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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
團伊玖磨の童謡
 おつかいありさん   ぞうさん    花の街    やぎさんゆうびん
    関根榮一略歴   團伊玖磨略歴    まど・みちお略歴
   
童謡・唱歌 事典 (編集中)



花の街

作詞 江間章子
作曲 團伊玖磨

池田小百合
なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より
日本音楽著作権協会 許諾番号 J100917445号


  戦後の焼跡闇市の混乱が残る時代にできた歌とは、思えない明るい希望に満ちた曲ですが、この曲に江間章子がこめた想いを知ると、なおいっそう感動が深くなります。花の街は戦争に泣き苦しんだ人々が焦土に生んだ幻想だったのです。

 【ラジオ放送『婦人の時間』】
  NHKラジオの婦人部長だった江上フジの委嘱で作詞作曲され、昭和22年4月16日午後1時より『婦人の時間』の「婦人の歌発表」コーナーで初めて紹介され、放送されました。
 NHK資料室にある原譜をNHK視聴者ふれあいコーナーの大島さんに調査していただきました。「かすかに鉛筆の文字で読み取れました。次の通り」とあり、
なお、この日の放送内容は

后1.00 婦人の時間
 一、ニュースと音楽
 ニ、各党の政綱(三) 民主党 木内キョウ
 三、婦人の歌発表
   独唱と合唱
     花の街  江間章子 作詞
           團 伊玖磨 作曲
     独唱  佐々木 成子
     合唱  東京放送合唱団
     伴奏  東京放送管弦楽団
     指揮  團 伊玖磨 
 

  「1947.4.16 
   婦人の時間 放送用のために
   1947.2.23作曲」

 【誕生秘話】
 ダークダックスのゲタさんこと喜早哲さんが『日本の美しい歌』(新潮社、2007年)pp.170-172で、「花の街」誕生秘話を書いています。この内容を抜粋しましょう。「・・・・」は中略部分を表します。
 “昭和26年(1951年)のことでした。”と書き出していますが、これはゲタさんの記述違いで、本当は昭和21年(1946年)です。
 “江上フジさんは江間さんのお宅を訪ね、「たくさんの人に夢を与えるような詩を」とお願いしました。それを聞いた江間さんの頭にひらめいたのが神戸の町だったそうです。僕がそれをお伺いしていた時、江間さんは一瞬少女に戻られたような眼差しで、
 「私が乙女ごころに憧れていたのは神戸でした。でも一度もいったことはないんですよ。おまけに当時の東京は焼け跡だらけ。ですから、いまだ見たことのない憧れの神戸は、さぞかしお花の咲き乱れている美しい街だろうと想像しましてね、早く日本のどこへ行ってもそうあってほしいという願望をこめて書いたんですよ」
 と、夢見るようにお話し下さいました。
 片や、その当時の團先生の方は、・・・昭和二十年、今の東京芸術大学を卒業しましたが、これという定職に就くこともなく、毎日家でポロンポロンとピアノなど弾いていたそうです。・・・・偶然、お隣りに住んでいたのが、何とNHKの「婦人の時間」を担当している野田さんというご婦人だったのです。・・・・ある時、團家の庭に野田さんが現れました。・・・・「もしよろしかったら、この詩に作曲なさってみたら」といい、「七夕」という詩を渡しました。これも実は江間さんの詩だったのです。・・・・瞬く間に書き上げて渡したところ、関係者の間で大好評。その実績が次ぎの作品の依頼につながったのでしょう。
 團先生は「花の街」の詩を読んだとき、江間さんと同じように「こんな街があったらなぁと憧れを持って、昭和二十二年のお正月に作曲した」と話していました。・・・・この二人は作品が出来てから初めてご対面になったそうです。江間さんはその時の團先生の印象を「気位の高い、わがままなお坊ちゃんでしたよ」と話していました。
 この歌を初めて聴いた時、僕は「上品で、自然で、無理がなく、流れるような詩とメロディー。女声合唱にぴったり」と感動しました。NHK名古屋放送局から毎週日曜日の午前中に放送されていた「花のコーラス」という番組で聴いたのです。合唱団か、番組かのテーマ・ソングになっていたようで、放送開始の冒頭に必ず流れていました。”

 【「メロディにのせて」のテーマ曲か】
 ●長田暁二・解説『心のうた、日本のしらべ―決定版 抒情愛唱歌大全集―』 (CBS・ソニーファミリークラブ)には、次のように書いてあります。「やがてこ の歌はNHKの『メロディにのせて』という婦人番組のテーマ音楽になり、十一年間に亘って続いた」この記述は、たくさんの出版物に使われました。
 まず、「メロディにのせて」とは、ど のような番組だったのでしょうか。
 “<「メロディにのせて」>日常の雑用に追われて、ともすれば明るさを失いがちの主婦の心に慰めを与え、生活のやりくりに何かと示唆を与える番組として、昭和二十三年九月から「メロディにのせて」が生まれ、二十九年十月まで続いている。これはディスク・ジョッキー形式で聴取者の希望する音楽を聞きながら、その間に日常生活に必要なインフォメーション、たとえば、納税の期日や配給登録方法、また季節的な衛生上の注意から家事上の知識などを放送した。当時としては、この形式は珍しく、午前のひととき、主婦が家事をやりながら気軽にきけるという、今日のいわゆる“ながら番組”のはしりとなったものである。”
 例えばNHKラジオ第一放送【東京地域】の昭和23年9月13日(月曜日)の放送内容は、

   午前11時15分 「メロディにのせて」
    1 メヌエット  ボッケリーニ作曲
    2 即興幻想曲 嬰ハ短調  ショパン作曲
    3 美しき天然  田中穂積作曲
    4 赤とんぼ   山田耕筰作曲
    5 花の円舞曲 ドリーブ作曲
 
  (その後に続くのは)
   午前11時45分  ラジオ告知板
    配給だより
    天気予報 ほか

   正午  ニュース

 テーマ音楽について問い合わせをした結果、NHK視聴者ふれあいセンターふれあいコーナーからの回答によると、「『花の街』が「メロディにのせて」のテーマ曲に採用されたかどうかは音源がない現状では調べようがありません」(平成19年9月2日大島さんより)。

ema shoko 【江間章子の思い】
 江間章子(大正2年=1913年3月13日新潟県生まれ)は中学1年生用の音楽の教科書『中学生の音楽 1』(教育芸術社、平成9年)に、次のような作者の言葉を寄せています。
 “「花の街」は、私の幻想の街です。戦争が終わり、平和が訪れた地上は、瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。その中に立った私は夢を描いたのです。ハイビスカスなどの花が中空(なかぞら)に浮かんでいる、平和という名から生まれた美しい花の街を。
 詩の中にある「泣いていたよ 街の角で・・・・」の部分は、戦争によってさまざまな苦しみや悲しみを味わった人々の姿を映したものです。
 この詩が曲となっていっそう私の幻想の世界は広がり、果てしなく未来へ続く「花の街」になりました。”
 この文章とほとんど共通する内容を後述の「<花の街>のまちを想う」に書いています。

 【歌詞の異同について】
 合唱指導者の高津佳氏の話によると、「春よ春よと」と歌われている事について、晩年、團伊玖磨は「歌いながら」の歌詞が正しく、改めて歌ってほしいと言われたそうです(平成13年2月25日横浜市緑公会堂『第42回明日へのこす心の歌コンサート』にて)。この日、高津氏は一番を「歌いながら かけて行ったよ」と変えて歌わせたので、話を聴いた人々は私も含めて一番がそうだと思い込んでしまいました。そこで、CD「明日へのこす心の歌」の酒井沃子の歌や、CD「日本歌曲全集32」(KCDK 1232)の中村浩子の歌では、一番だけが「歌いながら」になっています。
 『高校生の音楽1』(教育芸術社)昭和41年発行では、一番と二番がともに「歌いながら」に修正されています。
 しかし、江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館出版、昭和62年)のなかの「<花の街>のまちを想う」に「NHKの資料室に保存されているものをコピイしたものである」として掲げられている詩は、一番が「春よ 春よと 駈けていったよ」、二番は「春よ 春よと 踊っていたよ」です。
 さらに、この詩は三番が「街の角(かど)」ではなくて「街の」になっていることが注目されます。本文でも、“<花の街>の詩のなかで、「泣いていたよ/街ので・・・・」という一行も、焼土に佇つ、戦いに敗れた国の庶民の、住む家も、仕事も失った、途方にくれた悲しみの姿を映しているのだと、作者自身、当時を振り返って想う。”と、「街の」と書いています。
 『高校生の音楽 1』(教育芸術社)昭和50年発行では、「街の窓で」になっているのを確認できます。しかし、三番の冒頭は「すみれ色してた窓で」ですから、次にまた「街の窓で」と、窓が繰り返し出てくるのはどうもすわりが悪いと思います。
 この昭和62年の江間のエッセー集に載せた文章は、それ以前に新聞や雑誌に掲載されたものです。江間章子は翌年の昭和63年に自身で編集した『江間章子の詩による歌曲集』(音楽之友社)を出版していますが、そこではタイトルが「花のまち」、一番は「春よ春よとかけて いったよ」、二番は「春よ春よと 踊っていたよ」、三番は「ひとりさびしく 泣いていたよ」と表記され、「花の」(二番)、「街ので」(三番)と表記されています。
 『中学生の音楽 1』(教育芸術社、平成9年)掲載の一番は「春よ春よと 駆けて行ったよ」、二番は「春よ春よと 踊っていたよ」、三番は「泣いていたよ  街の角で」「ひとり寂しく 泣いていたよ」となっています。この教科書が出版 された時は、江間章子も團伊玖磨も健在でした。

