)に生まれる。旧姓名は長谷川幸。二歳の時、軍人だった父が亡くなる。兄と母と一緒に岩手にある母親の実家に引き揚げた。尋常小学校卒業まで、岩手山麓の村、岩手県岩手郡平舘村(現・八幡平市)で過ごした。ここで水芭蕉の花を見た。
  ・幼少より文学的興味が強く、城内尋常高等小学校(現・静岡市立葵小学校)在学中に同人誌「お窓のともしび」を刊行し、江間章子のペンネームで寄稿。
  ・県立静岡高等女学校(現・県立静岡城北高校)を昭和4年に卒業後上京し、駿河台女学院専門部(のちの東京YMCA学院。現在は閉校)卒業。駿河台女学院では2年ほど英語を学んだ。卒業後に日本太平洋問題調査会に数年間勤務。
  ・「椎の木」「詩と詩論」「詩法」「新領土」などに作品を発表。詩人への道を歩む。
  ・昭和十一年(1936年)には第一詩集『春への招待』を刊行した。これは、モダニズムの系流における新しい叙情として、室生犀星らに称賛された。
  ・少女小説や童話、詩集、詩論集、訳書、エッセイ集『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館)などの著書も多数ある。
  ・一般的には「夏の思い出」「花の街」(團伊玖磨 作曲)「花のまわりで」(大津三郎 作曲・岡本敏明 補曲)などの作詞家として知られている。
  ・東京都世田谷区等々力に在住であったが、平成十七年(2005年)三月十二日、亡くなった。九十一歳。
 「肉体は老いても精神は老いません」(江間章子の言葉)。
 


▲中田喜直さんと江間章子さん
▲87歳の江間章子さん。読売新聞(撮影・田中秀敏)

  【歌碑】
  ・昭和五十九年(1984年)、福島県側から尾瀬へ行く途中の福島県南会津郡檜枝岐(ひのえまた)村の中土合(なかどあい)公園に江間章子自筆の詩を刻んだ歌碑が建てられました。その後、平成十二年にミニ尾瀬公園へ移設された。平成十三年(2001年)には、碑のすぐ横に作曲者の中田喜直を顕彰する曲碑も建てられ、センサーでメロディーが流れる仕組みも作られました。
  ・群馬県側の玄関口である群馬県利根郡片品(かたしな)村
鎌田地区の温泉旅館「梅田屋旅館」前には「江間章子文学
碑」があります。平成六年(1994年)、旅館の四代目館主が
道路沿いに私財を投じて建てました。

▲檜枝岐村のミニ尾瀬公園に建つ詩碑と曲碑
▲片品村の梅田屋旅館が建立した「江間章子文学碑」と江間章子


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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めだかのがっこう

作詞 茶木 滋
作曲 中田喜直

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)


  【メダカのいた風景】 幼い頃は、近所の小川にメダカがたくさんいて、友だちと一緒に、手ぬぐいを使ってメダカすくいをしたものです。懐かしい遊びだなあと思われる方も多いことでしょう。小川だった農業用水路は、今ではコンクリートの堤防で固められ、最近ではメダカを見かけなくなりました。田圃も家が建ち姿を消しつつあります。メダカはどこへ行ったのでしょう。

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画


 全国で愛唱されている『めだかのがっこう』は、ずっと昔の歌と思っている人があるようですが、戦後の新しい童謡です。この歌について事実を詳しく調べてみる事にしました。

 【佐藤義美が書いた「どうようものがたり」だった】 昭和二十一年春のことである。三歳になる義夫君が父親と連れだって、神奈川県小田原市の郊外を歩いていた。その時の情景が「どうようものがたり」(佐藤義美著・実業之日本社)に、こう語られている。

 しばらくいくと、むぎばたけの なかの 一ぽんみちです。
  「おや。めだかが たくさんいる。おとうさん。はやく」
 おとうさんが、よしおくんのそばにきました。
 よしおくんが かわを ゆびさしたら、めだかは、一ぴきもいませんでした。
 「よしおが、おおきい こえを だしたから、みんな にげたんだよ」
  「またくるよ。まってようよ。ここ、めだかの がっこうだもの」
 おとうさんは、そのとき「めだかのがっこう」という うたをかんがえました。

 【「物語」は、できすぎ】  このおとうさんは、茶木滋です。この「物語」について七十一歳の茶木滋が重要な言葉を残しています。
 「当時の小田原の田園風景はまことにきれいなものでした。三歳のこども(義夫君)がメダカの学校だと言った、と物語にあるのは、ちょっとできすぎですが、それに似た風景が、私の原体験としてあったのは事実です」。(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)より抜粋)
 著者・私、池田小百合も、三歳の子供が「またくるよ。まってようよ。ここ、めだかの がっこうだもの」とは言わないだろうと思っていました。これは、佐藤義美の創作です。とてもうまく書けています。
  ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)では、「六歳の長男義夫君が」となっています。これは、いろいろな出版物に使われてしまいました。これを使った他の著者も、三歳ではなく、きっと六歳ぐらいなら、“「ここは、めだかのがっこうだもん、待ってればまたくるよ」と、つぶやくだろう”と思い、六歳にしたのでしょうか。

  【「神奈川県小田原市の郊外」の場所はどこか】 前記、毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)の記述に「神奈川県小田原市の郊外」とあるので、作詞者・茶木滋に直接手紙を出し、場所を次のように教えていただきました。
  ▼茶木滋からの書簡

 「作者(私)が作詞にあたってヒントを得た場所はどこ?とのことですが、このような質問に対しての答えはカンタンなようで実になかなかムズカシイことなのです。
 ということは―ひとつの詩を作るにしても作者のいろいろな想いが、あれこれ、コトバをえらび、ねりあわされてから、生れることが多いからです。
 私の「めだかの学校」について言えば、まず昭和25年10月頃、NHKから(放送のための)作詞の依頼があり、「よし!」と私はハリキリ、「なにを書こうか」と考えました。
 そしてずっと前、昭和21年頃のある日、子どもづれで、小田原市郊外(オギクボという村)へオイモを買出しに行った時のことを思い出し、その田園風景をモチーフにしてと決め、作詞にとりかかりました。
 もうずいぶん昔のこととて、はっきりしない点もあり、充分なお答えになりませんが、以上ご返信といたします」。(1992年2月3日)

 茶木一家は、昭和十九年に神奈川県小田原市万年町(現在の浜町)に疎開し、その後、箱根町宮城野に移りました。移って約一週間後に万年町の家は、空襲で焼失しました。終戦の日の未明のことでした。茶木は薬剤師で、小田原に疎開した製薬工場の監督に当たっていました。

  【書簡からわかったこと】
  ・「それに似た風景が、私の原体験としてあった」とは、「昭和21年頃のある日、子どもづれで、小田原市郊外(オギクボという村)へオイモを買出しに行った時のことを思い出し、その田園風景をモチーフにして」ということでした。つまり、昭和21年頃の小田原市荻窪あたりということになります。
 著者・私、池田小百合は、『めだかの学校』の場所を茶木滋に質問した事を、少し恥じています。『雪の降るまちを』の菅原喜兵衛さんと同じ事(「自分の所、山形県鶴岡が作曲の舞台だろう」と中田喜直に聞いた)をしてしまったのではないかと思うのです。
  ・オイモの買出しについては、『歌をたずねて』に茶木滋の言葉が残っています。
  「あのころは厳しい食糧難の時代でしたね。小田原の家には農家のおじさんが、定期的にオワイくみにきていました。私の家では、その人の事を『おいものおじさん』と呼んで、しばしばサツマイモを譲りうけたものです」。
  ・次に「昭和25年10月頃、NHKから(放送のための)作詞の依頼があり、「よし!」と私はハリキリ、「なにを書こうか」と考えました。」とあるだけで、具体的に「春らしいのんびりした明るい歌」の作詞依頼とは言っていない事がわかりました。
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、「二十五年の十月、NHKの三浦葉子プロデュサーから「春らしいのんびりした明るい歌」の作詞依頼があった時、前述のことを思いだして、ねじりはじまきして一晩でこの詩を書き上げました」と書いてあります。これは、いろいろな出版物で使われています。
 ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)には、「静岡県小田原市近郊の農村へ薩摩芋を買い求めに出かけたが、連れていた六歳の息子がふとした野川に目高の群れを発見」と書いてあります。
 「静岡県小田原市」は間違いで、「神奈川県小田原市」が正しい。
 「六歳の息子」は、間違いで、「三歳の息子」が正しい。
 これは『事典』なので、このような単純な間違いは困ったものです。(項目執筆者は上笙一郎)

 この茶木滋の書簡は、小田原市に寄付し、歌碑の写真と共に市役所に展示して、観光客や市民の皆さんに見ていただこうとしましたが、「個人の所有物なので展示はできない」と断られました。
 その後、さがみ信用金庫小田原出張所で展示していただき、皆さんに御覧いただきました(1996年10月)。
 今では、私の宝物です。

  【「つーいつい」と泳ぐ】 詩は、「すらすらと筆が進んだ」わけでも、「ねじりはじまきして一晩で書き上げた」わけもありませんでした。
 茶木滋によると、「私が苦労したのは三番です。“みずにながれて つーいつい”という歌詞が浮かぶまでにアレヤコレヤと考えました。メダカは『スイスイ』という感じじゃないんですね」。
 ●「つーいつい」は、「すーいすい」と歌われる事がありますが、作者が考えぬいた大切な言葉ですから、はっきりした発音で歌いたいものです。

 【「のぞいてみてごらん」に改訂】 茶木滋によると、最初は「そっとのぞきにいってみな」でした。

    めだかの学校は
    川のなか    
    そっとのぞきにいってみな    
    みんなで おゆうぎ
    しているよ

 NHKの担当プロデューサーの三浦葉子から、“三行目の「そっとのぞきにいってみな」に一考されたし」と指摘され、たしかにこれでは品が悪く、粗雑だと思い、推敲のすえ「そっとのぞいてみてごらん」と改めました。これなら臨場感も生まれ、まとまったと思いました。(季刊『どうよう』第2号(チャイルド本社)"仲間こそ、詩の先生"より抜粋)

 【タイトルは『めだかの学校』だった】 初出の詩『めだかの学校』は「そっと のぞいて みてごらん」「だれが生徒か 先生か」「水にながれて つーいつ い」が一行だけでした。
 ▼日本童謡協会編『日本の童謡200選』(音楽之友社)昭和61年発行で初出の詩を 見る事ができます。タイトルは『めだかの学校』、「学校」は漢字です。
 初出の詩は、国土社編集部編『とんぼのめがね』戦後名作選Ⅰ(国土社)昭和五 十一年四月五日発行でも見る事ができます。

  【中田喜直が作曲】
 この詩に、作曲家の中田喜直が曲をつけました。中田は、すでに『かわいいかくれんぼ』(サトウハチロー作詞)を発表し、新人作曲家として注目されていました。

 【歌の発表について】
 放送については、昭和二十六年(1951年)四月九日(月曜日)、十日(火曜日)の毎日新聞縮刷版で確認できます。
  ・昭和二十六年(1951年)四月九日(月)、NHKラジオ第一放送10時から10時10分「めだかの学校(1) 稲葉政江」と書いてあります。
  ・昭和二十六年四月十日(火)、NHKラジオ第一放送10時から10時10分「めだかの学校(2) 稲葉政江」と書いてあります。
 こうして全国に広まりました。今では子供から大人までこの歌を知らない人はいません。


 <歌手 稲葉政江について>(写真参照)
 稲葉政江は1949年の日本音楽コンクール声楽部門で伊藤京子に続いて2位に入賞したメゾソプラノ歌手。1950年5-6月の『アイーダ』公演ではアムネリス、1952年日本初演『フィガロの結婚』公演ではマルチェリーナを歌っている記録があります(増井敬二『日本オペラ史~1952』水曜社、2003年より)。
 新聞の記録によれば、ラジオで最初に「めだかの学校」を歌ったのは、この稲葉政江ということになります。

 ●『別冊太陽子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)掲載“『めだかの学校』について”で、中田喜直は「この曲の発表はNHKの放送で、昭和二十六年の三月である。ということになっているが、四十年以上前のことだから、多分という言葉をつけた方がいいかもしれない」と書いている。「三月」は間違いで、「昭和二十六年四月九日放送」が正しい。
 ○季刊『どうよう』第2号(チャイルド本社)掲載“「めだかの学校」によせて”で中田は、「私の記憶によれば、昭和二十六年四月に、NHKで放送されたことになっているから、実際に作曲したのは、その一か月か二か月前のことだと思われる」と書いている。この記憶は正しい。
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信)には、次のように書いてあります。
  「昭和二十六年三月、『幼児の時間・歌のおけいこ』で発表されました。つづいて「うたのおばさん」に歌いつがれ、二十六年四月から松田トシや安西愛子によって反覆(はんぷく)されて歌われました」
 この間違った記述は、文献として沢山の出版物に使われてしまいました。
 前記、中田が「この曲の発表はNHKの放送で、昭和二十六年の三月である。ということになっているが・・・」と言っているのは、この事です。
 季刊『どうよう』第2号で中田は、「歌のおばさんの時間に、松田トシ、安西愛子のおふたりによって歌われ」と書いています。この「うたのおばさん」について調べてみる事にしました。

 【「うたのおばさん」参照】

 【「うたのおじさん」参照】


 【文部大臣賞を受賞】 『かわいいかくれんぼ』と『めだかの学校』を吹き込んだレコード(歌・安西愛子と杉の子こども会)を製作したコロムビア株式会社は、昭和二十七年度、第三回芸能選奨(現・芸術選奨)の音楽部門で文部大臣賞を受賞しました(2003年7月8日、東京都杉並区梅里・安西音楽研究所 安西愛子による)。
 (註)昭和二十七年度の決定発表は昭和二十八年二月二十七日、授与式は昭和二十八年三月三十日に行われた(このことは「池田小百合なっとく童謡唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2014年3月29日)。
 ●『別冊太陽』で、中田喜直は、「『めだかの学校』と『かわいいかくれんぼ』の二曲は、三年後ぐらいにコロムビアから松田トシ(敏江)、安西愛子のお二人で録音・発売された」と書いているが、これは記憶違い。
 ●季刊『どうよう』第2号では、「二年後ぐらいに」と書いているが、これも中田喜直の記憶違い。
 ●中田喜直著『随筆集 音楽と人生』では、「この二曲が翌年、松田トシ(敏江)、安西愛子の両氏でレコーDィングされた」と書いてある。これも、記憶違いで、歌ったのは「安西愛子と杉の子こども会」。
 ●出版物の中には「昭和29年、文部大臣賞を受賞」と書いてあるものがありますが間違い。

