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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
河村光陽作曲の童謡
   赤い帽子白い帽子  うれしいひなまつり    かもめの水兵さん
グッドバイ  船頭さん   仲よし小道   りんごのひとりごと
   河村光陽の略歴   サトウハチロー略歴    武内俊子略歴
童謡・唱歌 事典 (編集中)

 
赤い帽子白い帽子

作詞 武内俊子
作曲 河村光陽

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/08/06)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【作曲者の自筆楽譜】
  河村光陽自筆楽譜には昭和十二(1937年)年十月二十日と作曲日が書いてあります。曲は、初めから終わりまでスキップのリズム(タッカ タッカ)です。したがって、弾んだ生き生きとした感じが出ています。楽しい気分で歌いましょう。

 【作詞者について】
  武内俊子は、当時としては珍しい女流詩人で、子(二男二女)を持つ母親としての立場から生活感のあるやさしい詩をいくつも書きました。『赤い帽子白い帽子』は、仲よしの可愛い子供の様子を、母親の視点から描いています。素朴で純粋な歌です。「仲よし」に「さん」を付けて「仲よしさん」としたのは愛情表現で、繰り返される「いつも」という言葉には母親の願いが込められています。

 【詞の解説】
  「ひより=日和」は、晴天のことです。三番には「笑い声」があり、四番には「歌い声」が出て開放的です。武内俊子の優しさ、家庭の温かさが伝わってきます。昭和十二年七月七日、日中戦争が始まり貧しい時代が来ていました。

 【曲の発表】
  昭和十三年(1938年)一月下旬、キングレコードより発売(二月新譜)。レコード番号・二一五〇五。歌手は作曲者の娘・河村順子です。
 (レコードについては、北海道札幌市のレコードコレクター北島治夫さんによる)

別冊太陽より.<昭和12年>は間違いでしょう.発売されたのが昭和13年ですから.
絵の作者は、署名から黒崎義介とわかります.
 
 ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の「キングレコード 昭和12・11」の昭和12・11の記載は間違い。順子が書いた季刊『どうよう』19号「レコード初吹き込み曲目リスト」は、「昭和13年キング(歌手)河村順子」となっています。

 レコード化された歌は、「レコード童謡」と呼ばれました。この時代のレコード童謡は、数少ない娯楽の一つとして子供たちに親しまれました。歌唱だけでなく幼稚園や小学校で遊戯の曲としても用いられたので、この曲で踊った思い出を持つ人は多いでしょう。

 【歌唱表現】
 「しょって」の音程に注意して歌いましょう。『仲よし小道』(三苫やすし・作詞 河村光陽・作曲)の「しょって」と間違えて歌う人があります。なぜ間違えて歌ってしまうのでしょうか。それは、いずれも歌詞が同じ「ランドセル しょって」だからです。
 ●私、池田小百合は、玉川大学継続学習センター主催の玉川大学公開講座「懐かしい思い出の歌・童謡・唱歌 みんなで歌いましょう」を毎回楽しみにして、参加していました。ある時、講師の玉川大学芸術学部教授が二つのグループに分けて『赤い帽子白い帽子』と『仲よし小道』を交互に歌わせました。途中でみなが混乱し、笑いましたが、楽しくて笑ったわけではありません。意味のない指導は、やめてほしいものです。

▲あかい ぼうし しろい ぼうし/絵は林義雄。
「童謡画集(3)」1960年11月25日刊,講談社ゴールド版より


 【武内俊子略歴
 明治三十八(1905年)年九月十日、広島県御調郡三原町(現・三原市)の浄念寺で生まれました。旧姓・渡辺。
 七歳の時、両親と弟と一緒に広島市内に転居し、京橋川沿いの土手町に住み、段原小学校に入学している。
 広島県立広島高等女学校から広島県立広島高等女学校専攻科に進学したが中退。
 大正十四年(1925年)秋、広島市出身の武内邦次郎と結婚して、東京世田谷三軒茶屋に住む。
 四人(二男二女)の子供のよき母である傍ら、昭和四、五年頃から、野口雨情の門下生として童謡を作り始め、文筆活動に入る。
  『かもめの水兵さん』『リンゴのひとりごと』『船頭さん』『赤い帽子白い帽子』などの童謡を作詞した他、数多くの童謡を書き残している。
 昭和二十(1945年)年四月七日、三十九歳の若さで三軒茶屋の自宅で病没。
 広島市西区江波二本松の武内家の菩提寺慈仙寺に墓と、山門前に俊子の夫の邦次郎によって建てられた俊子の顕彰碑(1978年建立)がある。

  (註Ⅰ)三原市宮浦公園にある女流詩人 武内俊子生誕記念碑 童謡一路 裏面の碑文

          女流詩人 武内俊子
      武内俊子さんは、明治三十八年九月十日
    当三原市浄念寺で、父渡辺俊哲の長女として生まれ
    県立広島高等女学校を卒業され、大正十四年秋、
    広島市出身の武内邦次郎氏と結婚されてから、
    東京世田谷三軒茶屋に移られました。
      よき母である傍ら、昭和四年、五年頃から
    文筆活動に入られ「かもめの水兵さん」「リンゴのヒトリゴト」
    「船頭さん」「赤い帽子白い帽子」等の童謡を、
    作詞された他、数多くの童謡を書き残されております。
      昭和二十年四月七日四十一才の若さで三軒茶屋の自宅で
    病没されました。菩提寺は広島市江波町の慈仙寺に
    あります。             昭和五十三年十月
                                   柳井尭夫

  (註Ⅱ) 碑文には「県立広島高等女学校を卒業」とある。広島県立広島高等女学校専攻科が独立して広島女子専門学校になったのは1928年のこと。俊子は1925年に結婚、上京しているので広島県立広島高等女学校卒業後、広島県立広島高等女学校専攻科へ進学し中退したのではないかと推測できます。
  (註Ⅲ)亡くなったのは満三十九歳七カ月、数え享年四十一歳。生地浄念寺の説明看板は「41歳で亡くなった」と記されている。


著者より引用及び著作権についてお願い】    ≪著者・池田小百合≫

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早起き時計

作詞 冨原 薫
作曲 河村光陽

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2014/10/03)



  【レコード童謡】
 冨原薫の自筆原稿のタイトルは「早起き時計」です。季刊『どうよう』19号掲載の河村順子著「レコード初吹き込みの曲目リスト」によると、昭和十二年、河村順子の歌でキングからレコーディングされました。二番の四行目は、「さーっさ ラジオ体操だ」と歌いました。一番から四番まで歌っています。この歌声は、CD『甦える童謡歌手大全集』(コロムビアファミリークラブ)で聴くことができます。
 与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、“キングレコード 昭12・6”と書いてあります。発表は、キングレコードから昭和12年6月ということです。

  【拗音と歌い方について】
 少女歌手・河村順子は、キングで吹き込んだ時、一番は「きれい」「とけい」と歌いました。昭和十五年(キング)の「りんごのひとりごと」も「きれい」と歌いました。
 歌い方について、河村順子さんから次のように教えていただきました。
  「戦前の文部省の歌い方は「きれい」「とけい」でしたが、戦後は「きれー」「とけー」というように「い」を使わないで歌うように指導が変わって来ました。ですから、子供の頃歌った歌い方と、大人になってレコーディングした歌い方とでは違っています。「きれい」と歌った方がきれいですが、その時々の歌い方に合わせて歌いました。どちらで歌われても、けっこうです」。

  【戦後の扱い】
 進駐軍は集会を規制しました。ラジオ体操も理解されず、一時期取り止めさせられました。当時、日本では朝起きるとラジオ体操をしました。時計が鳴ったので、子供だけでなく大人も家から広場に集まる習慣は、進駐軍にとって「いったいなんだろう?」と不思議だったに違いありません。戦う相談ではないかと警戒したのでしょう。これにより冨原薫と河村光陽が相談して、「さーっさ ラジオ体操だ」は、「ちゅんちゅくすずめも よんでいる」に改めました

  <初出の詩の構成>
   一番、時計が鳴ったので起きる。
   二番、ラジオ体操をする。
   三番、体操のかけ声は一 二 三。
   四番、その後、学校へ行く。

  初出の二番は、「さーっさ ラジオ体操だ」でした。「ラジオ体操」という言葉を削除してしまうと、三番のラジオ体操のかけ声の「一 二 三」が意味をなしません。この歌には、朝起きてから学校へ行くまでの時間の経過があります。

  【時計の音】
  歌に響き続ける「ちっくたっくちっくたっく ぼーんぼん」の時計の音を表わした擬音語が効果的です。「ちっくたっく」は、秒針の動きと音を示し、「ぼーんぼん」は時刻を知らせる音です。
  冨原薫は「汽車ぽっぽ」でも、「汽車汽車 ぽっぽ ぽっぽ しゅっぽ しゅっぽ しゅっぽっぽ」と擬音語を駆使して成功しています。
  河村光陽は明確な時計のリズムを表現するために四分の二拍子で作曲しました。見事です。

  【先生の号令】
 歌詞を読んでみると、まるで先生の号令のようです。「おはよう おはよう 夜があけた」「きれいな朝だよ とびおきろ」「時計がなってる よんでいる」。各連とも先生の呼びかけの声のようです。
  冨原薫は明治三十八年七月三日、当時の静岡県駿東郡御厨町(すんとうぐんみくりやちょう 現・御殿場市)御殿場四五四番地の出身。
  昭和二年、準教員として高根尋常高等小学校に転勤。以後三十年余りの間、訓導(戦後は教諭)として昭和三十三年三月までの大半を高根小学校で勤務し続けた。その期間が薫の作詞作曲の全盛期。その詩は、時代的なこともあるが、軍国調の物が多い
  『大日本靑少年團歌』の作曲をした。大日本青少年団の団歌の歌曲に応募し当選した。応募には深山芳香(みやまよしか)のペンネームを付記している。

  【英語で歌おう】
  早起き時計 Hayaoki-dokei   訳詞 高田三九三。河村光陽名曲集『かもめの水兵さん』(東亜音楽社)による。



▲はやおきどけい/絵は中村千尋。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊,講談社より

▲「童謡画集(5)」講談社ゴールド版/絵は深沢邦朗。1961年7月1日刊


  【冨原薫の略歴】「汽車ぽっぽ」を参照。

  【河村光陽の略歴】「仲よし小道」を参照。

著者より引用及び著作権についてお願い】    ≪著者・池田小百合≫

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うれしいひなまつり

作詞 サトウハチロー
作曲 河村直則(河村光陽)

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/11/12)




  【詩の誕生】
 昭和九年(1934年)十月三日、最初の夫人(間瀬くら)と協議離婚します。すでに映画女優の(歌川るり子)と東京市下谷区(現・台東区)上野桜木町に所帯を持っていました。るり子は、元オペラ歌手で、本名は(加藤芳江)といいます。くらの三人の子供たち(長女・小学校六年のユリヤ、次女・四年生の鳩子、長男・五歳の忠)を桜木町の家に引き取ることになりました(註・「ユリヤ」という名前は、ハチローの父・佐藤洽六(俳号は「紅緑」。新聞記者のち売れっ子作家)が、『ロミオとジュリエット』からジュリエットのフランス読みをとって名づけた)。
 翌、昭和十年三月の雛祭りに、実の母親と離れて暮らす子供たちが寂しがっているだろうとの思いから、松坂屋にいた立教大学時代の友人の世話で、二百円の高価な雛人形セットを購入しました。ちなみに大学出の初任給が五十円か六十円だった頃のことです。御殿のような屋根、ほんとうに抜くことのできる刀、引出しつきの箪笥、電気がつくぼんぼり・・・、それは豪華なもので、娘たちは一日中、眺め暮したという(註・この雛人形セットについての記述は、いろいろな出版物に書いてありますが、ハチローの弟子である宮中雲子の記した伝記『うたうヒポポタマス』(主婦の友社)からの抜粋であることをきちんと記してほしいです)。
 最初、この高価な雛人形は誰にも触らせず、ハチローが一人で飾ろうとしましたが、人形の配置などがわからなくて、なかなかうまくいかず、ついにお手伝いさんや、家族全員で飾ったという話も伝わっています。『うれしいひなまつり』は、この時の離れいっぱいに飾られた豪華な雛人形と、家族の喜びのようすをスケッチしたものです。