 【歌詞について まとめ】
 「教育芸術社」の音楽の教科書を見ると、出版年代によって歌詞が違っています。
なぜ変更して掲載したのか理由を聞かせていただきたいものです。未確認です。

  ・『中学生の音楽 1』(教育芸術社、平成9年発行)タイトル「花の街」
  一番「春よ春よと 駆(か)けて行ったよ」
  二番「あふれていた花の街よ」
     「春よ春よと 踊っていたよ」
  三番「泣いていたよ 街の角で」
     「ひとり寂(さび)しく 泣いていたよ」
  ・『高校生の音楽1』(教育芸術社、昭和41年発行)タイトル「花の街」
  一番「うたい なーがら かけて いーったー よ」
  二番「うたい なーがら おどって いーたー よ」
  ・『高校生の音楽 1』(教育芸術社、昭和50年発行)タイトル「花の街」
  一番「春よ春よと 駆けて行ったよ」
  二番「あふれていた花の街よ」
     「春よ春よと 踊っていたよ」
  三番「泣いていたよ 街の窓で」
     「ひとり寂しく 泣いていたよ」
  ・『中学生の音楽2・3下』(教育芸術社、平成21年発行)タイトル「花の街」
  一番「春よ春よと 駆(か)けて行ったよ」
  二番「あふれていた花の街よ」
     「春よ春よと 踊っていたよ」
  三番「泣いていたよ 街の角で」
     「ひとり寂(さび)しく 泣いていたよ」
   ・『日本歌曲全集32 日本名歌曲選』(音楽之友社)タイトル「花のまち」
  一番「歌いながら かけて行ったよ」
  二番「あふれていた花の街よ」
     「春よ春よと 踊っていたよ」
  三番「泣いていたよ まちの窓で」
     「ひとりさびしく 泣いていたよ」
   ・江間章子著『<夏の想い出>その想いのゆくえ』(宝文館出版、昭和62年発行)のなかの「<花のまち>を想う」掲載詩のタイトル「花の街」
  一番「春よ 春よと 駈けていったよ」
  二番「あふれていた花の街よ」
     「春よ 春よと 踊っていたよ」
  三番「泣いていたよ 街の窓で」
     「ひとりさびしく 泣いていたよ」
   ・『江間章子の詩による歌曲集』(音楽之友社、昭和63年発行)タイトル「花のまち」
  一番「春よ春よとかけて いったよ」
  二番「あふれていた 花の街よ」
     「春よ春よと 踊っていたよ」
  三番「泣いていたよ 街の角で」   
     「ひとりさびしく 泣いていたよ」

 【街の窓で?】
 喜早哲著『日本の美しい歌』(新潮社、2007年)pp.173に、「街の窓」の件についての江間さん自身の証言が載っていました。
 “江間さんに直接お訊ねしましたところ、いかにも江間さんらしいお答えが返ってきましたので、そのままおつたえします。
 「私も『街の角で』が自然だと思いますが、何しろ昔のこと。NHKさんにすべておまかせしてしまいましたが、その届が『窓』になっていたのです。今、私は『窓』でも『角』でもかまいませんのよ」。”

 【歌詞を考察する】 
 以上の証言をもとに池田小百合が自分なりに歌詞を考察してみます。
 まず、江間さん自身が“「街の角で」が自然だ”と断言していることと、三番のなかで「窓」が続くと、同じ言葉をくり返し使うことを避ける江間自身のこの詩の作風からして奇妙なことになるという理由から、三番は「街ので」に決定です。
 次に「歌いながら」ですが、この歌詞を該当箇所に当てはめると一音一語の歌唱からすると字足らずなので歌いにくいことに気が付きます。もしも一番が「歌いながら」だったとすると團伊玖磨が一番に不自然で、二番に自然な旋律を付けたことになります。やはり一番は音のつけかたからしても、清新な風が谷を吹きぬけていったイメージからしても、「春よ春よと」が自然ですぐれています。そして、二番の主役が花だとすると、輪になって「春よ春よと」踊っていたイメージと言葉のリズムが、軽やかです。風や花が「歌いながら」踊っていたというイメージも悪くないのですが、言葉の軽やかさで「春よ春よと」が優っています。江間自身が、一番の「春よ春よと」の音のつけかたに納得していたこと、一番と二番の同じ歌詞を許容していたことから、現行版がもっともすぐれた歌になっています。
 けれども、三番まで通して歌ってみると、「輪になって」駈けていった、踊っていた、泣いていたのは、どの場合も「ひと」だと思えてきます。こういったことを考慮して、「歌いながら」を生かすとすると、二番が妥当だと思えます。江間自身が一番、二番、三番と異なる情景を描いていたことを考慮して、一番を「春よ春よと 駈けていったよ」、二番を「歌いながら 踊っていたよ」、三番を「ひとりさびしく 泣いていたよ」とする歌詞も一理あると考えています。

 倍賞千恵子の『抒情歌全集』(キングレコード、2003年)では一番を「うたいながら」とし、二番を「はるよはるよと」歌っています。また三番は「町のまどで」です。


装丁は西丸震哉
江間章子歌曲集
表紙は海野経
 
 【花の無い焦土の花の街】
 前述の江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館出版、昭和62年)所収「<花の街>のまちを想う」を抜粋する。
 NHKのTVの名曲アルバムの時間で「花の街」が流れてきたときに、それは“作者のイメージとは違いすぎて意外で”、“まず現れる南房総辺の菜の花が咲く風景では困るのである。<花の街>だから、当然<花>がなければおかしいのだが、じつは、その花は手が届くところにあってはこまるのである。”
 “詩<花の街>は、私には幻想の街、夢のまちであった。戦争が終って、平和が訪れたという地上は瓦礫の山、いちめんの焼土に立って、思う存分肺いっぱい吸い込んだ<平和>という名の空気が私に見させてくれた夢が<花の街>であった。”
 “<花の街>の詩のなかで、「泣いていたよ/街の窓で・・・・」という一行も、焼土に佇つ、戦いに敗れた国の庶民の、住む家も、仕事も失った、途方にくれた悲しみの姿を映しているのだと、作者自身、当時を振り返って想う。
 <花の街>の詩には、そうした秘密が隠れている筈である”
 “これを若き日の、まだ少年らしさが漂っていられた團伊玖磨氏が作曲された。・・・(中略)・・この曲は、まさしく、私の幻想を拡げ、羽ばたかせてくださったものである。”
 こういったことから、江間章子はこの歌は三番まで歌うことが大事だと主張しています。
 江間章子には「夏の思い出」(中田喜直作曲)、「花のまわりで」(大津三郎作曲・岡本敏明補曲)などの名作があります。2005年3月12日逝去。

 【團伊玖磨の思い
 團伊玖磨は、大正十三年(1924年)四月七日、東京生まれ。戦後日本を代表する作曲家です。祖父は1932年の血盟団事件で暗殺された團琢磨氏。
 昭和十九年(1944年)十月、東京音楽学校在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊へ転籍扱い。昭和二十年(1945年)五月、軍楽隊卒業。昭和二十年、東京音楽学校(現東京芸術大学)作曲科卒業。
 下総皖一、諸井三郎らに学び、1950年の「交響曲イ長調」がNHK管弦楽懸賞に特選入賞しました。1952年の歌劇『夕鶴』は毎日音楽賞、山田耕筰作曲賞、伊庭歌劇賞を受賞。亡くなる2001年までに600回以上上演され、日本のオペラを代表する作品となりました。
 その後も『楊貴妃』『ひかりごけ』などの創作オペラや、交響曲・歌曲・合唱曲などを次々に発表、映画音楽の分野でも活躍しました。山田洋次監督の喜劇映画の最高傑作、ハナ肇の『馬鹿が戦車でやって来る』(1964年)では音楽のほかに原作「日向村物語」も担当していました(映画の村名は日永村となっている)。テレビ番組のポップスコンサートの司会でも人気でした。
 週刊「アサヒグラフ」に30年以上も連載された「パイプのけむり」の洒脱なエッセイでも知られます。
 1997年10月に開館した新国立劇場のこけら落とし公演『建・TAKERU』を作曲。
 團伊玖磨はNHK人間大学(1997年4-6月放送)『日本人と西洋音楽』のテキストの最後の回で、「音楽には何より暖かさが必要だと思っています。そして、その結果、私の書いた曲が喜ばれれば、それで私は満足です。もとより、だれが書いたかなどは問題ではありません。『花の街』も『NHKラジオ体操第二』も、その気持ちで書きました」と記していました。團伊玖磨が『NHKラジオ体操第二』を作曲したと知る人は少ない。
 2001年5月17日、中国蘇州にて心不全のため客死しました。77歳でした。


 【著者より引用及び著作権についてお願い】  《著者・池田小百合》

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おつかいありさん

作詞 関根榮一
作曲 團伊玖磨

池田小百合
なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より
日本音楽著作権協会 許諾番号 J100917445号

  【「おつかいありさん」を収録】
  『おつかいありさん』関根栄一/詩■丸木俊/絵(装画)国土社の詩の本14
 昭和五十年(1975年)十二月二十五日発行。「なのはなさん」以下三十六篇。
 「おつかいありさん」「こんぺいとう」(「NHKうたのえほん」昭37・5湯山昭曲)ほか(「こんぺいとうのうた」参照)。