 【モニター批評は】 『別冊太陽』で、中田喜直は、“当時のモニター批評には、「このような新しい童謡は、なじみがないし、つまらない。童謡はやはり『七つの子』や『カナリヤ』のように、昔からあるものがいい」、というようなことが書かれていたのを記憶している。しかし、今では、この二曲とも昔からある童謡のように思われ、よく歌われているから、なじみのない新しい童謡は駄目、ということはなくなった。”と書いている。
 しかし、中田喜直著『随筆集 音楽と人生』では、“レコードのモニター評で、こういう新しい童謡はなじみがなく駄目で、昔からある「七つの子」とか「月の砂漠」のようなものが本当の童謡である、と書かれていた。今考えるとおかしいが、童謡はすぐはやるものではなく、ある程度の長い時間が必要である。とにかくこの二曲は今では昔からある、古い古い曲のように思われている。”と書いている。
 ●『カナリヤ』か「月の砂漠」か、どちらかが記憶違い。
 ●「月の砂漠」は、「沙漠」が正しい漢字。中田喜直は、晩年に日本童謡協会会長を務めている。この間違いは、編集・印刷時の誤植かもしれない。と思いたい。
 さらに季刊『どうよう』第2号では、記憶が遠くなっていて、“サトウハチロー作詩の「かわいいかくれんぼ」と二曲でコロムビアからレコードが出た。当時何か賞をもらったらしいのだが、レコードのモニター評には、「こういう新しい童謡はなじみがないし、昔の童謡のようにみんなに歌われる曲にはならないだろう。」と書かれていた。”と書いてあります。
 “当時何か賞をもらったらしいのだが”とは、いかにも中田喜直らしい。
 一見神経が細かそうでいて、のんびりしている。曲だけでなく、中田喜直自身にもファンは多かった。
 「お別れの会」に、足柄・小田原地区の童謡・合唱愛好家が大勢足を運んだ事からも想像できます。
 小田原では、中田喜直を迎えてしばしば合唱コンサートや講演会が開催されました。著者・私、池田小百合も、「小さい手のための小さい鍵盤ピアノの進め」の講演を聞きに行ったことがあります。しかし、バイオリンと違い、ピアノは買い換えるという事がないので、この提案は良かったのですが、すぐ立ち消えとなりました。

  【作曲について中田喜直は】
 <「めだか」の作曲> 「めだかの学校」にかぎらず、私は詩を見てメロディを作るので、日本語のアクセントに合わせるのは当然の事としている。日本語はアクセントと言っても、強弱でなく抑揚(よくよう)という音の上下になる。「めだか」は下から上がるメロディが必要で、上から下がったらおかしい。(季刊『どうよう』第2号より抜粋)

 <「がっこう」の作曲> 「がっこう」のところは、言葉に性格に合わせれば、四分音符三つ(がっ こう は)のようになるが、これではメロディがつまらない。アクセントは少し合わないが、今歌われている方が、リズムがあって生きてくる。(季刊『どうよう』第2号より抜粋)

 <「そっとのぞいてみてごらん」の作曲> 「そっとのぞいてみてごらん」は最初一行しかなかったが、曲では二回繰り返して歌われている。作曲したのは四十年以上前のことで、今では夢の中のような気がするが、私が作曲していた時、当時親しくしていた女性が「そこのところをもう一度繰り返した方がいいわよ」と、たまたま近くにいてどなったのをきいて、そうしたようだ。そのほうがよかったと思う。一回だけだと、八小節で、あまりにも小さくまとまり過ぎてしまうのである。(『別冊太陽』より抜粋)

 「そっとのぞいてみてごらん」のところだが、一番の歌詞とメロディには問題がないが、二番の「だーれがせいとかせんせいか」になると、アクセントが反対になる。しかしそれほどの違和感もなく、今日本中で歌われているのでかまわないということにしよう。三番の「つーいつい」のところは、一番の「みてごらん」とは全く合わないので、やむなく小音符に違うメロディを書いて、不自然な歌い方を強いないように配慮した。(季刊『どうよう』第2号より抜粋)

 【「問題にすべきこと」ではない】 上記のアクセントの作曲については、中田喜直が言っているように一番には問題はない。二番になってアクセントが逆になっていますが、そのような例はいくらでもあります。例えば『まっかな秋』の二番の歌詞「とんぼ」はアクセントが逆です。しかし、違和感なく歌われています。子供たちが大好きな歌です。日本語の歌の場合、一番のメロディーに二番の詞を乗せると、二番ではアクセントが逆になることがあるのは仕方がないのです。「問題にすべきこと」ではありません。
 三番の「つーいつい」の工夫には、大きな拍手を送りたい。
 さらに伴奏については、次のように書いています。

 “メロディがうまく出来ただけでは曲は完成しない。ピアノの伴奏部分が大切なのである。あまりむずかしくなってはいけないが、子どもの歌だからと言って、簡略に過ぎてしまうのもよくない。 「めだかの学校」の場合、「そっとのぞいてみてごらん」が繰り返されているが、これは作曲上、一回だけだと小さくまとまりすぎてしまうので、二回にすることで全体的に音楽として余裕のある落ち着いたメロディになった。同じメロディを繰り返す時、全く同じ事を二回するのはつまらないから、強弱、楽器、和音などを変えるようにする。この曲では強弱と和音が変えてある。気がつかないで同じ和音で演奏したり、編曲することがあるが、それはよくない。演奏する時この部分は、うっかりしないよう特に注意してほしい。”

  【伴奏の形について】
  ・左手をドミソで、1、2、3、4、と割っていくようなリズムにすると、めだかの行進曲となり、川で泳ぐめだかをえがいたこの曲には合わない。
  ・前奏でまず川の流れを象徴的に表現する。四小節では長すぎるので二小節にして、すぐ歌が入れるようになっており、また右手がいつも歌のメロディと同じになっている一番簡単な方法でなく、前奏と同じピアノの形の中にメロディが入っていく。
  ・四小節目から、歌のメロディがピアノにもあって、歌いやすくしてあり、しかし全く同じにダブらせず、和音だけの響きの中で歌えるような部分もある。
  ・歌の部分は10小節であるが、12小節あった方が音楽がまとまるので、前奏が2小節、後奏の2小節が加わっている。(季刊『どうよう』第2号より抜粋)

 【「生徒か、先生か」の歌い方は自然に】  中田喜直には、『かわいいかくれんぼ』(サトウハチロー作詞)『夏の思い出』(江間章子作詞)『小さい秋みつけた』(サトウハチロー作詞)『雪の降る町を』(内村直也作詞)などたくさんの作品が愛唱されています。いずれも日本語のアクセントに忠実に作られています。 しかし、『めだかの学校』では、「だれが生徒か、先生か」の部分の「先生」のアクセントが標準ではありません。しかし、違和感なく歌われています。生前、お会いした時、「このメダカは、関西のメダカですよ」と笑っておられました。
 歌い方については、「あまりはっきり"せえと せんせえ"ではおかしいし、はっきり"せいと せんせい"でも不自然なので、丁度その中間位で。自然に歌うのがいいのですが、いくらか"え"の方に近いかもしれません」と答えてくださいました。
 ▼「生徒か、先生か」の歌い方について中田喜直からの返事の葉書
 葉書の最後には、“『音楽と人生』読んで下さったそうで、タバコは吸わないで。その他色々考えて下さい。”と書いてあります。
 これについても、中田喜直が書いた文章が残っています。
 “二番の歌詞の先生と生徒のアクセント(抑揚)が、普通と反対になってしまうが、ちょうど関西弁と同じになるので、「これは日本全国共通の歌だから、二番は関西弁にしたのだ」と弁解のような説明をしている。とにかく作曲した時は、この歌がこれほどみんなに歌われ、親しまれるようになるとは全然思わなかった。”(『別冊太陽』より抜粋)

  【安西愛子の歌い方】 この歌を歌った安西愛子さんは、歌い方について電話で次のように教えて下さいました。
 「放送上、NHKの方から、うたのおばさんの時、歌は書いた物を見ないで歌だけ聞いてもわかるような歌い方をしなければいけない、話しことばと同じように歌うようにと、とてもきびしく決められていました。でも、今ではどのように歌っても良いと言う事になっているので、字で書いたとおりに歌う人が多いようです。話しことばのように歌うと、聞いている人に詩が良くわかり自然と思います。わたくしは今でも、それを守って歌っております」(1995年10月)。

 【歌の魅力はメロディーの繰り返し】 「そっとのぞいて みてごらん」を二度繰り返したのは、中田喜直のアイディアでした。茶木滋の詩には、繰り返しがありませんでした。繰り返しが、この歌の大きな魅力になりました。ちょうど山彦のように響いて繰り返されています。二回目は、とても小さく、やさしく歌います。

 【タイトルは『めだかのがっこう』にした】  歌詞を改作して作曲したのでタイトルは『めだかのがっこう』になっています。この楽譜は、中田喜直編『新しく選んだ童謡曲集』(カワイ出版、昭和四十九年三月一日発行、昭和六十年七月一日発行七刷)の12-13ページで見る事ができます。楽譜と伴奏譜は、後述の『日本童謡唱歌体系Ⅵ』と同じものです。
 ●しかし、三番が歌詞も楽譜も「みんなで そろって つーいつい」になっています。
 著者・私、池田小百合はこれを見て改訂されたのかと思いました。それで、出版社と作詞をした茶木滋に確認の手紙を出しました。


▲河合楽器製作所・出版部からの回答(平成4年1月27日)
「次の重版の折には必ず訂正いたします」と
書かれていますが、昭和49年の初版以来、
だれも気がつかなかったのだろうか。

▲茶木滋氏からの手紙(1992年2月3日)
「3番は みんなが そろって です」と書いてあります。

 ▼藤田圭雄・中田喜直・阪田寛夫・湯山昭監修『日本童謡唱歌大系』第Ⅵ巻(東京書籍)1997年11月28日発行
 これは、中田喜直が生前、最後に出版した楽譜です。『めだかのがっこう』というひらがなのタイトルになっています。この楽譜で歌ってくださいと言っているのです。

  【教科書でのあつかい】 ▼昭和33年12月15日発行『しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)には、遊戯と簡易伴奏譜が掲載されています。タイトルは「めだかの がっこう」、二番まで掲載。
▲上は昭和33年
 『しょうがくせいの
 おんがく2』


▼左は昭和35年
 『しょうがくせいの
 おんがく2』

 ともに音楽之友社

 ▼昭和35年12月25日発行『しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)にも遊戯が掲載されていますが、動作は四種類だけでシンプルになっています。


▲安泰絵。講談社の絵本ゴールド版「童謡画集」より。昭和40年 現在入手不能です。


  ・平成21年発行『新しい音楽2』(東京書籍)には、「赤いとり小とり」「ぞうさん」「シャボン玉」と一緒に掲載されています。この教科書には他に「アイアイ」「こぶたぬきつねこ」「かっこう」「かえるのがっしょう」「みなみのしまのハメハメハ大王」「とんでったバナナ」「夕やけこやけ」などが掲載されていて、一見、一年生用の教科書かと思いました。二年生用にしては教材が簡単すぎます。

  【お魚博士から見た「めだかの学校」】 お魚博士で、『秋の子』(作詞・サトウハチロー)の作曲者、末広恭雄著『魚のうた』(音楽之友社)の「魚と音楽 歌に出てくる魚たち」で、「めだかの学校」が取り上げられています。とても興味深い文です。以下は抜粋。
 ▼末広恭雄著『魚のうた』(音楽之友社)
 ・戦後の日本の子供たちに広く歌われているが、流行しただけに詩も曲もなかなかよくできている。
 ・ある学者がしらべたところによると、メダカの方言が、日本中でなんと二千以上もあるというから、いかにメダカが人々になじまれているか、こういった事実でもわかる。
 ・メダカが群をなして小川を泳いでいる様子を学校に見立てたところがまことにおもしろいと私は思う。
 ・まず注目したいのは一番の「そっとのぞいて見てごらん」という一節である。メダカはいつも群をなしているだけに、小川に泳ぐメダカを捕えようと、抜き足さし足で近づいても、メダカの群はパッと散ってしまうのである。
 なぜメダカの群はそれと気づいて散るのだろうか。人間の耳には一秒間に二十振動以下の音、つまりぬき足の音はきこえないのだが、メダカは十六振動の音まで、音としてきくことができるので、こういった結果を生ずるのである。
  ・二番には「だれが生徒か先生か」とあるが、これもおもしろい表現で、群をなす魚には一尾必ずリーダーとなるものが存在するらしい。その群がたとえ二つに分かれても、それぞれの群にそれぞれのリーダー格のものが現われるらしい。とにかく群を引きずってゆくものがあることは人間社会ともよく似ているらしいし、学校でいえば先生があり生徒があることはメダカの場合も同様だといえる。
  ・三番の歌詞の中の「水に流れてつーいつい」とあるが、この箇所だけは少々おかしい。というのは、多くの魚は流れに対して、流される瞬間もあるが、逆行するのが常であり、メダカもその例にもれないからである。・・・淡水魚が流れに逆らって泳ぐという意味は、流れに従って泳いだら、川から生活に不適当な海に流れ出してしまうからである。
  ・このごろの小学校の歌には生物の生態を科学的にあつかった歌が少ないが、私の小学生のころには「虫の声」その他こういった種類の歌がかなりあった。

 著者・私、池田小百合が思うに、「めだかの学校」は童謡詩ですから、文学的な言葉の方を重視しなければならない。「生物の生態を科学的にあつかった詩」でなくてもいいのです。末広恭雄の意見に従えば、「水に逆らいつーいつい」ということになってしまう。これでは文学詩にならない。
 昔の唱歌には「生物の生態を科学的にあつかった歌」が多かったのは、それを「歌って覚えさせる」という教育目的で作られていたからです。

  【茶木滋の略歴
  ・明治四十三年一月五日、神奈川県横須賀市で生まれました。本名は七郎といいます。
  ・旧制中学三年生の頃から童謡や童話を作り始め、『赤い鳥』『金の星』などの雑誌に盛んに投稿していた。
  ・昭和六年、明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業して製薬会社に就職しました。サラリーマンをしながらも雑誌などに童謡や童話を投稿したりして、詩作を続けていました。
  ・茶木一家は、昭和十九年に神奈川県小田原市万年町(現在の浜町)に疎開し、その後、箱根町宮城野に移りました。移って約一週間後に万年町の家は、空襲で焼失しました。終戦の日の未明のことでした。茶木は薬剤師で、小田原に疎開した製薬工場の監督に当たっていました。
  ・その後も千葉県船橋市海神に住み、日本童謡協会、日本児童文学者協会、詩と音楽の会などに所属して詩作を続けました。童謡集に『とんぼのおつかい』『鮒のお祭』があります。
 ・平成十年十一月一日に亡くなりました。

  【中田喜直の略歴】『かわいいかくれんぼ』の項目にあります。

  【詩碑について】
  ・小田原市は平成六年から二年間かけて荻窪の『親水公園』を造成しました。全長約七十メートルの細長い公園で、メダカの住む小川や小川に水を引く水車、詩碑の並ぶ散策路などを整備、平成八年(1996年)五月八日に完成し「めだかの学校」を開校しました。公園内の小川を「そっとのぞいて」見ると、「生徒」のめだかが「つーいつい」と泳いでいます。
  ・メダカは全国的に減少していて、神奈川県では絶滅危惧種に指定されている。現在、県内で自然生息しているのは小田原市などごく一部。クロメダカの一種である地域固有の遺伝子を持つ「小田原メダカ」は、農薬や河川改修により生息場所がなくなり、神奈川県西部の川のメダカは、ほとんど赤いヒメダカになっています。小田原市では、「小田原メダカ」を保護する取り組みが広がっています。


  ・長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、「小田原市荻窪地区の小川も、今は汚れてしまって、めだかもいなくなったといいます」と書いてありますが、この小川は汚れていません。
 メダカがいなくなったのは、農薬や河川改修により生息場所がなくなったためです。


 ▲小田原市荻窪西・荻窪用水(地図と小田原市荻窪地区の小川)。現在は左上の写真のように新築の住宅が小川に接近している(2009年11月28日池田小百合撮影)。

 荻窪用水は寛延二年(1749年)、川口広蔵が開いた全長十キロに及ぶ水路で、農業用水として人々の暮らしを助けてきた。

 ▼1996年5月8日に完成した小田原市荻窪の親水公園 メダカの住む小川・水を引く水車(1996年6月池田小百合撮影)

 ▼散策路には歌碑が四基並んでいる 一基目には「めだかの学校」の作詞の由来が書かれています。

 (碑文 表面)
 童謡 めだかの学校 のふるさと
 日本全国で
 歌い親しまれ
 ている童謡
 めだかの学校
 は昭和二五年
 童話作家の
 茶木滋さんが
 この荻窪用水
 周辺を舞台に
 作詞されました
 