 【河村光陽が作曲】
 昭和十年(1935年)四月に『うれしいひなまつり』の詩が完成しました。ハチローは喜んで作曲家の河村光陽に送りました。昭和十年四月七日、光陽はこの詩が気に入り、さっそく作曲しました(註・作曲年月日は、河内紀・小島美子著『日本童謡集』(音楽之友社)で確認できます)。
 前奏には力強い美しさがあり、一小節目が始まっただけで「うれしいひなまつり」だとわかるほど印象的で、つい口ずさみ踊りたくなります。四分の二拍子で、タタンタの鼓のリズムを基調に、日本的な華やいだ琴の響きの伴奏を付けました。まるで五人囃子が演奏をしているかのようです。これが成功して、雛祭りの雰囲気にぴったりの歌に仕上がり、子供たちに人気の曲になりました。
 また、短調(ヨナ抜き短音階)で作ってあるので、繰り返して歌ってみると、その楽しさ嬉しさの裏に哀愁をおびた気品が感じられます。「随分悲しい曲なのに、何で<うれしい>のか」とか、「子供の演歌のような感じ」と思う方もあるようですが、これが大人にも愛唱される最大の理由でしょう。歌詞がほぼ七五調の定型詩であったことも、曲を付けやすくしていました。琴や和楽器で演奏するのもいいです。雛祭りの歌の定番です。

 【レコードの発売】
 昭和十一年(1936年)の雛祭りに合わせて、ポリドールの専属になっていた光陽の長女、順子の歌でレコードが発売されると、大ヒット曲となりました。ハチロー、河村父娘にとって忘れられない出世作となりました。
 曲名 「嬉しい雛まつり」
 編曲 河村直則
 歌手 河村順子
 伴奏 日本ポリドール管弦楽団
 レコード番号 ポリドール8136-A (9896BF)
 録音年月日 昭和十一年(1936年)一月中旬
 発売年月日 昭和十一年(1936年)二月二十日(三月新譜)大衆盤(一円)。
  (註)レコードについては郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による。この本のCDは、初吹き込み歌手の声を聞く事ができる貴重なコレクションです。

 【作風へのこだわり】
 ハチローの童謡は、新鮮で明るく楽しいものですが、ほとんどは、自分が子供だった大正時代を懐かしみ、その時代に引き込む作風です。『かわいいかくれんぼ』(ひよこがね お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ)、『とんとんともだち』(とんとんともだち みんなで九人)、『べこの子うしの子』(べこの子 うしの子 まだらの子)、などがそれです。作曲は中田喜直。
 この『うれしいひなまつり』は、写実なので、他に見られるような「自分が子供になってしまうような詩」ではありません。「子供の演歌のような感じ」で、保育園や幼稚園の季節の行事の歌として歌うには、歌詞が長く難しい。それでハチローは、あまり気に入っていなかったようです。 しかし、歌う人が子供だった時代に誘い込まれる魅力は、のちにハチローが作る、どの童謡にも劣らない、すばらしいものです。この歌以上の雛祭の歌が生まれてこないことからも納得できます。
  ハチローにとって、娘の雛祭りは、自分が買ってあげた立派な雛人形のことだったに違いありません。空想によって書かれたものではなく、現実の描写なので、その美しさが手に取るように伝わってきます。雛人形がどんなに豪華だったかを、私たちは歌詞から想像することができます。歌うと、全てが自分の雛人形のように愛しく思えます。雛人形を買ってもらえない子供にとっては、この歌を歌ったり踊ったりすることで、なぐさめにもなっていました。
 読売新聞文化部著『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)によると、テレビからこの曲が流れると、ハチローは「おい、切れよ」と不機嫌になり、晩年まで「だれか、これにとって代わるひな祭りの歌を書いてくれないかなあ」とぼやいていたそうです。いやがっていた理由は、「言葉遣いがハチローらしくない。『お嫁にいらした』(二番)と、身内のことに敬語を使っている点が、後々もひっかかっていた」。「歌を作った頃、既にみな他界していた同じ母を持つ姉妹への思いではないか」。これは、サトウハチローの息子の佐藤四郎(現・「サトウハチロー記念館長)の考察です。小野恭靖著『子ども歌を学ぶ人のために』(世界思想社)のように、これを利用して書物を書く場合には、「だれの発言か」明記してほしいと思います(註・四歳年上の姉は、嫁ぎ先も決まっていたが、胸を患って嫁に行かずに十八歳で亡くなった)。

  【サトウハチローはなぜ気に入っていなかったのか】 曲はさておき、もっと踏み込んで歌詞を見てみましょう。
 お雛様を段に順番に並べるときに、この歌を歌いながら並べていきます。すると、この歌詞はお雛様をただ並べただけだということに気づきます。以前に「写実」という言葉で説明したことです。ぼんぼり、もものはな、ごにんばやし、おだいりさま、おひなさま、かんじょ、びょうぶ、うだいじん。このみんなせいぞろいしているところが、子供が数え上げると満足するという心にぴったりしているのですが、詩人はこのような羅列を好まなかったのではないでしょうか。
 一番では「おはなをあげましょ もものはな」、この歌詞では「はな」が重なっています。ことばのねりこみ不足という感じです。
 二番では「すましがお」「しろいかお」と「かお」が重なっています。「かお」に注目する傾向は三番でも「あかいおかお」と続きます。こう「かお」ばかりに注目する傾向は、男目線で“みっともない”感じがします。
 四番は雛人形の描写から突然離れて女の子自身のことになります。しかも雛人形に合わせて、和服を着なければなりません。“おしつけがましい”と思う子供もいそうです。願望の姿であって実際に着る着ないは関係ないのですが、詩人はそうとは思えなかったのではないでしょうか。
 こんなふうに見ていくと、歌詞はもう少し工夫の余地があったような気がしてきます。ヒットしたからいい、歌われているからいいという気持ちにはならないサトウハチローの詩人としての姿が、見えてくるような気がします。
 <小林すみ江さんの意見>
 ひな人形の老舗「吉徳(よしとく)」の資料室長で日本人形玩具学会代表委員の小林すみ江さんの意見は次のようです。
 “歌詞では「お内裏さまとおひなさま」とあるが、正しくは男雛(おびな)と女雛(めびな)で、男女の人形一対を指して内裏雛(だいりびな)と言う。また、赤い顔は右大臣でなく左大臣の方なのだ”。
 歌が広まるとともに間違った言い方も広まってしまった。

 【タイトルと歌詞】
 三月三日の雛祭りは、女の子がやさしく健やかに育つようにと願う祭りです。昔は、女の子のいる家では雛人形を飾り、ご馳走を作って祝ったものです。 この歌は、みんなに愛唱され、「♪あかりをつけましょ 百ワット~」などの替歌が流行りました。また、テレビ番組の「曲名当てクイズ」のコーナーでは、必ず出題される歌です。「ひなまつり」「おひなさま」「かわいいひなまつり」「やさしいひなまつり」「たのしいひなまつり」「あかりをつけましょぼんぼりに」など、さまざまな答えが飛び出します。歌を知っている人でも、曲名を『うれしいひなまつり』と答えられる人は少ないようです。 「サトウハチロー記念館」のパンフレット「叱られ坊主」は、童謡『うれしいひなまつり』となっています。河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社、昭和42年発行)のタイトルも『うれしいひなまつり』で、歌詞は「幼い方のために」との配慮から全部平仮名で書いてあります。
 童謡絵本の歌詞は、幼児のためにという意図から平仮名やカタカナで表記されているものが多い。

  【桃の花が咲いていない理由】
 三月三日の雛祭りは桃の節句なのに、新暦三月では桃の花は咲いていません。それには理由があります。伝統的な行事は、もともと旧暦(太陰太陽暦)にもとづいて行われていました。しかし、今は新暦(太陽暦)のカレンダーで暮らしています。
 新暦は旧暦に比べ、一ヶ月ぐらい早くなります。旧暦の日付をそのまま新暦に当てはめると、季節感が合わず、行事に必要な花や食べ物などが間に合わない事も起こります。しかし、三月三日という日付に意味があるので、新暦の同じ日付で行います。
 そこで、新暦の日付から一ヶ月遅らせて行事を行う「月遅れ」というやり方が考え出されました。旧暦に対応する新暦の日付は毎年変わり、一ヶ月遅らせても新暦と旧暦とは一致しませんが、季節感は近づきます。
  私、池田小百合が子どもだった頃、神奈川県西部地域では、四月三日に「月遅れ」の雛祭りをしていましたが、次第に忘れられてしまいました。今では三月三日に花屋の店頭に桃の切り花が沢山並びます。四月になっても桃の生産農家がなくなったため、桃の木に咲く花を観る事はほとんどなくなりました。「桃の花」は春の季語です。
  (参考文献) 関根健一著『ちびまる子ちゃんの春夏秋冬教室』(集英社)

 【二人の出世作】
 レコード用の新作童謡として作られたものです。作詞者が「山野三郎」となっている出版物が多数ありますが、音楽史研究家でレコードコレクターの郡修彦氏によると、初出のポリドール盤から「サトウハチロー」と記されていて、戦後ほどなく発売されたキング盤にのみ「山野三郎」とあるそうです。
 また、作曲・編曲者の「河村直則」は、のちの河村光陽の本名です。二人にとって、この曲が出世作になりました。

 【河村光陽はペンネーム】
 明治三十年(1897年)八月二十三日、福岡県田川郡上野村(現・福智町上野(あがの))で生まれました。本名は「直則」です。東京音楽学校選科で学ぶ。
 昭和十一年、『うれしいひなまつり』がヒットすると、勤めていた東京市竹早尋常小学校の音楽教師を辞め、作曲に専念し、親子でポリドールからキングレコードの専属になりました。(註・当時、キングのレコード吹き込みは、ポリドールでおこなわれていました)。この頃、新居を建て、心機一転の意味を込めて名前を「光陽」にしました。

 【サトウハチローはペンネーム】
 本名は佐藤八郎。ペンネームは二十もありました。「サトウハチロー」のほかに「山野三郎」「もも いちろ」「かちお」「陸奥速男」「大道寺二郎」など(註・その他は、「サトウハチロー記念館」のパンフレット「叱られ坊主」で知る事ができます)。

 【サトウハチロー略歴】
  ・明治三十六年(1903年)五月二十三日、佐藤洽六(紅緑)の長男として、東京市牛込区市ヶ谷薬王寺前町(現・東京都新宿区市谷薬王寺町)に出生。本名は佐藤八郎。
  ・大正五年(1916年)、早稲田中学入学をしたものの、その後は八つの中学を転々としました。詩に興味を持ち始める。
  ・大正八年(1919年)、西條八十の門弟になりました。八十は、ハチローの才能を認め、作品をあちこちの雑誌に推薦してくれました。師弟関係にはこだわらず、作品を添削したり、手をとって教えるような事はしなかったので、ハチローは自由に詩の才能を伸ばしていきました。
  ・大正十五年(1926年)、処女詩集『爪色の雨』(金星堂)を出版。 詩人としての地位を確立。同時にユーモア小説作家(『ジロリンタン物語』ほか)、軽演劇作家、童謡・歌謡曲(「長崎の鐘」「りんごの唄」「二人は若い」ほか)の作詞家としても活躍。
 ・昭和二十七年(1952年)8月28日(木曜日)の毎日新聞復刻版には、「サトウハ チロー氏夫人自殺図る」の記事があります。ハチローの私生活は、四人の女性 (くら、るり子、蘭子、まゆみ)と、いろいろあり書ききれない。女性関係につい ては、童謡『うれしいひなまつり』のテーマから外れるので省略。