 【『おつかいありさん』と私】
 関根榮一の言葉
 <その1>“私が初めて書いた子供のうた『おつかいありさん』は、NHKラジオ幼児の時間の委嘱でした。まだ戦後の混乱が収まらない昭和二十五年三月十五日、出来上がった日附けがノートに記されています。私は二十四歳になったばかりでした。
 私に童謡を書いてNHKに行くことを薦めたのは、戦時中私が勤めていた東邦産業研究所に、嘱託という名目で勤労課にいた作曲家の森義八郎氏でした。
 NHKで原稿を担当者の前に差し出すと、内容については何も言わず「作曲は森先生にしますか」と聞かれました。私は、促音が多くてリズミカルな歌詞なので、当時五十歳近かった森さんの音楽の傾向を考え「なるべく私と同じ歳くらいの人にしてください」といいました。担当者は、芥川也寸志、團伊玖磨、中田喜直の名を挙げたのですが、私は「どなたでも、その中から・・・」とだけ答えました。当時は童謡のことも、芸大を出たての新進作曲家のことも、何もしらなかったのです。
 その年の六月五日、團伊玖磨さんの作曲で、この歌は電波に乗りました。”
 (『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社) 関根榮一著「『おつかいありさん』と私」より抜粋)

 <その2>  「見たものを書くというっきりなかった。童謡の持っている約束ごとは何もわからないで書いた」
   阪田寛夫著『童謡でてこい』(河出文庫)より抜粋。

  【番組表の調査】
 毎日新聞復刻版でラジオ第一の番組表を調べてみました。年月日がはっきりしているので、 調査は簡単でした。(2010年1月4日)

  ・昭和25年6月5日(月)午前10時~10時10分 おつかいありさん(1)
  ・昭和25年6月12日(月)午前10時~10時10分 おつかいありさん(2)

  (調査の結果)
  ・NHKラジオ「幼児の時間 うたのおけいこ」の委嘱作品。
  ・昭和二十五年三月十五日に、二十四歳の関根栄一が初めて書いた作品。
  ・團伊玖磨が作曲しました。
  ・初放送は昭和二十五年六月五日で、十二日にも放送された。

  【團伊玖磨が「おつかいありさん」を作曲した時期はいつか】
 阪田寛夫著『童謡でてこい』(河出文庫)には次のように書いてあります。
 “作曲家團伊玖磨氏の随筆「転居」によると、戦後、氏は「交響曲イ調」(昭和二十五年)を書き、その賞金で翌日鎌倉に引越すと、緑に囲まれた二階家の間借りの一部屋で、こんどは「ぞうさん」、「やぎさん ゆうびん」、「おつかいありさん」などの子供の歌をつぎつぎ書いたのだそうだ。「子供の歌を一所懸命に書く心は、離れて暮らす事になってしまった子供への手紙の心だった」とある。”
 ●以上の文章では、「ぞうさん」、「やぎさん ゆうびん」、「おつかいありさん」は昭和二十五年、「交響曲イ調」の後、次々書かれたことになります。それは変です。
 随筆「転居」を読んでみる事にしました。いったい何という本に「転居」は出ているのでしょうか?
 阪田寛夫が文を書く時、本のタイトルや出版社名を書いておいてほしかったです。
 河出書房新社に問い合わせました。すると「阪田先生にお聞きしました所『パイプのけむり』という團さんの本の中に入っているとのことです。ただし『パイプのけむり』は、何冊もあるので、初期のものとしかわからないとのことです。販元は朝日新聞社です」との回答でした(1994年7月13日)。

 随筆「転居」は、團伊玖磨著『まだパイプのけむり』6(朝日新聞社)に掲載されていました。287ページには次のように書いてあります。
 「僕はそのバンガローで、一年半の間、暑さに茹だり、寒さに震えながら、初めての大きな作曲だった「交響曲イ調」を書いた。 NHKの創立二十五周年を記念して行なわれた管絃楽曲募集のコンクールに提出したその曲は、幸い、芥川也寸志君の「交響二章」という作品とともに特賞に入選して、 当時としては目の廻るような大金だった賞金十万円を得る事になった。・・・その翌日、賞金の中から三輪トラックを傭うと、鎌倉に転居した。 転居先は、鎌倉の二階堂の奥にあった或るお宅の二階の一間だった。丁度その家は小説家の久米正雄さんのお宅の前だったので、 二階の一間で音符を書きながら窓からふと見ると、庭を散歩したりヴェランダに腰を掛けて居られる痩身の「破船」の作家を見掛ける事が屢々だった。 焼け跡と異って、緑に圍まれた鎌倉の環境は、僕に再び心のゆとりを取り戻させてくれた。僕は再出発を考え、今の家内と結婚し、僕の机の上からは、今もよく歌われている「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「ありさんのおつかい」等の沢山の子供の歌や、もっと沢山の大人の歌がNHKの電波を経て世の中に送られて行った。・・・」
 ●文中の「ありさんのおつかい」は間違い。
 正しいタイトルは「おつかいありさん」。単純な校正ミスです。童謡や唱歌では、しばしばありますが、このような間違いが正しい情報と思われてしまう場合があります。書いたのは、作曲者本人なので、読者は信じてしまいます。

   【「幼児の時間 うたのおけいこ」で放送された】  「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「おつかいありさん」を、毎日新聞復刻版番組表で調査しました。
  ・昭和25年に作詞、作曲、放送されたのは「おつかいありさん」でした。
  ・「ぞうさん」まど・みちお作詞の初放送
   昭和27年12月22日(月)朝9時30分~9時45分「うたのおけいこ 象さん」。
  ・「やぎさんゆうびん」まど・みちお作詞の初放送
 阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)によると、“昭和27年NHKラジオ 幼児の時間の8月の歌として放送された”とありますが、毎日新聞復刻版の番組表では確認できませんでした(2010/01/04)。

  【なぜ? 番組名が違うのか】
 関根榮一が「NHKラジオ幼児の時間の委嘱でした」と言っているのに、あらゆる出版物に、“「うたのおばさん」で放送”と書いてあるのでしょう。それには理由があります。
 阪田寛夫著『童謡でてこい』(河出文庫)に、“NHKの「歌のおばさん」の時間で制作された新しい型の童謡の一つだ。”、“ラジオの「歌のおばさん」の時間に放送された(昭和二十五年)”と書いてあるからです。これは間違い。
 「うたのおばさん」と「幼児の時間 うたのおけいこ」は違う番組です。 「おつかいありさん」は、「NHKラジオ幼児の時間の委嘱」、「幼児の時間 うたのおけいこ」で放送された。
 この『童謡でてこい』には、関根榮一が書いた「『おつかいありさん』と私」以上の事が、物語風に書いてあり楽しめます。

 【「ん」の歌は運がいい】
 関根榮一が面白い事を書いています。
 タイトルの終りを「ん」にした歌は、運がいいと、詩人の佐藤義美さんがいいましたが、本当にそうです。まど・みちおさんの『ぞうさん』、佐藤義美さんの『いぬのおまわりさん』、阪田寛夫さんの『サッちゃん』・・・ (『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社) 
 関根榮一著「『おつかいありさん』と私」より抜粋)

  【「榮一」の名前について】
 私の父は私の名前を金毘羅さんの神主に伺って付けたそうです。神主さんは琢磨、榮一、定雄と三つ書いて渡してくれましたが「琢磨では名前負けするから二番目の榮一にした」のだそうです。もし私の名前が琢磨だったら、作曲者の祖父の名と同じですから、團伊玖磨さんとの関係は、もっと近くなったかもしれません。
 不思議なことに團さんと私は未だ面識がないのです。
  (『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)
 関根榮一著「『おつかいありさん』と私」より抜粋)

 【教科書での扱い】
 昭和42年4月10日文部省検定済教科書『おんがく1』(教育出版社)には、「歌詞のおもしろさをつかむ」「タッカ、タッカのリズミカルな表現」を学習するための教材として掲載されています。

  【関根榮一の略歴】 童謡詩人、作詞家。
  ・1926年(大正15年2月11日)埼玉県に生まれました。
  ・電機学校(昭和18年)中退。
  ・「おつかいありさん」を書いた頃は、私鉄の駅員で、労働組合の非専従の委員でした。
  ・日本童謡賞 第6回  昭和51年「おつかいありさん」。 赤い鳥文学賞特別賞受賞。
  ・日本童謡賞 第17回 昭和62年「にじとあっちゃん」。
  ・代表作品は「かぶとむし」「ぎんやんまのうた」などがある。『かえるのモモル』『モモルのびっくりばこ』『たぬきじゃんけん』(以上・小峰書店刊)など絵本も数多く出している。
 子どもの歌、歌曲、合唱曲のための詩を次々発表している。

  【後記】
 「おつかいありさん」は、戦後の新しい創作童謡の先がけとなった作品の一つです。文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』には選ばれていませんが、子供たちが大好きな歌です。この短い童謡は、今後も長く歌い継がれていくことでしょう。そう願っています。

著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫

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ぞうさん

作詞 まど・みちお
作曲 團伊玖磨  

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)

池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画

国土社『ぞうさん』より。●「だあれが」は間違い、「だれが」が正い。

  【詩の収録】
  『ぞうさん』まど・みちお/詩■東貞美/絵(装画)  国土社の詩の本7 昭和五十年(1975年)十一月二十五日初版発行
  「なのはなとちょうちょう」以下十五篇。「一ばんぼし」十八篇。「あしよリズムで」十五篇。
 「ぞうさん」「おさるがふねをかきました」「ふしぎなポケット」「一ねんせいになったら」「ドロップスのうた」「つりかわさん」「やぎさんゆうびん」「びわ」も収録してあります。
 初出発表誌・年月・作曲者一覧には、ぞうさん「うたとリズム」昭27・6 團伊玖磨曲と書いてあります。
 ●毎日新聞縮刷版で、昭和二十七年六月にNHKラジオ第一で「うたとリズム」という番組が放送されていたかどうかを調査しました(厚木市立中央図書館にて2013年10月11日)が、発見できませんでした。「うたとリズム」は雑誌名なのでしょうか。