   (裏面)
 公共下水道水緑景観モデル事業
 平成6年9月8日建設省都市局認定
 
 ▼二基目には一番の歌詞 タイトルは『めだかのがっこう』と平仮名です。
 
 三基目には二番、四基目には三番が書かれています。歌を口ずさみながら歩けるようになっています。

  ・神奈川県横須賀市稲岡町の『三笠公園』に至る遊歩道の、人工の小川に面して歌碑が建っています。横須賀学院正門横。横須賀市汐入町出身の茶木滋をたたえた物で楽譜と歌詞の両方が刻んであります。

  ・埼玉県久喜市の公団久喜青葉団地内に人工の小川が流れていて詩碑が建っています。

  ・和歌山県西牟婁(にしむろ)郡すさみ町の『日本童謡の園』にも、みんなの愛唱歌として歌碑があります。歌碑の側にはメダカの池があります。  

 ・横浜市旭区大池町の『こども自然公園』には「めだかの学校」の楽譜碑があります。
 神奈川文化賞や横浜文化賞などを受賞している中田喜直は、四十年近く同区内に住み、亡くなるまで、創作活動の合間などに同公園にも足しげく通った。
 日本を代表する作曲家として知られる一方、地元住民にはなじみが薄いことから、功績を地元の人たちに知ってほしいと、横浜旭ロータリークラブが国際ロータリー創立百周年記念事業の一環として楽譜碑を建てることを決めた。

 平成十七年(2005年)四月二十七日除幕式が行われた。同クラブは、同公園内の池で、絶滅が危ぶまれる自然種のクロメダカを放流する活動を続けている。




 ▼池田小百合主催の「めだかの学校」を歌う集い  1996年7月14日小田原市中央公民館ホール

 ホールいっぱいのお客様、童謡の会員と「めだかのがっこう」を歌いました。みなさん、ありがとうございました。

▲画:池田千洋

 【後記】 この歌は、童謡の本の、ほとんど全てに取り上げられています。みんなの愛唱歌だからです。しかし、佐藤義美の書いた「物語」が次々勝手に面白おかしく書きかえられ、文献とされた本の間違いもそのまま使われてしまっています。さらに、作者の記憶違いも随所にみられます。あいまいなまま、歌い継がれて行くのは残念です。

 ここに、今、調査できる限り正確なものを発表しました。まだ、納得できない部分がいくつもあります。これからも、調査研究を続けます。(2009年11月28日)


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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項目『うたのおばさん』『うたのおじさん』

▲左から“うたのおばさん” 安西愛子・松田トシ、“うたのおじさん”友竹正則

 【「うたのおばさん」について】
  元NHK幼児番組チーフディレクター武井照子によると次のようです。

 <番組誕生>
  “高田信一のさわやかなメロディーで始まる「うたのおばさん」―この番組が生まれたのは昭和二十四年八月一日のことでした。・・・「うたのおばさん」は、アメリカの「シンギング・レディ」をお手本に生まれました。「シンギング・レディ」というのは、一人の女の人が、歌を中心にお話をとり入れていくもの、中には効果音なども入れて、楽しく展開していくものでした。 それまでにも、歌を中心とした幼児向けの番組はありましたが、歌い手自身がお話をしながら運んでいくものは「歌のおけいこ」以外はありませんでした”(武井照子「番組誕生―うたのおばさん」による)。

  (註)「うたのおばさん」と「歌のおけいこ」とは違う番組ということがわかります。
  ●秋山正美(構成・解説)『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)には、次のように書いてあります。「『めだかの学校』は、戦後のNHKの番組「うたのおばさん」の時間に放送され、全国で歌われるようになった。・・・・・「うたのおばさん」というのは、正式の番組の名ではなく、戦時中から続いていた「うたのおけいこ」のことなのだが、この当時の“おばさん"は安西愛子で、子供たちは、すぐに『めだかの学校』を覚えてしまった」。この記載は間違いということになります。私、池田小百合は、後々までこの間違った文に振り回され、的外れな調査を繰り返した。

  <番組のねらい>
 “この「うたのおばさん」は、歌い手がやさしくよびかけて話をしながら一緒に歌い、その間に短いお話をしていくもので、幼児によい歌、正しい歌を耳から与え、それによって情操豊かなこどもに育てていきたいというのが狙いなのです”(武井照子「番組誕生―うたのおばさん」による)。

  <大人が歌う>
 “幼児に、よい歌、正しい音楽を与えるには、幼児のおさない歌声では不可能です。音楽には稚拙の美というものはないのです。ですから、大人が、幼児の音域、音程に適したもの、曲想もやさしくて美しいもの、それらを選んで、正しく歌い、よいもの、正しい音程になじませていくのが一番いいと考えたわけです”(武井照子「番組誕生―うたのおばさん」による)。

  <選ばれた二人>
 “「うたのおばさん」になるタレントは一般に公募の上審査が行われた。現在のお二人、松田トシさん安西愛子さんはそれまでの幼児番組に出演されて、すでにベテランでしたが、こういう新しい番組とあって、新人と一緒にオーディションを受けられたわけです。このお二人以外に四人集まりましたが、お二人が群をぬいていて、日本語が十分に分からないアメリカさんも、口を揃えてお二人を推したものでした。”
 (武井照子「番組誕生―うたのおばさん」による)。武井の文の最後には(婦人少年部)と書いてあります。
  (註1)「番組誕生 うたのおばさん 武井照子」は、国立国会図書館で見る事ができます。放送文化14(11)(日本放送出版協会,1959-11)。この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2014年3月28日)

  (註2)「教育放送史への証言(16)幼児番組の変遷(3)終戦後の番組再開から「うたのおばさん」まで」武井照子『放送教育』50巻6号日本放送教育学会1995.9にも次のように書いてあります。
 “「うたのおばさん」の誕生◆一九四九年(昭和二四年)八月一日、「うたのおばさん」が始まった。月曜から土曜まで、毎朝八時四五分から九時までの生放送で、松田トシ、安西愛子、お二人のおばさんが幼児に話しかけ、歌う番組だった。元になったのは、アメリカの「シンギングレディー」である。”

  <藤田圭雄によると>
 藤田圭雄は、著書『解題戦後日本童謡年表』(東京書籍)昭和五十二年(1977年)八月二十五日発行には、次のように書いてあります。
 “昭和二十四年八月一日、NHKラジオで「うたのおばさん」はじまる。うたい手は松田トシと安西愛子。”これは正しい。
 さらに、藤田圭雄は、季刊『どうよう』10号(チャイルド本社)「戦後の新しい童謡の主柱―中田喜直の世界」で、次のように書いています。
 「サトウハチローやさとうよしみの新時代の童謡は、一九四九年八月一日、NHKラジオに依るうたのおばさんの出現まで待たねばならなかった。ラジオから毎朝きこえて来る新しい童謡は大きな魅力だった。所謂レコード童謡の豆歌手でなく、幅のある、そのつややかなうたのおばさんの歌声は、童謡の世界に新境地を拓いた」。この見解は鋭い。

  <湯山昭によると>
 湯山昭著『人生は輪舞』(全音)には、次のように書いてあります。
 “当時NHKに婦人少年部(後に少年部となりました)というのがあって、女性と子どもを対象にした番組を作っていました。その婦人少年部が制作していた「うたのおばさん」という番組がありました。一九四九年(昭和二十四年)にスタート。生放送で、松田トシさんと、後に参議院議員になった安西愛子さんが出演していました。その番組から単発的に頼まれ、谷川俊太郎さんと私のコンビで、「こわれたすいどう」という歌が生まれました”。

       こわれたすいどう  (谷川俊太郎)

   こわれたすいどう
   ピッタン テトン テッタン ピン
   いくらしめても とまらない
   よるになっても
   ピッタン テトン テッタン ピン

  【「うたのおばさん」開始の調査】
 昭和24年8月1日(月)朝日新聞縮刷版のNHKラジオ番組表によると「歌のおばさん」と「歌のけいこ」は別の番組として書かれています。「歌のけいこ」と書いてあるのは「歌のおけいこ」のことでしょう。

  7・45 朝の訪問 田畑政治
  8・45 歌のおばさん 安西愛子
  9・15 今月の計画 千代田幸子
  9・30 ピアノ独奏 朝倉靖子
  10・00  歌のけいこ 海の水
  10・10 海浜ラジオ学校

 <NHKハートプラザ によると>
 “「幼児の時間」には「うたのおけいこ」だけでなく、いろいろなものが放送されていました。”(2009年3月10日)

   朝日新聞縮刷版でNHMラジオ第一、10時~10時10分を調べてみました。
   ・昭和24年7月25日(月) 歌のけいこ 松田トシ
   ・昭和24年7月26日(火) リズム遊び 増子とし
   ・昭和24年7月27日(水) お話と歌 田村淑子  ※田村淑子は幼児のお話の語り手
   ・昭和24年7月28日(木) ラジオ絵本 加藤幸子
   ・昭和24年7月29日(金) 昔話「瓜子姫」 岩田直二
   ・昭和24年7月30日(土) 楽しい音楽 立川廣子

 <NHK視聴者センターによると>
 “番組のタイトルは本によって「歌のおけいこ」と表記されているものがありますが、小さい子供向けの番組だったので、ひらがなで「うたのおけいこ」と表記するのが正しい。戦時中は「ウタノオケイコ」とカタカナでした。”(1995年8月15日)

  ▼昭和27年9月15日(月)、9月17日(水)、9月20日(土)  毎日新聞
    9:30から30分番組「歌のおけいこ」   10:00から「うたのかばん」

  <こわせ・たまみによると>
  ●季刊『どうよう』(チャイルド本社)20号のこわせ・たまみ著「戦後童謡四十年の軌跡」によると次のようです。
  “昭和三十四年、『うたのおばさん』の番組が消えた。こうして、テレビの与える影響が本格化してきた昭和三十六年、NHKはテレビでも子どもたちに良い歌をと、『うたのおばさん』を引き継ぐかたちで幼児を対象としたテレビの歌の番組『うたのえほん』(『おかあさんといっしょ』)を開始したのである”・・・これは間違い。昭和三十四年以降もラジオ番組として続いていた。
 

▲1954年1月1日

▲1954年1月2日

▲1959年1月1日



  <長田暁二によると>
  長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』(大月書店 )によると次のようです。
 “『うたのおばさん』は、昭和三十九年の春まで十五年間、一日の休みもなく生放送で歌い続けられました
 「一日の休みもなく」というのはおかしいので、昭和24年8月1日から14日まで毎日放送されているかどうかを、朝日新聞縮刷版の番組表を調査しました。
 

  ・8月1日(月)8時45分~9時15分 歌のおばさん 安西愛子
  ・2日(火)8時45分~9時15分 歌のおばさん 安西愛子
  ・3日(水)7時45分~9時15分 菜園造りのコツ
  ・4日(木)7時45分~9時15分 朝の訪問 土井晩翠
  ・5日(金)7時45分~9時15分 朝の訪問 杉田直樹
  ・6日(土)7時45分~9時15分 作り易い大根の種まき
  ・7日(日)7時45分~作り易い白菜の種まき他(日曜大人向け番組)
  ・8日(月)8時45分~9時15分 歌のおばさん 松田トシ
  ・9日(火)7時45分~9時15分 朝の訪問 古屋芳雄
  ・10日(水)7時45分~9時15分 これからの菜園
  ・11日(木)7時45分~9時15分 朝の訪問 桑原武夫
  ・12日(金)7時45分~9時15分 朝の訪問 松永和風
  ・13日(土)7時45分~9時15分 夏の派境期の対策
  ・14日(日)7時45分~大根と白菜の害虫防除他(日曜日大人向け番組)

  (結果)この二週間で「歌のおばさん」は三回だけでした。
  (註)以下は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2014年3月29日)
  “日曜を除く毎日8:45~9:00に放送されていた。番組表はスペースの制約から一部省略されている。当時のパターンは、7:45~8:00(月火木金)朝の訪問、(水土)菜園、8:00~8:45 名演奏家の時間・尋ね人、8:45~9:00うたのおばさん、9:00~9:15 天気予報・番組予告。日曜は「うたのおばさん」なし。”

▲“うたのおばさん”二千回 昭和30年(1955年)12月29日(木)、朝日新聞(夕刊)掲載。
右から松田トシさん、安西愛子さん―二千回記念公開録音(二十四日、日比谷公会堂)で。
放送は、昭和30年(1955年)12月29日(木)朝日新聞ラジオプログラムによると8時45分うたのおばさん(二千回)と書いてある。

 新聞記事によると次のようです。
  “一昨年までは正月の間は休んだが、今では正月も休みなし”。
  “発足当時はまだアメリカ軍の占領時代で、CIEの助言にもとづき、アメリカのラジオ番組にある“シンギング・レディ”というのを参考にして始められた”。
  “最後は試験で松田トシさんと安西愛子さんが選ばれたのだった。二人が一週間交代で毎日およそ六曲ずつを歌い、週にしておよそ十五曲ずつが紹介されることになっている。こうして約六年半、今では“うたのおばさん”は全国の子供たちに圧倒的な人気を持つようになった”。
  “なにしろナマ放送だからテストの時間も入れると毎朝八時にはスタジオに入らねばならない。その苦労は一通りではないのだが、これを知って毎朝“うたのおばさん”の自動車が通るのを道端で待ちかまえていて、手を降る子供もあるという。これに応えるおばさんの熱心さもなかなか。松田さんは乳ガンの手術で入院することになった時、入院前日にスタジオにかけつけて三週間分の録音を済ませた事もあったし、安西さんが地方公演旅行に出た時、汽車の故障で放送に間にあわないとわかった時、線路の上を一里近くも歩いて連絡をとったこともあるという。”

  “松田トシさんの話 いつの間にか六年半もたちました。はじめは“おばさん”とはヒドイと思ったけれど、今では全く板についた感じ。・・・”
  (註1) “はじめは“おばさん”とはヒドイと思ったけれど”という松田トシさんの発言は、いろいろな出版物でみかけます。この新聞記事に書いてあった事がわかりました。出典を明らかにしておいてほしいものです。
 (註2) 日本童謡協会編集『季刊どうよう』第20号(チャイルド本社 1990年1月)、戦後童謡運動の現場から・・・歌のおばさんのころ 歌手・松田トシには、次のように書いてあります。
 “その頃はまだ若かったので若い女性が歌うのに“おばさん”とはおかしいと抗議したりしましたが「おばさんというのは小さなお母さんという意味で、厳しい戦後の暮らしの中で忙しい母親の代理としてのおばさんです」というお話で納得したことがありました。昭和二十八年、番組が縁で、アメリカに招待された時以外は全てナマ放送をつづけました”。

 “安西愛子さんの話 ・・・この間、私の長男が発病する事三回、現在も入院中ですが、同じ境遇の母親たちも多いことを思い、全国の子供たちの母親のつもりで病院からスタジオへかけつけるのです”。
  (註) 安西愛子さんが、ベッドの長男に童謡を歌っているようすはテレビで放送され反響を呼びました。その後、長男は亡くなりました。安西さんは国会議員になった時、社会福祉、医療、介護に力をつくされました。

  「教育放送史への証言(16)幼児番組の変遷(3)終戦後の番組再開から「うたのおばさん」まで」武井照子『放送教育』50巻6号日本放送教育学会1995.9 にも「月曜から土曜まで、毎朝八時四十五分から九時までの生放送」とある。 武井照子「番組誕生―うたのおばさん」『放送文化』14(11)日本放送出版協会,1959-11 に生放送の苦労を記している。”