  ・昭和二十八年(1953年)、童謡集『叱られ坊主』(全音楽譜出版社)を出版。
  ・昭和二十九年(1954年)、童謡集『叱られ坊主』により第四回芸術選奨文部大臣賞受賞。同年11月20日(土曜日)、「自作詩朗読『おかあさん』サトウ・ハチロー」NHKラジオ第一 午後1時5分~2時5分の間に放送。 (毎日新聞復刻版ラジオ番組表)。
  ・昭和三十二年(1957年)、野上彰らと「木曜会」を主宰して童謡復興運動に尽くし、日本童謡協会会長、日本作詞家協会会長を務めた。また、NHKラジオ番組「話の泉」のレギュラーとしても知られた。
  ・昭和三十六年(1961年)、詩集『おかあさん』(オリオン社)出版。この三冊セットは、たちまち二百万部を突破するベストセラーになりました。ハチローは、お母さんの詩をたくさん書いていて、自らを「おふくろ屋」と称していました。 ハチローの母「ハル」は、夫に捨てられ、別居、離婚を経て四十八歳で亡くなっています。ハルは、声の美しい人で、クリスチャンだったのでよく讃美歌や西洋の音楽を口ずさんでいました。ハチローが童謡をつくるようになったのも「母の音楽」の影響かもしれません。また、音楽好きのハルは、ハチローにピアノを習わせました。先生は、姉の「喜美」。ハチローのピアノは小学校卒業まで続けられ、のちに楽譜に詩をつけるようになって役立つことになった。
  ・昭和三十七年(1962年)、「ちいさい秋みつけた」(歌・ボニージャックス)により第四回日本レコード大賞童謡賞受賞。
  ・昭和三十八年(1963年)、ホームソングと童謡に貢献したことによりNHK放送文化賞受賞。
 読書も詩や小説を書く時も、布団の上にうつぶせに寝た姿勢で、机は使いませんでした。幼児期に右脇腹に大やけどをした後遺症のため、これがもっとも楽な姿勢だったようです。
 また、酒(ビールは一日八~十本。但し来客があると倍増。ウイスキーが三日で一本。日本酒も同量程度)とタバコ(「富士」が一日百本)の日々だったようです。
  ・昭和四十八年(1973年)十一月十三日、童謡、歌謡曲、抒情歌、校歌、応援歌、コマーシャルソングなどたくさんの歌を残して七十歳で亡くなりました。
  以上は、「サトウハチロー記念館」のパンフレット「叱られ坊主」、『児童文化人名事典』(日外アソシエーツ)より抜粋。

 【童謡も詩】ハチローが作詞した戦後の歌謡曲「りんごの唄」は、暗い世の中に明るい希望を与えました。 童謡では「秋の子」「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみにはなすなよ」「べこの子うしの子」「もんしろ蝶々のゆうびんやさん」「めんこい仔馬」「とんとんともだち」「お月さんと坊や」「夕方のおかあさん」など多数あります。この美しい詩は、人々に感動を与え、「童謡も詩」であることを改めて教えてくれます。

 【言葉は美しく】ハチローは、「心はやさしく、言葉は美しく」という言葉が好きで、晩年はよく色紙に書いていたそうです。「ボクはこどもがすきです。こどものウタをつくるのがすきです。曲がつくとまたうれしくなります。」という言葉も残しています。ハチローは知れば知るほど味のある不思議な魅力のある人です(ハチローの私生活は、ドラマチックで書ききれない)。昭和を代表する詩人。

 【サトウハチロー記念館】文京区弥生から移転 岩手県北上市立花13-67-3(展勝地公園内)にあります。

▲うれしいひなまつり/絵は林義雄。「童謡画集(5)」1958年6月30日刊,講談社より

▲「童謡画集(5)」講談社ゴールド版/絵は蕗谷虹児。1961年7月1日刊


 【歌詞をひらがなで表現すること】 平成九年四月十日、私が主宰する童謡の会で『河村光陽を歌う集い』をした時、河村順子さんから河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社、昭和42年発行)をサイン入りでいただきました。『うれしいひなまつり』の歌詞は、「幼い方のために」ということで平仮名で書いてあります。これを見た時、保育園、幼稚園でも童謡の集いをしている私は、「ああ、これはいいな」と思いました。いつも、難しい漢字の歌詞に悩まされていたからです。
 以後、『うれしいひなまつり』の歌詞は、この本にそろえて平仮名にすることにしました。
 CD『にほんのうた第三集』(AVEX RZCM-46136)解説の歌詞も平仮名にしました。

 ある時、池田小百合編『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』(夢工房)を見た、男性の方から「東亜音楽社は現在の出版社ですから原典と異なります。原典は例えば「つけましょ」は「點けませう」に、「あげましょ」は「上げませう」に、「ひなまつり」や「おひなさま」は、それぞれ「雛」の字としたい。この方が全文平仮名よりはるかに「雛祭り」らしい雰囲氣がかんじられると存じますが。」という手紙をいただきました。
 『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』は、読んだり歌ったりするために作った本です。

 小田原市内の女性の方からは「孫が、私の持っていた『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』の本を見て、「かもめの水兵さん」「ぞうさん」「うれしいひなまつり」を知っていて一緒に歌いました。五歳でもわかるのですね」と話してくださいました。
 他にも『ひなまつり』の歌はありますが、今や保育園、幼稚園で雛祭りに歌うのは『うれしいひなまつり』が定番になりました。童謡は、子供と一緒に楽しく歌っていただきたいものです。幼子が歌い覚えてこそ、童謡は後世に残るのです。

 このページの記載は、サトウハチローの沢山の童謡を読み、歌ってから到達した結論です。これを利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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仲よし小道

作詞 三苫やすし
作曲  河村光陽

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/05/28)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 小さい頃、「仲よし小道は どこの道」と歌い、スキップをしたり、踊ったりした思い出のある人は多いことと思います。身も心も弾む楽しい歌です。
 いまでは、昔、学校へ通った道を歩くと、全然違う風景になっています。道は広くアスファルトになり、田畑だった所には、ぎっしりと新しい家が建っています。それでも、ずっと変わらない垣根や、お寺、川の流れもあります。
 学校からの帰り道は、レンゲやタンポポを摘んだり、シロツメクサで冠りや首飾りを作って遊んだものです。麦畑に入って麦笛を吹き、叱られた事も思い出されます。その寄り道の思い出の中には、いつも近所の友だちの顔があります。今頃あの子は、どうしているでしょうか。

 【詩の発表】
  『ズブヌレ雀』は童謡集か、同人誌か?
  ・秋山正美(構成・解説)『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)には、 “偶然、河村光陽が、やすしの作った謄写版刷りの作品集に出ていた『仲よし小道』をみつけたのが縁で、曲がついたという。 原詞では、第三節が「板橋かけていく」となっていたのを、子供がそんな橋の上を走って行くのはあぶない、という意見が出て、 現在のとおりに改められたのだそうである”と書いてあります。この記述からすると、謄写版刷りだったようです。
 ●“原詞では、第三節が「板橋かけていく」となっていた”は間違い。原詩は「板橋 かかつてる」である。また、“意見が出て”は、柳井尭夫著『思い出ばなし』によると、子供が板橋をかけ歩くのは危険であるという意見を主張したのは河村だった。

  ・藤田圭雄著『解題戦後日本童謡年表』(東京書籍)には、次のように書いてあります。
 “『ズブヌレ雀』(昭和十四年一月)の中にある「仲よし小道」はよく知られている”。この記述から『ズブヌレ雀』の発行は昭和十四年一月のようです。
  ・長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)では、“同人誌の「ズブヌレ雀」に発表”と書いてあります。
  ・畑中圭一著『日本の童謡 誕生から九〇年の歩み』(平凡社)によると、詩の発表は次のようです。
 “三苫やすしは、新日本童謡詩人協会を組織し、雑誌『新日本童謡』(1940年創刊)を刊行するとともに、「新日本童謡詩人協会叢書」として童謡集も出版した。代表作は「仲よし小道」(河村光陽曲)。童謡集『ズブヌレ雀』『モウモノオ汽車』がある。”

  ★童謡集『ズブヌレ雀』の所蔵図書館をさがしていたところ、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から次のようなメールが届きました(2016年4月25日)。
  “「やすし第八童謠集ズブヌレ雀」(三苫やすし童謠集 第8輯) 1939.1は、大阪府立中央図書館国際児童文学館 所蔵です。出版者名は三苫裕司。「仲よし小道」が収録されていると思います。
  なおこの童謠集は「新日本童謡詩人協会叢書」とは別のシリーズです。畑中圭一著『日本の童謡 誕生から九〇年の歩み』(平凡社)に書いてある「新日本童謡詩人叢書」は「新日本童謡詩人協会叢書」の間違いでしょう。1943.8に叢書第5輯「夕焼雀」発行している”。

 【歌ができた経緯】 
 長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、“昭和十四年一月二十日に作曲された”と書いてあります。できた曲をキングレコードの柳井尭夫ディレクターに見せ、二月七日に、光陽の娘の河村順子、金子のぶ子、山元淳子の三人の歌で、レコーディングされました(KING 31506「仲よし小道」昭和14年)。

 <柳井尭夫著『思い出ばなし』>
 長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)によると次のようです。
  <故三苫裕司の作詞であったが、三番四番あたりがまずいので、私と河村光陽と相談して手を入れた。中でも三番は創作に近かった。一見淡々たる詞であるが、ここまで来るのに、私と河村は幾日も幾日も論争した。私はとんとん板橋をかけてゆく、という書き出しが良いように思ったのであったが、河村は、子供が板橋をかけ歩くのは危険であると言う、又、詩情に乏しいと言う。結局、私が負けて、あのような詞になったもので、仲の良かった私と河村が、仕事の事で互いに激論も辞さなかった事例として、特に印象が深い>。
 以上によるとレコーディングをする前に、作曲者と、ディレクターの二人で三、四番をかなり改作したようです。このような作詞者抜きの改作は、当時は普通のことでした。

  【童謠集『ズブヌレ雀』】
 2016年5月9日、大阪府立中央図書館国際児童文学館から、やすし第八童謠集『ズブヌレ雀』(童謠作家協會發行)の複写が送られて来ました。
  ・『ズブヌレ雀』は童謠集。
  ・謄写版刷り。なんと美しい文字でしょう。
   編輯著者 三苫裕司 川崎市南幸町三丁目一七七二番地。
   發行所 童謠作家協會 川崎市南幸町三丁目一七七二番地。
  ・昭和十四年一月發行。
  ★表紙には、第八童謠集とあるが、目次には第七童謠集とある。

▲やすし第八童謠集『ズブヌレ雀』(童謠作家協會發行)表紙 ▲奥付;昭和十四年一月發行



▲目次「第七童謠集 ズブヌレ雀 目次」と書いてある。前集『子供馬車』以後の作品より六十篇を選んで編んだもの。
<「後記 六一ページ」は欠損もしくは印字間違いにて、ありませんでした(大阪 国際児童文学館より)>


▲童謠集に添へて
 最後のページに掲載されている。過去四年間に作品集七冊刊行、未発表の作品を加えると
六百篇を超える。童謠集はペンネームの三苫裕司。昭和十三年十二月八日の住所は川崎市南幸町三丁目一七七二。

▲詩「仲よし小道」  今歌われている歌詞と違います。

  【詩「仲よし小道」】詳しく見ましょう。
 元の詩を改作しました。
  ・一番
   「お唱歌 歌って」→「お歌をうたって」
  ・二番
   「菜種の 背戸の道」→「なの花 匂う道」
  ・三番
   「板橋 かかつてる」→「板橋 かけてある」
   「いつも 仲よく 腰かけて」→「仲よく並んで 腰かけて」
   「揺すつて 遊ぶよ 背戸の橋」→「お話するのよ たのしいな」
  ・四番
   「母ちやま お家で 呼んでます」→「母さまお家で お呼びです」
   「別れましょう」→「さようなら」
 以上のように改作したので、起承転結の洗練された歌詞になりました。改作して成功しました。

  【愛唱される理由Ⅰ】 
 できた詩は、起承転結になっています。 ある春の日の一日の「ぼく」のことを歌っています。女の子の名前は「みよちゃん」でかわいらしい響きです。しかし、みよちゃんの家の隣に住んでいる男の子の名前がありません。みよちゃんと学校へ行くのが毎日とても楽しみです。歌を歌うのは、嬉しい心の表れです。あわい初恋は、菜の花の匂いのようです。この歌は、かわいい「みよちゃん」とお話したいという、作者や改作者の願望だったのかもしれません。さらに、歌う人にもその同じ思いが伝わるので、いつまでも愛唱されているのでしょう。

 【愛唱される理由Ⅱ】 
 また、「みよちゃん」と仲の好い女の子の日常とも考えられます。春の明るい光の中、子供の楽しい平凡な一日です。教訓的な内容でない所が共感を呼ぶのかもしれません。小川の板橋に腰かけて話が弾みます。


▲絵の作者は署名から黒崎義介とわかります.少年と少女.
▲絵の作者は署名から黒崎義介とわかります.別冊太陽より.
<昭和12年>は間違いです.まだ作曲されていませんから.

