E-イブ(12歳) & R-リック(9歳) & S-say-umi

11月の本棚


めずらしくたくさんの本が並びました。
R-左から5冊・S-右から10冊、E-残り9冊

 今月、「読んで」の本に選ばれたのが『クジラと少年の海』。請われるがまま、寝る前に布団の中で読んであげています。イブはもう自分から「読んで」と頼みに来ることはありません。それでも私が本を読み始めると、布団の中に入ってきます。いつまで続くのでしょうか?
 次に「読んで」の対象となったのはジプシーの昔話
『たいようの木のえだ』です。何度も自分で読んではいますが、リック曰くジプシーの昔話やグリムは「読んでもらうのにいい本」なのだそうです。

クジラと少年の海 
著/小島 曠太郎・ 江上 幹幸 (理論社)
 クジラを糧として生きるインドネシアの小島に住む少年が、日々の暮らしを生き生きと語る。著者が実際に過ごした島で、出会った人と出来事をもとに少年の目を通して書いたものだ。
 古くから大切に作られてきた船に乗り、命がけでクジラにモリを打ち込む漁師は、村の人々の命をも預かる重大な役目を負っている。そんな漁師になった父を誇らしく思い、自分も漁師への道を選んだ少年。
 誇りをもって働けるということは、自分の存在価値をみいだすことも可能で、そこには生きる喜びが存在するだろう。
 現代の日本ではどうだろうか。手本となる大人は近くに見えず、多種多様な価値観が溢れ、選択肢が多すぎるために自分の未来像が思い描きにくい。誇らしいと思える仕事をみつけることも、自分の存在価値を見いだすことも、至難の業だ。物や情報が溢れていて、何でもできる暮らしが豊かな暮らしなのではなく、不自由や貧しさがあったとしても自分の存在価値を豊かに感じられる暮らしこそが、豊かな暮らしなのだと思わされる。
 少年と同年代のリックは、少年の暮らしを自分と重ね合わせ、感じることがあっただろうか。

ジプシーの昔話 たいようの木のえだ S
再話/フィツォフスキ 訳/内田莉莎子 画/堀内誠一 (福音館書店)
 今年1月の本棚でご紹介した『太陽の木の枝』の絵本版です。表紙や裏表紙はもちろん、雨の木、太陽の木が見開き一杯に描かれたページは、額に入れて飾ったらどんなに部屋が生きることでしょう。
 また、見返しにあるモノトーンで描かれた雨の中を移動するジプシーの絵はジプシーの厳しい日常が感じられ、この話の軸となる熱く燃えるまばゆいばかりの太陽の木との強いコントラストが見事です。この絵は、直接お話に書かれているシーンではないのに、敢えてこの見開きに静かに置かれている。素晴らしい導入だと思います。こうした粋な演出をみつけたとき、絵本は絵とお話による芸術作品だと思い知らされます。だからこそ、こども達だけではなく、老若男女、文化を超えて楽しめるのでしょう。

得装版 トムは真夜中の庭で S
作/フィリパ・ピアス 訳/高杉一郎(岩波書店)
 大好きなボストンのグリーン・ノウシリーズとともに、私の好きな一冊です。古い大きな振り子時計は、正確な時を打つことをしません。もう何年も前に時の概念につまずいたとき、この本を読んでとても嬉しくなったことを思い出します。一本のラインに乗って前に進む時間、空間を刻んでいく時間は、何か違うと私の感覚は言う。あまりにも漠然として、境界もなく広がってしまった意識の中で、時だけがカチカチと正確に刻まれていく存在でいられるはずがありません。時の存在すらも、拡がりをもち、茫洋とただそこにあるのです。
 久しぶりに読んでみましたが、何度読んでも夢中になれます。