 <ナマ放送の苦労>
 “当時録音技術が進歩していなかったので、必ずナマ放送をするということを建前にスタートしました。これには数々の苦労が伴いました。身体の色々な器官の中で、発声器官が目を覚ますのが一番遅いといわれています。その寝起きの悪い声と、朝、それもそれもやり直しのきかないナマ放送でやるのですから、歌い手にとっては大変な苦労です。そして、歌い、話す、時間きっちりうめる。こうした細心の注意と努力は、現在のお二人をベテラン中のベテランに仕上げたわけです”(武井照子「番組誕生―うたのおばさん」による)。
  (註) 文中の“現在”は、“番組誕生から十年後の今日”。

 日本童謡協会編集『季刊どうよう』第20号(チャイルド本社 1990年1月)、戦後童謡運動の現場から・・・歌のおばさんのころ 歌手・松田トシには、次のように書いてあります。
 “番組の放送が始まるのは毎朝八時四十五分でした。ですから七時までにはNHKに入るのですが、冬など家を出るのは暗いうちで、そんな毎日の行動リズムが身について規則正しい朝型人間となった生活は今につづいております”。

  <担当は江藤俊明>
 “当時の担当の江藤俊明氏は、ヴァイオリニスト江藤俊哉氏のお父さまです。江藤さんはずっと前からお子さん方を音楽家に育てる苦労をされておられ、また先生としても、音楽教育に熱心な方だったのですが、その江藤さんの子供の音楽教育についての深い考えが、この「うたのおばさん」の中にも盛り込まれたのでした(武井照子「番組誕生―うたのおばさん」による)。
  日本童謡協会編集『季刊どうよう』第20号(チャイルド本社 1990年1月)、戦後童謡運動の現場から・・・歌のおばさんのころ 歌手・松田トシには、次のように書いてあります。 “その頃、NHKのディレクターにバイオリン奏者の江藤俊哉さんのお父さんがいらっしゃって、一日放送分の五曲の中に外国曲と古い日本の曲を一曲必ず入れることなど、工夫してプログラムを決めていきました。”

  <『NHK年鑑』によると>
 日本放送協会編集『NHK年鑑』(日本放送出版協会)昭和38年10月10日発行によると次のようです。
  ・月~土 ラジオ第一 前9時5分~9時15分
  ・第一回放送「うたのおばさん」昭和24年8月1日

●「うたのおじさん」昭和35年4月4日
  ・昭和37年度から10分番組となった。
  ・「うたのおばさん」4000回記念公開録音を101スタジオに多数の保育所・幼稚園の園児を招いておこない、37年5月13日(日)放送。
  ・(年間)出演者、松田トシ・安西愛子・友竹正則(以上一週間交替出演)/東京放送児童合唱団、東京放送管弦楽団、編曲指揮・服部正、構成・丘灯至夫、司会・青木一雄
  (註)「うたのおばさん」4000回記念は、「うたのおじさん」も含まれる。

  【「うたのおじさん」について】
 先の『NHK年鑑』には、“「うたのおじさん」昭和35年4月4日”という一文がある。これは、スタートの日なのだろうか。また、季刊『どうよう』28号(チャイルド本社)岡弘道著「うたのえほん」の素顔(4)によると“昭和39年4月4日(土)の「うたのおじさん」をもって幕”とある。偶然にも共に「4月4日」なのは、おかしい。どちらかが間違っているのではないか。
 それで、昭和35年4月1日からNHKラジオ第一8時45分~9時を読売新聞縮刷版の番組表で調査してみました。

 ・4月1日(金)  うたのおばさん
 ・4月2日(土)  うたのおばさん
 ・4月4日(月)  歌のおばさん右図
 ・4月5日(火)  歌のおばさん
 ・以後同じ。それぞれ歌手は不明。
 ・4月21日(木)  うたのおばさん 安西愛子
 ・4月22日(金)  うたのおばさん
 ・4月23日(土)  うたのおばさん
 ・4月25日(月)  うたのおじさん 友竹正則(右図
 ・30日(土)まで うたのおじさん 友竹正則
  (結果)昭和35年4月4日(月)は、「歌のおばさん」を放送していた。歌手は不明。4月21日(木)だけ、「うたのおばさん 安西愛子」と書いてある。この週は安西愛子の担当でしょう。第一回「うたのおじさん」友竹正則は、昭和35年4月25日(月)、朝8時45分から9時まで放送
  ●『NHK年鑑』の“「うたのおじさん」昭和35年4月4日”は、間違いという事になります。
  (註)以下は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方の意見。(2014年3月29日)
  “S35.4.25から「うたのおじさん」が開始され、三人交替となったため、「うたのおばさん」は3週間中に2週間の放送。日曜、正月に加え、「うたのおじさん」の週は休みなので「15年間、1日も休みなく生放送」はその点でもやや不正確。ただし「うたのおばさん」「うたのおじさん」を一体の番組と解すれば「15年間、日曜を除き休みなく放送」ぐらいの表現は許容範囲では。”

  <正式な番組名>
 「うたのおばさん」「うたのおじさん」は、正式な番組名だった。自分で調べる事は、本当に重要だと感じます。(2009/12/23)

  <昭和37年度から10分番組>
 『NHK年鑑』に書いてある「月~土 ラジオ第一 前9時5分~9時15分」、「昭和37年度から10分番組となった」を毎日新聞縮刷版で昭和37年4月2日から3週間調査しました。

 NHKラジオ第一 午前9時5分~9時15分(10分番組) これは正しい。
  ・4月2日(月) うたのおばさん 安西愛子
  ・3日(火) うたのおばさん 安西愛子
  ・4日(水) 歌のおばさん  安西愛子
  ・5日(木) うたのおばさん
  ・6日(金) うたのおばさん 安西愛子
  ・7日(土) うたのおばさん 安西愛子
  ・9日(月) うたのおばさん 松田トシ
  ・10日(火) うたのおばさん 松田トシ
  ・11日(水) うたのおばさん 松田トシ
  ・12日(木) うたのおばさん
  ・13日(金) うたのおばさん 松田トシ
  ・14日(土) うたのおばさん
  ・16日(月) うたのおじさん
  ・17日(火) うたのおじさん 友竹正則
  ・18日(水) うたのおじさん
  ・19日(木) うたのおじさん 友竹正則
  ・20日(金) うたのおじさん
  ・21日(土) うたのおじさん
  <結果>安西愛子、松田トシ、友竹正則が、一週間交替で出演していました。名前がない所も、同じ歌手と思います。

 【「うたのおばさん」その後】
 昭和38年4月1日(月)から「母と子の窓」に組み入れられた。昭和39年4月4日(土)の「うたのおじさん」をもって約15年間の幕を閉じた。(季刊『どうよう』28号(チャイルド本社)岡弘道著「うたのえほん」の素顔(4)による)

  【「うたのおじさん」で幕】
  「うたのおばさん」は、昭和39年3月23日(月)から28日(土)の週が最終(松田トシ)。
  「うたのおじさん」は、昭和39年3月30日(月)から4月4日(土)の週が最終(友竹正則)。NHKラジオ第一9時31分~45分。
  両方を一体の番組と考えると、“昭和39年4月4日(土)の「うたのおじさん」をもって幕”の記述は、正しい。6日以降は放送されていない事が、毎日新聞縮刷版の番組表からわかります。

                     <最終日 昭和39年4月4日(土)の番組表→>

  ・ 4月6日(月)9時31分~45分 訪問の服装
  ・ 4月7日(火) 9時31分~45分 母の教育方針 羽仁説子
  ・ 4月8日(水) 9時31分~45分 包装食品  



著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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雪の降るまちを

作詞 内村直也
作曲 中田喜直

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より



▲第1部 中扉

 『雪の降るまちを』の解説は、中田喜直作曲『中田喜直ポピュラー歌曲集』(音楽之友社)1979年6月発行を参考にしています。タイトルは『雪の降るまちを』です。この本には、以下の重要な事が書いてあります。

  ・昭和二十七年(1952年)NHKのラジオドラマ"えり子と共に"の中で発表。
  ・昭和二十八年、ラジオ歌謡。
  ・原調はイ短調。

 【発表はいつか】
 この歌の「誕生秘話」は、喜早哲著『日本の美しい歌』(新潮社)に掲載されています。検証してみましょう。
 堀江史朗・企画、劇作家・内村直也原作のNHKラジオ第一放送、連続放送劇「えり子とともに」の中で発表された歌です。最初の頃の音楽担当は芥川也寸志でした。

  ←内村直也

 喜早哲著『日本の美しい歌』では、タイトルが「えり子とともに」と平仮名になっています。朝日新聞の番組表を見ると、1回目は「えり子と共に」、二回目は「えり子とともに」、三回目は「えり子と共に」・・・となっていて、後日は朝刊と夕刊でも両方が使われています。前記、中田喜直の記述は「えり子と共に」です。内村直也の原作タイトルは「えり子とともに」です。

 ●喜早哲著『日本の美しい歌』には、「昭和二十四年(一九四九)十月から、毎週水曜日の夜、九時十五分から三十分間の放送でした」と書いてありますが、時間が違っています。

 <放送時間について>
  ・昭和24年10月—昭和25年3月 水曜日9:00—9:30。
  ・昭和25年4月—昭和S26年12月 水曜日9:15—9:45。
  ・昭和27年1月—昭和27年4月 木曜日8:30—9:00。

  (註)いずれも30分間。ラジオ欄はスペースの関係で短時間番組は省略している。昭和24年 9:30―10:00はニュース解説、昭和25年 9:45-10:00はスポーツ便りなど。「君の名は」も30分間。
  放送時間・ラジオ欄については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2014年3月12日)。

 朝日新聞縮刷版ラジオ放送番組表には、次のように書いてあります。
 <1回目>昭和24年10月5日(水) 夜9時 劇「えり子と共に」内村直也作(1)小沢栄、阿里道子他
 <2回目>昭和24年10月12日(水) 夜9時 劇「えり子とともに」(2)小沢栄、阿里道子他
 <3回目>昭和24年10月19日(水) 夜9時 劇「えり子と共に」(3)阿里道子、七尾伶子他

 喜早哲著『日本の美しい歌』には、次のように書いてあります。

  「まず惹きつけられるのはそのテーマ・ミュージック。・・・芥川也寸志さんが書いた甘いメロディーは、クラリネットがリードします。・・・柔らかい雰囲気を期待させる魅力的なオープニングでした。
 ストーリーは、大学教授を演じる小沢栄太郎の優しい声質と説得力のある語り、それを素直に受ける娘えり子の甘えるような会話で進められ二人を囲む脇役たちは、七尾伶子、加藤道子、久米明、宇野重吉らベテランばかり。主役の阿里道子は、この番組のためのオーディションに合格した新人でした。
 シナリオの内村直也は、本名は菅原實、昭和七年慶應大学卒で、家業は菅原電気を経営していました。
  ・・・芥川也寸志が、未だに公表されないある理由で降板、中田喜直にバトンタッチしたのです。・・・」


▼『えり子とともに』第1部(寳文館)より スタジオスナップ 

左上から
 しめの
 (渡辺
  富美子)
 えり子
 (阿里
  道子)

左下
 幸枝
 (山本
  安英)

中央
 壯太郎
 (小沢
   榮)


 えり子
(阿里
  道子)

▼『えり子とともに』第3部(寳文館) 芥川也寸志とシャンブル・ノネット    ▼テーマ音楽

 ◎喜早哲著『日本の美しい歌』60ページには重要な事が書いてあります。 「昭和二十七年に放送した本番の中で、出演していた文学座の南美江と阿里道子が歌ったことだけは分かっています。ただし一番だけ
 ・・・ 昭和二十六年の暮、第百十四回放送のリハーサルをしていましたが、どうしても時間的に短いことが分かり、何とかしてのばさなければ放送にアナを空けてしまうことに気がつきました。何しろ当時は録音などなく、すべて生放送。あわてた内村直也や他のスタッフが相談し、何か一曲、歌でも入れるか!? となり、内村直也がその場で作詩し、音楽担当だった中田喜直が慌てて作曲したのです。翌日の本番で、南美江と阿里道子が歌ったところ、スタッフ一同とても感動し、当時内幸町にあったNHKから新橋駅まで、みんなで腕を組んで「雪の降る街を 雪の降る街を・・・」と歌いながら歩いたと、思い出話で語っています。」

 以上の事柄を、毎日新聞縮刷版ラジオ放送番組表で調査しました。(調査は、ルーペを買い、厚木市中央図書館で一日がかりとなりました。2009/12/25)

  ・昭和26年12月12日(水) 夜9時15分
  (朝刊) えり子と共に『昔の友達』
  (夕刊) えり子とともに『昔の友達』阿里道子、須永宏ほか 
  ・昭和26年12月19日(水) 夜9時15分
  (朝刊) えり子と共に『社用族の十二月』阿里道子他
  (夕刊) えり子とともに『社用族の十二月』阿里道子、南美江
  ・昭和26年12月26日(水) 夜9時15分
  (朝刊) えり子と共に『芝居の稽古』
  (夕刊) えり子とともに『芝居の稽古』阿里道子、南美江ほか

 <結果>
 昭和26年の最終放送は12月26日。第114回「芝居の稽古」。リハーサルは昭和26年12月25日。

 (註)当時の標準日程(「連続放送劇の演出「えり子とともに」」演出課永山弘「放送文化」 昭和26年6月より)
 台本刷上がり 木か金。音楽打合せ 土夕。本読み 月夕。マイクリハーサル 火午後、2回目の本読み 火夕。
 当日(水)放送迄に少なくとも2回リハーサル。
 (以上は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。2014年3月12日)。

 では、昭和27年の放送について、毎日新聞縮刷版のラジオ放送番組表を調査してみました。
  ・昭和27年1月3日(木)夜7時30分 
  紅白歌合戦 (紅)二葉あき子、淡谷のり子、笠置シズ子、(白)灰田勝彦、霧島昇他
  ・昭和27年1月10日(木)夜8時30分
   (朝刊) えり子とともに
   (夕刊) えり子とともに『幸福がこわい』阿里道子、七尾伶子
  ・昭和27年1月17日(木)夜8時30分
   (朝刊) えり子とともに
   (夕刊) えり子とともに

 <結果>
 昭和27年の最初の放送は1月10日。第115回「幸福がこわい」。昭和27年からは木曜日の夜8時30分からの放送になっていました。水曜日の番組表で「えり子と共に」をさがしていて手間取りました。

  【「雪の降るまちを」は五回放送されていた

  <第114回での放送>
  第114回「芝居の稽古」昭和26年12月26日放送。出演7名。放送内容は、 内村直也著「えり子とともに」(青春篇第三部、昭和27年3月15日、寳文館)によると、次のようです。
  えり子が勤めている会社で本社と工場の対立があり、その宥和を図ろうと、会社の正月の演芸大会に合同で芝居をやることになる。劇のタイトルは「花咲く丘」。その芝居の練習中の場面で花売り娘役の女性社員・俣野(南美江)が「雪の降るまちを」を歌う。そして、この回の最後に一同の合唱が流れる(フェイドアウト)。ついでえり子の年末のあいさつになり、「雪の降るまちを」の合唱フェイドイン。「来年はどういう年になるでしょうか,みなさまの処へも,幸福のビニールが訪れますことをお祈りして…… 」「雪の降るまちを」の合唱とフィナーレの曲・・・。
  「雪の降るまちを」は一番だけが放送された