 【愛唱される理由 III】 
 曲はタッカタッカのスキップのリズムでまとめられていたので、歌うと踊りだしたくなるのでしょう、たちまち子供たちの人気を集めました。 また、ハ短調で作ってあるので郷愁を誘います。大人は自分にもこのような時期があったなと懐かしさでいっぱいになります。これが、この歌が大人にも愛唱される最大の理由でしょう。
 リズムをはずませて、はっきりした言葉で明るく歌います。「どこのみち」の「ち」は、たっぷりのばして、「お歌を歌って」の所は、少し強い感じを込めて歌いましょう。

 【「しょって」の歌い方】 
 この歌を歌う時、注意深く歌わなければならない部分があります。それは、一番の三行目の「ランドセル しょってー」です。この「しょってー」は高く歌います。 光陽が昭和十二年十月二十日に作曲した人気の愛唱歌『赤い帽子白い帽子』(武内俊子作詞)「赤い帽子白い帽子 仲よしさん~」の一番の三行目にも「ランドセル しょって」があります。こちらの「しょって」は低く歌います。光陽はメロディーを変えて作曲しています。

▲「仲よし小道」の「しょってー」

▲「赤い帽子白い帽子」の「しょって」

 【歌ってみよう】
  「赤い帽子白い帽子」は、ハ長調(ヨナ抜き長音階)四分の二拍子、二部形式の曲です。 「仲よし小道」は、ハ短調(ヨナ抜き短音階)四分の二拍子、二部形式の曲です。 いずれもスキップのリズムで作られています。
 歌ってみるとわかるように、スキップのリズムは、歌いやすく覚えやすい。さらにヨナ抜き音階のメロディーは感傷的で、短音階になると、ますます感傷的になります。日本人は、このようなメロディーが大好き。同じタイプの歌でも、童謡ならいくらでも歌いたくなるものです。

 (註)ヨナ抜き音階・・・明治時代に、ドレミの代りにヒフミヨイムナとよんだことがあった。この四番目と七番目の音を抜くからヨナ抜き音階という。長音階と短音階の形がある。

▲上は「C Dur(ハ長調)ヨナ抜き長音階」,下は「c moll(ハ短調)ヨナ抜き短音階」

 【戦時下の童謡】 
  『仲よし小道』は戦時下の童謡です。時代は日中戦争に突入していました。現代の人は「かわいい歌ですね」と言って歌っても、まさか戦時下の童謡とは思わないでしょう。
 この歌ができた後、戦争は真珠湾攻撃から太平洋戦争に発展し、ますます激しくなりました。学校は国民学校となり、子供たちは少国民と呼ばれ、集団登校になったので、「みよちゃん」と二人だけで学校へ行くことはなくなり、「みよちゃん」と仲よく並んで腰掛けてお話しするなどという楽しいこともなくなりました。そして集団疎開となり、ますます生活にゆとりがなくなりました。大人が戦場に行っている間、子供たちも国のために必死で生きるように指導されました。この時代、子供たちが歌う歌は、子供たちを励ます元気で力強い軍国調の童謡が主流となりました。

 
 【三苫やすしの略歴】 
 光陽の曲により大ヒットした『仲よし小道』ですが、作詞者の三苫(みとま)やすしを知る人は、今では少ないようです。
  ・明治四十三年(1910年)七月六日、福岡県生まれ。本名は三苫虎太。三苫裕司(やすし)は、ペンネームです。
  ・福岡師範学校を卒業し教育者になりました。川崎市立御幸尋常高等小学校(現・川崎市立御幸小学校)の教師を務め、死亡時は川崎市立生田中学校教師でした。学校に勤務しながら詩作を続けていました。
  ・昭和二十四年(1949年)六月十七日に亡くなりました。死亡時の住所は川崎市末長(現・川崎市高津区末長)。
 やすしが、教師だったと知れば、子供の様子がうまく書かれているのが、あらためて納得できます。
 (註)以上、三苫やすしについては、川崎市中原区新城在住の娘さんから教えていただきました。貴重な証言をありがとうございました(平成15年10月25日)。
 この調査には、私・池田小百合が主宰する「童謡を歌う会赤い鳥」の会員、小田原市前川在住のWさんの協力がありました。Wさんは、昭和二十年代、川崎市末長に住んでいて、三苫一家をご存知でした。

  ●藤田圭雄著『解題戦後日本童謡年表』(東京書籍)には、次のように書いてあり間違っています。
  “三苫やすしは明治四十三年七月二日生まれ。『ズブヌレ雀』(昭和十四年一月)の中にある「仲よし小道」はよく知られている。本名虎太。昭和二十四年(1949年)五月十七日死去”。 さらに、三苫のルビが「みとも」になっていて間違い。三苫のルビは「みとま」。
 ●(本名裕司)となっている出版物は間違いです。
  
 【河村光陽の略歴
  ・明治三十年(1897年)八月二十三日、福岡県田川郡上野村(現・福智町上野(あがの))で生まれました。本名は直則といいます。
 幼少の頃からオルガンに秀でていました。
  ・小倉師範を卒業後、ロシア国民楽派の音楽を学ぼうとモスクワを目指して朝鮮に渡り、豆満江畔の学校で二年間教鞭をとる。
 しかし時代がそれを許さず、越境ならず帰郷した。
  ・大正十三年(1924年)に結婚してほどなく上京。駒場に新居を構えたのち、翌年、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)選科に入学する。ピアノを榊原直、和声を中田章、作曲を藤井清水(きよみ)、管弦楽法を大沼哲らに師事。
  ・大正十四年(1925年)八月に長女・順子が、昭和二年(1927年)に二女・陽子が、昭和四年(1929年)には三女・博子が誕生。
  ・三女が生まれた昭和四年、東京音楽学校を卒業し、東京市竹早尋常小学校の音楽教師になりました。二年ごとに三人の娘が生まれている間に、本格的な音楽修行をひととおりすませて、作曲も手がけるようになっていました。
  ・昭和五年(1930年)以降、日本放送協会(現NHK)「子供の時間」に自作を発表してから死去するまでNHKで作・編曲、指揮をおこなって活躍した。加えてコロムビア、ポリドール専属を経てキングレコード専属作曲家となり、「かもめの水兵さん」(武内俊子作詞)その他が全国で歌われた。
  ・昭和十一年(1936年)二月、ポリドールから発売された「うれしいひなまつり」(サトウハチロー作詞)のレコードが大ヒットとなり、一躍脚光をあびたので、勤めていた竹早尋常小学校を辞め、作曲に専念し、長女・順子と親子でキングレコードの専属になりました。この頃、新居を東京・豊島区長崎に建て、心機一転の意味を込めて名前を「光陽」にしました。
  ・武内俊子やサトウハチローらとの出会いにより、子供の生活と感情に沿った曲を作るようになった。演奏旅行やコンサートでは、順子・陽子・博子が光陽のピアノ伴奏で歌いました。この河村家のファミリーコンサートは、各地のファンから好感を持って迎えられました。
  ・作曲は歌曲、民謡、童謡、団体歌など一千余曲。戦後も全作品の放送使用回数、レコード売り上げなどは常に上位を示す。レコード童謡の代表的な作曲家である。
  ・昭和二十一年(1946年)十二月二十四日朝、胃潰瘍発作で急逝。満四十九歳四ケ月でした。
  (註)以上は河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社、昭和42年発行)を参考にしました。

  【天才三姉妹】
 光陽には、順子・陽子・博子の三姉妹があり、作品はこの姉妹が歌って、人気を集めました。中でも順子は天才少女歌手と言われ、『かもめの水兵さん』は、戦前、戦後の童謡レコードの売り上げのトップになりました。『リンゴのひとりごと』『赤い帽子白い帽子』『船頭さん』(武内俊子作詞)、『早起き時計』(冨原薫作詞)、『グッドバイ』(佐藤義美作詞)、『うれしいひなまつり』(サトウハチロー作詞)などたくさんの歌をレコーディングしました。どの歌も大ヒットしています。
 昭和九年、『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社)二月号の「世にも稀な天才児を訪ねて」の取材で、次のように述べています。
  「順子が歌をレコードに吹き込んだり、新聞に出たりするのは、強制して仕込んでいるのではありません。本人が好きだからただやらせているというだけのことで、指導法など何もなく、演奏会に出る時でも、せいぜい一、二回ほど、私がみてやるくらいのものです」、「順子は、私の作曲したものだけしか歌わないのですが、それは誰の物でも歌っていると、人気におだてられる怖れがあるためです。まぁ、私のお手伝いをさせているつもりでやらせています」。
 光陽が作曲をしているそばで遊んでいた五歳の順子は、曲が仕上がった時はすっかり覚えていて、すぐ歌ったそうです。また、モーツアルトの歌劇『魔笛』の中の「パパゲーノ、パパゲーナの歌」を覚えて歌い、みんなを驚かせたといいます。
 大人になった順子は、千葉敬愛短期大学教授として長く保育の音楽教育者として活躍しました。次女の陽子はピアニストとして、三女の博子はバイオリニストとして音楽の道に進みました。
  (註)以上は、長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』(大月書店)を参考にして書きました。

 親から子、子から孫へ『親子で歌いつごう日本の歌百選』文化庁編(東京書籍)には、「仲よし小道」「赤い帽子白い帽子」は選ばれていません。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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かもめの水兵さん

作詞 武内俊子
作曲 河村光陽

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/11/01)



池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画

 【クイズ番組での扱い】
 ある日、テレビのクイズ番組で、「童謡のレコードは、レコードの他に何かを付けて販売していました。それは何でしょう?」という問いかけがありました。回答者は誰も答えられませんでした。
 答えは「歌詞カードに踊りの振付がついていた」です。レコードで童謡を覚えた世代には、難しいことではありませんが、レコード童謡を知らない世代には、何のことか全くわからなかったでしょう。
 (註)テレビのクイズ番組では『赤とんぼ』の歌と踊りが披露されました。タレントの司会者が「わけがわからない、変な踊りだね」と言ったので、回答者のタレントさんたちも一斉に笑いました。踊った子供たちには失礼な番組でした。この番組は本にもなって人気でしたが、長くは続きませんでした。

 【「かもめの水兵さん」の振付は、これだ】
 『かもめの水兵さん』のレコードには、印牧季雄の童謡舞踊振付が小さな冊子にまとめられて付いていました。踊り方は水兵服を着た子供がモデルで、ポーズを取っているところが四呼間ずつの説明文の上に紹介してあります。当時の振付けで踊れる方も多いことと思います。 そのレコードの振付は、小田原市在住のレコードコレクターMさんから送っていただいたものです。私は、これを見て、びっくりしました。振付の中に、人に銃を向けて撃つ、人を殺す振付があったからです。