愛蔵版 鏡の国のアリス S
作/ルイス・キャロル 絵/ジョン・テニエル 訳/脇明子(岩波書店)
 文庫本は持っていたのですが...、見あたりません。古本屋さんに行ってしまったようです。そこで久しぶりに借りてきました。それもジョン・テニエルの挿し絵に、20世紀初めのスタイルにしたがった彩色がなされているものです。やはりこうした挿し絵入りの本は、文庫本で読む物ではありません。実は今まで、不思議の国のアリスにしろ鏡の国のアリスにしろ、最期までまともに読めたためしがありませんでした。あまりに現実離れした描写にイメージが追いつかず、そのうちに字面を追うだけで頭は勝手なことを考え始め、自然に本は下に置かれているといった有様。今回初めて最期まで楽しんで読むことができたのは、挿し絵と文とが一緒になって初めて、この本が成立していることの証でしょう。
 あと、この本がつくりあげられたビクトリア朝時代の文化について、少し習い覚えたばかりだったのも良かったと思います。どんなものをも科学的に分析することが一般的となったこの時代に、心までをも同様の方法で分析していこうと真剣に試みたのがルイスかもしれません。実はこの奇妙きてれつな物語を読んでいるとき、始めは科学的な考察、分析を茶化しているのかと思いました。でも、読み進めていくうちに、どうやらそうではないらしいと感じるようになりました。なぜならば、なにより、ルイスは本当に真面目に細かいところまで真剣に書いているのです。書かれた時代背景をも鑑みると、ルイスは分析という新しい考え方に限りない可能性と期待をもち、目を潤ませ夢中になっていたのではないだろうか。そんなルイスの気持ちを想像しながら何度か読みかえすと、また一層面白く感じられる。

アーサー王と円卓の騎士 S
著/シドニー・ラニア 訳/石井正之助(福音館書店)
 イギリスのこども達誰もが知っているであろうお話を、私も知りたいと思い読んでみた。なにしろイギリスの児童書を読んでいると、当たり前のようにして騎士やマーリン、アーサー王にまつわる話がでてくる。しかも何か暗喩をこめられての登場が多く、そんなフレーズに出会うたびに私は理解できない空虚感にさいなまれてきたからだ。
 騎士達は、剣と盾と騎士の誇りとを持ち、愛する婦人のために決闘をする。出会えばまず決闘、仲違いをしても決闘、とにかく決闘に明け暮れている。そして、どの決闘にも理由があり、その決闘の結果によりことの善悪が決定する。強い者が正しい、あるいは、正しい者こそが強いのだ。
 また、決闘にはある一定のルールがあり、それにのっとって闘う。それに反して勝ったとしても、それは世間に認められない。
 日本の神話を思い浮かべると、戦いにはルールなどない。英雄は女に化けて敵に近づき闇討ちにしたり、酒を飲ませて酔っぱらわせて打つこともあっぱれ!とされている。イギリスのこども達が日本の英雄伝を聞いたらびっくりすることだろうと思う。
 また、日本の民話には女に現を抜かしているのはダメな男といった感じがあるのに比べ、アーサー王のお話では、愛する婦人に忠誠を誓い、愛する婦人にふられただけで気が触れてしまうなど、女性に入れ込んでいる騎士ほど素晴らしいといった感じをうける。
 イギリスの児童書を読んだときに感じる違和感の理由が、アーサー王の物語を読んでようやくわかったように思う。アーサー王の土壌に育ったお話の根底に流れるものは、日本人である私達にとって不可思議で異質な文化なのだ。

きりの国の王女 
再話/フィツォフスキ 訳/内田莉莎子 画/堀内誠一 (福音館書店)
 「ママがこの前『たいようの木のえだ』を借りてきたから、そしたら次はこれでしょう」と、リックがこの本を借りてきました。さらに夜読んで欲しいと持ってくると、そこでイブは文句を言い始めました。「えぇ、それ借りてきたの? やんなっちゃうなぁ。グリムとかジプシーって、全部同じなんだもの。つまんない」
 それでも読み始めればイブもちゃんと聞いていて、さらに翌日またリックが「読んで」と持ってきたときには「私、もう全部よんじゃったよ」と宣った。なぁんだ、イブだって楽しんで読んでいるのではありませんか。
 というわけで、2月に引き続き読まれているこの本、お話の完成度はいまひとつのものも多く、本の題名にもなったきりの国の王女のお話なんて「あ、終わっちゃった。なんだったの、これ。」といった感じです。さらに悪魔をだましたジプシーの話では、読んでいる最中にイブがたくさんたくさんつじつまの合わない所を指摘してきました。「誰も一番最後になりたくないじゃない。」「鉄の扉、開かないのかな」「捕まえてどうするつもりだったんだろう」「ほら、扉は開くじゃない」「影、どうやって捕まえられたのかな。」など、なるほどどれもイブの言う通り変なところがたくさんです。それでもリックはだまってお話を楽しんでいるので、イブの発言にちょっとハラハラしながら読み終えました。
 こうして読むと、以前に比べてみたことがあったように、グリムと似た話がたくさんありますが、さすがに何度も版を重ねたグリムはお話の完成度が高くなっています。それに比べてジプシーの昔話はとてもつくりは荒く、粗雑なところはありますが、きっと口で伝承される昔話は、紙に書かれた文章とは違い、この程度で十分だったろうと思います。

Background photo: 夕焼け(2003.9.29ベランダにて)