         (注)台本ではこの時の歌詞の最後は「暖かき幸福のビニール」です。えり子のナレーションにもある。

  <第115回での放送>
  第115回「幸福がこわい」昭和27年1月10日放送。出演4名。放送内容は、(内村直也著「えり子とともに」青春篇第四部、昭和27年8月10日、寳文館)によると次のようです。
  えり子の新年のあいさつ(途中で「雪の降るまちを」のメロディがスニイク・イン)前日の演芸大会の芝居の感想を述べる。ついで「雪の降るまちを」の合唱、フェイドアウト。以降、姉、義兄たちがえり子に結婚を進める話が続く。えり子が義兄に、「幸福が怖かったんです。あんなに幸福になりたいと思っていた、その幸福がすぐ眼の前に来てしまったと思ったら、急にあたしなんだか怖くなって逃げ出したくなったんです。」と語る。これがタイトルの所以。


 <第117回での放送>
 第117回「女性軍団結せよ」昭和27年1月24日放送の冒頭で、俣野が同僚に「雪の降るまちを」を歌唱指導するシーンがあり、二回合唱が流れる。芝居で歌ったこの歌が社内でも好評で教えてほしいとの要望に俣野が応えたという設定です。出演8名、俣野が、この歌はシャンソンと言う。



 <第118回での放送>
 第118回「窄き門」昭和27年1月31日放送。出演7名。
 姉・佳代子の息子・健児の幼稚園の先生、佐藤よし子が家に訪ねて来る。よし子はえり子と女学校の同期生。宗教に悩んでいる。えり子の求めている幸福と全然違う考えを持っている。えり子もさらに幸福について悩む。


  <第121回での放送>
 第121回「重たい心」昭和27年2月21日放送の最後のシーンに、えり子の暗い心を表すような「合唱」ののち、えり子の(朗読)で一番、(次第に歌になって)で二番、(再び合唱となって)で三番が流れる。二番、三番の歌詞は初登場。二番、三番は劇中の芝居で花売り娘が歌う歌という当初の設定からやや飛躍して、えり子の心情を表現したような歌詞ともとれる。
 出演7名。園部芳郎には婚約者ミドリがいたが、えり子が心にいるので破談にしてしまう。母親・園部秋子はえり子に「早く別の方と結婚なさって頂戴」と言う。当然、えり子は重い気持ちになる。

        ▲「えり子とともに」青春篇第四部 第121回「重たい心」末尾

 第121回、昭和27年2月21日放送も字は異なっているが一番の最後は「温き倖せのビニール」です。

  (註)放送については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。

 【ドラマチックな曲】
 中田喜直が作った曲は詩にもましてドラマチックなものでした。最初、イ短調で暗く静かに始め、中間部でイ長調に転調させ、もの悲しさから幸せな明日へ向かうというスケールの大きい作品に仕上げました。短調から長調への巧みな転調が、この歌の一番の魅力です。

  【二、三番を追加】
 第114回で放送すると思わぬ反響があって大好評でした。第114回、第115回、第117回、第118回は一番だけでしたが、第121回は二、三番も放送しました。現在歌われている歌詞とは違うものです。なぜ歌詞を変更したのでしょうか。『えり子とともに』の台本を調べてみました

  ●『雪の降るまちを』の解説は、中田喜直作曲『中田喜直ポピュラー歌曲集』(音楽之友社)1979年6月発行を参考にしました。この本には「昭和二十七年(1952年)NHKのラジオドラマ"えり子と共に"の中で発表」と書いてあります。
 では、正しく書きかえてみましょう。
 「昭和二十六年(1951年)NHKのラジオドラマ"えり子とともに"の中で発表」。または、「昭和二十六年(第114回)と二十七年(第115回、第117回、第118回、第121回) NHKのラジオドラマ“えり子とともに”の中で歌われた」。

 ●ここまでの調査から見ると、喜早哲著『日本の美しい歌』60ページに書いてある「昭和二十七年に放送した本番の中で、出演していた文学座の南美江と阿里道子が歌ったことだけは分かっています」は、誤解を招く表現といえそうです。

 この番組は、一年の予定でスタートしましたが、延長されて昭和二十七年(1952年)四月まで続いたほどの人気番組でした。

 ←・昭和27年4月3日(木)夜8時30分
   (朝刊) えり子と共に『終曲』
   (夕刊) えり子とともに『終曲』

  ・昭和27年4月10日(木)夜8時30分 →
   (夕刊)連続劇 菊田一夫作『君の名は』阿里道子、夏川静江

 <結果>
  昭和27年4月3日の放送が最終回(第127回)でした。タイトルは『終曲』となっているので、ここでも歌を挿入するとよかったと思います。次の週からは、「ラジオ放送を聞くため、風呂屋には客がいなくなった」というほど人気の番組『君の名は』がスタートしています。阿里道子が引き続き主演です。甘い魅力的な声が一世を風靡しました。

  【「ラジオ歌謡」で】
  劇中の歌だけで終わらせるにはもったいないと考えた中田は、NHKのラジオ放送でできた歌だから、NHKの「ラジオ歌謡」として発表した方がいいと思いました。
 「"ラジオ歌謡は新作に限る"ということになっているから具合が悪い」と言う担当者を説得し、とうとう放送することになりました(長田暁ニ『中田喜直抒情名曲集』曲目解説より)。
 「ラジオ歌謡」発表までに、一番を含め三番まで改めて作詞しました。内村に追補の歌詞を依頼、中田が内村にアドバイスをしながら作りあげました。一番は「あたたかき幸せのほほえみ」。二番は「緑なす春の日のそよ風」希望の春です。三番は明るい未来を夢見ています。「新しき光降る鐘の音」という最後のフレーズが、一筋の光を放って人々の心を包みます。劇中歌から脱し、汎用性を持たせ、かつ詩的に洗練されたものに修正しました。

  【高英男(こうひでお)が歌いヒット】
 シャンソン歌手・高英男が昭和二十八年二月二日(月曜日)から六日(金曜日)まで、NHKラジオ第一の歌番組『ラジオ歌謡』で歌ったところ、またたくまに人気が出て定着しました。
 「えり子とともに」第117回の中で俣野が「皆さんは御存知ないの?これはね、立派なシャンソンってものなんですからね」と言う。つまり「雪の降るまちを」はシャンソン。では、だれに歌わせるかとなれば、前年七月にパリ留学から帰ったばかりの、ただひとりの男性シャンソン歌手・高英男に決まっていたようなものです。読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)には、“声の美しさに感心した中田の指名だった”と書いてあります。
 歌詞、曲、歌手の三拍子がそろい、ヒットは約束されていました。「留学時代のパリ・リュクサンブール公園の美しい雪景色や、故郷・サハリンの清らかな白一色の世界が浮かびました」(『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)による)と言う高英男の歌声は、この歌にピッタリでした。

 <放送の調査> 毎日新聞縮刷版(2013年1月27日 厚木市中央図書館にて調査)
 昭和二十八年二月二日(月曜日)NHKラジオ第一放送 午後5時30分より
 歌『雪の降る町を』高英男 とラジオ番組表にある。三日(火曜日)、四日、五日、六日にも放送があった。放送時間は5時45分まで。

 <放送時間の変更>
 ・『ラジオ歌謡』は、家族そろって歌える歌謡曲を作るという意図で発足した番組で、月曜から金曜までの5日間、毎日15分ずつ放送されました。
 ・昭和二十七年十一月から放送時間は5時台に移った(CD『NHKラジオ歌謡大全集』の三木容の解説による)。

 【レコードの吹き込み】
 レコードも高英男が吹き込みました。キングレコード 1953年発売、CL115(情報はCD『NHKラジオ歌謡大全集』による)。
 以来、ダークダックスや、ボニージャックスなど多くの歌手によってレコード化され、今もなお日本人の心の歌としてしたしまれています。

 【山形県鶴岡市でのこと】
 山形県鶴岡市が、この曲の舞台だとする説があります。
 昭和二十七年三月初旬、庄内地方は前年から断続的に積もった大雪で、一面の銀世界でした。そんな中を鶴岡駅に馬そりで、当時二十八歳の中田喜直と、声楽家で中田とは東京音楽学校で同期の村田節子、そして、その妹でピアニストの村田克子を出迎えたのは、農村・斎村(いつきむら・現在の鶴岡市勝福寺)に住む菅原喜兵衛さんでした。中田にとって数回目となる鶴岡への旅の目的は、翌日に開かれる自身が作曲した斎学園歌(いつきがくえんか)の発表会に出席するためです。馬そりは、一行を乗せて月の光に照らされた雪道を進み、夜の十時半、宿舎である菅原宅に到着しました。菅原は、「将来は作曲家になりたい」が口癖で、地元で音楽活動をしていました。昭和二十年夏、姉の疎開先だった斎村を訪れた声楽家の村田節子と知り合い、続いて中田と出会いました。初めて村田の伴奏者として連れてこられた中田と、意気投合。以来、中田と長い親交が続きました。・・・菅原喜兵衛は平成十年(1998年)二月、九十四歳で亡くなりました。

 喜早哲著『日本の美しい歌』(新潮社)によると、真相は次のようです。
 “馬橇に乗せられて旧市街を抜け、七軒町口から郊外へ出る道すがら、喜兵衛さんに「『雪の降る街を』のモデルは鶴岡ですよねぇ先生」と、突然話しかけられて、先生は戸惑ったそうです。でも中田先生の性格として「ハイそうです」とも「イヤ違います」とも言えず口ごもっていましたが、「ねぇ先生・・・ねぇ・・・」と何度も言われ、「ハイ・・・と、いいえ・・・の真ん中ぐらいで返事しましたよ」。
 その後、再びこの歌が話題になった時には、「あの時、突然内村先生から、すぐに曲を付けるようにと目の前に詩を出されました。その時はどうしようか?と、ちょっと考えあぐねましたが、まあ雪の降っている街なら何処でもいいと・・・。雪深い鶴岡市のファンの方が馬橇で迎えに来られた時の想いも使えるし、汽車で通る越後湯沢あたりの印象も入っているし・・・」とも答えておられました。”
  ・JR鶴岡駅前には記念の歌碑があります。
  ・鶴岡公園の疎林広場には「雪の降るまちを メロディー発想の地」と刻んだモニュメントが建っています。
  ・中田が菅原の自宅まで馬そりで通った黒川街道は「雪の降るまちをロード」と名づけられて、人々に親しまれています。
  ・毎年二月に「鶴岡音楽祭」(鶴岡冬まつり実行委員会)が開催され、フィナーレでは「雪の降るまちを」の大合唱が響きます。

  【内村直也の略歴】
 内村直也(1909~1989年)は、東京に生まれた劇作家、放送作家です。本名は菅原實といいます。
 慶應大学経済学部在学中から岸田國士に師事し、劇作家としての道を歩み出しました。戦前から戦後にかけて、実験的な手法を用いた脚本で演劇界をリードしました。当時の内村は、父がおこした菅原電気会社の勤めをやめ、劇作に専念し始めていたころでした。・・・内村直也は平成元年七月二十七日、七十九歳で亡くなりました。

 【中田喜直の略歴】  
 中田喜直(1923~2000年)は、東京に生まれた作曲家。
 ≪めだかのがっこう≫などの童謡のほか、歌曲、合唱曲、ピアノ曲など、数多くの作品を残しました。中田の父は≪早春賦≫の作曲で知られる中田章です。
 ・・・中田喜直は平成十二年五月三日、七十六歳で亡くなりました。

 「雪の降るまちを」の解説を利用する場合は、インターネット検索「池田小百 合なっとく童謡・唱歌」童謡・唱歌事典によると書き添えてください。努力が報 われます。それは、ルールです。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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放送劇「えり子とともに」を読み解く   池田小百合


  【不思議な歌詞】
 「えり子とともに」第114回放送の<雪の降るまちを>の歌詞が気になります。最後は「暖かき幸福のビニール」です。えり子のナレーションにも「来年はどういう年になるでしょうか、みなさまの処へも、幸福のビニールが訪れますことをお祈りして・・・」とある。
 なぜ「幸福のビニール」などと、ビニールが歌詞に出てくるのでしょうか。しかも、この「ビニール」は後に「ほほえみ」に書き換えられているのです。

  <仮説をたてる>
  第121回放送の<雪の降るまちを>の歌詞 一番の最後は「温かき倖せのビニール」、二番の最後は「わが頬に風よけるフードよ」、三番は「春の陽に燃ゆる緋(あか)のカーデイガン」。これら締めくくりの歌詞の衣装は、それぞれ「ほほえみ」「緑なす春の日のそよ風」「新しき光降る鐘の音」に替えられています。組合員がみんなで歌っていることを考慮すると、えり子の会社は、「ビニール」(あるいはビニール製のレインコートや防寒着)や「フード」「カーデイガン」といった衣装を製造し、商品としても扱う化学工業の会社ではないでしょうか。そして、ラジオドラマから切り離されて歌われる人気の歌になったとき、ドラマの制約だったえり子の会社の製品名はかえって邪魔になったので、変更されたのではないでしょうか。
  過去の資料にはえり子の会社に関する詳しい記述がありません。「えり子の会社が化学工業の会社だった」という仮説を検証してみる事にしました。

  <仮説の検証に取り組む>

  まず、最初に状況説明があるはずだと考えて、第一部(河出書房版)を古書店から買いました。当然ですがネットでは本の内容は、わかりませんでした。

  ■内村直也著『えり子とともに』第一部(河出書房 昭和26年3月15日初版、4月10日再版発行)
 「序曲」えり子とともに 第一回では、物語に関する作者の説明があります。

  “作者・・・幸福とは、一体どういうものなのでしょうか?―――  今夜から開始される「えり子とともに」に於て、私はそうした幸福への追求を試みたいと思うのです。ここに設定されているシチュエーションは、究極平凡な家庭です。此の静かな温い家庭にも、過去に於て大きな波が打ち寄せました。それは、父の壯太郎にとっては妻、娘のえり子にとっては母の幸枝が、昭和十八年の秋に、悪性の風邪がもとで急性肺炎をおこし、彼等の家庭から去ったことなのです。・・・母親のいない家、父と娘だけの家庭、そうした寂しい家庭であるにも拘らず、河村家には、暗い影がありません。母親の愛情を補うものは、父であり、父の寂しさを救うものは、娘のえり子であります。父と娘とが、お互いになき母の椅子を埋めて行こうとするその努力の中に、私は幸福の姿を摑み出したいと念願するのです。―――”。

  「幸福とは、一体どういうものなのか」これがテーマである事。母・「幸枝」がなぜ亡くなったのかがわかりました。

  “「えり子」の名前は、音として、いままでにあまり使用されていない女性の名前で、やわらかく耳に響くものはないだろうか・・・ということで、数人の人と協議をした結果、選び出した。えり子と対象的に、姉の名前を、カチンとした金属的なものにしたいと思って、「佳代子」とした”。
  「えり子」十月五日の一日。午前中は、お父さまの机の上の整理。午前中にピアノのお稽古に行った。午後からは、ずっと家にいてピアノの練習をしたり、本を読んだり、ばあやのお手伝いを少ししたり・・・えり子は家事手伝い。
  父・「壯太郎」は、大学教授として三十年哲学を教えている。学生が家に来るほど人気がある。
  姉・「佳代子」には、「健兒」という子供がいる。
  夫・「春夫」は劇作家。
 「しめの」という、ばあやが出て来る。ばあやは、父と娘の平凡な生活に重要な役割をはたしている。
河村えり子   阿里道子
河村壯太郎(父) 小澤榮
河村幸枝(母) 山本安英
響佳代子(姉) 七尾伶子
響春夫(義兄) 久米 明
響健兒(甥) 木下喜久子
         村瀬 禪
河村良介(弟)野田秀男
しめの  渡邊富美子
近山巖(叔父) 松本克平
      桑山正一
太田朝子(伯母)村瀬幸子
園部秋子   堀越節子
園部芳郎   臼井正明
島村助教授  北澤 彪 
佐藤よし子  加藤道子
久保田瑛一  永井智雄
車中の紳士  宇野重吉
松村春江   杉村春子
山田爾郎   信 欣三
耕作    小杉義男
槇 勇次  芥川比呂志
槇こう子  田村秋子
++++++++
企画  堀江史朗
演出  永山 弘
演出助手 秋山 弘
     萩原良太郎
音樂 芥川也寸志
効果  岩淵東洋男 