                       ▼キングレコード11507-2「かもめの水兵さん」の踊り方

 【さあ 踊ろう!】
 しばらくは呆然としていましたが、気を取り直して自分で振付を付けて、童謡の会で、保育園や幼稚園、生涯学習センターで、歌って踊りました。コンサートでは、新聞紙で帽子を作り、ステージと客席が一体となって歌い、踊りました。私の童謡の会では今でもこの振付が語り継がれています。

                  

▼池田小百合による振付「かもめの水兵さん」



  池田小百合著『童謡で遊ぼう』
   (夢工房)
   より

 【昭和三十年 音楽遊戯】   『標準 小学生の音楽 2』指導書(昭和30年3月1日発行) 振付(一斉指導用) 真田晴夫


 【武内・河村コンビの作品】
 『赤い帽子白い帽子』『リンゴのひとりごと』『船頭さん』と同じコンビ、武内俊子作詞・河村光陽作曲で作られました。

 【作詞・作曲の経緯】
 昭和八年(1933年)九月二十四日、武内俊子の叔父(足利瑞義)がハワイに旅立つ日、夫婦で横浜港メリケン波止場へ見送りに行き、桟橋一帯にたくさんの白いカモメが飛び交い、夕日に映えてとてもきれいで印象的なため、すんなりと詩ができあがりました。
 すぐにコンビの作曲家、河村光陽に詩を電話で伝えたところ、光陽はそのままピアノのキーをたたき即座に出来上がりました。
  (武内邦次郎著『かもめの水兵さん 武内俊子伝記と作品集』講談社出版サービスセンターによる)

 【作曲の工夫】
 <その1> <ド・ミ・ソ>から歌い出す  
 河村光陽は「海の青とカモメの白、色彩の上からはっきりしている感じを曲の上に表現するため、音楽の基本的三和音の<ド・ミ・ソ>から歌い出す簡潔な曲作りを意図しました」と述べています(長田暁二著『母と子のうた100選』時事通信社による)。

  <その2> いろいろな伴奏譜を作る
  楽譜は初級用(ハ長調、右手に旋律、左手は簡単な主要三和音、ペタルは使わない)と、大勢の斉唱の時の伴奏(変ロ長調、ペタルを使用)の二種類書かれています。これは、河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社、昭和42年発行)で見る事ができます。この楽譜集には、河村順子の英語訳詞も掲載されています。
▲昭和14年に
出版された楽譜の
一部(出だし)。
 上のピアノ伴奏
は初級用。
「ペタルを用いず」
と書いてある。
 下は演奏会用、
上達者用。
アルペジオを使い
「波の音に擬して」
と示されている。
このような伴奏も
作っている。


 【後世に残したい歌・作曲者の思い】
 河村光陽は、自分の曲をやさしい伴奏で、多くの人に歌ってもらおうと工夫していました。その事について河村順子は、次のように書いています。
 「武内俊子の作品は、当時の子供のことばで子供の生活を表現したもので、河村の創作の中に、そのまま入れられた。この頃から、それまでの表現豊かな(しかし難しかった)ピアノ伴奏譜を、一般教師や誰でもが弾ける平易なドミソ・ドファラ・シレソの簡単な和音中心の伴奏に切り替えていった。(中略)現在も、よく歌われている作品は、このようにやさしくした曲が多い」
 (河村順子「昭和レコード童謡のあゆみ」・季刊『どうよう』十九号による)

 【河村光陽の言葉】
 童謡作曲の仕方について光陽は次のように述べています。
 「子供の世界(生活)を知らぬ人には、本当の童謡は作り得ない、といふことです。」(「童謡作曲の仕方」(全)抄録 昭和八年 シンフォニー楽譜出版社による)

 【楽曲についての考察】 楽譜を詳しく見ましょう。
 <その1> 形式
  前奏8小節に続いて a(4小節)a´(4小節)+b(4小節)c(4小節)の16小節の二部形式の曲
 <その2> リズム
 複雑に見えるリズムですが、調子のよい歌詞により、歌う上で難しいことはありません。(ゆったりと 四分音符=72)
 <その3> 和声
 和声構造は単純なⅠ・Ⅳ・Ⅴの連続。わかりやすい。 ただし、一か所7小節目の弱拍部にⅥの和音が経過的に使用されている。それは、ⅤーⅣという進行をかくすためです。
 <その4> 歌詞
 カモメを水兵に見立てた童画の世界であり、空想の世界を調子よく歌っている。

 【河村順子が「いく」と歌う】
 昭和十二年、娘の河村順子の歌唱でキングレコードから発売されました。ほぼ毎月発売されていたキングレコードの二枚組み童謡シリーズの一曲でした。十一歳の順子の伸びやかな歌声は、人気となり、大ヒットしました。そして、戦前・戦中における童謡レコードの売上ベストワンとなりました。このレコードでは、「波をチャップ チャップ こえていく」と歌っています。

 【初吹込みレコードのデータ】
  ・歌 河村順子、伴奏 キング管絃楽団
  ・レコード番号 キング11507-2-A(S-679)
  ・録音年月日 昭和十二年二月九日
  ・発売年月日 昭和十二年四月十五日(五月新譜)
 ●海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(日本放送出版協会)「若干の手直しを経てレコード化されたのが、昭和十一(1936)年のことです。」は間違い。レコードの発売年は昭和十二年。

 【日中戦争開始】 昭和十二年七月、中国との全面戦争がはじまりました。日々、戦勝ニュースが日本中に流れました。日本側は、最初はこの戦争が長期化するとは考えていませんでした。

 【世界中で愛唱】 戦後、この曲は日本だけでなく、英語・ドイツ語・フランス語・韓国語・スペイン語・中国語・イタリア語・インド語など十一ケ国語以上に訳され、世界中で愛唱されています。河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社、昭和42年発行)には、河村順子の英語訳詞が掲載されています。以下の英語詩は、池田小百合著『子どもたちに伝えたい日本の童謡―神奈川―』(実業之日本社)に掲載の時、河村順子さんから、「どうぞお使いください」という許可をいただいています。
 藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)によると、「河村順子が昭和三十八年外遊の際、日本音楽著作権協会外国部長の小島丈二に依頼し英訳してもらったものを、ニューヨークで、そこの子供たちと歌いながら、つぎのような形にしたということです。」
 

▲河村順子 英訳「かもめの水兵さん」
▲河村順子のサインと、河村光陽名曲集『かもめの水兵さん』
河村順子編集(東亜音楽社、昭和42年5月27日発行。絶版)


   

 【子供たちに好かれる理由】 保育園や幼稚園で「(カゴメ)のスイヘイちゃん」と言われるほど人気の曲です。子供たちが知っていて元気に歌います。  
 この曲が子供たちに喜ばれる理由を、藤田圭雄はその著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)で次のように書いています。
 「ハ調ヨナ抜き長音階で、歌詞と曲が本当にぴったりしています。かもめを水兵に見立てるのは、特に独創的というわけでもなく平凡ですが、その変化の姿を、ごたごたした技巧をこらさず、「ならんだ」「かけあし」「ずぶぬれ」「なかよし」と簡単な言葉で、しかもその動きをあざやかに描き出しているのは見事です。あとは、「白い帽子 白いシャツ 白い服」と同じ言葉をならべ、波の「チャップ チャップ」という擬音も適切だし、「うかんでる」「こえていく」「おせんたく」「ゆれている」という結びも、それぞれの情景の変化を、きっちり表わしています。しかも「ドミソラ」「ラドレミ」という同じような上行メロディーで、歯切れのいいリズムが子供たちにも喜ばれるのでしょう。」

 【「河村童謡」について】 「河村童謡」については、小島美子著『日本童謡音楽史』(第一書房、2004年10月発行)の「レコード童謡」と河村光陽のコーナーに詳しく書かれています。この著作は研究書として優れています。

 【教科書での扱い】 昭和三十年代の小学校二年生の教科書に掲載されました。現在の教科書には掲載されていません。
  ・『しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社) 昭和30年8月13日文部省検定済 昭和33年12月15日発行。
 (ききなれたうた)として1,2番が楽譜と一緒に掲載されています。
 タイトル「かもめの すいへいさん」。
  ・『しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社) 昭和35年4月20日文部省検定済 昭和35年12月25日発行。
  (みんなのうた)として1、2、3番が楽譜と一緒に掲載されています。 七羽のカモメの挿絵が美しい。
 タイトル「かもめの すいへいさん」。

 ★四番の歌詞の「なかよし すいへいさん」が掲載されていないのが残念です。この歌は四番があるからすばらしいのです。
  ・『しょうがくせいのおんがく2』(教育出版) 昭和30年3月1日発行。 歌詞3番まで掲載。簡易伴奏譜が付いています。
 「なみが おおきく ゆれて いるように、ゆっくり うたいましょう。」 「うたに あわせて おどりましょう。」と書いてあります。

 【暗記して歌う】 「越えて行く」は、童謡の歌い方では「こえてゆく」ですが、河村順子は少女歌手時代に「こえていく」と歌いました。どちらで歌っても間違いではありません。 「ならんだ」「かけあし」「ずぶぬれ」「なかよし」などの言葉を間違えないように歌いましょう。歌詞をしっかり暗記する事は大切なことです。
 私が主宰している童謡の会では、一か月前にハガキで歌う曲を連絡します。すると、会員は自主的に暗記して例会に臨みます。歌詞を見ないで歌うのです。これは、私が促したわけではなく、誰かがやっているのを見て、他の人もやるようになったようです。脳の活性化につながります。歌詞集を見ないで歌います。もともと、童謡や唱歌は楽譜を通して普及したのではなく、口から口へ、耳で聞いて覚えたものでした。レコードやラジオは、それに拍車をかけました。

 【武内俊子の略歴

 【河村光陽の略歴

 【歌碑について】
  ・カモメは昭和四十年、神奈川県の鳥に指定されました。作詞にちなんで昭和五十四年秋には横浜市中区の山下公園の一角に歌碑が建てられました。出だし四小節の楽譜と一、二番の歌詞。二番は「こえていく」と刻まれています。文字は当時の神奈川県知事の故・長洲一二。歌詞の「すいへいさん」は平仮名にしてあります。 (←写真左)

 ●『マイウェイ』№69 2008 横浜開港百五十周年 財団設立二十周年記念号 横浜ふるさと歌物語 監修・文 平野正裕 には、『かもめの水兵さん』の情報がありません。この歌は横浜港を舞台にしています。

  ・東京都文京区本駒込吉祥寺には河村光陽之墓があり、それと並んで「河村光陽先生記念碑・童謡一路」(昭和三十三年十二月建立)があります。『かもめの水兵さん』の最初の八小節の楽譜と歌詞が二段に刻まれています(写真右上)。
 これと同じ碑が故郷の福岡県田川郡福智町上野の「天郷青年の家」の入り口に建てられましたが(昭和四十一年十二月四日建立)、平成二十三年の「協奏の庭」完成の際に移設されました。
 さらにほとんど知られていませんが、福岡県の福智山の山麓にも同じ歌碑があります(昭和四十一年建立)。ときどき尋ねる人がある程度のようです。河村光陽は、明治三十年(1897年)八月二十三日、福岡県田川郡上野村(現・福智町上野(あがの))で生まれました。「かもめの水兵さん」の歌碑から下った福智下宮神社の境内に「生誕碑」があります。神社横に生家がありましたが、今は田んぼになっています。

  ・女流詩人武内俊子生誕記念碑「童謡一路」は、武内俊子の故郷、広島県三原市宮浦町の三原芸術文化センターや市民プールが隣接する宮浦公園に建てられています。「かもめのすいへいさん」の楽譜四小節と、四番の詞「かもめの すいへいさん なかよし すいへいさん・・・」が刻まれています。「みんなが仲良く手を取り合っていこう」という願いが込められています。(写真右下)