 【團伊玖磨の「ぞうさん」は可愛い】
 旋律はヘ長調四分の三拍子、8小節の一部形式です。童謡には三拍子のものが少ないのですが、この曲は三拍子のリズムを使った美しい曲として愛唱されています。とてもかわいい曲です。
 曲中に休符が使われていないのが特徴です。息つぎをうまくして歌いましょう。息つぎの前の音が短くなったり、後の音が遅れたりしないように気をつけて歌いましょう。
 一番、二番とも、はじめの二行がゾウへの呼びかけで、続く二行がゾウの答えです。一番は、ゾウの長い鼻のこと、二番は、ゾウの好きなものを歌っています。二組にわかれて歌ってみると、いっそう楽しくなります。

 【ゾウに生まれてうれしいゾウの歌】
 まど・みちおの言葉
 “<ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね>と言われた子ゾウは、からかいや悪口と受け取るのが当然ではないかと思うんです。この世の中にあんな鼻の長い生きものはほかにいませんから。顔の四角い人ばかりの中に一人だけ丸い人がおったら、本来はなんでもない「丸い」っちゅう言葉が違う意味をもってしまう。われわれ情けない人間だったら、きっと「おまえはヘンだ」と言われたように感じるでしょう。

 ところが、子ゾウはほめられたつもりで、うれしくてたまらないというように<そうよ/かあさんも ながいのよ>と答える。それは、自分が長い鼻をもったゾウであることを、かねがね誇りに思っていたからなんです。小さい子にとって、お母さんは世界じゅう、いや地球上で一番。大好きなお母さんに似ている自分も素晴らしいんだと、ごく自然に感じている。つまり、あの詩は「ゾウに生まれてうれしいゾウの歌」と思われたがっとるんですよ。

 私の作品には、そんなふうに生きものがその生きものであることを喜んでるっちゅう詩が一番多いでしょうね。ゾウだけでなく、キリンもクマもウサギもナマコも、なんだって分け隔てなく書いとりますよ。「ぞうさん」が一番ポピュラーになったんで、みなさん、あれが私の代表作だと言ってくださいますけど。” (まど・みちお著『いわずに おれない』集英社文庫より抜粋)

 【詩の誕生】
 詩ができたのは、昭和二十六年六月十日です。
  ・昭和二十六年五月二十五日の日記より
  酒田冨治氏来。「幼児のうた」にうたを書けと。
  ・六月十日の日記より
  酒田氏への幼児童謡六篇即興、ハガキにかいて・・・明朝ポスト。一枚の葉書に書きこんだ六篇のなかに「ぞうさん」が含まれていた筈だ。
  (阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)より抜粋)

 まど・みちおによると次のようです。
 “『ぞうさん』の作詩は昭和二十六年でした。音感教育者で作曲もなさる酒田冨治さんから『保育用曲集』に何か童謡を、と求められて書いた六篇中の一篇でした。六月のある夜、勤めから帰った私は、久々に興がのったのか一気にそれらをものし、翌朝葉書に清書して送っています。”
  (『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)まど・みちお著「おかげのおかげの『ぞうさん』」より抜粋)

 【作曲について】
 最初の作曲者は酒田冨治でした。この歌が掲載された楽譜集を見た童謡作家の佐藤義美が、翌年「ながいのね」に改作してNHKに持ち込み、團伊玖磨が作曲しました。
 当初の詩形は、阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)によると次の通りでした。

   ぞうさん ぞうさん  おはなが ながいね  
   そうよ  かあさんも ながいのよ  

 まど・みちおによると次のようです。
 “翌二十七年に酒田さんの曲になる二拍子の『ぞうさん』が生まれました。ところが私の先輩の詩人佐藤義美さん(童謡『いぬのおまわりさん』の作者)がこの曲に不満で、私の知らぬ間に詞の一部を直して(一番の「おはながながいね」を「おはながながいのね」に変えて)NHKに持ち込みました。NHKはそれを当時新進作曲家であった團伊玖磨さんに回しました。
 こうして今歌われている三拍子の名曲『ぞうさん』が團さんによって生まれることになりました。”
 (『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)まど・みちお著「おかげのおかげの『ぞうさん』」より抜粋)

 【酒田冨治の曲が掲載された楽譜集は】
 以下の情報があります。
  ・「酒田冨治氏来。「幼児のうた」にうたを書けと」・・・「幼児のうた」というタイトルなのでしょうか?
  ・「酒田冨治さんから『保育用曲集』に何か童謡を、と求められて書いた」・・・『保育用曲集』というタイトルなのでしょうか?
  ・「この歌が掲載された楽譜集を見た童謡作家の佐藤義美が、翌年「ながいのね」に改作」・・・楽譜集のタイトル、著者、出版社がわかりません。
 この楽譜集は、昭和26年6月10日以降、昭和27年12月22日までに出版されたものです。なぜタイトルや著者、出版社名が書かれていないのでしょうか。
 公表すると何か不都合があるのでしょうか。
 酒田冨治が作曲した「ぞうさん」はどのような曲だったのでしょうか。見たいものです。

 【「楽譜集」の調査】
 <その1>
 ● 一宮道子、酒田冨治、荒赳彦編『おんがくのほん』改訂版(二葉)昭和27年(1952年)発行を、国立音楽大学附属図書館が所蔵していました。しかし、「この本には、『ぞうさん』は掲載されていません」という国立音楽大学附属図書館より回答でした(2010/01/12)。

 <その2>
 ●『日本児童文学別冊 少年詩・童謡への招待』(偕成社)によると、初出は『チャイルドブック』1952・6と書いてあります。 しかし、このチャイルドブックには掲載されていませんでした。古書店より二千円で購入しましたが、掲載されていなくて残念でした。「掲載されていなかった」という結果も、研究の成果としておきます。
 古書店のインターネットで検索したところ、他の『チャイルドブック』は五百円なのに、1952年6月号だけ二千円でしたので、古書店の奥さんに調べていただきました。「『ぞうさん』は掲載されていません」という返事でした。しかし、私は「古書店の奥さんが、キンダーブックや他の子供雑誌と間違えているのではないか。必ず掲載されているはずだ、だから、古書価格が高いのだ。それに、まど・みちおは、『チャイルドブック』の編集をしていたのだから、自分の作品を掲載していないはずがない」と思い込み、購入しました。しかし、購入した『チャイルドブック』1952年6月号には「ぞうさん」はありませんでした。『日本児童文学別冊 少年詩・童謡への招待』(偕成社)は、なぜ初出に関するマチガイを堂々と掲載したのでしょう。がっかりしました(2010/01/07)。

  <その3>
 ● 『まど・みちお童謡集 地球の用事』(JULA)の初出一覧によると「酒井冨治によるもの「うたとリズム」(昭和27年6月)」と書いてあります。 そもそも「酒井」は間違いで、「酒田」が正しい。「うたとリズム」の出版社は不明です。このような記載では、研究には役に立ちません。データになっていません。正確に書いてほしいものです。

 <その4> まど・みちお著『いわずにおれない』(集英社文庫)<作品データ 詩>によると初出『日本童謡絵文庫第6巻 新日本童謡集』1952年(あかね書房)と書いてあります。
 あかね書房に問い合わせてみました。すると、「絶版ですが、国立国会図書館で見る事ができるでしょう」との回答をいただきました(2010/01/12)。

 さらに、あかね書房からは、以下の書誌データを送っていただきました。
 シリーズ名:日本童謡絵文庫、書名:新日本童謡集、著者:佐藤義美/編・中尾彰/絵、発行年:1952年2月、出版社:あかね書房  (2010/01/13)。

 さっそく国立国会図書館に行きました。
 しかし、東京都千代田区永田町の国立国会図書館東京本館にはありませんでした。こどもの本の所蔵場所は、東京都台東区上野公園の国際子ども図書館でした。日本童謡絵文庫はこの第6巻だけが収蔵されていました。

 国立国会図書館のほうでは、後記する朝日新聞復刻版・昭和43年4月21日掲載「東京のうた」を閲覧し、複写することができました。思いがけず大きな収穫がありました。

 【「ぞうさん」の初出は、これだ】
 「ぞうさん」は、佐藤義美編『日本童謡絵文庫(6) 新日本童謡集』(あかね書房)昭和二十七年二月二十九日発行に掲載されていました。酒田冨治作曲の楽譜も附いていました。合計30曲が掲載されています。
 10ページから11ページに詩と親子のゾウの絵があります。絵は中尾彰。
 詩は「おはなが ながいね」になっていました。

  
    ぞうさん     まど みちお

   ぞうさん ぞうさん
   おはなが ながいね
   そうよ かあさんも
   ながいのよ

   ぞうさん ぞうさん
   だれが すきなの
   あのね かあさんが
   すきなのよ

 【酒田冨治作曲の「ぞうさん」は、これだ】
 佐藤義美編『日本童謡絵文庫(6) 新日本童謡集』(あかね書房)昭和二十七年二月二十九日発行の本の奥付の前に、楽譜のページがありました。
 優しく四分音符=104。ニ長調、四分の二拍子、10小節。
 楽譜はメロディーのみ2段。

 この曲は、「おはなが」のアクセントが逆で、メロディーが悪いため、後続するメロディーが平凡なものになってしまいました。
 大切な言葉の「そうよ」の節は、古くさい。「そうよ」の次が一小節全部休みになっていますが、童謡では歌いにくくなるため、普通はありえないことです。
 手拍子を二ついれたかったのでしょうか。もっとも、それならそのように書いているはずですが。
 メロディーは、ほとんど主和音(ドミソ)ばかりで、できています。これでは単調で、誰が見ても不満が残ると思います。