   「序曲」えり子とともに 第一回
   「オランダ撫子」     第二回
   「佳代子」         第三回
   「四国の学生」     第四回
   「友がみな我より偉く見ゆる日よ」 第五回
   「日常茶飯事」     第六回
   「雷雨」           第七回
   「アプレゲール」     第八回
   「フェミニスト」       第九回
   「討論会」         第十回
   「ただ一つのクリスマスの贈物」 第十一回
   「幸福を求めて」    第十二回

 第1部を読んだ率直な感想は、「これが人気のドラマだったのだろうか、平凡な日常会話だけでよく続いたものだ」。私には、意外な内容でした。
  ■続きを図書館で読もうと、『えり子とともに』第二部をさがしましたが、秦野市立図書館、厚木市立中央図書館には、ありませんでした。神奈川県立図書館には「えり子とともに」(宝文館1950年4月発行)がありますが、発行年代からみて『えり子とともに』第一部(河出書房)と内容が同じようなので、調査に行くのをやめました。
  ■小田原市立図書館には『えり子とともに』内村直也/原作、成世晶子/小説化(ルック社 初版・昭和44年8月20日。三版・昭和45年2月20日)がありました。内容をまとめた小説になっているのなら、えり子の会社の事がわかると思い、読みに行きました。

 父には三人の子供があった。父・河村壯太郎は五十七歳、日東新聞社の論説委員をしている。長女・佳代子は二十八歳、セメント会社の総務課に勤める当山春夫と二十三歳の時に結婚。母が亡くなった後、「お父さんや、えりちゃんが不自由でしょうから、私が家事をみてあげるわ」と実家に夫婦で帰って来た。次女のえり子は十八歳、Q短大英文科に通っている。長男の良介は北海道の農大三年生。キクさんというお手伝いさんがいる。・・・平凡な日常が延々と続く。

  原作とは、まるで違う設定の小説に書き換えられていました。私は、がっかりして帰宅しました。2014年4月26日(土)、連休一日目、小田原は「北條五代まつり」前なのに観光客でにぎわっていた。フジ棚のフジが満開、観光客に道を尋ねられました。

  ■今度は、古書店から『えり子とともに』抒情篇 第6部「靜かなる時に」完結編(著者・内村直也、編者・日本放送協会、昭和26年4月1日発行、発行所・寶文館)を買いました。 これが最後の巻なので、えり子の会社がわかると確信していました。ところが、ここでもえり子は、「お父さま。幸福って、ふしぎなものね。幸福って、すばらしいものね」と話しています。
  あとがきには、“第六巻をお贈りします。私のプランでは、この巻を持って一応「えり子とともに」を終る予定でした。父と娘というシチュエーションは、えり子が結婚する事によって自然変って来ますし、えり子という人物も、一昨年放送を開始した当時の存在理由が、ある程度果たされたと思われることがその理由なのです。それがNHKの関係、聴取者その他種々の事情で、四月以降も同じタイトルのもとに継続することになりました。私は新たな情熱を燃やして、今、この再出発を立案中ですが、父と娘というシチュエーション・ドラマ「えり子とともに」第一部は、これを持って終了ということにしたいと思います。一年半という長い期間、愛聴してくださった方、愛読してくださった方々に、厚くお礼を申し上げると同時に、再出発の第二部についても、どうかいろいろとお教え願いたいと思います。”と書いてあります。
  抒情篇第一部~第六部(第一回~第七十五回)では、えり子はまだ会社に勤めていない事がわかりました。当然のことですが、本は読まないと内容がわかりません。私はがっかりしました(2014年4月28日)。

  ▼『えり子とともに』六
▲表紙 装幀 岡田謙三 ▲中扉 ▲イラスト

   「父と子」      第六十四回
   「ウイスキイ」   第六十五回
   「木枯の吹く道」 第六十六回
   「結婚式」     第六十七回
   「汽車で眠る」  第六十八回
   「工場」       第六十九回
   「早春」       第七十回
   「三人の家」   第七十一回
   「新しい友情」  第七十二回
   「面影のひと」  第七十三回
   「結婚是非」   第七十四回
   「靜かなる時に」 第七十五回

  (註)第六十九回「工場」では、槇勇次(えり子の恋人)が工場の製造部に勤めている明和製作所が出てくるが、この工場はえり子が勤める会社ではなかった。

  ■先に注文した 内村直也著『えり子とともに』第二部(河出書房 昭和26年4月15日初版発行)が、遅れて届きました。放送記録はない。
   「目立たない勇気」 第十三回
   「母の候補者」    第十四回
   「玩具の機関車」  第十五回
   「鷗のうた」       第十六回
   「変化の多い一日」 第十七回
   「安らかに眠れ」   第十八回
   「日記を焼く」     第十九回
   「秩父行」       第二十回
   「鳥も渡るか、あの山越えて」 第二十一回
   「就職」        第二十二回
   「無能力者」    第二十三回
   「風立ちぬ」    第二十四回

  第二十二回「就職」とあるので、その部分を期待を持って読んだ。

     えり子: ・・・えり子、お勤めしてもいいかしら、お父さま。
     壯太郎: 勤め?お前が?
     えり子: ええ、あたくし、お勤めがしたいの。
     壯太郎: うん、それは悪くないね。しかし、どうしてそういう気持ちがおこって来たんだろうね。
     えり子: えり子、もっと生きた世の中のことを知りたいのよ。お勤めに出たら、なにかしらわかって来るでしょう。
     えり子: (ひとりで)あたくし、働きたいの・・・働きたいの・・・働きたいの、明日からでも直ぐに!

  第二十三回「無能力者」には、次のような会話がある。

     えり子: 叔父様、えり子は無能力者なの?
     叔父: 言葉は一寸大げさかもしれないが・・・そうじゃないとでもいうのかい?
     えり子: ・・・・・

  えり子は就職をしたがっているが、「無能力者」と言われ、就職はしないことにする。えり子を無能力者とは、ひどい話だ。成り行きにあきれて、えり子に同情した。きっと放送局へ抗議の電話や手紙が殺到したに違いない。

  ・えり子の就職先がわからないままでは、調査も終われないので、『えり子とともに』青春篇1 2 3 4(寶文館)を古書店から購入した。ネット上の古書店情報では、この各一冊で販売は終了のようで貴重な本。
  2014年5月3日に青春篇2、3、4が届いた。古いので、ページをめくると風化して粉々になってしまいそう。青春篇1は、別の古書店から購入した。

  ■『えり子とともに』青春篇 第2部「美しい身構え」(寶文館 昭和27年2月20日発行)
  (青春篇1から4の装幀は高野二三男で原画は共通で色だけが異なる)
▲表紙 装幀 高野三三男 ▲中扉

  ▲中扉 洋ランは、えり子のイメージなのか。

   「美しい身構え」  第八十九回
   「最初の日」     第九十回
   「良心の浪費」   第九十一回
   「お茶を飲みに行きましょう」 第九十二回
   「メンタルテスト」  第九十三回
   「武装平和」     第九十四回
   「最初の給料」   第九十五回
   「インクスタンドが倒れた時は」 第九十六回
   「男の世界」     第九十七回
   「相撲」         第九十八回
   「ドン・キホーテ」   第九十九回
   「握手」         第百回
   「休日の表情」   第百一回

  えり子は、大川産業株式会社の社長秘書になる。元秘書の宇野はタイプライターを打つ専門職に移動。営業課、経理課、調査課にあいさつに行く。エレベーターがあるほどの大きな会社。掃除婦がいる。お掃除のおばさんは、えり子にとって珍しい人。食堂があり、クリーム・ソーダを注文する。労組婦人部長の俣野や、田尻・工場長との出会いがある。何をする会社か不明。

  ■『えり子とともに』青春篇 第3部「むかしの友達」(寶文館 昭和27年3月15日発行)
   「撮影行楽日」   第百二回
   「カメラ・コンクール後日譚」 第百三回
   「闖入者」      第百四回
   「謀略」        第百五回
   「反抗の精神」   第百六回
   「街の雑雑沓」   第百七回
   「暗い旅路」    第百八回
   「静かなる部屋」 第百九回
   「冬」         第百十回
   「肉親の斜面」   第百十一回
   「むかしの友達」  第百十二回
   「社用族の十二月」第百十三回
   「芝居の稽古」   第百十四回

 大川社長の夫人の名前は「節子」。会社の工場には大きな労働者の組合がある。佐伯は労働者組合の文化部長。本社の人たちと工場の側とは折り合いが悪い。正月にやる演芸大会で芝居をし、両方の尖鋭分子を一緒の舞台に立たせる計画をする。工場と本社と、両方が仲よくするためにやる芝居のタイトルは「花咲く丘」。俣野は花売り娘の役。ヒロインは、えり子に決まる。会社、工場の説明はない。

  【≪雪の降るまちを≫放送一回目】
  「芝居の稽古」第百十四回で放送

     えり子: ・・・(芝居の台詞で)「こんな雪が降って寒い中で、あなたはお花を売ってらっしゃるのね」
     佐伯: すると、俣野女史は本読みから早速に歌ってくれるんだね。
     佐伯:じゃあ、花売娘、やってくれ。みんながそれ程張り切って練習していて下さるのなら、今日からさっそく立稽古だ。

                           ▲218ページ~219ページ再掲
  歌詞のラストは「暖かき幸福のビニール」
  ≪雪の降るまちを≫花売娘(俣野うたう)。一同の合唱が三回ある。合計四回歌われる。

     えり子:来年はどういう年になるでしょうか、みなさまの処へも、幸福のビニールが訪れますことをお祈りして・・・・

  ■『えり子とともに』青春篇 第4部「花々のなかで」(寶文館 昭和27年8月10日発行)

   「幸福がこわい」    第百十五回
   「膝づめ談判」     第百十六回
   「女性軍團結せよ」  第百十七回
   「窄き門」        第百十八回
   「受け身の幸福」    第百十九回
   「女ひとり」        第百二十回
   「重たい心」       第百二十一回
   「浅い眠り」       第百二十二回
   「時は來らん」     第百二十三回
   「影と實体」       第百二十四回
   「その前にあるもの」 第百二十五回
   「花々のなかで」    第百二十六回
   「終曲」         第百二十七回

   【≪雪の降るまちを≫放送二回目】
  「幸福がこわい」第百十五回で放送
  ≪雪の降るまちを≫メロディと合唱が放送される。合計二回。
  1952年正月を迎えた。演芸大会の芝居は好評だった。大成功。

                        ▲3ページから4ページ 再掲

  「膝づめ談判」第百十六回で、えり子は営業課へ移る。

  【≪雪の降るまちを≫放送三回目】
  「女性軍團結せよ」第百十七回で放送
  ≪雪の降るまちを≫の合唱、一回流れる。合唱が再び始まる。合計二回。

     俣野: ・・・(歌い始める)「雪のふるまちを」ああ、いけないどうも皆さんに感化されて、あたしも階段を転がりおちるようなことになってしまった。
      ・・・水を飲んでから(歌いはじめる)
     佐伯: (歌の途中でしゃべり始める)なあんだ、誰が唱歌をうたってるのかと思ったら、君だったんだね。
     俣野: (急に歌をやめて)唱歌とはなによ。唱歌っていうのはね、小学校で教えるあれのことを言うのよ。
     佐伯: じゃ工場で教えるやつは、コウカか。
     宇野: コウカじゃ、学校の校歌とまぎらわしいから、ジョウカと言ったらどう?
     俣野: 皆さんは御存知ないの?これはね、立派なシャンソンってものなんですからね。
       御自分のならっている歌の名称ぐらいは、はっきり覚えておいて下さらなければ困りますよ。

 俣野が、≪雪の降るまちを≫は「シャンソン」と言う。
  (註)文中のタイトルは「雪のふるまちを」となっている。


                                    ▲37ページ~39ページ 再掲

  【≪雪の降るまちを≫放送四回目】
  「窄(せま)き門」第百十八回で放送。
 ≪雪の降るまちを≫の合唱の声。一回。
 姉・佳代子の息子・健児の幼稚園の先生、佐藤よし子が家に訪ねて来る。よし子は、えり子と女学校の同期生。宗教に悩んでいる。えり子の求めている幸福と全然違う考えを持っている。えり子も、さらに幸福について悩む。

                                            ▲68ページ再掲

  【≪雪の降るまちを≫放送五回目】
  「重たい心」第百二十一回放送の最後のシーンに、えり子の暗い心を表すような「合唱」ののち、えり子の(朗読)で一番、(次第に歌になって)で二番、(再び合唱となって)で三番が流れる。二番、三番の歌詞は初登場。二番、三番は劇中の芝居で花売り娘が歌う歌という当初の設定からやや飛躍して、えり子の心情を表現したような歌詞ともとれる。
  園部芳郎には、婚約者・ミドリがいたが、えり子が心にいるので、破談にしてしまう。母親・園部秋子は、えり子に「芳郎のところへ来て下さいなんてことは、もうしあげられませんけど、若しも少しでも芳郎のことを考えて下さるんだったら、どうかおねがいです。えり子さん、結婚なさって頂戴。そうすれば、芳郎もきっとあなたをあきらめることが、出来るようになると思いますから」と言う。当然、えり子は重い気持になる。
 園部芳郎は煮え切らない。えり子が好きなら、自分で結婚を申し込めばいいのだが。そして園部の母・秋子は「あ、えり子さん。あたくしが今日、ここをおたずねしたことは、芳郎にはなんにも言ってないんですからね、どうぞそのおつもりで・・・さよなら、御機嫌よう」と口止めをして帰る。母親・秋子も世話焼きすぎる。えり子は、これからどうするのか。

                           ▲118ページ~119ページ

  『えり子とともに』青春篇4<第百二十七回「終曲」>  音楽 ウエディング・マーチを編曲したもの、強く鳴り始めて、裏に流れる。
    ・・・前半を通じて、ウエディング・マーチが裏に流れている感じ。
 えり子と槇勇次の結婚を、みんなが祝福する。えり子は「あたしは幸福だわ、あたしは幸福だわ、あたしは幸福だわ!」と言う。

■『えり子とともに』青春篇 第1部「人生のわき役」(寶文館 昭和27年8月10日発行)
 最後に第1部が別の古書店から、届いた(2014年5月9日)。

 えり子の会社は、どのような会社か? ワクワクして読み進めたのですが、おや? 変です。えり子が登場しません。最初は佳代子のナレーションでスタートします。佳代子の家族と知人の様子が中心になっています。えり子は風邪をひいて寝込んでいて、なかなか登場しません。
 「魂の記録」第八十回では、なんと、ばあや・しめのが(ナレーション)をします。「女心と庶民性」第八十一回では、出演者は彌生と佳代子の二人だけです。えり子は、どうしたのでしょう。すでに130ページが過ぎてしまいました。主人公がこれほど出ない小説は珍しいのではないでしょうか。えり子役の阿里道子に何か出演できない事情が生じたのでしょうか。放送局に抗議の電話や手紙が殺到したことでしょう。
 「戀愛のしかた」第八十四回で、やっと、えり子が登場します。えり子は元気がない。恋に悩んでいたようです。