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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りんごのひとりごと

作詞 武内俊子
作曲 河村光陽

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013/09/01)




 秋、リンゴの収穫時期にリクエストの多い歌です。私、池田小百合の住む神奈川県西部地区は、ミカンの産地なので、なんと「リンゴが木に実っている所を見た事がない」と言う人がほとんどです。私も大人になるまで見た事がありませんでした。

  【タイトルについて】
 河村順子さんからいただいた河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社、昭和42年発行)のタイトルは「りんごのひとりごと」と、平仮名です。長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)掲載もタイトルは「りんごのひとりごと」になっています。

  【曲ができるまで】
 以下の出来事は、長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)に書いてあり、「りんごのひとりごと」の解説には欠かせません。しかし、出典が書かれていない出版物が多い。
  “昭和十四年の事。詩人の武内俊子が猩紅熱(しょうこうねつ)にかかって病院に入院していた時、見舞ったキングレコードの柳井堯夫(やないあきお)ディレクターが、枕元のノートに書かれた詩を見つけ、早速レコード化を勧めました。その際、武内は「これは長妻完至(ながつまかんじ)先生が見舞いに見えた時に持って来られたリンゴにヒントを得て書いたものですから、作曲は長妻先生にお願いします」と、注文をつけました。長妻は山田耕筰に師事し、ハイカラな曲が得意でした。ところが、柳井は「わらべうた調のこの詩は河村光陽にピッタリだ!」と職業的第六感がひらめき、あえて河村に作曲を依頼したのです。河村は同じキングの専属作曲家で、「うれしいひなまつり」「かもめの水兵さん」「赤い帽子白い帽子」などのヒット曲を連発、ちょうど調子にのっている時でした。
 会社の企画会議に提出すると、「いまさらこんな擬人法の歌なんか珍しくもない」と、評判はよくなかった。そこで柳井は、河村順子の独唱に、「♪リンゴ リンゴ リンゴ・・・」と、はやすところを河村陽子、金子のぶ子の斉唱でゆく、当時としては珍しい演出をした”。
 この歌声はCD『甦える童謡歌手大全集』(コロムビアファミリークラブ)で聴くことができます。解説には、武内俊子作詩/河村光陽作曲・編曲。タイトルは「りんごのひとりごと」。河村順子 河村陽子 金子のぶ子。と書いてあります。“はやすところ”は、河村が了解をして作曲した事になります。

 ●斉唱部分を三人の歌手が歌ったと記録してあるが、郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』によると、歌手は四人(河村順子、金子のぶ子、山元淳子、井上尚子)。曲は同じで異なる録音のレコードが発売されたのだろうか。郡氏に尋ねたところ、「<コロムビアファミリークラブ>の記載(三人)は他の作品の取り違えである」と教えていただいた。「SP盤時代のキングレコードの「リンゴのヒトリゴト」には再録音や新録音はなく、S-3975の音源単一である」という。ということは、長田氏の著書の記述の歌手名も違っているということだ。
 実際に郡氏監修のCDとコロムビアファミリークラブのCDを聴き比べてみると、前者のほうがキーが高い。同じCDプレーヤーで演奏時間を測定してみると前者が118秒に対し、後者は121秒だった(冒頭1秒後から始まる)。同じ音源でも再生速度が微妙に違うので、やや違って聴こえるのであった(2013年9月10日記)。


  河村光陽が作曲した事については、雑誌『NHKきょうの健康』2006年11月号連載⑧「こころに残る愛唱歌・リンゴのひとりごと」で、河村順子も同じことを語っている。
  “柳井さんは、「作曲家の選定は私に任せてください」と言って、会社に戻り、企画会議の結果、リンゴを持参した人ではなく、私の父親である河村光陽に作曲を依頼したということです”と。

  【河村光陽が作曲】
  ・昭和十五年一月十一日、河村光陽が作曲(河内紀・小島美子著『日本童謡集』(音楽之友社)による)。
  ・前奏は汽車を連想させる。出発は四分の二拍子。この前奏を聴いただけで「りんごのひとりごと」とわかるほど印象深い。哀愁をおびた中にもリズム感のある旋律にのって、物語風の詩が歌われている。
  ・“はやすところ”「りんご りんご りんご りんごかわいい ひとりごと」は、四分の二拍子から四分の四拍子にかわる。柳井堯夫ディレクターの注文通りに作曲してある。
  ・“感傷的なメロディは、いってみれば≪子どもの演歌≫のような感じである”と言うのは日本音楽史研究の第一人者の小島美子氏。「うれしいひなまつり」「りんごのひとりごと」(河村光陽作曲)、「からすの赤ちゃん」「あの子はたあれ」(海沼實作曲)などの曲をあげている。≪子どもの演歌≫という言葉が、この時代のレコード童謡を言い当てている。

  【レコードについて
 昭和十五年(1940年)にレコード用の新作童謡として発表。「かもめの水兵さん」と同じくキングレコード童謡の大ヒット曲。
   曲名・リンゴのヒトリゴト
    編曲・河村光陽
   歌手・河村順子 金子のぶ子 山元淳子 井上尚子
   伴奏・キング管絃楽団
   レコード番号・キング41505-1-B(S-3975)
   録音年月日・昭和15年(1940年)2月15日
   発売年月日・昭和15年(1940年)4月15日(5月新譜)

 データは、郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』〔添付CD楽曲目録〕による。

  【歌詞について】  
 昭和十五年のレコード童謡。「わたしはまっかな りんごです」歌詞はリンゴの気持ちを擬人化したスタイルをとっている。


▲りんごのひとりごと/絵は武井武雄。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊,講談社より



▲黒崎義介・絵 『講談社の絵本ゴールド版 童謡画集』昭和四十年 講談社より

  【歌い方について】
 キングレコードの少女歌手の頃、河村順子は、「きれ」「思います」「箱リンゴを」と歌いました。
 ところが、大人になって吹き込んだコロムビア盤を聴くと「きれ」「思いだす」「箱リンゴを」と歌っています。河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社、昭和42年発行)も同じ。一番は「箱につめられ 汽車ポツポ」なので、三番も「箱リンゴを つめながら」と「に」に統一すると覚えやすい。
 河村順子さんに電話で訊ねました。すると、「日本コロムビアでレコーディングした際、間違った歌詞で歌ってしまい、それが現在も歌い継がれているものです」と、教えていただきました。「きれ」「思います」「箱リンゴを」が正しいようです。
  しかし、『NHKみんなの童謡』でも「思いだす」の方が放送されたので、今や間違えて歌った方が定着し、歌い継がれている。『NHKみんなの童謡』では一番、二番、一番と放送し、三番は放送されなかった。私が主宰している童謡の会では、ほとんどの人がこの放送を観て、三番が放送されなかった事を残念がった。
 河村順子さんからの電話の内容は、公表をためらいましたが、疑問に思う一般の童謡愛好者、初出を追求する研究者の間で、憶測が飛び交っているので公表する事にしました。「なっとく」していただけたでしょうか。

  【与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の扱い】
  ・タイトルは「リンゴのひとりごと」。このタイトルが現在一般に使われている。詩の方も「リンゴ」はカタカナにしてある。
  ・「果物店」の漢字には「くだものてん」と仮名がふってある。この仮名は誰がふったのだろう。これにそろえて「くだものてん」と仮名がふってある出版物もある(例・寺山修司編著『日本童謡詩集』(立風書房)ほか)。歌では「♪くだものみーせ」となっている。「てん」では歌にならない。
  ・詩は「おもいます」「箱へリンゴを」と書いてある。河村順子が少女歌手の時キングで吹込んだ歌詞と同じ。
  ・詩の最後に書いてある「―キングレコード昭15・2」は、録音年月日・昭和15年(1940年)2月15日の事です。

  【武内俊子の略歴

  【河村光陽の略歴】  

 「りんごのひとりごと」は、文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていません。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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船頭さん

作詞 武内俊子
補作 峰田明彦
作曲 河村光陽

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2016/04/16)

  【作られた時代】
  長田暁二著『心にのこる日本のうたベスト400』(自由現代社)によると、“昭和16年7月に作曲されている”。
  足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版社)によると、“昭和16年7月28日に作られた”。
  海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)によると、“発表された昭和一六(一九四一)年七月といえば、国内は戦時色に染まり、兵隊になる若者が増えて来た時期です。戦時下ゆえに、村は年輩者と女性や子どもばかりとなり、「今年六十のお爺さん」であっても、力仕事の一つや二つ、こなさなければいけなかったわけです”。

  【発表についての情報】
  長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)によると、 “もともとこの歌は、昭和十七年十二月、山元淳子(やまもとじゅんこ)の歌唱でキングレコードに吹込まれていましたが、音程が外れていたため、オクラ入り(未発売)になっていました”。
  郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)によると、 “一九四一年(昭和一六年)に発表された新作童謡・・・発表後ほどなく太平洋戦争が勃発してレコード業界も戦時色が濃厚になったためレコード化されないままに終わりましたが、ラジオ放送にて親しまれました”。
  海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)によると、 “戦中戦後を通じて童謡歌手の中根庸子の歌で紹介されることがほとんどでした”。

  【原作の歌詞について】

  長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)によると、次のようです。
   “歌詞の一番の四行目は「ろがしなう」が原作ですが、今ではほとんどの人が「ろがしなる」と誤って歌っています”。
   “原作では、二番の三、四行目は「・・・今日も渡しで お馬が通る あれは戦地へ 行くお馬」。
   三番の全部が現在と違います。「村のご用や お国のご用 みんないそぎの 人ばかり 西へ東へ 船頭さんは 休むひまなく 船をこぐ」”。
  郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)によると次のようです。
   “戦後に戦時色のある第二節と第三節が改作され、第一節も「櫓がしなう」が「櫓がしなる」に改められてレコード化されました”。

  【モデルの川】
 詩を書いた武内俊子は、明治三十八(1905年)年九月十日、広島県御調郡三原町(現・三原市)の浄念寺で生まれました。
 長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)によると次のようです。
   “作詞者の武内俊子は実家(広島県三原市)の近くにあった沼田(ぬた)川へ、幼いころしょっちゅう泳ぎに行っていました。その川の渡し舟の思い出をイメージして書いたといわれています。
  この詩を見た作曲家の河村光陽も、幼いころ育った福岡県の遠賀(おんが)川の風景のイメージにピッタリ似ていた。と述べています。遠賀川は終戦後でも渡し場の船頭さんがいたといわれています。
  曲は日本調ながら、前奏から船をこぐリズミックな様子が見事によく描写されています”。
  長田暁二著『心にのこる日本のうたベスト400』(自由現代社)によると次のようです。
  “寺は沼田川の川べりにあって舟着き場が残っている”。
  郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)によると次のようです。
  “作詞者の実家の近くにあった渡し舟を念頭に置いていますが、橋の整備により渡し舟が過去のものと化した現在からしますと貴重な記録とも申せましょう。
  歌詞の最後の「ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ」の囃子調が歌詞を引き締めており、歌を印象深いものに仕上げています”。
  海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)によると次のようです。
   “この歌詞に登場する川は、作詞をした武内俊子の家の近所に実在した川だそうですが、原作では、ご時世からでしょうか、対岸へと渡って行く船には人間ばかりでなく、戦地へ赴く軍馬も乗船していたようです。この作品も戦後期には平和色の歌詞に改められました・・・”。

  <京橋川の「渡し」説>
 広島在住の方から次のような手紙をいただきました。
  “「船頭さん」が沼田川の渡し船をイメージして云々・・・という根拠はあるのでしょうか。俊子は七歳の時、両親と弟と一緒に広島市内に転居し、京橋川沿いの土手町に住み、段原小学校に入学しています。当時、この京橋川を渡る「渡し」が目の前にありました。「村の渡し」ではありませんが。原作の三番、三番はまさしく軍都広島の宇品港へつながる風景です”(2003年10月3日)。