 ※この絵本は、大変貴重です。国際こども図書館に一冊しかありません。楽譜の ページは紙が黒くなり、今にも破損しそうでした。全頁写真を撮って保存してほ しいと思います。研究者は必見です。(2010年1月13日 池田小百合記)


  【「ぞうさん」作詩作曲の経緯 まとめ】
  ・昭和26年5月25日、まど・みちおは、酒田冨治から幼児童謡を書くように頼まれます。
  ・昭和26年6月10日、酒田氏への幼児童謡六篇即興、六篇のなかに「ぞうさん」が含まれていた。
  ・昭和26年7月、酒田冨治が四分の二拍子のマーチ風に作曲。
  ・これは、佐藤義美が編集した『日本童謡絵文庫(6) 新日本童謡集』(あかね書房)昭和二十七年二月二十九日発行に掲載するための詩と曲だった。佐藤義美は酒田冨治に新作の童謡を依頼していた。
  ・佐藤義美は、詩を非常に気に入った。しかし、曲は詩と合っていないと思った。
 そして、まど・みちおに無断で、「おはなが ながいね」を「おはなが ながいのね」に改作してNHKに持ち込み、NHKは團伊玖磨に作曲を依頼した。
 このようなことは、佐藤義美が自分で編集した本(楽譜附)だったからできたことです。他人の本に掲載されている詩・曲だったら許されないことでした。
 だから、阪田寛夫はあえて本のタイトルや出版社名を伏せたのでしょう。それとも、阪田は『新日本童謡集』(あかね書房)を確認していなかったのかもしれません。

▲まど・みちお作詞、酒田冨治作曲の「ぞうさん」

 ここで注目しておきたいのは、阪田寛夫も、まど・みちおも「NHKに持ち込み」と書いているだけで、番組名が書いてないことです。

 【團伊玖磨の「ぞうさん」初放送は、これだ】 

▲1952年12月22日

▲1952年12月23日

▲1952年12月24日

▲1952年12月25日
▼1952年12月26日

 阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)には、“團伊玖磨が作曲した「ぞうさん」の「初放送は、NHKラジオ昭和27年12月22日」”と書いてあるので、毎日新聞復刻版のNHKラジオ第一の番組表を調査してみました。

  ・昭和27年12月22日(月)朝9時30分~9時45分 「うたのおけいこ 象さん」
  ・23日(火)「①歌ぞうさん②つづくお話」 「歌」は「うたのおけいこ」でしょう。
  ・24日(水)「歌『象さん』◇お話」
  ・25日(木)「①うた②僕ちゃん」 「うた」は「うたのおけいこ 象さん」でしょう。②はお話のシリーズ。
  ・26日(金)「歌 象さん かわいい音楽」

 (調査の結果) ラジオ初放送の記載は正しかった。月曜日から金曜日まで「うたのおけいこ」という番組で毎日放送され、全国の人が聞いた事がわかりました。繰り返し放送されたことは、この曲の大ヒットにつながりました。

 【新聞記事「東京のうた」は、これだ】
 「東京のうた」は、どのような文だったのでしょう。
 阪田寛夫は、ある雑誌に短文を書く連載をしていた。自分が持っていた新聞(引用者註・昭和四十三年四月二十一日附)の切り抜きを使って、連載の何回目かに「ぞうさん」を取り上げて書いた。
 この連載は「童謡のまわり」昭和五十三年六月号『月刊自動車労連』で、文は阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)に再録してあります。
 阪田が引用した新聞の記事の題は「東京のうた」。
 東京で生まれた有名な流行歌、民謡、童謡唱歌、そのほか軍歌、学生歌、労働歌に至る百曲あまりを選んで、作詞作曲の由来や逸話を書いた連載記事である。ある日そこに「ぞうさん」が取り上げられていた。
 阪田は、「この新聞記事を資料として、当事者に取材もせず、いい気分で讃歌を書いてしまった」のだという。それ以後、阪田寛夫は、「まど・みちお」の研究者になりました。

 【「東京のうた」の記事が見たい】
 私、著者・池田小百合も、「東京のうた」の記事を見たいと思いました。 厚木市中央図書館で読売新聞、毎日新聞の復刻版を調査しましたが掲載されていませんでした。
 阪田寛夫の文には、何新聞か新聞社名がありません。なぜ書かなかったのでしょうか。「東京のうた」には、みんなに知られたくない何か重要な事柄が書かれているのでしょうか。 厚木市中央図書館には朝日新聞・昭和四十三年四月二十一日の復刻版はありませんでした。「東京のうた」は、調査できなかった朝日新聞 日曜版に掲載されているはずです。
 2010年1月9日の調査では、以上の事が、わかりました。

 ◎2010/01/13、国立国会図書館で、朝日新聞復刻版・昭和43年4月21日(日曜日)東京版「東京のうた」77『ぞうさん』を閲覧しました。すでに調査済みだったので、朝日新聞復刻版を手にしてから、1秒で発見する事ができました。

 【「東京のうた」を検証する】 (その1)
 ●タイトルは「ぞうさん」。サブタイトルは「黒焦げのゾウ舎で」。
 “・・・  昭和二十三年春。まど・みちを(本名 石田道雄)は、長男京(たかし)の七つの誕生祝いに汽車のオモチャをせがまれた。二十一年秋にシンガポールから引揚げて食品会社の守衛をしていた。まどの収入は、日給二百円。・・・買物をあきらめたまどは、京の手を引いて上野動物園へ。
 春先の強い風に吹かれて、動物園は黄色い土ぼこりに包まれていた。まばらな人かげ。それもそのはず。動物園の看板ともいうべきゾウはじめ、ライオン、トラ、ヒョウなどの猛獣たちは、軍の命令で十八年夏に薬殺、餓死。わずかにヒグマが残るだけというわびしさだった。
 レンガ造りのゾウ舎も、二十年三月の大空襲で焼かれ、黒焦げのまま。人っこ一人いない。そのゾウ舎の前でまどは京に語りかける。「ここにね、とっても大きなゾウがいてね」。そうするうち「京がゾウに話しかけ、ゾウが答える形式の詩がうかんだ」と、まどは、きびしい生活も忘れて詩作に心を遊ばせた。あのひとときを振返る”。

 (調査の結果)以上が、後にまど・みちおが「『東京のうた』に書かれたのはフィクションです」と言っている部分です。詩ができた時を「昭和二十三年春」に設定したのは、「黒焦げのゾウ舎の前」で物語をくり広げるためでした。 佐藤義美が書いた『めだかのがっこう』の物語と同じで、新聞記者が書いた『ぞうさん』も、よく書けている。長い間、これが研究者の間で使われていました。阪田寛夫も、團伊玖磨も、これを使って文章を書きました。

  【「ぞうさん」はフィクションだった】
 ある日、まどさんに調子よく話しかけたのがきっかけで、阪田は、まどの態度に疑問を持った。
 <阪田>「だいぶ前、新聞に『ぞうさん』の詩を作られた時のことが出ていましたが・・・その時、象舎の焼跡のなかに、鶏か豚か、そんなものは飼っていなかったのですか。・・・象やらくだの代りに、鶏や豚や山羊を飼ったちゅうことが、あの頃一般的にはあったと思いますが。・・・しかし、坊ちゃんを連れて、昭和二十三年頃だったかに、上野へ行かれた時は・・・」。
 <まど>「私は『ぞうさん』のことは、何も覚えとらんのです。・・・いや、それも覚えとらんのです」。
 以前書いた文を正当化するために、その後も阪田は必死でまどさんを追いかけた。 そしてついに1980年12月13日、真相が明らかになった。まどは次のように言った。

  <まど>「『東京のうた』に書かれたのはフィクションです」。
 あの記事は、何も覚えていない自分の話を記者がまとめて作り上げたもので、「こういう風に書きました」と知らされて「おまかせします」と答えたのだと言う。
 <まど>「私は象を書くために動物園へ見に行くようなことはしません」。
   (阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)より抜粋)

  【その頃の社会情勢は】
 毎日新聞学芸部著『歌をたずねて』(音楽之友社)昭和五十八年十月発行には、次のように書いてあります。
  ・昭和十八年夏、東京・上野動物園。軍部は動物園内の十一種二十二頭の猛獣を毒殺せよ、との命令を出した。「動物園非常処置要網」による第一種危険動物(ゾウ、トラ、クマなど)を空襲に備えて殺せというのである。 この残酷物語は昭和五十六年刊行の『上野動物園百年史』に掲載されています。涙なくしては読めません。ひどい事をしたものです。
  ・昭和二十年八月十五日、日本には京都に一頭、名古屋東山動物園に二頭のゾウしかいなくなった。
 ●そして、昭和43年の朝日新聞に、“不運なゾウをしのんで、この童謡が生まれた”というフィクションの「東京のうた」が書かれた。「ぞうさん」の作詩は、昭和二十三年でなければならなかった。
  ・昭和二十四年には名古屋までゾウ見たさのこどもたち千余人を乗せた「ゾウ列車」が走っている。
  ・昭和二十四年、インドのネール首相から「インディラ」、タイから「ガチャ子(のち花子)」が贈られた。贈呈式には吉田茂首相が出席するほど大がかりだった。
 (註)昭和24年8月8日(月)の朝日新聞には、「私がインディラ」「インドから写真と手紙」「“どうぞよろしく”今月中に参ります」と書いてあります。

 『赤い靴』の「きみちゃん」の物語と同じで、『ぞうさん』も「かわいそうな象」の話と結び付けられた。日本人は、かわいそうな話が大好き。だから、長い間、作詩・作曲の時期の判明が遅れた。