   「街かどにて」    第七十六回
   「演技について」  第七十七回
   「人生のわき役」  第七十八回
   「小説を読む」    第七十九回
   「魂の記録」     第八十回
   「女心と庶民性」  第八十一回
   「ふるさと」       第八十二回
   「また逢う日まで」 第八十三回
   「戀愛のしかた」  第八十四回
   「百貨店にて」   第八十五回
   「契約の精神」   第八十六回
   「善意の引越し」  第八十七回
   「かどで」        第八十八回

  第八十六回「契約の精神」に、わずかに、父・壯太郎がえり子が働く会社の実業家・大川について語っている場面があります。大川は父の大学の後輩。

    壯太郎: わたしはよくは知らなかったんだが、あの男はあれでなかなかいろんな仕事をやってると見えるんだね。
     本職はゴム会社らしいが、その他に輸出用の玩具の工場も持っておるし、興業(こうぎょう)関係出版関係などにも首を突っこんでるらしい。
     ・・・まあ云って見れば、日本では進歩的な実業家の部類に入るんだろうな。
     かなり忙しいだろうが、いかにも愉快そうに、二時間近く話をして帰ったがね。

  【検証の結果】
 父・壯太郎は、大川に対してあいまいな認識しかしていない。興業関係の仕事といえば、大川はヤクザと関係があるほどの人物かもしれない。
 ゴム会社のような高分子化学の会社は、化学繊維からプラスチックまでを扱うことも珍しくない。「ビニール」「フード」「カーディガン」、それからゴムのキューピー人形のようなものまで扱っている会社なのかもしれない。この時代、キューピー人形のような柔らかな樹脂が大流行した。空には大売出しのアドバルーン。
 しかし、台本にはゴム会社とあるだけで、「ビニール」「フード」「カーディガン」を扱っているとは書かれていなかった。会社や工場の製品について書かれている箇所はここだけであった。えり子が最初の給料で、しめのに桃色のビニールのエプロンを贈る場面がある。《雪の降るまちを》は、工場の組合員によって歌われる歌なので、えり子の家族内の幸福感とは関係がないだろう。「フード」や「カーディガン」が出てくる場面は無い。
 仮説<えり子の会社が「ビニール」(あるいはビニール製のレインコートや防寒着)や「フード」「カーデイガン」といった衣装を製造し、商品としても扱う化学工業の会社である>と明確に断定することは出来なかった。

  (註)私、池田小百合の家の隣町に「明治ゴム化成」という会社・工場がある。インターネットで検索すると、印刷機材・合成樹脂・工業用品・フレックスホース・自動車部品などを扱っていると書いてあった。

  =====================
 さらに、古書店から内村直也著・日本放送協会編『えり子とともに』(寶文館)抒情篇の第一部「青春のように」、第二部「あの山越えて」、第三部「白い花・赤い花」、第四部「三つの小曲集」、第五部「二人のピアノ」、第六部「静かなる時に」をセットで購入した。
 第一部と第二部(河出文庫)は内容がダブルし、抒情篇の第六部(寶文館)は本がダブルのだが購入した(2014年5月10日)。

  ■第一部「青春のように」(「雪の降るまちを」参照)
  ■第二部「あの山越えて」
 帯表には、映画の宣伝がある。映画化されたのである。
(後列)堀江史朗・内村直也・永山弘・秋山弘・岩渕東洋男
(前列)小澤榮・阿里道子・渡邊富美子・松本克平・七尾伶子・野田秀男

 新東宝藤本プロ提携作品
 「えり子とともに」千葉泰樹監督
 角梨枝子主演。

  ■第三部「白い花・赤い花」
    「コロの死」      第二十五回
    「カスタード・プデイ」 第二十六回
    「ある晴れた日に」  第二十七回
    「親父銀行」      第二十八回
    「劇場にて」       第二十九回
    「母の日」        第三十回
    「ある曇り日に」    第三十一回
    「蓼科行」        第三十二回
    「グラジオラス」     第三十三回
    「青年二人」       第三十四回
    「えり子の周囲」    第三十五回
    「二人のために」   第三十六回
    「えり子是非」     第三十七回

  <写真>  芥川也寸志作曲「えり子のTema」<前掲>
        (JASRACの登録では「えり子の歌」)

      放送スタッフ →

  ■第四部「三つの小曲集」
 ← 本の扉の写真 阿里道子
   本はベストセラーになった。

    「家庭会議」     第三十八回
    「麦藁帽子」     第三十九回
    「あでやかな客」  第四十回
    「蝉のなく日」    第四十一回
    「白い封筒」     第四十二回
    「狩人」        第四十三回
    「浜辺にて」     第四十四回
    「退屈のはて」    第四十五回
    「約束のもの」    第四十六回
    「北へ発つ朝」    第四十七回
    「三つの小夜曲」  第四十八回
    「健児の病気」   第四十九回
    「秋のこの美しい夜に」 第五十回
 

舞台のえり子・
(柴田早苗)
壯太郎・
(伊志井寛)
春夫(志摩靖彦)・佳代子(小夜福子)・壯太郎(伊志井寛)・えり子(柴田早苗)



(右)ラジオのえり子・阿里道子、
(中央)内村直也
(左)映画のえり子・角梨枝子
『えり子とともに』第4部(寳文館)より
←映画『えり子とともに』えり子(角梨枝子)
しめの(飯田蝶子)、父(山村聰)
『えり子とともに』第5部(寳文館)より

  ■第五部「二人のピアノ」
    「二人のピアノ」   第五十一回
(後列)脚本の内村直也・井出俊郎
(前列)えり子(角梨枝子)・豊田四郎監督、健児(茅野勇造)

    「姉を待つ夜」    第五十二回
    「星空のもと」    第五十三回
    「青い薔薇」     第五十四回
    「父の誕生日」    第五十五回
    「ユーモレスク」   第五十六回
    「口紅」        第五十七回
    「童話」        第五十八回
    「郷愁のうた」    第五十九回
    「間奏曲」       第六十回
    「あたたかいマフラ」 第六十一回
    「手紙」        第六十二回
    「遅れたクリスマス」第六十三回

  ■第六部「静かなる時に」
   「御存知ですか?」「御覧になりますか?」「結構でございます」「承知いたしております」「存じております」「皆様御機嫌よう」など、えり子の言葉使いは、旧女学校で使われていた。

  【後記】
  抒情篇 青春篇「えり子とともに」は、脚本のまま本になっていたので、『雪の降るまちを』の歌の解明につながりました。資料を残すことは大切だと思いました。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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かわいい かくれんぼ

作詞 サトウハチロー
作曲 中田喜直   

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

▲『おんがく1』(教育出版)昭和42年4月10日文部省検定済 31ページ掲載。

 【戦後の童謡の最高傑作】
 かわいい動物たちのかくれんぼを歌ったこの歌は、戦後の童謡の最高傑作だと思います。「かわいいかくれんぼ」には、すぐれた童謡の条件がすべてそろっています。

  〔すぐれた童謡の条件1〕  童謡になくてはならないもの、「情景」があります。(ひよこ)や(すずめ)、(こいぬ)の動作や背景を、子供が無理なく、はっきりと思い浮かべる事ができます。

 〔すぐれた童謡の条件2〕  そして、「物語」があります。その「物語」は、隠れようとする動物が登場し、隠しきれない体の一部が残ってしまいます。それが、鬼に見つかってしまうという落ちがあります。

  〔すぐれた童謡の条件3〕  リズムには「変化」があります。「ひよこがね」の「ね」のやさしい呼びかけ、効果的な「ぴょこぴょこ」の擬態語の巧みさ、「見えてるよ」と「よ」を使って全体を上手にまとめています。 そして最後に「だんだん だァれが めっかった」と、リズムが突然変化します。

  【わらべ唄の世界へ変調】 楽譜を、もっと詳しく見ましょう。 曲は、はじめが二小節、次が四小節のフレーズ三つ、そして終わりに付け加えられた五小節のフレーズでまとまっています。
 日本人好みのヨナ抜き音階(ファとシを使わない音階)を使い、日本語に合った自然なメロディーで書かれています。
 この曲の「サビ」に当る部分は、終わりに付け加えられた五小節のフレーズ、歌詞では五行目です。
 「だんだん だァれが めっかった」は、そこだけメロディーが飛び出した印象を受けます。突然、わらべ唄の世界が出てきます。ここで、世界が変わります。その唐突さは、続く二番の「すずめがね」が始まると、また元の軽いテンポに戻り、ほっとするのです。
 このような調子の変化は、『ちいさい秋みつけた』にもありますから、作曲者の中田喜直が意図的に使ったものと思われます。一番のラストで変化した世界が、二番が始まると元に戻る見事さは類がありません。

 【『かごめ かごめ』との類似】  この落差は、わらべ唄の『かごめ かごめ』の「うしろの正面 だァれ」に似ています。
 『かごめかごめ』は、手をつないで輪になって、鬼の周りをぐるぐる回っているだけの、単純なメロディーの繰り返しですが、最後に、ピタリと止まって「うしろの正面 だァれ」と唱えると最高の緊張感が得られます。
 そして、次に鬼になった子供の周りを子供たちは、和やかに回り続けるのです。

 〔すぐれた童謡の条件4〕  この歌のテーマはなんでしょうか。
 一つのテーマは、子どもの目線に立った「発見」です。一番で発見されているのは、ひよこの「黄色いあんよ」。二番では、すずめの「茶色の帽子」。三番では、こいぬの「かわいいしっぽ」です。それぞれの動物のいちばんの特長を子どもは「発見」していきます。・・・その視点の見事さにあらためて驚かされます。
 ハチローの童謡は、新鮮で明るく楽しいものですが、ほとんどは、自分が子供だった大正時代を懐かしみ、その時代に引き込む作風です。「自分が子供になってしまうような詩」です。ハチローは、この『かわいいかくれんぼ』を、とても気に入っていたようです。

  〔すぐれた童謡の条件5〕  もう一つのテーマは、失敗をせめずに喜ぶ「遊び」感覚です。歌には教育的な意義もあります。実際のかくれんぼの中で、かくれたつもりが鬼に見つかってしまうという経験を子供たちはしていることでしょう。うまく隠れられずに見つかってしまった子供は、がっかりしてしまうものですが、かくれそこないは失敗でしょうか。この歌には隠れそこねた「ひよこ」や、「すずめ」や、「こいぬ」の失敗をむしろ楽しみ、いつくしむ感覚があります。
 動物たちの失敗を楽しむことで、自分の失敗だけでなく、他人の失敗を思いやる気持ちが育ちます。それに、もともとかくれんぼという遊びは見つかることを期待して隠れているという側面があります。もしも完全に隠れきってしまって、見つかることがなければ、自分の隠れ場所の見事さを誰にも評価してもらえないわけですから。

 【他にない傑作】
 これらが見事に溶け合って、完成した世界を作っています。「かわいいかくれんぼ」には、すぐれた童謡のすべての条件がそろっています。このような傑作が他にあるでしょうか。親子の語らいの中で歌える楽しい歌です。
 最近の童謡がつまらないのは、子供たちが思い描ける情景描写が乏しく、ストーリー性が無く、単調でリズムにも変化が無いのに、作者の主張ばかりがあり、最初から歌が完結してしまっているからだと思います。

  【発表について】
 毎日新聞縮刷版には次のように書いてあります。歌手や番組名は書いてありません。
  ・NHKラジオ第一、昭和26年1月8日(月曜日)10時~10時10分「かわいいかくれん ぼ(1)」
  ・NHKラジオ第一、昭和26年1月9日(火曜日)10時~10時10分「かわいいかくれん ぼ(2)」
 宮中雲子著『うたうヒポポタマス』(主婦の友社)には、「この年(昭和二十五年)に詩を書いていた『かわいいかくれんぼ』は、翌二十六年一月八日と九日、NHKの「歌のおばさん」で放送された」とある。
 ●「歌のおばさん」は「うたのおばさん」。


 ●河内紀 小島美子著『日本童謡集』(音楽之友社)に、「かわいいかくれんぼ  昭和26年1月7日 NHK」と書いてあるのは間違い。7日は日曜日なので、特別番組を放送している。
 ●川崎洋著『歌の教科書』(いそっぷ社)には、「昭和25年、NHK「うたのおばさん」で発表された作品」と書いてあります。昭和25年は間違いです。他の出版物にも、この記述があります。

 「うたのおばさん」について調べてみまし た。別項にあります。

  【文部大臣賞を受賞】
  「かわいいかくれんぼ」と「めだかの学校」を吹き込んだレコード(歌・安西愛子と杉の子こども会)を製作したコロムビア株式会社は、昭和二十七年度、第三回芸能選奨(現・芸術選奨)の音楽部門で文部大臣賞を受賞しました(2003年7月8日東京都杉並区梅里・安西音楽研究所 安西愛子による)。

 【コンビの最初の曲】
 サトウハチローと中田喜直のコンビの童謡は、「ちいさい秋みつけた」「夕方のおかあさん」「わらいかわせみに話すなよ」「シャベルでホイ」「とんとんともだち」「べこの子うしの子」「お月さんと坊や」などがあります。
  「かわいいかくれんぼ」が、ふたりの最初の曲です。この曲が、作詞をしたサトウハチローのイメージに合っていたので、それからは、作曲を中田喜直に依頼するようになりました。
 「すなおな、むりのない、いやみの少しもないのが中田さんの作曲の一大特長です」と絶賛しています。 コンビで作った童謡「ちいさい秋みつけた」には、「ハゼ」が読み込まれています。ハチローは当時、東京・文京区弥生に住んでおり、その家の庭には秋になると紅葉する「ハゼ」の木があったそうです。亡くなるまで住んだ家は、「サトウハチロー記念館」になっていましたが、現在は、岩手県北上市立花・展勝地公園内に移転しました。

 【サトウハチロー略歴】 「うれしいひなまつり」の項目に略歴があります。

 【中田喜直の略歴
  ・大正十二年(1923年)八月一日、東京府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字欠塚(現・渋谷区恵比寿)で三男として生まれました。父親の章(『早春賦』の作曲者)は、喜直が小学二年生の時に亡くなりました。喜直の名前は、「よしただ」と読みますが、みんなが「よしなお」と読むので、「よしなお」で通しました。
  ・昭和十五年(1940年)、三月、青山学院中等部四年修了。四月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)予科入学。
  ・昭和十六年四月、本科器楽部(ピアノ専修)に進学、太平洋戦争開戦にともない同十八年九月二十五日、東京音楽学校を繰り上げ卒業し、宇都宮陸軍飛行学校に入学。
  ・昭和十九年(1944年)三月、宇都宮陸軍飛行学校卒業。陸軍少尉に任官。十一月頃、重爆撃機のパイロットとしてフィリピン・マニラの戦場に向かいました。
 ・・・ ・終戦後は、作曲家として活躍しました。
 「かわいいかくれんぼ」は、二十七歳の時の作品です。この作品から童謡の作曲が本格的になりました。
  ・昭和二十八年(1953年)四月、四十歳を過ぎて、作曲のかたわらフェリス女学院短期大学専任講師(音楽理論担当)に就任。後進の指導や合唱団の指導にもあたりました。同二十九年十二月、フェリス女学院短期大学助教授(実用和声学担当)に昇任。同三十九年十一月、フェリス女学院短期大学教授に昇任。平成二年四月、フェリス女学院大学教授に就任。同五年十月、フェリス女学院大学名誉教授。
  ・昭和三十年(1955年)、磯部俶、中田一次、大中恩、宇賀神光利ら五人で「ろばの会」結成。新しい芸術的なこどもの歌を作る運動を始める。
  ・昭和四十年(1965年)十月、日本音楽著作権協会理事に就任(1995年9月まで)。
  ・昭和四十四年(1969年)、日本童謡協会設立、理事に就任。
  ・昭和五十四年(1979年)十月、日本童謡協会会長に就任。
  ・昭和五十五年(1980年)、『嫌煙の時代』(渡辺文学共著・波書房刊)を上梓。禁煙運動に力を入れる。
  ・昭和五十八年(1983年)五月、社団法人日本作曲家協議会理事に就任。
  ・昭和五十九年(1984年)に、七月一日を「童謡の日」と定めました。
  ・昭和六十三年(1988年)四月、神戸山手女子短期大学講師に就任。
  ・二千曲あまりの作曲をして、平成十二年(2000年)五月三日、直腸がんのため享年七十六歳で亡くなりました。  
 近年相次ぐ青少年の犯罪については、「小さい頃、童謡を聞いていないからかな」と言っておられたそうです。その言葉を平成十二年五月二十三日の朝、NHKテレビ七時のニュースが報じていました。童謡を愛する人の言葉です。