  【峰田明彦が改作】
  子供の歌でも戦時色が現われていましたが、戦後、明快なこの童謡を捨てるに忍びないと、すでに亡くなっていた作詩者の武内俊子に代わって峰田明彦(みねだあきひこ)が平和色の歌詞に改作したとされています。レコードやラジオにおける中根庸子の歌唱で全国に広まりました。


  【中根庸子が吹き込み】
  曲名:船頭さん
  編曲:河村光陽
  歌手: 中根庸子
  伴奏:キング管絃楽団
  レコード番号:キング C235-A(6529)
  録音年月日:昭和二十一年(1946年)10月18日
  発売年月日:昭和二十二年(1947年)7月
  (郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による)
  (註) このレコードの中根庸子は、「櫓がしなる」「仔馬(こんま)」「みんな仲よく」と歌っています。当時の童謡歌手の歌い方は「仔馬(こんま)」が一般的でした。コロムビアレコードの久保木幸子も「こんま」と歌った。

  <歌手・中根庸子>
  河村光陽について童謡を学び、童謡歌手として活躍。河村亡き後も山本雅之に師事し、多くの童謡を吹き込んだ。後年はキングレコードに勤務し、アナウンサーなども経験する。

  【改作後の歌詞について】
  ・一番は、村の船頭さんは、今年六十歳ですが、船を漕ぐ時に櫓がしなるほど元気です。
  ・二番は、雨の降る日も休まず働いていますが、今朝はかわいい仔馬を二匹、向う牧場へ乗せて行った。
  ・三番は、渡し船に乗る人も、櫓を漕ぐおじいさんも、みんなにこにこして「ごくろうさん」と言って渡ることを歌っています。
 「船頭さん」に読まれている「村」「渡し船」「船頭」「馬」が生活の中から消えると共に、歌も歌われなくなりました。昔の日本の風景・生活を知る歌として残しておきたい曲です。
  (註)河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社)掲載の歌詞は、「ろがしなる」「こうま」「みんなにこにこ」と書いてあります。
  海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(NHK出版)によると“戦後吹き込みのレコードの中には、盤によって三節の歌詞を「みんなにこにこ 揺れ揺れ渡る」と収録しているものもありますが、その理由は定かではありません”。
  現在の出版物では「みんなにこにこ」と歌うのが一般的です。コロムビアレコードの久保木幸子も「みんなにこにこ」と歌った。「みんな仲よく」の楽譜は発見できませんでした。
                                    ▲船頭さん カット沢井一三郎
                                  真篠将 浜野政雄編『少年少女歌唱曲全集 日本童謡集』(ポプラ社)より

  【曲について】
 ハ短調(c moll)、四分の二拍子。短調で作られていますが、曲全体は比較的明るい感じのものです。暗くならないように歌いましょう。
 コーダの付いている二部形式とみることができます。かけ声の所がコーダ(結尾)です。かけ声は、気持ちを込めて船頭さんが櫓を漕ぐように歌いましょう。

  【武内俊子の略歴
  【河村光陽の略歴

  【後記】
 私、著者・池田小百合が主宰している童謡の会では、六月の『父の日』に、長い間「船頭さん」を歌っていました。お父さんを歌った歌がなかったからです。最近は、「おとうさん」を歌っています。会員からは好評です。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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グッドバイ

作詞 佐藤義美
作曲 河村光陽

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013/11/01)

▲「グッドバイ」 河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社)昭和42年発行

  【作詩について】
 大正十四年、佐藤義美が二十歳の時の作品。タイトルは「グッド・バイ」。

  【初出】
 雑誌『コドモノクニ』(東京社)の昭和九年四月号(第十三巻)に掲載。タイトルは「グッド・バイ」。
        ▲「グッド・バイ」『コドモノクニ』(東京社)昭和九年四月号。深澤省三・絵。

  【河村光陽が作曲】
▲『コドモノクニ』(東京社)昭和九年四月号の表紙。

 昭和十二年(1937年)四月三十日に作曲。河村順子により五月(キングレコード)に録音されました。しかし、七月に勃発した日中戦争の拡大と共に、「グッド・バイ」は敵国語の童謡と言われ、キングレコード内部の反対にも合い、発売中止になりました。歌う事も禁止されてしまいました。
 (註)英語が敵国語となったのは昭和十六年十二月以降のことです。発売直後の昭和十二年に敵国語はおかしいが、藤田圭雄著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)には、野間恒の「グッド・バイなどという敵性用語の童謡はけしからん」という言が記されている。長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、“グッドバイとは敵国語であるから、このようなレコードは発売させない”という、キングレコードの首脳部の強硬な反対 とある。

 戦後、再び昭和二十五年二月にレコードが発売されるとアメリカブームに乗って大ヒットしました。
 ●海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(表紙はNHK出版)の“昭和十一年(1936年)にはレコード化の話が持ち上がり、同年に録音されますが”は間違いということになります。

  【詩「グッド・バイ」と曲「グッドバイ」について】
 初出の詩「グッド・バイ」と、作曲後の歌詞「グッドバイ」について詳しく見ましょう。
  ・雑誌『コドモノクニ』に発表された詩「グッド・バイ」は、四行で七連までありました。光陽は作曲をする時、「グッドバイ」を前後に使い、歌詞を三行で五番までに改作しました。 一行目は「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ」とし、三行目は二行目の内容を「グッドバイバイ」で、まとめる形にしました。このアイディアはすばらしい。これで、ヒットが決まったようなものです。歌のヒットは光陽の力が大きい。
  ■一番は、「パパ」を「とうさん」にし、「とうさんおでかけ てをあげて」「でんしゃにのったら」としました。主役の「とうさん」を最初にしたので、詩が明確になりました。一番から五番までの「・・・たら」は初出の詩と同じ。調子を整える上で重要な役割を果たしている。この詩の優れた部分は残しました。
  ■二番は、「お家で あそんだ」を「はらっぱであそんだ」に変えました。子どもは外で遊ぶ方が好いと思ったのでしょう。二番から五番までの「・・・も」は初出の詩と同じ使い方です。
  ■三番は、「まちからいらした おばさんも」。「小母さま」を「おばさん」に変えました。「おばさん」の方が一般的で身近に感じます。
  ■四番は、「さんびきうまれた いぬのこも」。初出の四連と同じ。「よそへ」は、「およそへ」と歌われる事がありますが誤りです。
  ■初出詩にあった五連は、作曲の時削除しました。秋の季節を表す「お庭に咲いた もくせい」を削除したので、一年中いつでも歌える歌になりました。しかし、五連もすばらしくて捨てがたい気がします。

  <キンモクセイについて>
 モクセイ科 花期は九~十月 花のかおりがよく、一面にただよう。キンモクセイは満開よりもつぼみの方がかおりが強い。 『佐藤義美の詩による こどものうた50曲集』(音楽之友社 1998年4月10日発行)の目次を見ると、<春・夏のうた>、<秋・冬のうた>、<季節外のうた>に区分されていて、「グッバイ」は「うまさん」「バスの歌」「いぬのおまわりさん」「おふろ ジャブ ジャブ」などと一緒に<季節外のうた>に掲載されている。

  ■六連は、そのまま五番として使いました。 六連と七連は、一日の締めくくりの言葉としては内容が重複しているため、どちらかを選択する必要がありました。七連は、優れていますが、子どもの童謡ということで単純明快な六連を残し、七連は削除しました。七連は理屈っぽくて、大人が喜ぶ大人感覚の詩です。

 初出の詩を、これだけ変えてしまうと、もはや佐藤義美の詩ではなく、河村光陽補作詞とでもしたいところです。詩を変更したのでタイトルは「グッドバイ」になっています。現在は、この歌詞で歌われています。

  【さようならなのに楽しい歌】
 ある一日の、次々と交わす別れの挨拶が描かれています。「グッドバイ」は「さようなら」なのに、明るく楽しい歌になっているのは、軽快なスキップのリズムで作られているからです。四小節のフレーズ三つでまとまっている。この明るさが歌の魅力でしょう。

  【昭和三十五年『佐藤義美童謡集』(さ・え・ら書房)について】
 佐藤義美は、昭和三十五年(1960年)五十五歳の時、それまでに作った二千篇あまりの童謡の中から、自分で二百篇を選んで『佐藤義美童謡集』(さ・え・ら書房、昭和三十五年三月一日発行)を刊行しました。
 
▲詩「グッバイ」 『佐藤義美童謡集』(さ・え・ら書房)掲載

 タイトルを「グッバイ」、詩も「グッバイ グッバイ グッバイバイ」に自身で改めています。「グッド」の「ド」を、しっかり発音するのは<モダンな天才>と言われた佐藤義美には気に入らなかったのでしょう。声に出して読むと、「グッバイ」の方が、より英語に近く、自然で美しい響きです。あきらかに、かっこいい。


▲楽譜「グッドバイ」 『佐藤義美童謡集』(さ・え・ら書房)掲載
 
 巻末六ページの楽譜は二番まで掲載されています詩を「グッバイ」に変えても、楽譜は「グッドバイ」のままにしました。これは注目すべき重要なことです。
  (註)『佐藤義美童謡集』(さ・え・ら書房)は、神奈川県立図書館で所蔵しています。平成十三年(2001年)の調査の時は、厚木市立中央図書館にはなくて、茅ヶ崎市立図書館から借りてもらいました。待っている間に次の年になってしまいました。今回は、自分でインターネットを見て神奈川県立図書館に所蔵されている事がわかり、翌日、行って楽譜を確認する事ができました。便利な世の中になったものです。確かに詩は「グッバイ」で楽譜は「グッドバイ」でした(2013年10月27日調査)。

  【三番と四番の順序について】
  ・『コドモノクニ』(東京社)昭和九年四月号では、三連は「街から いらした 小母さまも」四連は「三匹 生れた 犬の子も」。
  ・キングレコードでは、河村順子も高木淑子も三番は「まちからいらした おばさんも」四番は「さんびきうまれた いぬのこも」と歌っています。
  ・河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社)昭和42年発行では、三番は「まちからいらした おばさんも」四番は「さんびきうまれた いぬのこも」と書いてあります。
  ・『佐藤義美童謡集』(さ・え・ら書房、昭和三十五年三月一日発行)に収録の際、三番と四番を入れ替えました。三番「三びき うまれた いぬの 子も」、四番「まちから いらした おばさんも」に改作しました。

  【「グッバイ」の楽譜の出版】
  『佐藤義美の詩による こどものうた50曲集』(音楽之友社)1998年4月10日発行を見ると、詩は「グッバイ」、楽譜も「グッバイ」になっています。 楽譜は二番まで掲載。歌詞付けは「グーッバイ グーッバイ グーッバイ バイ とうさん おでかけ てをあげ て でんしゃに のったら グーッバイ バイ」となっている。これは、どのように歌うのでしょう。「グーッバイ」では歌えません。楽譜に手を加えた理由(もとにした出版物)がありそうです。三連は「三びき」、四連は「まちから」になっている。

  【阪田寛夫の意見】
 『どれみそら 書いて創って歌って聴いて』阪田寛夫 聞き手 工藤直子(河出書房新社)によると次のようです。
 “この童謡は、「グッドバイ」などという当時では珍しい英語を使ったという点でも新しい表現だったのですが、発想の新鮮さにくらべて、詩に内在するリズムは、やはりピョンコ節を呼びこむ七五調だったと思います。だから曲がつくと、♪グッドバイ、グッドバイ、グッドバイバイ、ア ホーレ! って(笑)、ぴょんこぴょんこ、はずむように歌えるでしょう?
  ところが佐藤さんは、戦後「グッドバイ」を「グッバイ」に変えました。「ド」が入るのは泥臭いということで。でも「グッバイ」だと、ピョンコ節から外れてうたいにくい(笑)”。