 【「東京のうた」を検証する】 (その2)
 “これに、最初曲をつけたのは幼児の音感教育に打込む酒田富治。二十六年七月。四分の二拍子のマーチ風に仕立て、「ことばを覚え始めたばかりの幼児に聞かせてみたら、おもしろいように覚えてくれた」と酒田。”

 (調査の結果)この部分は事実と合っています。酒田冨治に取材をしてから書いたためでしょう。新聞記者は、きちんと取材をして書いてほしいものです。
 近年、ベストセラーになった読売新聞文化部著『唱歌・童謡ものがたり』『愛唱歌ものがたり』(岩波書店)は、正しく書いてあるでしょうか。タイトルが「ものがたり」と、なっていても、読者は事実として読みます。

 【「東京のうた」を検証する】 (その3)
 ●“その二年後、まどの知人で、「グッド・バイ」の作詞者、佐藤義美がNHKの「歌のおばさん」担当者を通じて團伊玖磨に作曲を依頼した。・・・「ゾウの鼻が、ブラーリ、ブラーリとゆれる感じを出そうと、童謡じゃ当時型破りの四分の三拍子にしてみた。それがかえって幼児にはうたいやすくなったようだ」ともいう。”

 (調査の結果)以上の文には二つの間違いがあります。
  「酒田富治が最初に曲を付けたのは二十六年七月」です。●「その二年後」は、昭和二十八年になってしまい間違い。團伊玖磨の曲の「初放送は、NHKラジオ昭和27年12月22日」だからです。この「昭和二十八年」の記述は、あらゆる出版物で使われてしまいました。
 さらに●「佐藤義美がNHKの「歌のおばさん」担当者を通じて團伊玖磨に作曲を依頼した」これも間違い。この間違った記述も、あらゆる出版物で使われています。作曲した團伊玖磨も、この「東京のうた」の記事を使って「ぞうさん」の紹介文を書いています。
 調査したラジオ番組表からは「歌のおばさん」ではなく、「うたのおけいこ」担当者を通じて團伊玖磨に作曲を依頼した事がわかります。調査すれば、すぐわかることですが、ずっと誰も調査しなかったようです。

 【團伊玖磨が「ぞうさん」を作曲した時期はいつか】
 阪田寛夫著『童謡でてこい』(河出文庫)には次のように書いてあります。
 “作曲家團伊玖磨氏の随筆「転居」によると、戦後、氏は「交響曲イ調」(昭和二十五年)を書き、その賞金で翌日鎌倉に引越すと、緑に囲まれた二階家の間借りの一部屋で、こんどは「ぞうさん」、「やぎさん ゆうびん」、「おつかいありさん」などの子供の歌をつぎつぎ書いたのだそうだ。 「子供の歌を一所懸命に書く心は、離れて暮らす事になってしまった子供への手紙の心だった」とある。”

 ●以上の文章では、「ぞうさん」、「やぎさん ゆうびん」、「おつかいありさん」は昭和二十五年、「交響曲イ調」の後、次々書かれたことになります。それは変です。 随筆「転居」を読んでみる事にしました。いったい何という本に「転居」は出ているのでしょうか?
 阪田寛夫が文を書く時、本のタイトルや出版社名を書いておいてほしかったです。
 河出書房新社に問い合わせました。すると「阪田先生にお聞きしました所『パイプのけむり』という團さんの本の中に入っているとのことです。ただし『パイプのけむり』は、何冊もあるので、初期のものとしかわからないとのことです。販元は朝日新聞社です」との回答でした(1994年7月13日)。

 随筆「転居」は、團伊玖磨著『まだパイプのけむり』6(朝日新聞社)に掲載されていました。287ページには次のように書いてあります。
 「僕はそのバンガローで、一年半の間、暑さに茹だり、寒さに震えながら、初めての大きな作曲だった「交響曲イ調」を書いた。 NHKの創立二十五周年を記念して行なわれた管絃楽曲募集のコンクールに提出したその曲は、幸い、芥川也寸志君の「交響二章」という作品とともに特賞に入選して、当時としては目の廻るような大金だった賞金十万円を得る事になった。・・・その翌日、賞金の中から三輪トラックを傭うと、鎌倉に転居した。転居先は、鎌倉の二階堂の奥にあった或るお宅の二階の一間だった。 丁度その家は小説家の久米正雄さんのお宅の前だったので、二階の一間で音符を書きながら窓からふと見ると、庭を散歩したりヴェランダに腰を掛けて居られる痩身の「破船」の作家を見掛ける事が屢々だった。 焼け跡と異って、緑に圍まれた鎌倉の環境は、僕に再び心のゆとりを取り戻させてくれた。僕は再出発を考え、今の家内と結婚し、僕の机の上からは、 今もよく歌われている「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「ありさんのおつかい」等の沢山の子供の歌や、もっと沢山の大人の歌がNHKの電波を経て世の中に送られて行った。・・・」
 ●文中の「ありさんのおつかい」は間違い。正しいタイトルは「おつかいありさん」。単純な校正ミスです。童謡や唱歌では、しばしばありますが、このような間違いが正しい情報と思われてしまう場合があります。書いたのは、作曲者本人なので、読者は信じてしまいます。

 <NHKラジオ第一からの放送日時>
  ・「ぞうさん」まど・みちお作詞 初放送 昭和27年12月22日(月)朝9時30分~9時45分 「うたのおけいこ 象さん」
  ・「やぎさんゆうびん」まど・みちお作詞 阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)によると、“昭和27年NHKラジオ 幼児の時間の8月の歌として放送された”
 毎日新聞復刻版の番組表を調査しましたが確認できませんでした(2010/01/04)。

  ・「おつかいありさん」関根栄一作詞
 昭和25年6月5日(月)午前10時~10時10分 おつかいありさん (1)
 昭和25年6月12日(月)午前10時~10時10分 おつかいありさん(2)
 毎日新聞復刻版番組表で確認できます(2010/01/04)。

 (調査の結果) 昭和25年に作られ放送されたのは「おつかいありさん」でした。
 團伊玖磨には、もっと正確に書いておいてほしかった。

 【研究者は、みんなが迷った】 「東京のうた」の新聞記事を見た研究者は、阪田寛夫だけでなく、みんなが迷いました。事実と合っていないためです。
 童謡・唱歌の本の収集家、研究家の秋山正美は『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)で次のように書いています。
 “まど・みちおが書いた文によると一九五二(昭和二十七)年に最初の曲がつけられ、それが團伊玖磨によって完成したとされている。しかし、『ぞうさん』については、翌年の一九五三年と記している童謡集があるかと思えば、すでに一九四八(昭和二十三)年に歌詞が出来ていた、とする童謡研究書も出ている、という具合でよくわからない部分が多い。・・・戦後間もなく、シンガポールから引き揚げて来た作詞者は、わが子を連れて“ゾウのいない上野動物園”へ行った。そのときヒントを得てこの童謡を作ったといわれているが、作者はそれを否定し、「動物が動物として生かされていることを喜んでいる歌」なのだと述べている。”
 秋山正美も「一九五三年」、「一九四八年」に迷い、「わが子を連れて、“ゾウのいない上野動物園”へ行った」のフィクションを使って書いて、困っている。

  【團伊玖磨も「東京のうた」を使った】
 團伊玖磨も、「東京のうた」を使って文を書きました。これにより、「東京のうた」の新聞記事は、事実になってしまいました。

 團伊玖磨が「ぞうさん誕生」を書いた文は、色々なところで発表されていますが、ここでは『NHK人間大学 團伊玖磨 日本人と西洋音楽』1997年4月~6月期を検証します。
 <その1>
 “一九四九年(昭和二四)に開始されたラジオ番組「うたのおばさん」がありました。・・・この番組から私の「ぞうさん」・・・などの曲が生まれ、幸いにも広く親しまれました。”と書いてあります。
 ●ラジオ番組「うたのおばさん」は間違い。ラジオ番組「うたのおけいこ」が正しい。「うたのおばさん」と「うたのおけいこ」は違う番組。「東京のうた」の新聞記事には「歌のおばさん」となっていて間違い。

 <その2>
 “一九四九年(昭和二四年)に、インドのネール首相から、その当時ゾウのいなかった上野動物園に一頭のゾウが贈られました(何
故いなかったのか。戦時中に殺処分されてしまったからです。私は、東京音楽学校に通う道すがら、そんな出来事が進行している動物園の前を、胸のふさがる思いで歩いた事をおぼえています)。ネールが自分の愛娘の名から「インディラ」と名づけたそのゾウは、その後、各地をキャラバンして回り、一躍、子どもたちの人気者になりました。 そのキャラバンのテーマ曲として、「ぞうさん」が使われたのです。―そんな一体感を通じて、「ぞうさん」は子どもたちに受け入れられたのだろうと思います。”
 ●“そのキャラバンのテーマ曲として、「ぞうさん」が使われたのです。”の文が間違いです。
 キャラバンの時期に、まだ「ぞうさん」は作曲されていませんでした。日本に上陸したゾウが、すぐに「キャラバンをして回る」はずはないので、“その後”が、いつなのか、キャラバンをした時日を調べてみたのです。

 インターネット検索で、「2008年9月25日動物ニュースバンク Aniewsさんのページ」によると次のようです。
  ・1949年(昭和24年)9月23日 ネール首相の贈物「インディラ」が、カルカッタから芝浦(港区)に到着。
  ・24日夜 船から降り上野動物園に向かう。
  ・25日 上野動物園に到着。
  ・10月1日 「インディラ」の贈呈式 吉田茂首相に当時、小学生だった孫の麻生太郎・元自民党総裁が伴う。
  ・1950年(昭和25年)4月28日 「インディラ」は、他の動物たちと一緒に動物園のないところの子供たちに見てもらおうと移動動物園の一員として静岡から旭川までの甲信越・東北・北海道の都市を巡る。
  ・1983年(昭和58年)8月11日 「インディラ」老衰のため死亡。推定年齢49歳。

 (調査の結果)キャラバンは昭和25年だった。「ぞうさん」は昭和27年に作曲。したがって團伊玖磨が書いている●“そのキャラバンのテーマ曲として、「ぞうさん」が使われたのです。”は間違いという事になります。なぜ、このような間違いを書いたのでしょう。困ったものです。多くの童謡研究家が自作の出版物で、もっと面白く書き直して、使いました。作曲者自身が書いたものだから、信頼したためです。

 【教科書での扱い】 昭和42年4月10日文部省検定済教科書『おんがく1』(教育出版)には、三拍子の学習教材として「ぞうさん」が掲載されています。
 
 【英訳詩集「The Animals」より】 
 以下は、美智子皇后が、まど・みちおの詩 から二十篇を選んで訳された英訳詩集「The Animals」に含まれているものです。

  LITTLE ELEPHANT    英訳・美智子皇后

 “Little elephant,
  Little elephant,
  What a long nose you have.”
 “Sure it's long,
  So is my mommy's.”