▲かわいいかくれんぼ/絵は林義雄。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊,講談社より


 「かわいいかくれんぼ」は、文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には、選ばれていません。
 平成二十一年発行の小学校音楽教科書には「かわいいかくれんぼ」は掲載されて いません。

 
著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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ちいさい秋みつけた

作詞 サトウハチロー
作曲 中田喜直   

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)



  【初出】 サトウハチロー著『とんとんともだち』(国土社)一九七五年十月二十五日発行には、初出発表誌・年月日(不明)と書いてあります。

 ▼『とんとんともだち』(国土社)掲載 国土社の詩の本2
  サトウハチロー/詩■こさかしげる/絵(装画)
  昭和五十年(1975年)十月二十五日初版発行
   「きいろいきいろい歌」以下三十九篇。「べこの子うしの子」「かわいいかくれんぼ」「シャベルでホイ」
   「とんとんともだち」「夕方のおかあさん」「お月さんと坊や」「秋の子」「わらいかわせみに話すなよ」
   「サンタクロースは不思議だな」ほか。


 『中田喜直ポピュラー歌曲集』(音楽之友社)一九七九年六月二十日発行には「一九五五年十一月三日、NHK秋の祭典(委嘱)」と書いてあります。

 【NHK秋の祭典について】 この歌は、昭和三十年十一月三日、NHKラジオで放送されました。十三歳の少女歌手の伴久美子が女声合唱付きで歌いました。
 “NHKは、昭和30年度「放送芸能祭」特集番組編成実施(10月29日~11月3日)。「秋の祭典」創作歌謡曲集は、第10回文部省芸術祭の音楽部門に参加。昭和30年11月3日に放送。”(日本放送協会編『NHK年鑑』1957年による。
 この年鑑は神奈川県立図書館所蔵。曲名は掲載されていません。2010/02/17に調査済み)

 “放送局から委嘱された八人ずつの作詞家と作曲家がペアを組み、それぞれが一曲ずつ計八曲の創作歌謡を競作し、紹介しあうというものでした。 この企画がサトウハチローに持ち込まれたとき、ハチローは「オレはもう歌謡曲はつくらない。童謡でもよければ引き受ける」と言ったと伝えられています。実際、“秋の祭典”で発表された作品は、『ちいさい秋みつけた』以外は『摩周湖の歌』(菊田一夫作詞・古関裕而作曲)、『白いカンバス』(藤浦洸作詞・服部良一作曲)など、歌謡曲が大半でした。”(NHKテレビテキスト『きょうの健康』2007年10月号 文・枡野文昭による)。
 ★他の創作歌謡五曲の曲名を知りたいものです(NHKハートプラザに依頼して調査中2010/02/18)。

 ●長田暁二編著『心にのこる日本のうたベスト400』(自由現代社、1992年発行)と、CD抒情愛唱歌大全集『心のうた日本のしらべ』の解説には、次のように書いてあります。
 “昭和30年11月3日のNHK放送記念祭の折、NHKの第一線の作詞、作曲家12人に委嘱して、6曲の新しい歌を発表したが、その時の歌ではこの曲のみが後世に残った。昭和37年の第3回日本レコード大賞童謡賞をボニー・ジャックスの歌で受けてから、俄然、注目されるようになった。”

 しかし、長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社、平成元年四月二十五日発行)では、次のように書いてあります。
 “昭和三十年十一月三日、NHK放送芸能祭『秋の祭典』の折り、局では第一線で活躍中のヒットメーカーの詩人八名(西条八十、佐伯孝夫、藤浦洸、菊田一夫ら)の作品を、服部良一、古関裕而、飯田三郎、米山正夫ら音楽家に作曲を委嘱して新しい歌を発表しました。”
 また、長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(2007年発行)では、“NHKの第一線の作詞、作曲家12人に委嘱して、6曲の新しい歌を発表した”という記載は省かれています。

  【新聞のラジオ番組表を調査】  


 朝日新聞縮刷版(日刊) 昭和30年11月3日(木)NHKラジオ第一夜7時30分から8時15分放送。
 タイトル「秋の祭典」歌 岡本敦郎、松島詩子、伴久美子、藤山一郎、宮城まり子、奈良光枝、伊藤久男他。

 毎日新聞縮刷版(日刊) タイトル「秋の祭典」歌 岡本敦郎、松島詩子、藤山一郎、宮城まり子、奈良光枝、伊藤久男、淡谷のり子、津村謙、荒井恵子、近江俊郎。

 <調査結果> 出演歌手の名前だけが掲載してあり、創作歌謡の曲名はわかりませんでした。(2010/02/17)

 【『新しい こどものうた』で発表】
 童謡作曲の研究グループ、「ろばの会」の第一回作品集、ろばの会編『新しい こどものうた』(音楽之友社、昭和三十一年十月発行)に発表された。

  【七年後に大ヒット】 
 伴久美子の歌を聞いたキングレコードのディレクター長田暁二は、感動を覚えて、すぐレコード化したいと思いましたが、ハチローも伴久美子もコロムビアの専属だったのでかないませんでした。歌の放送は、これ一回だけでした。

  <テレビでは> 
 『NHKみんなのうた』昭和三十七年(1962年)十・十一月の金曜日の歌としてボニージャックスの歌で放送されました。繰り返し放送され、みんなが覚えて歌いました。

  <レコードでは> 
 昭和三十七年、ハチローがコロムビアの専属契約が切れるのを待っていたキングレコードのディレクター長田暁二は、複数の歌手が歌う、ステレオLP盤『サトウハチロー童謡集』を制作したいとハチローに提案し、快諾を得ました。七年前にラジオ番組で歌った伴久美子は引退していましたので、当時売り出し中のボニージャックスを起用して初レコーディングしました。別にダークダックス盤も作られました。レコードが発売されるとたちまち大ヒットとなりました。十二月、第四回日本レコード大賞童謡賞がボニージャックス盤に授与されました。

 <長田暁二の功績>
 「ちいさい秋みつけた」を語る時、キングレコードの制作にあたったディレクターの長田暁二の功績は大きく、特筆する必要があります。
 まず、NHKラジオ『秋の祭典』を聴いていて、一度だけ放送された「ちいさい秋みつけた」を名曲だと判断した事が、すばらしい。さらに、ハチローのコロムビアの専属契約が切れるのを、ずっと待っていた。そして、『NHKみんなのうた』で歌いヒットしたボニージャックスを起用して初レコーディングした。長田暁二念願のレコードは、晴れて第四回日本レコード大賞童謡賞を授与された。「ちいさい秋みつけた」にとって、ラッキーなチャンスが続きました。
 そして今、NHKラジオ『秋の祭典』で発表された八曲の内、残っているのは、この一曲だけ。つまり、長田暁二は「ちいさい秋みつけた」を語る時、忘れてはならない人です。

  【タイトルについて】 サトウハチロー記念館のパンフレット『叱られ坊主』の抒情歌のコーナーには「ちいさい秋みつけた」のタイトルで紹介してあります。サトウハチロー著『とんとんともだち』(国土社)も、『中田喜直ポピュラー歌曲集』(音楽之友社)も、タイトルは「ちいさい秋みつけた」

  【ハチローの美しい詩について】
 <子どもの歌を書く>
 昭和二十九年秋、NHKは翌年の"秋の祭典"に一線で活躍する詩人と作曲家を組ませて新曲を発表しようと企画しました。
 戦後、『りんごの唄』『長崎の鐘』などの流行歌を作ったハチローですが、当時は「大人の鑑賞にも耐える美しい子供の歌を作りたい」と考えていました。NHKから依頼を受けたハチローは「ぼくはもう、大人の歌は書かないんですよ。子どものための歌でもいいですか」と言って作ったそうです。

  (一番)
 「誰かさん」の繰り返しが、子どもの心をつかむ、わらべ唄調です。
 「めかくし鬼さん 手のなる方へ」など、ハチローらしい、自分が子どもになってしまう作風です。
 昭和三十七年にLP『サトウハチロー童謡集』が発売された。野球好きなハチローと親しかった長嶋茂雄が次のような推薦の言葉を寄せている。「あんなデブでひげもじゃで、どうしてこんなに楽しい子どもの歌ができるのかなあ」。

  (二番)
 「うつろな目の色 とかしたミルク」は、不思議な感覚で心をとらえます。
 ボニージャックスのトップテナーの西脇久夫さんが「うつろな目の色ってなんですか?」とハチローに聞くと「おれだってわかんないよ」と答えたという。
 朝日新聞be編集グループ編『うたの旅人』Ⅱ(朝日新聞出版)には、興味深い事が書いてあります。
 “「誰かさんとは、私です」と言うのは、東京都文京区弥生のサトウハチロー旧宅の隣に住む水野陽一さんだ。水野さん宅の二階は、少年時代の水野さんの部屋だった。すりガラスからハチロー宅の塀越しにハゼの木が見えた。「北向きの部屋で『曇りのガラス』からハゼが見えるのはうちしかありません」という。ハチローの没後、亡くなった妻房江さんから水野さんは「誰かさんって、あなたのこと」と言われたという。水野さんが二階から見下ろすと、ハチローは家の中でパンツ一枚、あるいは全裸でいた。”
 ハチローは、水野さんがガラス越しに自分を見ていたことを知っていて、「お部屋は北向き くもりのがらす うつろな目の色 とかしたミルク」と書いたのでしょう。
 少年の目線を鋭く切り取ったハチローの才能が、すばらしいです。ハチローのおちゃめな一面もうかがえます。
 ところが、ハチローはこの歌の事をまったく忘れていて、長田暁二さんが歌詞を書いて見せると、「あっ、これはおれの詩だ。なかなかよくできてるな」と言ったそうです。のん気なハチローです。

  (三番)
 「むかしの むかしの 風見の鳥の」は、幼い頃、足が不自由だったハチローは、母親に背負われて教会に通いました。母親の背中から見た教会の屋根の風見鶏がそのままモチーフになっています。母親は熱心なクリスチャンでした。  「風見の鳥」・・・にわとりの形をした風向計です。
  「ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ」は宝石の輝きです。自然を見る目の確かさを感じさせます。そのしみじみとした郷愁は古風ですがわかりやすいので、みんなの共感を呼び、今でも秋になると必ず愛唱されるのです。

 <なぜ、秋が「ちいさい」のか>
 詩人・なかにし礼は、「ちいさい秋の繰り返しは、老いがしだいに近づいてくるようだ」と言いました。音もなく忍び寄る秋の気配を、老いが来ると重ねたのでしょうか。思いがけないその言葉に、私、池田小百合は衝撃を受けました。 「ちいさい秋」の繰り返しは耳に、心に残ります。日常の風景の中にある秋を「ちいさい」としてとらえたところに、ハチローの才能が光っています。

 ハチローが東京・文京区弥生二丁目に住んでいた時、書斎の窓から見た庭のハゼの葉を読み込んでいます。「ちいさい」と形容したのはそのためです。
  見とれていると夕焼けになりました。「はぜの葉あかくて 入日色」とあります。庭の「ちいさい」美しい秋は、ハチローの幼かった頃へ、そして歌うみんなの秋へと大きく広がって行きます。

  <最初に浮かんだフレーズは>  最初のノートでは、三節目が一番先に書いてある。

    だれかさんが だれかさんが だれかさんが みつけた
    ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
    むかしの むかしの かざみのとりの
    ぼやけた トサカに はぜの葉ひとつ
    はぜの葉 あかくて 入日色
    ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みいつけた



 つまり、このフレーズが詩が生まれるきっかけとなった。ハチローが一番書きたかった部分です。その後、試行錯誤して一番重い部分をラストにしたのでしょう。

  <きっかけになったハゼ>
 詩が生れるきっかけになったハゼの木はハチローの自宅が取り壊された後、文京区役所の隣にある礫川(れきせん)公園に移されました。大きな木に成長しています。

  <ハゼ>  ウルシ科 別名ロウノキ
 鳥の羽を思わせる 羽状複葉の葉は、カエデ類よりひと足早く真っ赤に染まる。同属のウルシ、ヤマウルシ、ツタウルシなども紅葉が美しいが、ハゼノキも含めていずれも有毒なかぶれ成分を樹液中に含むので、紅葉も手を触れないほうが安全。果皮からロウが採れる。昔は盛んに栽培された。

 ハチローは、『かわいいかくれんぼ』でコンビを組んで成功した中田喜直を作曲に指名し、歌手はハチローの強い要望で伴久美子が起用されました。

 【中田喜直の美しいメロディーについて】 中田喜直の秋の歌の代表作です。
 ホ短調、四分の四拍子。十二小節の曲です。二小節で作られたフレーズが、六つ集まり、自由な形式で作られています。最初の二小節が曲首と曲尾に使われて曲をまとめています。途中の四つのフレーズの間には模倣とか対照のようなものをうかがうことはできない。しっかり歌詞を暗記しないと、間違って歌ってしまうことがあります。
 第五小節から十小節目まで全体が「山」に当るので、歌う時は、「山」の部分を生かす歌い方にし、他の部分はサラッと歌いましょう。
 前奏と間奏のピアノは特に美しく、すばらしいものです。中田喜直の才能が発揮されています。最後は弱く高く伸ばします。まとめるのが難しい部分です。練習が必要です。最後のピアノ部分の余韻を残す終わり方も見事です。

 【教科書での扱い】 『音楽6』(教育出版)昭和四十四年発行、『新しい音楽6』(東京書籍)平成21年発行にも「小さい秋見つけた」のタイトルで掲載されています。学校でも歌われ、親しまれています。

  【サトウハチロー記念館】 
 「サトウハチロー記念館 叱られ坊主」は、岩手県北上市立花(展勝地公園内)にあります。ハチローは、昭和二十九年に童謡集『叱られ坊主』(全音楽譜出版社)で第四回芸 術選奨文部大臣賞を受賞しています。館長は次男の佐藤四郎氏。
 「ハチローの親父が青森県弘前の生まれ、おふくろは宮城県仙台で生まれ育ちました。『二人の間にできたボクはまぎれもない東北っ子、気取って言うなら、みちのくっ子かな』とはハチローの弁。だから「この地に記念館を」という話があったとき、迷わず決めたんです」。
 館内には復元されたサトウハチローの書斎があり、ハゼが見えたという窓が右側にあります。
 北上市では、毎年十二月に「おかあさんの詩全国コンクール」が開催されます。

  【テレビの誤解】 歌がヒットすると、テレビで放送される秋の山々の紅葉の風景のバック音楽に「ちいさい秋みつけた」が使われました。ハチローは、残念そうだったそうです。
 「違うんだ。それじゃあ『でっかい秋みつけた』なんだ」と、寂しそうに言ったそうです。山全体が紅葉している秋でなく、ハチローの家の小さな庭にしのびよる秋を書こうとしたのです。


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