 阪田寛夫著『童謡でてこい』(河出書房新社)には、次のように書いてあります。
 “それぞれ異なった別れの様相を、「グッド・バイ」という一つの英語でくくる面白さ。昭和九年作の童謡に、それを試みた感覚が、新しかったのだと思う。
 もう一つ言えば、いまの小学生なら、グッバイと英語に近い発音をする。ところがこの詩も、曲も、しっかり「グッド」と「ド」の字を発音している。作詞家もその点が気になったのか、昭和三十八年に出版された曲集の中では、歌詞を「グッバイ」と改めた。しかし、それでは元の音譜に合わせて歌うと間のびして調子が出ない。こうして「グッド・バイ」は新しくて古い、昭和初期モダニズムの楽しい記念碑となった”。
 さらに「童謡でてこい年表」には、“太宰治の「グッド・バイ」も、グッドバイであった。グッバイにすると、ちょっと調子が狂う。やはりグッド・バイがいい”と書いてある。
 注目したいのは、“昭和三十八年に出版された曲集の中では、歌詞を「グッバイ」と改めた”という部分です。最初読んだ時は、昭和三十五年に出版された『佐藤義美童謡集』の間違いかと思いましたが、佐藤義美記念館が発行しているパンフレットの「佐藤義美 略年譜」に、1963(昭和38)年 58歳 童謡曲集「今の こどもの うた」を刊行と書いてある。阪田寛夫が言っている曲集は、これで、その楽譜は「グッバイ」に改めてあるのでしょうか。童謡曲集「今の こどもの うた」の楽譜を見る必要があります。
  自分でインターネット検索をしても、童謡曲集「今の こどもの うた」を所蔵している図書館は発見できませんでした。出版社名が書いてあるとよいのですが。2013年10月27日、神奈川県立図書館の調べものの係りの人に所蔵図書館をインターネットで検索してもらいました。五人の人が見てくれましたが発見できませんでした。「佐藤義美記念館に問い合わせてみて下さい。それしかないですね」との事でした。昭和三十五年の『佐藤義美童謡集』があって、昭和三十八年の童謡曲集『今の こどもの うた』が、どこの図書館にもないのは、おかしい。

 【昭和三十八年『今の子どものうた』(音楽之友社)について】
  童謡曲集「今の こどもの うた」の楽譜をさがしていた所、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者・府中市のNさんから「東京上野の東京文化会館音楽資料室にあります」という連絡をいただきました(2016年6月6日)。
 早速、上野に行きました。資料室の開館は午後一時からでした。午前中、国立西洋美術館で「カラヴァッジョ展」を観る。上野動物園でモノレールに乗る。パンダなどの動物達は暑さのためぐったりしていました(6月7日)。

        『さとう・よしみの詩 今の子どものうた』(音楽之友社)表紙 昭和38年9月15日発行 →

▲楽譜 曲名は「グッバイ」。二番まで掲載。
 一番も二番も「グーッバイ グーッバイ グーッバイ バイ」にした
▲歌詞 題名「グッバイ」。「まちから いらした おばさんも ごようが すんだら」の連を削除し、
四番までにして掲載。

 さとう・よしみの修正は改悪になり、後の出版物の混乱につながっています。

 結局、阪田寛夫が『童謡でてこい』(河出書房新社)で書いているように、“歌詞を「グッバイ」と改めた。しかし、それでは元の音譜に合わせて歌うと間のびして調子が出ない。こうして「グッド・バイ」は新しくて古い、昭和初期モダニズムの楽しい記念碑となった”。

▲グッドバイ/絵は松田文雄。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊,講談社より


  【他の出版社の扱い】
  ・佐藤義美『いぬのおまわりさん』(国土社の詩の本3 1975年)には、掲載されていません。
  ・『佐藤義美童謡集 ともだちシンフォニー』(JULA出版局)1990年3月31日発行は、タイトル「グッバイ」、「グッバイ グッバイ グッバイバイ」、三連は「三びき」、四連は「まちから」。楽譜は付いていない。
  ・日本童謡協会編『日本の童謡200選』(音楽之友社)1986年12月20日発行は、タイトル「グッド・バイ」、「グッド・バイ グッド・バイ グッド・バイバイ」、三番は「三びき」、四番は「まちから」。楽譜は二番まで掲載「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ」。
  ・少年少女歌唱曲全集 第5巻 真篠将・浜野政雄編『日本童謡集』(ポプラ社)昭和36年9月10日発行は、タイトル「グッドバイ」、「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ」、三番は「町から」、四番は「三びき」。楽譜は三番まで掲載「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ」。
  ・監修 藤田圭雄 中田喜直 阪田寛夫 湯山昭『日本童謡唱歌大系Ⅰ』1997年11月28日発行は、タイトル「グッド・バイ」、「グッド・バイ グッド・バイ グッド・バイバイ」、三番は「三びき」、四番は「まちから」、楽譜は五番まで掲載「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ」。
  ・『佐藤義美の詩による こどものうた50曲集』(音楽之友社)1998年4月10日発行は、タイトルは「グッバイ」、「グッバイ グッバイ グッバイバイ」。三番は「三びき」、四番は「まちから」。楽譜は二番まで掲載「グーッバイ グーッバイ グーッバイ バイ とうさん おでかけ てをあげ て でんしゃに のったら グーッバイ バイ」となっている。この楽譜で歌うのは不可能。
  ・『コドモノクニ』名作選 夏Vo1.3〔音楽BOOK〕(ハースト婦人画報社)2011年7月16日発行の73・74ページには、“初出の詩、5番(おにわにさーいた もくせいも かーぜでちったら)と7番(みんないつかは またあえる そうだとうれしい)を新たに加え編曲(丸山和範)した”楽譜が掲載されている。編集者が、五連も七連も、「すばらしく捨てがたい気がした」のでしょう。楽譜を作り直してしまうと、河村光陽の楽譜がわからなくなってしまいます。

  【童謡の会員の反応】
  私、池田小百合が主宰する童謡の会で佐藤義美が改作した「グッバイ」を紹介すると、まず笑いが起き、そして会場が静かになり、みんなの頭の上に「?」が点きました。「グッバイ」の事を知らなかったからです。一般的に「グッバイ」は知られていない事がわかりました。
  次に、河村順子編『河村光陽名曲集 かもめの水兵さん』(東亜音楽社)昭和42年発行の歌詞と楽譜で歌いました。いつものように、ほがらかに、さわやかに歌いました。「♪グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ とうさんおでかけ てをあげて でんしゃにのったら グッドバイバイ」。みんなが知っていて歌いました。元気に歌い、何も問題ありませんでした。

  【モダンな天才】
  『佐藤義美童謡集 ともだちシンフォニー』(JULA出版局)の『ともだちシンフォニー』にそえて 稗田宰子には次のように書いてあります。
 作詞者の佐藤義美は、明治三十八年(一九〇五)一月二十日、大分県直入郡岡本村(現・竹田市)に生まれました。父の職業は美術の教育家で、きびしいけれど、個性的な進んだ考えを持った人でした。義美は、鹿児島師範附属小学校、竹田中学校に進学。中学二年になった時、父が横浜市の視学になったので横浜第二中学(現・翠嵐高校)に編入。義美にとって港・横浜は、それまでくらしてきた、けわしい山やまにかこまれた竹田とは、あまりにもちがう、開放された自由な世界でした。見るもの、聞くもの、におい。なにもかもが、モダンで、光りかがやいていました。夢中で絵を描き、この頃から詩や童謡を書き始めました。
 義美が中学五年生の大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災で、東京・横浜は全滅。義美の家も焼けます。絵も、絵を描く道具も焼けてしまって、義美は絵を描かなくなりますが、詩と童謡は書き続けます。
 若い詩人たちと“童謡協会”を作って、北原白秋が童謡の選をしていた『赤い鳥』、西條八十が選をしていた『童話』、野口雨情が選をしていた『金の星』に、童謡を投稿するようになります。
 大正十四年(一九二五)、早稲田大学に入学。慶応大学にも合格しましたが、尊敬している童謡の三人の大先輩、野口雨情・北原白秋・西條八十が、そろって早稲田大学出身だったので、まよわず早稲田大学をえらんで、入学したのです。
 (註)高等学院文科から昭和二年大学文学部文学科英文学専攻進学、のち国文学専攻へ転科、昭和五年卒業。

 義美は、原書で英国の詩を読み、童謡と詩の違いを考えるようになります。大人の新しい詩、“現代詩”を作り始めます。 この年の九月、東京に引っ越しました。「グッバイ」は、その頃作った童謡ですから、高等学院一年生(二十歳)の時の作品です。
  (註)『佐藤義美童謡集 ともだちシンフォニー』には「グッバイ」が掲載されているので、選者稗田宰子の文中のタイトルは「グッバイ」になっている。読み進めると、奇妙な感じを受ける。

 卒業後は、多数の詩や童謡、童話を書きました。「月の中」(團伊玖磨曲)、「いぬのおまわりさん」(大中恩曲)、「おすもうくまちゃん」(磯部俶曲)は代表作品です。
 昭和四十三年十二月十六日、内臓癒着による全身衰弱のため六十三歳で亡くなりました。藤田圭雄著『日本童謡史Ⅱ』(あかね書房)の『コドモノクニ』の童謡 第十三巻(昭和九年)には、“佐藤義美は三作(四月号「グッド・バイ」、九月号「ボクノユメ」、十一月号「テンタウ虫」)があるが、「グッド・バイ」は、後に河村光陽の作曲で、レコード童謡としても愛唱され、佐藤の告別式でも会葬者一同でこの歌を合唱した”と書いてあります。

  【推奨童謡「月の中」について】
  初期の童謡の代表作とされる「月の中」が『赤い鳥』六月号(第二十巻第六号 赤い鳥社)昭和三年六月一日発行に掲載される。大学二年生(二十三歳)の作品。
 (註)当時大学は三年制。

  <北原白秋の選評>
 童謡と自由詩の選者北原白秋は、“佐藤君の「月の中」には、純一な匂と色と、稚い幻想と、透明な光とがある”と書いている。

▽創作童謠推奨 東京市小石川區原町一三八 佐藤義美
▲初出「月の中」
●『赤い鳥』六月号の表紙には、昭和五年六月一日発行と書いてあり間違っている。
▲改訂「月の中」 『佐藤義美童謡集』(さ・え・ら書房)掲載

 初出の「月の中」は冒頭句と最終句が同じ「月の中には」で、視覚的に閉じています。けれども、最終句の後には「(月の中には)冷たい菜の花(があります)」という言葉が影のように隠れていることが、読者には感じられます。視覚的には閉じているのに、読んでいくと余韻が隠れているところが、詩のすぐれた持ち味です。
 ところが、改訂された詩では、最終句が「月の中では」となり、前文を説明する形容句となって、この連は意味的に完全に閉じてしまいました。ひらがな化は山村慕鳥の「風景」という作品、「いちめんのなのはな」に影響されたのでしょう。暮鳥の作品は反復される文字の形(配列)と、視覚でとらえた効果を強調した詩です。
 私、池田小百合は、初出の「菜の花」のほうが優れているように思います。 私は、二連の「月の中から 風は黄いろい、」にも感動しました。それで、『童謡と唱歌 歌唱の歴史Ⅰ春夏のうた』(夢工房)の中扉に、この詩を掲載し、みなさんに紹介したほどです。
 ただし、現在の出版物はすべて最終句は「月の中では。」になっています。

  【北原白秋の童謡「月へゆく道」】
  佐藤義美の「月の中」が掲載された『赤い鳥』昭和三年六月号には、注目したい詩がもう一つ掲載されています。北原白秋の童謡「月へゆく道」です。
  私、池田小百合は、「月へゆく道」も気に入っています。平成六年(1994年)度『おだわらシルバー大学』(小田原市)の「童謡を歌おう」の講座資料でも紹介しました。選者の北原白秋は、「月の中」を見た時、衝撃を受けたに違いありません。それで、自分でも「月へゆく道」を作ったのでしょう。「月の中」も「月へゆく道」も優れている。二人の代表作とされます。
▲北原白秋の童謡「月へゆく道」


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