 “Little elephant,
  Little elephant,
  Tell me who you like.”
 “I like mommy,
  I like her the most.”


 【まど・みちお略歴
 まど・みちお 2009年(平成21年)年11月16日に満100歳となった。
 2010年(平成22年)1月3日(日)夜9時30分より、NHKスペシャル「まど・みちお百歳の詩▽不思議な創作の世界 童謡ぞうさん誕生秘話 命をうたう」を放送しました。
 まどさんの百歳を日本全国の人が祝いました。作品は二千篇を超えます。
  ・まど・みちおは、1909年(明治42年)11月16日、山口県都濃郡徳山町(現・周南市徳山)に生まれた。本名石田道雄。
  ・父親の仕事の関係で一家は台湾に渡るが、五歳のまどさんだけが祖父母のもとに残される。その半年後におばあさんが亡くなり、台湾から迎えが来るまでの三年半をおじいさんと二人で暮らした。まども10歳の時、台湾に渡った。
  ・台北で小学校を卒業。中学校、師範学校の受験に失敗後、1924年(大正13年)五年制の台北州立台北工業学校に入学。土木科だったので測量の実習があった。
 汽車通学の仲間と謄写版刷りの同人誌を始めたのは、1928年(昭和3年)、五年生のときだった。三号で廃刊。1929年(昭和4年)卒業。
  ・1934年(昭和9年)、台湾総督府の道路港湾課で働いていた24歳の時、絵本雑誌『コドモノクニ』で北原白秋が選者となって童謡を募集しているのを知り、「まど・みちお」というペンネームで投稿。二作が特選となり、名が知られるようになる。

  <まど・みちおの名前について> まど・みちおの言葉  
 “よく覚えておらんのですが、窓っちゅうものが好きだったから、そんな名前をつけたんだと思います。喫茶店やら新聞のコラムやら同じ名がたぁくさんあるので、すぐにいやになりましてね。変えようかと思ったら、白秋先生が「いい名だ」とおっしゃったというんで、それで通したんです。えっ、名字の下のポチですか?あれがなかったら、「ま・どみちお」だの「まどみ・ちお」だと思う人がいるかもわからんでしょう。” (まど・みちお著『いわずに おれない』集英社文庫より抜粋)

 ・役所を退職した翌1937年(昭和12年)、文通仲間の水上不二らと童謡同人誌 「昆虫列車」(東京)を創刊。
 ・1939年(昭和14年)『昆虫列車』六月号に「ヤギサン イウビン」を発表。 『カタカナドウブツエン』としてまとめたほぼ七五調の童謡七篇の一つ。
 ・1943年(昭和18年)に召集され、船舶工兵としてマニラや南太平洋の島々を転々とした。シンガポールで終戦を迎えたが、捕虜収容所に入れられ、帰国したのは1946年だった。
  ・1946年(昭和21年)、日本に帰還。台湾時代に書きためた詩稿も、戦地でつづった日記や植物記も失って打ちひしがれ、胃潰瘍や吐き気に悩まされる日々が続いた。そんな中、やっと見つけた食品工場の守衛をしながら詩を書き続けた。36歳の時、川崎市に移り住む。
  ・1951年(昭和26年)国民図書刊行会発行『チャイルドブック』の編集者を務めながら、「ぞうさん」など、優れた童謡を作る。
  ・1959年(昭和34年)、国民図書刊行会を退社し、詩と童謡の創作に専念する。
  ・1963年(昭和38年)、童謡曲集『ぞうさん まど・みちお 子どもの歌100曲集』(フレーベル館)を出版。
 この本は、「一ねんせいになったら」「ドロップスのうた」を加え、タイトルを『≪ぞうさん≫まど・みちお 子どもの歌102曲集』として、1995年(平成7年)3月、改訂初版第1刷が発行されている。
  ・1968年(昭和43年)に出版した最初の詩集『てんぷらぴりぴり』(大日本図書)が第六回・野間児童文芸賞を受賞する。
 ・1975年(昭和50年)に『まど・みちお詩集』(全6巻、銀河社)を出版。昭和51年から昭和61年までの間にも数多くの賞の受賞がある。
  ・1993年(平成5年)、『まど・みちお全詩集』(理論社)で芸術選奨文部大臣賞を受賞。その他多くの賞を受賞した。
  ・1994年(平成6年)、国際アンデルセン賞作家賞を日本人で初めて受賞。九十歳代になってからも、年に一冊のペースで新しい詩集を出版している。
  ・2000年、日本人として初めてスペースシャトルで宇宙に行った毛利衛さんは、エンデバー号での二度目のミッションに、まど・みちおの詩「頭と足」を持参。故・小淵総理との交信で宇宙について語りながら「頭と足」を朗読した。 頭と足 生きものが 立っているとき その頭は きっと 宇宙のはてを ゆびさしています なんおくまんの 生きものが なんおくまんの 所に 立っていたと しても・・・ 針山に さされた まち針たちの つまみのように めいめいに はなればなれに 宇宙のはての ぼうぼうを・・・ けれども そのときにも 足だけは みんな 地球の おなじ中心を ゆびさしています おかあさあん・・・ と 声かぎり よんで まるで とりかえしの つかない所へ とんで行こうとする 頭を ひきとめて もらいたいかのように (まど・みちお著『いわずに おれない』集英社文庫より)

 <「みんな違ってすばらしい」104歳>
  2014年2月28日、まど・みちお が104歳で亡くなった。「ぞうさん」などの名作を残した。
  「子ぞうは『おはながながいのね』と言われて、ばかにされたとは思わず、ほめられたかのように喜んでいる。みんな違っていることは、すばらしいことだ」。

 【團伊玖磨と共演】
 私(池田小百合)が音楽大学を卒業して就職した鎌倉の私立大学附属の中・高等部に、團伊玖磨氏が講演に来られた。團伊玖磨氏は、この大学の近くに住んでいたことがあった。講演の最後に童謡<ぞうさん>を歌う事になった。
 團伊玖磨氏が伴奏をして、私がマイクを片手に「さあ、みなさん歌って下さい」「暗い声だと、ぞうが、ますます重くなってしまいます。お母さんと子どものぞうですから、明るい優しい声で歌って下さい。では、もう一度」「そうです。なかなか、いいですねえ」と指導した。
 当時、二十代だった私は、恐いものなしで團伊玖磨氏を伴奏者にして、講堂いっぱいの生徒、父兄、先生に<ぞうさん>を歌わせた。自分も歌った。いい気持ちだった。「歌わせる前に発声練習をさせるべきでしたねえ」というお叱りはなかった。
 終了後、職員室で色紙にサインをもらった。「随分、肩幅が広い男の人だなあ」という印象だった。もっと、<花の街>や<夏の思い出>について、いろいろ話せばよかったと今では後悔する事しきりです。亡くなった後ではますます、もったいない事をしたと思います。

 後日、驚いたのは、團伊玖磨著『パイプのけむり』(朝日新聞社)がシリーズとして出版されている事でした。「作曲をしながら、よくこれだけのエッセイが次々書けたものだな。編集者は本のタイトルを揃えたつもりだろうが、これでは内容がわからない。自分で本を出版する時は内容がわかるタイトルにしよう」と思った。
  ≪パイプのけむりシリーズ≫
 『パイプのけむり』『続 パイプのけむり』『続々 パイプのけむり』『又 パイプのけむり』『又々 パイプのけむり』『まだ パイプのけむり』『まだまだ パイプのけむり』『も一つ パイプのけむり』『なお パイプのけむり』『なおなお パイプのけむり』『重ねて パイプのけむり』『重ね重ね パイプのけむり』『なおかつ パイプのけむり』『またして パイプのけむり』『さて パイプのけむり』『さてさて パイプのけむり』『ひねもす パイプのけむり』『よもすがら パイプのけむり』『明けても パイプのけむり』『暮れても パイプのけむり』『晴れても パイプのけむり』。
  エッセイ『パイプのけむり』は、一九六四年から毎週『アサヒグラフ』に掲載された。二〇〇〇年に休刊するまで連載を続けた。一八四二回、三十六年間も書き続けた。最終回では「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先か」どっちなのだろうと予想していたと書いている。結局、雑誌休刊の翌年亡くなりました。
 團伊玖磨さんは、平成十三年(二〇〇一年)五月十七日、旅行先の中国・蘇州で心不全で亡くなりました。享年七十七歳。作曲のために富士箱根伊豆国立公園に指定された八丈島に別荘を持っていた。

 【後記】
 「ぞうさん」の調査は、2010年1月13日、国立国会図書館、国際こども図書館に行く事で、いっぺんに解決しました。まど・みちおの研究者の阪田寛夫が、出典を明らかにしておいてくれれば、もっと調査は簡単だったはずです。理化学や医学の分野での論文は、出典が明記してありますが、童謡や唱歌の研究にはほとんどありません。これからの研究者は理化学や医学の論文を見習ってほしいと思います。

 この「ぞうさん」の文を使う場合は、インターネット検索「池田小百合なっとく童謡・唱歌」事典と明記してください。苦労が報われます。

≪著者・池田小百合≫



▲小田原城址公園のなかにあった動物園の人気者
ゾウのウメ子さん,1947年タイ生まれ,1950年から
60年間,親しまれ,2009年9月17日亡くなりました.
 動物園も縮小されました.2010年3月25日に
「ありがとうウメ子」記念切手が発売.アッという間に
完売したそうです.郵便局を探し回ってようやく入手.

著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫

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やぎさんゆうびん

作詞 まど・みちお
作曲 團伊玖磨 

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)

▲まど・みちお著『ぞうさん』(国土社)1975年11月25日初版より

  この歌は、エンドレスソングとして子供たちに人気です。現在歌われている歌詞になるまで、まど・みちおは、何度も書きかえています。

 【初出詩「ヤギサン イウビン」】 昭和十二年、文通仲間の水上不二らと童謡 同人誌『昆虫列車』(東京)を創刊。
 昭和十四年、童謡同人誌『昆虫列車』六月号に「ヤギサン イウビン」を発表 しました。子山羊と母さん山羊のやりとりでした。『カタカナドウブツエン』と してまとめたほぼ七五調の童謡七篇の一つでした。その詩は阪田寛夫著『まどさ ん』(ちくま文庫)によると次のようです。

   ヤギサン イウビン

   オヤヤギ カラ キタ オテガミ ヲ
   コヤギ ハ メエメエ タベテ カラ

   「ゴハン ヂヤナクテ オテガミ モ  
   クダサリヤ イイノニ カアサン ハ」

   コヤギ カラ キタ オテガミ ヲ
   オヤヤギ メエメエ タベテ カラ

   「ゴハン ヂヤナクテ オテガミ モ
   クレレバ イイノニ ウチノコ ハ」

  【改作 第二稿】 十三年後(昭和二十七年)に、次のように改作しました。(阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)による)

    しろやぎから きた
    おてがみを
    くろやぎ めえ めえ
    たべました  
     こづつみ おせんべ  
     ありがとう  
     めえ めえ めえ めえ  
     たべました

    くろやぎから きた
    おへんじを
    しろやぎ めえ めえ
    たべました  
     こづつみ おせんべ  
     ありがとう  
     めえ めえ めえ めえ  
     たべました

  【改作 第三稿】
   ・“昭和二十七年六月十日が、NHKから言われた原稿の締切日。”(阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)による)
   ・“親子の情緒、言葉づかいのニュアンスなど、童謡には必要だと思われてきたような一切の飾りをすてて、無限反復という、ナンセンスそのものをぬきだした。こうして北原白秋にも越えられなかったハードルを、十三年かけて飛び越えたのだった。”(阪田寛夫著『童謡でてこい』(河出文庫)より抜粋)  
 詩は、「―さっきの てがみの ごようじ なあに」になっている。

     やぎさん ゆうびん

     しろやぎさんから おてがみ ついた
     くろやぎさんたら よまずに たべた
     しかたがないので おてがみ かいた  
      ―さっきの てがみの   
        ごようじ なあに

     くろやぎさんから おてがみ ついた
     しろやぎさんたら よまずに たべた
     しかたがないので おてがみ かいた  
       ―さっきの てがみの   
       ごようじ なあに

  【放送は】 “團伊玖磨の作曲によって、昭和二十七年NHKラジオ幼児の時間の八月の歌として放送された。” (阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)による)
  毎日新聞復刻版、ラジオ第一番組表で昭和二十七年の七月、八月、九月を調査しましたが、発見できませんでした。

  【初出は昭和26年か】 まど・みちお著『まど・みちお童謡集 地球の用事』(JULA)平成二年発行も詩は同じで「さっきの てがみの」となっている。この本の初出一覧表には、“やぎさんゆうびん―「NHK」(昭和26年8月)”と書いてあるので、毎日新聞復刻版、ラジオ第一番組表で昭和二十六年の七月、八月、九月を調査しましたが、発見できませんでした。
 阪田寛夫著『まどさん』(ちくま文庫)によると、“昭和二十七年六月十日が、NHKから言われた原稿の締切日”これが正しければ、『まど・みちお童謡集 地球の用事』が初出としている“やぎさんゆうびん―「NHK」(昭和26年8月)”は、間違いということになります。

  【キンダーブックに掲載】  『やぎさん ゆうびん』うた・まど みちお/え・センバ・太郎。「観察絵本キンダーブック どうぶつのうた」昭和36年4月号(フレーベル館)。
 詩は「さっきの てがみの ごようじ なあに」になっている。

  【現在歌われている詩】  まど・みちお著『ぞうさん』(国土社)1975年(昭和50年)11月25日初版に収録(1991年3月25日発行16版)。
 これが現在歌われている詩です。「さっきの おてがみ ごようじ なあに」になっている。
 まど・みちお著『≪ぞうさん≫まど・みちお 子どもの歌102曲集』(フレーベル館)平成7年3月改訂初版第1刷発行も詩は同じで「さっきの おてがみ ごようじ なあに」になっている。

  【「やぎさんゆうびん」は信念の歌】
 まど・みちおの言葉
 “あの詩もね、どう読んでくださってもいいんです。詩が生まれてくる原因は、ひとつじゃない。無数の原因があって生れるわけですから。
 ただ、「食いしんぼうの歌」と思ってくださると、うれしい気はします。生きものにとって、食べることは本質。すべての生物が、あの白ヤギと黒ヤギのように無限に食いしんぼうだと思うんです。なのに私たち人間は、自分が食いしんぼうなのは心得ていても、となりの人やほかの生きものもそうだっちゅうことは忘れてしまう。それをちゃんと覚えておったら、この世の中はずいぶんよくなると思うんだけど・・・。
 世の中にこれだけ貧富の差があるのも、人のことはあまり気にならないという人間の悲しい習性のせいなんでしょうね。貧しい人から逃げ出したりバカにしたり利用したりすることはあっても、気づかって助けようっちゅう気持ちにはなかなかなれない。近年は、それがますます激しくなってきている気がします。宗教ですら排他的になってますでしょ。そして、そういう姿を大人が子どもに見せているから、小さい子には区別や差別の意識なんてなかったはずなのに、子どもも大人並みに差別するようになっちゃっている。大人たちみたいに、仲間うちでさえ位をつけたがる・・・。
 私自身、いろんな悪いこと、恥ずかしいことをたぁくさんしとりますから、大きなことは言えないんですよ。言えないにも関わらず、言葉遊びなんかやっとってもね、ただ滑稽で面白いだけじゃないもんにしたいと思ってしまうんです。貧富の差はよくないとか、すべてのいのちは平等であるとか、そういう、口にするのは気恥ずかしいけれど自分の内にある信念みたいなものを、詩の中に生かさなくちゃいけない、と。”
  (まど・みちお著『いわずにおれない』(集英社文庫)より抜粋)

 【「まど・みちお」を絶賛した阪田寛夫】 同じ物書きで、阪田寛夫ほど「まど・みちお」を絶賛した人は他にいません。
 「まど・みちお」の素晴らしさは、 阪田寛夫が書いた次の文でわかります(阪田寛夫著『童謡の天体』新潮社より抜粋)。
 “詩を読んで下されば、この歌はここで終わらないで、もう一度初めに戻らないといけないことが分かります。とどいた手紙を、読まずに食べては「ごようじなあに」と返事を出す循環運動が、無限に続くわけです。
 まどさんは、この詩の原形を一九三九年に作りました。すでに日本軍が中国に攻めこんで、童謡の世界でも、多くの詩人の目は、戦争の勝利をたたえる方に向いていた時期でした。その頃まどさんは、台湾の役所で、下っぱの土木技師をつとめていました。この詩の原形は小さい同人雑誌にひっそりと発表されたものです。誰も、こんな不思議な詩が戦争の最中に作られていること に気がつきませんでした。
 これまでの日本の童謡は、すぐれて抒情的で、自然の風物に感応する子供の心理をよく写して いるにしても、みんないわば三次元の世界にとどまっています。まどさんは、童謡を書き始めたばかりで、いきなり先生や先輩たちの枠を越えてしまいました。しかも、ノンキでおかしくて、 それが限りなく続く歌だなどとは全然思いもよらない形の中で。
 作曲されたのは、戦後の一九五二年で、ラジオの放送によって、この歌がやっと少しずつ知ら れるようになりました。作曲者は、今日本を代表するオペラ「夕鶴」の作曲者でもありますが、 当時は二十代でした。生まれた時から、西洋音階だけしか知らないで育った世代です。そしてドイツ帰りの先生について作曲を学びながら、日本語のひびき、アクセント、イントネーションを生かした曲を作るために、苦労を重ねた人たちの一人でした。まどさんの、感傷を洗い流した言葉が、それにふさわしい曲を得たのは幸いでした。”

  【後記】 文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていませんが、子供たちが大好きな歌です。ぜひ、親子で歌ってほしいと思います。 ≪池田小百合≫


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